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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 飲料水・食品衛生

 飲料水取締規則

 明治時代中期までの飲用水の供給施設は、自然の湧水・溪流水を開渠などによって導入する施設がわずかにあったほか、人工的な飲用水源は井戸が主なものであった。また、雨水汚水の排水施設は、溝渠や堀を築造して河川などに適宜放流する簡素な水はけのよくない非衛生的な施設であった。このような状態は、コレラをはじめ腸チフス・赤痢など消化器系伝染病の一因となったので、政府は明治一一年五月「飲料水注意法」を全国に通達して、不潔の水を飲料に用いる時は人身の健康を害するとして、井戸側及び流しの破損改修、井戸の汚水排水施設の築造、汚水溜及び便所と井戸との間隔の保持、井戸近傍における汚物の洗滌禁止、井戸水に汚濁臭気のある場所の検査を実施し年一回以上の井戸さらえなどについて注意を促すとともに、その励行を期するため時々警視官吏の巡回検査を期待した。
 愛媛県は明治一四年五月三〇日に「飲料水取締規則」を布達し、飲料水は衛生上最も重要のものであり、其原質は純良であっても井泉の構造と導管の装置が粗悪なときは四辺の土壌から汚物を浸透し、其の水を清潔純良に保存することはできない、もしその不潔汚穢されるにいたっては各種の伝染病をもっとも迅速に輸伝する、「夫レ一家或ハ一閭ノ生命ヲ繋クル所ノ飲料水ヲシテ疾患ノ駅使タラシムルニ至ラハ豈懼レサルヘケンヤ」と説諭した後、飲水取り締まりの条項を示した。条項は八か条四項からなり、井泉を新設する場合は便所汚水汚物溜芥溜埋葬地などから隔離していること、井泉の外囲道管は鉄石瓦陶器木竹などで堅固にし、接ぎ際は打漆喰の類で補充して汚水浸透小動物などの乱入を防ぐこと、水道はなるべく暗渠にして下水が溜滞しないよう注意すること、便所肥溜汚物溜はその外囲底面は必ず打漆喰の類で堅牢に填充し適宜の覆蓋を設けて雨水の溜滞及び屎尿汚水が地中に浸透しないようにすること、従来使用の井泉・導管は以上の基準に従って補修することなどを指示した(資社会経済下 七二一~七二二)。これらの飲料水注意法・取締規則もあまり効果はなかったようで、明治一六年『県治調』〝衛生の概況〟の中で、担当官吏は、「飲料水ハ未夕検定スルノ場合ニ至ラスト雖トモ其井泉及ヒ水道等ノ構造及ヒ掃除法ニ至テ八十四年中達示スル所
アリシト雖トモ、是亦従来ノ因習飲用ニ供シ来レル井水泉等ハ清潔ニシテ害ナキモノト誤認シ、其含有物又ハ混交物等ノ有無害否ニ至テハ、度外ニ放擲シテ敢テ顧慮セサルモノ所存皆然ラサルナキヲ以テ、規則施行ノ目的ニ達スルハ前途猶ホ遥ナリ」と報告している(資近代2 二四六)。政府が近代的上下水道の改良普及を推進しはじめるのは、明治二三年の「水道条例」と同三三年の「下水道法」制定以後であった。

 飲食物諸営業の取締り

 明治一〇年のコレラ流行は氷が媒介していた事実が少なくなかったことから、明治一一年九月に製氷営業人に氷製造及び販売にあたって、あらかじめ管轄庁の検査を受けさせるよう政府の通達があった。愛媛県は明治一二年一月一三日に「氷雪製造並販売仮規則」を定め、氷雪製造及び発売販売者は卸小売の区別を立てて最寄り警察署に出願検査を受けること、免許を受けた者は適宜看板を製して衆人の見易い所へ掲示すること、行商をする者は免許証を下げ渡すので願い出ること、免許証の有効期限は一か年とする、この規則を犯す者は営業を差し止めるなどと規制した(資近代一八三〇)。
 また明治一一年四月、外国から渡来したアニリン・砥石など有害性の絵具染料が着色料として使われ、多くの弊害が発生していたのを放置できないとして、内務省が着色料取り締まりを通達していた。愛媛県は、明治一四年一〇月二七日「飲食物及玩弄品着色料取締規則」を布達、無害飲食着色料として、ベンガラ・日本紅など赤色五種、山梔子・黄柏など黄色五種、日本藍など青色三種、紫根の紫色一種、木炭・油煙の黒色二種、金箔・銀箔の一八種、角粉・石膏・砥の粉・地の粉など一二種の玩弄品着色料を指定し、これ以外は品名成分製法産地などを詳記、現品を添えて伺い出るよう指示した(資近代2 二三六)。同一四年には先進県にならって、三月一二日「牛乳搾取並販売取締規則」、一〇月二七日「屠牛場及牛肉販売取締規則」を布達した。前者は乳汁搾取のための養牛は郊外便宜の地を選び願書を地元町村衛生委員を経て差し出すこと、疾病牛の乳汁を搾取し腐敗乳などの販売を許さないなど、後者は屠牛業をする者は郊外便宜の地を選び四隣の地形を写した色分け図面に人家の距離を記して願書に添え、地元町村衛生委員を経て郡役所に願い出免許鑑礼を受けること、汚穢棄廃物を堆積し臭気を発散しないよう掃除清潔に注意し、不潔臭穢で四隣に障害ありと認められる時は営業を停止すること、牛肉小売・行商は屠牛免許の者から買い取ったものでなければ販売を許さないなどと規定した(資近代2 二二四・二三五)。
 これら各種の食品衛生法規は明治二〇年一月二四日一斉に改定されて「屠畜営業取締規則」「屠畜肉販売取締規則」「斃畜剖剥取締規則」「牛乳営業取締規則」「製氷積雪販売取締規則」が布達され、取締条項が整備された(資近代3 五四五~五四九)。とりわけ、屠畜関係は屠畜営業・肉販売・斃畜剖剥の三種に区分され、屠畜肉は屠畜免許人が屠殺した検印済でないものは一切販売してはならない、斃畜の肉は食用してはならないなどと規定した。この三種の屠畜関係法規は明治二九年四月五日に一本化され、総合的な「屠獣場及屠獣営業並獣肉販売取締規則」が制定された。同規則は、屠獣場・屠獣営業・獣肉販売・罰則の四章二九か条からなり、検印などが図示されている。同二九年四月三日には「飲食物及玩弄品着色料取締規則」を廃止して「着色品取締規則」が布達、着色材料販売者を届出制とし、二六種の飲食物、玩弄品着色材料と一四種の玩弄品のみの着色材料を指定した(資近代3 一二一~一二二)。またこの年五月二一日「ラムネ製造販売取締規則」も制定され、ラムネを製造販売しようとする者は製造場地名・製造に用いる原料と分量・製造法及び製造用器を詳記して県庁に願い出ること、ラムネは蒸留水をもって製造することなどを規制した(資近代3 一二七~一二八)。
 政府は、飲食物の製造販売について腐販粗製や有害の防腐薬・着色料の使用など種々の幣害が生じ、これの取り締まり法を設けることが公衆衛生上必要であるとの認識に立って、明治三三年二月四日「飲食物其ノ他ノ物品取締ニ関スル法律」を制定した。これが食品衛生に関する最初の全国的な法律であり、わずかに四か条に過ぎなかったが食品衛生行政の基礎となった。この法律は、具体的な事項については各飲食物の取り締まり規則の定めるところに委ねていたから、明治三三年四月七日「牛乳営業取締規則」、四月一七日「有害性着色料取締規則」、六月五日「清涼飲料水営業取締規則」、七月三日「氷雪営業取締規則」、一二月一七日「飲食物用器具取締規則」が相次いで定められ、翌三四年一〇月には「人工甘味質取締規則」が、同三六年九月には「飲食物防腐剤取締規則」がそれぞれ制定された。本県は、明治三三年六月二八日「清潔飲料水営業取締細則」と「牛乳営業取締細則」、七月三〇日「氷雪営業取締細則」を定めて、営業認可手続などを示した(資社会経済下七三一~七三三)。料理店飲食店営業の政府規則はこの時期にはなく、明治三八年七月一五日本県で「料理屋及飲食店取締規則」を制定した。この規則の営業者・管理人の遵守事頃の中に、腐敗の兆しあるいは中毒のおそれのある飲食物を供してはならない、結核癩病その他伝染性疾患のある者を来客に供すべき食物の調理及び其の容器の取り扱いに従事させてはならない、料理場汚水溜厠せい(口がまえに靑)は常に掃除し不潔であってはならない、などの衛生事項が含まれていた(資近代3 五三七)。
 屠場及び食用獣畜の取り締まりについては、私営屠畜場が全国的に乱立して衛生上由々しい状態となったので、明治三九年四月一一日「屠場法」が公布された。同法によって公営屠畜場の設立維持が進められた。松山市は市営屠場を明治四一年一〇月持田に設立し、その管理規則を定めた。「屠場法」及び「屠場法施行規則」の制定に伴い県当局は明治三九年七月一七日に従前の「屠獣場屠獣営業及獣肉販売取締規則」を廃して新しい「獣肉販売取締規則」を定めた。