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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 県立松山病院・医学校の開設

 私立会社病院回春舎

 松山藩は、元治・慶応年間に平田尹之・宇高正之・船田昌量・今井鑾らが長崎養生所精得館に修学した。長崎養生所は松本良順やオランダ医ボンベの尽力で文久元年(一八六一)に設立されたわが国最初の洋式病院医学所で、慶応元年(一八六五)精得館と改称、明治維新後長崎医学校に発展した。
 ここで学んだ平田・宇高らは、明治二年藩学明教館内に併置された医学所で教授に当たるかたわら、貧民のための医療施設回春舎を西堀端町に設けたが、明治四年一二月に至りこれを会社病院に改組して本格的な医療を始めることにした。医員は平田尹之(通称淳爾)、中村道人(通称亮庵)、宇高正之(通称孝民)、船田昌量(通称是蔵)、今井鑾(通称逸三)、丸山通元(通称通之)で、とりあえず六名が患者の治療に当たるが、県の補助を受け、富者の寄付を募って「ユクユク有名ノ良医ヲ招キ集メ其基礎ヲ盛大ニ」する願望をもって、「世ノ医術ヲ業トスル者此会社ニ加ハリ他日ノ成業ヲ賛成センコト」を期待しての開業であった。
 この時定められた「会社病院規則大略」には、診療時間、月一・六日の休院、急病患者の扱い、種痘・往診・薬価・薬料支払い方法、貧困者の取り扱い、入院などが記述されていた。薬価は毎品原価の高下に従って三等に分け、上等薬一包に付き銭札四匁、中等薬一包に付き銭札三匁、下等薬一包に付き銭札二匁と定められ、薬料は診療後一か月内外のうちに支払うものとされた。但し貧困にして薬代の支払い不能な者には、町村の庄屋の証明書を持参すれば無料にする、中貧の者には薬代の分割支払いまたは値引きを認める、入院患者は病院で食事を用意し布団は各自持参することを原則とするなどと決めていた(資社会経済下七六一~七六三)。回春舎は県費補助の請願をして資金貸与を受けていたが経営難が続いたので、病院の県立移管を期待しながら明治七年閉鎖した。

 県立松山病院収養館・医学所の誕生

 県は、明治七年七月二日に松山市二番町一番屋敷に仮病院を設けて三日に開業、同時に医師養成のため附属医学所を開校することにした。医学生は入学時に束修七五銭、毎月授業料として一五銭を納付することとし、また西洋の薬品の知識を得るため薬品商の子弟・雇人の入塾を勧奨した(資社会経済下七六四~七六五)。この年三月八日、県は小唐人町三丁目水野屋敷の敷地に病院の移転を告示、旧西条藩邸の建物を移して病舎を建立、一二月一日移転開院して収養館と称した。病院長・医学所教授には陸軍医監松本良順に依頼して東京から南部精一・太田雄寧を招聘、医師・教官には大阪病院に勤務していた宇和島の谷世範のほか平田尹之ら旧会社病院回春舎の医員らを充てた(「松山病院沿革」)。
 東京から招かれた太田雄寧は、後年日本最初の医学専門誌『東京医事新誌』を発行、また『薬舗心得草』三巻を著作して初めて西洋の調剤学を紹介するなど、明治初期の医学・薬学の発展に貢献した人物として知られる。雄寧は、嘉永四年(一八五一)正月武蔵国川越に生まれた。父宗貞が清水徳川侯の侍医であったので、雄寧は幼時より医学を志し、慶応二年(一八六六)六歳の時、江戸医学所に入学した。この時期に父母共死去し学資に窮したが、教頭松本良順に可愛がられ、戊辰戦争では松本に随従して幕府軍の治療に当たった。幕軍敗退後ひそかに江戸に帰り福地源一郎の塾に入ったが、ほどなく松本良順が罪を解かれて江戸に帰り、学塾・病院を牛込早稲田に開設したので、その塾務に従事するようになった。やがて一念奮起、明治五年二月アメリカに渡ってニューヨーク製薬学校ついでフィラデルフィア製薬学校で薬学を学びはじめたが、学資が続かず学業途中で帰国しなければならなかった。この失意の太田雄寧に師松本良順は松山行きを勧めたのであった。雄寧の収養館医学所教授在任は一年二か月に過ぎず、明治八年五月には帰京している。医学所では永野良準らを教え、岩井禎三・二神寛治の門下生二人が雄寧を慕って上京した。
 松山病院の外来患者と入院患者の扱いについては、明治八年三月九日の「病院内外規則」で示された。外来患者規則は、診察時間・往診諸規定・薬価と支払い方法・重症患者の手数料徴収・種痘料・救療規定などを記していた。このうち、薬価は水剤一日分五銭、外散薬同三銭、点眼液一小瓶二銭、丸剤同四銭、前剤同三銭、膏薬一~三銭、種痘料五銭と決められた。その支払い方法は、休業の日に納め、服薬一月以上にわたる場合は月末に納めることとして盆暮二季払いを排し、薬剤上納のほか篤志をもって多少の謝金を納めることも認めている。入院患者規則では、看病はすべて看護人の引き受けであることと完全看護を原則とするが、急病・重症の患者など格別の手数を要する者は親族が付き添い看護させるのも妨げないと身内の看護を認めた。入院中食料薬価などの一日の費用は上等二五銭・中等二一銭・下等一七銭の三等に区分するが、病症により施術上幾多の手数を要する者は相応の手数料を納めることとし、貧窮者に薬価無料の特典を設けた(資社会経済下七六六~七六八)。
 収養館医学所については、明治八年一〇月六日付の「医学所規則」で、通則・教則・舎生規則・罰則・罰金規則などが示された。通則によると、医学所設置の目的は「医学ニ志アルモ事故アリテ時日久シキニ耐サルモノ及ヒ年齢既ニ長シ諸科ヲ修ムルノ暇ナキモノ」を対象に実地修業を主とし、医術の達成を期していた。入学志願者は年齢一八歳以上であって、普通小学校を卒業し医者となるべき志望堅固な者で、修業料は毎月二五銭であった。この医学生の外に既に開業している医師の聴講を認め、西洋医学の修得を期待していた。教則によると、修業年限を三か年とし全体を六期に分けている。第一期には物理学・化学・解剖など、第二期には化学・解剖学・生理学など、第三期には生理学・組織学・動植物学・薬剤学など、第四期には内科通論・外科通論・繃帯学・器械学など、第五期には内科各論・外科各論・眼科学・診断法・内外科及び眼科臨床講義など、第六期には産科学・婦人病学・内科各論・外科各論・内外科及び外科臨床講義などの課程を教授した。学年は二学期に分かれ、第一期は二月一五日に始まり七月一九日に終わり、第二期は九月一日から翌年二月一四日に至るもので、毎日の授業時間を四時間と規定した。毎期の終わりに「試業」を行って各自の階級を定め、第六期終了後に大試業を課し、合格者には普通医学卒業の証書を与えられた。医学所の初年度生徒は通学生三一人・寄宿生二四人の計五五人であった。
 こうして医学所が開かれたが、入学生徒は僅少であり十分な医学教育ができなかったので、明治一〇年二月医学所は一時閉鎖された。ところが、この年に県下に伝染病が蔓延し、その治療・防疫に当たった漢方医の実績があがらず、洋方医師の養成の必要性が痛感された。県は同一〇年一一月一〇日に今般流行している悪病(コレラ)の治療及び消毒法のごときも洋法でなければ良い効果はあがらない、今より後勉めてひろく有志を募り、病院を共立して西洋医の学課を設け、常に衛生保護の道を尽し、臨時「天行病痾ノ変」に応じ、人生非命の災厄を免れ、天寿を完うするを得れば、その幸福何ものにも代えがたいといった「西洋医術拡張のため医員へ諭達」(資近代1 六一一)を発し、西洋医育のため一二月から医学所を再開、ドイツ語の教師として石川清忠を東京から迎えて月俸四〇円を給した。入学志願者は翌一一年一月二〇日までに申し込むよう告示、二月開校式をあげたものの以前同様生徒は集まらなかった。このため県は、各大区に募集人員を割り当てるなど苦肉の策をこうじ、明治一三年には松山出身で東京医科大学別科を卒業して警視庁浅草病院に勤務していた添田芳三郎を雇用医学科長に任じて教授の充実を図ったりしたが、あまり効果はなかった。
 松山病院には、内外の患者を診療する医局のほかに医学所を経営する医学科、未決已決囚の患者を治療する療囚科、梅毒検査と治療に当たる駆黴科、薬剤を製煉配剤する調薬科、院内の雑務を掌る用度科の一局五科の組織からなり、明治一一年四月二七日制定の「松山病院諸則」で、各局科の分科章程や院長・直医・看護長・用掛・事務掛心得、病院入院患者規則・病院外来患者規則・駆黴院入院患者規則を詳細に定めた。院長は、初代南部精一の後、明治九年三月東京から長谷川漣堂を招いて月俸一〇〇円を給し、同一二年六月から二一年六月まで渡辺悌二郎が月俸一五〇円で院長を務めた。明治一三年時松山病院医師一一名・医学所教授五名で、医学科長添田芳三郎・駆黴科長平田尹之・療囚科長成川義英・療囚科長木村嘉吉が医師・教授団を代表していた。患者数は入院者五八二名・外来者八、四六〇名であった(明治一三年愛媛県統計概表)。一三年度の病院費は一万五、五八八円で、従来三万円の基金利子と二、〇〇〇円の賦金で維持されていたが、常に収支相償わない事態であったので、この年から県費補助を受けることになった。
 県立松山病院は、「単ニ患者ノ輻湊シ、収入金ヲ増加スル等治病ノミニアラスシテ、病室ノ構造ヨリ患者治療ノ方法、患者ノ取扱ニ至ル迄、地方公私病院其他開業医師ノ標準タラシムルニ在リ」(明治一六年「県治調」資社会経済下)と解説されているように、県下の医事・衛生の推進指導監督機関としての機能を合わせ持った。明治九・一〇年の第一回・第二回医事会議には、高松病院とともに院長院員が参加して会議を導き、医事会議で決定した事項実行の中心的役割を果たした。すなわち、第一回医事会議で決議された各大区医員会議所で施行される春秋二度の開業医師に対する試験問題の作成と採点に当たり、第二回医事会議の決定で誕生した医監には松山病院長が任命されて県内を巡回して医師の指導監督に当たった。また医事会議で決定設立の予定であった各大区の病院は松山病院の支院となる構想であった。

 愛媛県立医学校の設立と廃止

 明治一五年五月二七日に文部省は「医学校通則」を公布して、医学校を専門学校程度の教育機関にして医師養成の充実を図った。医学校通則では、医学校を甲・乙の二種に分け、ともに初等中学校以上の学力を有する者を入学させた。甲種の修学年限は四年以上、乙種では簡単な医学教育を施し医師の速成を企図するもので、修業年限は三年であり、政府の諮問を受けないで医術開業免許状が下付される甲種に対して、乙種は国家試験に合格しなければ医師になれなかった。愛媛県は翌一六年三月一五日医学校通則を伝達した。
 医学校通則の公布に伴い、従来病院に附属していた医学所は、独立校として文部省・府県学務課の管轄するところとなった。県当局は松山に甲種医学校を設置する方針を固め、医学校費として一万〇、三八〇円の予算を組んで明治一六年四月の通常県会に提出した。県会開会に先立って予算案を検討した常置委員会では、松山に甲種医学校を設立しても讃岐地区の生徒は大阪に遊学する方が便利であるから発展性が期待されないとする讃岐出身議員の主張が通って廃案の意向を表明した。県会では、原案の甲種医学校一校設立案や常置委員会案の医学校廃校説に同調する意見に加えて、新しく松山・高松の両地に乙種医学校存続説、松山に乙種医学校設立説が議員提案され、甲論乙駁の末採決したが、いずれも過半数に達しなかった。このため議長小林信近は査理委員五名を特選して原案の練り直しを委嘱、査理委員会は乙種医学校を松山に設置してその経費を六、七七〇円とするとの案を提示、県会で可決確定議となって、甲種医学校に代わり乙種医学校の設置が要望された。
 県は、明治一六年六月三〇日限りで在来の医学所を廃止し、九月一九日付で一〇月一日から新たに乙種の県立医学校を松山病院構内に開設することを告示した。はじめ生徒五〇名を募集したが、さらに一二月に生徒三〇名を再募集して、翌一七年一月から授業を開始した。教官には新藤二郎・添田芳三郎・赤羽武次郎・平泉泰らか就任した。
 「愛媛県医学校諸規則」(明治一九年二月二四日告示)は、本校設立の目的を「多クノ医生ヲ養成シ、従来開業ノ医師ノ老廃二代ラ」せるとともに、「医事ノ改良進歩ヲ謀ル」にあると述べている。医学校は、「医学一汎ノ大要ヲ領シ専ラ察病施治ノ技術ヲ練磨シ実地ノ医療ニ従事スルカ為メ必須ノ学科ヲ授クル所トス」として、次の学科課程表を掲げた。
 医学校規則は、以上の教旨・学科に続いて教科要目、修業年限及び学年学期休業、入学、試験進退、生徒心得、通学生、寄宿生、禁条及び罰則等について七四か条の要項を挙げた。入学志願者は一八歳以上で体質強健・品行善良であって本県の初等中学校を卒業した者とし、入学時期を毎年五月及び一二月の二回、入学試験科目は和漢文・算術・物理学・作文などであり、これに体格検査を加えた。試験は、臨時・定期・理科の各試験と卒業試験の四種類があり、それぞれの試験に不合格落第があるなど厳しいものであったが、とりわけ卒業試験は「一解剖学、生理学、二外科学、内科学、薬剤学、三眼科学、産科学、内外科臨床講義」の三段階の試験に分かれ臨床試験を伴う難問を課して国家試験に備えた。
 県立医学校は、松山・高松両病院の医学所を引き継いだ形で医生の移行を認めていたので、明治一七年の在籍生徒は一期二八名・二期一九名・三期九名・四期一一名・五期九名・六期一六名の合計九二名であった。その翌一八年になると、在籍生徒は一期九名・二期一二名・三期一三名・四期六名・五期七名・六期一名の合計四八名であって、前年に比較すると四四名減少した。この生徒数の激減の原因について、この年の『愛媛県学事年報』は「民間ノ困弊ニ際シ、学費ノ弁給ニ苦シ半途退学セシモノ多キニ因レリ」と説明している。
 明治一九年九月二九日、県は「今般本県松山医学校ヲ廃止ス」と宣言した。乙種校は十分な専門教育が施されず入学希望生徒の僅少であることが松方デフレによる経済恐慌下の財政窮迫での整理の対象とされたのであるが、同年二月に詳細な「愛媛県医学校諸規則」を告示してからわずか七か月の突然の廃校であった。

表2-13 愛媛県医学校学科課程表

表2-13 愛媛県医学校学科課程表