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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

三 流行性脳炎・感冒

 大正一三年の嗜眠性脳炎

 流行性脳炎は古くから存在し、平安時代の〝風病〟、鎌倉時代の〝急慢驚風〟、江戸時代の〝吉原風〟などがこの脳炎にあたると考えられる。大正一一年四月流行性脳脊髄膜炎が法定伝染病に加えられ、愛媛県の衛生統計にも患者数が記載されるようになった。しかし実際の流行性脳炎はこの脳膜炎にとどまらず今日の日本脳炎(急性脳炎)も含めて嗜眠性脳炎と称し、予防治療法も解らないままに異様な病状と致死率が高いところから〝眠り病″と恐れられた。
 大正一三年この嗜眠性脳炎が全国的に大流行した。八月一六日道後湯之町松ヶ枝町遊郭の老女が嗜眠性脳炎と診断されて死去した。診察医は、「頭部にも腹部にも異常がなかったので、こんな病状で外に付ける病名もなかったから嗜眠性脳炎の病名をつけた訳です」と語っているが、当時香川県でこの脳炎が大流行、新聞によると八月一九日までに六五〇余人の患者を出していたので、疑わしいながらもこの脳炎が発生したことは県民の関心を呼んだ。「海南新聞」八月二一日付は、松山赤十字病院長酒井和太郎の「此病気に罹ると脳が非常に興奮してくる。そして総ての物体が二つに見え、その上瞼が下り、睡眠がしたくなる。食事もせず続けて眠り、これが本病の徴候だが、予防としては目下の所処置がない、原因は黴菌から
伝染する」といった病状解説を載せている。以後、嗜眠性脳炎は県下各地に続発、新聞は「今治市にも襲来す嗜眠性脳炎」「北宇和郡に嗜眠脳炎」「松山市内に奇病襲来す」「西条にも亦嗜眠性脳炎」「北条と東中島村に嗜眠性発生」「三津浜に初めて眠り病発生」と連日報道した。「海南新聞」八月二八日付は「県下を襲ふ嗜眠性脳炎」で、「嗜眠性脳炎は今や県下に猖獗し将に蔓延の兆あり、東予・南予共に同患者を出しつつあり、殊に宇摩郡の如きは香川県に隣接している関係上最も激甚で、其の他温泉・伊予・北宇和・越智・周桑・新居の各郡に亙り現在患者三十名以上に達している見込で、なお此の外同病は法定伝染病でないが為県衛生課へ報告が来ていないものも多数ある」と報じた。
 嗜眠性脳炎の蔓延と県民の動揺にかんがみ、県当局はこれを脳脊髄膜炎疑似症として法定伝染病に準ずる取り扱いを指示すると共に、九月三日に「嗜眠性脳炎予防方注意」の告諭を出した。告諭は、本夏以来岡山・香川・徳島外数県にわたり嗜眠性脳炎と称する一種の脳炎が蔓延し、本県でも昨月中旬以来既に数十名の患者の発生を見るに至った。本病はその病原がまだ明確でないためその伝染経路を杜絶し病毒の根絶を期することは困難であるけれども今や流行時に頻発する疾病であることは疑いのないと、病原・伝染経路不明ながらも脳炎の流行を是認し、症状と予防事項を示した。症状については、定型的嗜眠性脳炎・卒中(中瘋)型・脳膜炎型の三種につきそれぞれの症状を解説して、「要スルニ頭痛・発熱ヲ以テ初マリ時トシテ言語ヲ発スルコト能ハス或ハ躁慕シ数日ノ後意識乱レ嗜眠状態ニ陥リ又四肢ノ不全麻痺ヲ伴ヒ遂ニ昏睡状態トナリ、数日ニシテ死亡スルモノアルモ経過良好ナル患者ニアリテハ体温ハ比較的速カニ下降シ意識ハ漸次明瞭トナリ諸症消退スレトモ全治ハ比較的ニ長引クモノヽ如シ」と総括、感染はせき・くさめの際での飛沫伝染であるとして「マスク」の使用や患者の予防について説明している。嗜眠性脳炎は九月中旬ようやく下火になった。愛媛県は香川県一、六〇〇余人、岡山県五八〇余人に次ぎ二一二人の患者を出し、うち七〇人が死亡したと「海南新聞」九月一三日付は報告した。
 嗜眠性脳炎は昭和七年にも南予地方に流行、八月末で三二人の患者うち一六人が死亡した。翌八年にも県下で流行、八月末日で患者二三人・死亡一一人を出した。この昭和八年に病原菌ビールスが発見され、やがてコガタアカイエ蚊が媒介することも判明、昭和二三年急性(卒中型)脳炎と共に嗜眠性脳炎は法定伝染病に加えられ、日本脳炎に名称の統一がなされた。

 大正七年のスペインかぜ

 流行性感冒(インフルエンザ)は、紀元前から存在したようであり、世界的大流行がたびたび記録されている。江戸時代には〝谷風邪″〝お世話風邪″〝ねんころ風邪″〝お七風邪″〝お染風邪″など流行時にはいろいろの逸話から流感に名前をつけて厄除けとした。近代では一九一八~二三年にかけて〝スペインかぜ″と呼ばれる大流行が有名である。一九一八年五月にスペインのマドリードに悪性のインフルエンザが発生してからたちまち全世界に広がった。日本でも大正七年の八月から始まり、一一月には全国的に蔓延し、同一〇年七月までの間に三回の流行が繰り返された。全世界の発病者は六億といわれ、死亡者は二、一二九万人の多数にのぼった。日本では発病者二、三八〇万人・死亡者三九万人を出した。
 大正七年一一月一日、愛媛県は「流行性感冒予防二関スル告諭」を発布した。告諭では、「春以来内地ニ散発セル流行性感冒(俗間伝フル大正熱)ハ初秋ノ頃ヨリ各府県ニ流行シ、本県ニ於テモ十月上旬ヨリ喜多・伊豫・西宇和・温泉等ノ諸郡ニ発生、漸次各郡市ニ蔓延シテ多数ノ患者ヲ出シ学校ニシテ休校ノ止ムナキニ至レルモノ多数アリ、其流行状態甚夕劇甚ニシテ保健上憂慮ニ堪ヘサルモノアリ、」としてインフルエンザ菌の病因、飛沫伝染の経路、身体倦怠・高熱・下痢などの症状を挙げ、うがいの励行、日光消毒などの予防法を列挙して各自の摂生注意を呼びかけた(資近代3 六八五~六八六)。
 この年の愛媛県の流行性感冒による死者数は届け出制でないため明確でない。『今治市誌』には、「今治町に於ては十一月上旬より十二月中旬に亙り猖獗を極め、之が死亡者は八十四名に達す」とある。県全体の大正七年の死者は二万九、八〇〇余人で一年前六年の死者ニ万二、九〇〇人に比べて六、九〇〇余人の増加であり、この死亡数の比較からもこの年のスペインかぜが県内でも猛威を振い、多くの人命を奪ったことが推察される。県内郡市で最も流行した地域は南北宇和郡と新居郡であったといわれるが、統計上でも、北宇和郡の死亡者前年比一、三三六人の激増をはじめ南宇和郡・新居郡でも二八五人・二八八人の増加となっている。松山市は前年比二五九人の増加で、松山市の死亡統計を報じた海南新聞は、「流行性感冒猖獗の為にあたら貴き命を棒に振ってしまったものが頗る夥多」で「最も恐るべきぱ流行性感冒と断言する」「お互ひに道義上からでもマスクの使用予防注射を怠ってはならぬ」と説いた。この年の通常県会は、「感冒流行ノ為メ議員ノ出席が少ナク会期ノ三分ノ二ヲ空シク致シマシタ」と議長深見寅之助が言明しているように休会に休会を続けて流感対策を審議する余裕もなかった。