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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 開業医と無医村問題

 開業医の変遷

表3―10は愛媛県における大正元年から昭和一三年までの免許資格別医師数・医師総数・医師一人対人口数・人口一〇万対医師数の推移を示したものである。この表から次の諸点を指摘することができる。その第一は学校出身の医師が大正元年の二一五名から昭和一三年には五七〇名となり、大正元年の二・六五倍の増加、全医師の中で占める割合は前者の三一・六%から後者の七九・八%となっていて、専門教育を受けた医師が医界の中心勢力となったことである。第二は奉職履歴医及び従来開業医の激減であり、昭和一二年には僅か九名となっている。また試験及第医も大正七年を頂点に減少し、昭和一三年の全医師数の占める割合は一八・七%になっている。これらの事情から見ると、この期に愛媛の近代的医師制度が実質的に成立したことになる。第三に医師の質的向上は顕著であったけれども、医師数の増加は低調であった。昭和一三年は大正元年より三三名増に過ぎず、その間の人口増は八万一、一九二余人であり、そのため、医師一人対人口数の増加と人口一〇万人対医師数の減少となっている。
 次に医師数を郡市別に分けると表3―11のようである。市部医師中大正八年までは松山市のみの医師数であるが、大正九年に松山市九〇名に今治市二五名が加わり、翌一〇年には宇和島市五九名が追加、昭和一〇年には八幡浜市二六名、同一二年には新居浜市二七名が加算されている。
このように新しい都市の誕生に伴い市部医師数は増加したが、これとは別に医師の都市集中郡部の医師数減少がうかがえる。松山市は大正三年時七六名の医師数であったのが昭和一二年には一〇〇名に増えた。これに対し喜多郡は七二名であったのが四三名に、伊予郡は四〇名が二四名に、上浮穴郡は二一名が一四名に減じた。
 従来開業医・試験及第医の古い医者から医大・医学専門学校出の新しい医者に新陳代謝していく中で、新規開業医は多くの場合営利的立場から人口密集地の都市郡に開業した。新聞は、「医は仁術なり」という観念を尺度にして医師の営利主義を批判論難して久しかった。「海南新聞」明治四三年九月二九日付は「今の医業は悉く営利的観念から組織せられ、其根底に武士道的仁心が欠如たりである。昔の医者とは正反対だ、医業は盛大に為ったが医道は衰退に傾いて来た」と非難した。大正五年八月二日付では、「仁術を標榜して立った筈の医師と言ふ者が、近来著しく商売的になって〝薬価即納〟と玄関口に貼り出す位はおろか、九死の大病人に対して〝現金でなければ薬を渡さぬ″と血も涙もない鬼のような無慈悲なことを言ふ医者もある、世の中が一般にズルくなった為め現金制度でなくてはやり切れないなどと医師連は言ふけれども、九層倍以上の高い薬価をとる医師に少々カケずたりのあるのは当然である、其カケずたりを防ぐために瀕死の重病人にも〝現金でなければ〟を応用するのは酷い」と攻撃した。さらに昭和四年一二月一一日付の社説では、「医術は仁術であり、医者は仁者であるとは洋の東西を通じて古くからの常識である、ところが今日の如く黄金萬能の時代に至っては、医師といへども診療代償の多きにのみ走り、富者を迎へるに厚く、貧者を迎へるに薄情、この傾向は滔々として市井の医界に満ち渡っているように観察される」と述べている。
 医学・医術の進歩に伴う医療内容の向上は医療需要を高めたが同時に医療単価を引き上げることになり、低賃銀・低収入に苦しみ、治療を受けたくとも医療費支出が困難で断念する階層が多くなった。これに医師の収入が他の職業人に比較して相対的に高かったことの羨望や医師の職業は仁術的要素を持つべきだとする社会通念が入り交じって、医師の営利主義が社会問題としてきびしく追求・非難されたと考えられる。しかし開業医は営利事業である以上医師のみに犠牲を強いることは問題のすり替えであり、この時期には貧困者及び低所得者の医療費を社会で負担し支出の低減を図ろうとする動きが顕著になってきた。明治四四年に始まる済生会、昭和二年から始められた日赤愛媛支部病院の県内無料巡回診療、同七年から実施の救護法による医療救護、大正一一年開始の宇和島市営診療所の実費診療、同一二年開設の松山市営診療所の無料診療及び昭和三年同診療所の実費診療の併設などの県内社会事業、昭和二年から施行された健康保険診療などがそれに核当する(社会経済6社会事業参照)。

 無医村と県費補助医制度

 医師の都市集中郡部の減少は、無医村の増加をもたらした。昭和二年の通常県会で、県衛生課長は無医村問題に対する議員の質問に答えて、「本県デモ医師ノナイ町村が六四ケ町村アリマス、之ニ付テハ県モ如何ニスレバ宜シイカト思ツテ多年研究シテ居ルノデアリマス、成ルベクナラバ町村ニ御願ヒシテ、補助ヲ与ヘテ所謂町村医ヲ置イテ戴クコトニ町村長会議デモ勧誘申上ゲテ居ルヤウナ次第」と述べているように、無医村の存在を認めながら、その解消には消極的であった。しかし、昭和四年から始まった世界恐慌の影響を受けて無医村が翌五年の六九から同七年の九〇を数えるに至ってはじめてその対策に乗り出した。昭和一四年の「県政事務引継書」には、「昭和三年五月県下ノ医師数七一七名ニ達シタルモ、二七〇余ノ町村中無医村六二ヲ算シ、爾来農村ノ疲弊困憊二伴ヒ無医村次第ニ増加シ、昭和七年ニハ医師数六五八名ニ減ジ、無医村九〇ニ増加シタルニ依り同年十月七日医師設置補助規程ヲ制定シ、医師設置ヲ慫慂シ、先ツ県費三、七五五円ヲ支出シテ之ガ普及ヲ図リ」とあり、その間の事情を知ることができる。
 「医師設置補助規程」は、開業医のいない僻陬村を対象に医師を招聘開業させるかまたは一か月に五日以上出張診療させる場合は毎年予算の範囲内で補助を与えるものであり、その村が招聘開業または出張診療を乞う医師に支給する手当・報酬のニ分の一以下を県費補助しようとするものであった(資近代5二三一)。伝染病患者の診察・隔離病舎の監督・貧窮病者の治療・住民健康の検診などのために医師を雇用する市町村医制度は明治三〇年代から各地で採用されており、大正三年時で二一〇、昭和元年時で二一九を数えていた、これが僻村の場合医師定着の手段でもあり、医師の生活保障のための村費支給の半分程度を県費で肩代わりしようとするのが医師設置補助規程制定の意図であった。昭和七年の補助金総額は三、七五五円、昭和八~一二年度が毎年四、四〇〇円で、左記村々に医師招聘が試みられた。一村平均三五〇~五〇〇円程度であるから、指定村の多くは開業医の常住でなく、出張診療の勧誘が進められたものと思われる。

   昭和八年度(四か所)
 東宇和郡惣川村・上浮穴郡川瀬村・西宇和郡三島村・越智郡九和村外三か村医師設置組合

   昭和九年度(七か所)
 東宇和郡惣川村・上浮穴郡川瀬村・西宇和郡三島村・越智郡九和村外三か村医師設置組合・上浮穴郡杣川村・周桑郡千足山村・伊予郡広田村

   昭和一〇年度(九か所)
 東宇和郡惣川村・西宇和郡三島村・越智郡九和村外三か村医師設置組合・伊予郡広田村・上浮穴郡面河村・同郡川瀬村・南宇和郡一本松村・新居郡大保木村外一か村医師設置組合・越智郡魚島村

   昭和一一年度(九か所)
 東宇和郡惣川村・越智郡九和村外三か村医師設置組合・伊予郡広田村・上浮穴郡面河村・同郡川瀬村・新居郡大保木村外一か村医師設置組合・越智郡魚島村・温泉郡立岩村・喜多郡柳沢村

   昭和一二年度(一三か所)
 東宇和郡惣川村・西宇和郡三島村・越智郡九和村外三か村医師設置組合・伊予郡広田村・上浮穴郡面河村・同郡川瀬村・同郡浮穴村・南宇和郡一本松村・越智郡魚島村・同郡岩城村・温泉郡立岩村・同郡坂本

村・喜多郡柳沢村

 診療所設置と巡回診療 

医師設置規程と並行して無医村対策として診療所建設が進められた。その一つは三菱財団の寄付金によって昭和九、一〇、一一年度に左記一六か所に設置された診療所である。

   昭和九年度
 北宇和郡日振島村・喜多郡大谷村・東宇和郡貝吹村・上浮穴郡中津村・同郡父二峰村・新居郡大生院村

   昭和一〇年度
 喜多郡柳沢村・温泉郡坂本村・同郡三内村・越智郡生名村・同郡瀬戸崎村

   昭和一一年度
 周桑郡吉井村・温泉郡伊台村・喜多郡五城村・宇摩郡川瀧村・越智郡大山村

 次に国費の補助を含む県費で、昭和一二年から県営診療所の建設が一〇か年計画で推進され、同年には新居郡大保木村・温泉郡湯山村・上浮穴郡参川村の三か村に設置された。一診療所につき経費一、五〇〇円か割り当てられ、地所は地元負担とし、診療所員の俸給・器具料その他は国庫の半額補助を受け、同年一〇月一日から診療を始めた。専属医師は各一名で、湯山・参川村には看護婦が一名ずつ配置された。
 さらに、昭和一二年度に農村医療保護費として計上された県費二万円のうちから五、四五〇円の経費で、越智郡桜樹村・亀岡村・上朝倉村・小西村と喜多郡大川村・満穂村・喜多灘村の無医村七か村に出張診療所が新設された。
 こうして設立された診療所は昭和一二年までに二七か所に及んだが、県営三か所のほかはすぐには専属医師の配置は実現しなかったようである。昭和一三年一二月時三菱財団寄付金によって建設された一六か所の診療所のうち開業医が定住したのはわずか五か村、無医村となっている村が五か村、残り六か村は月三回の巡回出張診療村となっている。この年無医村は八六か村を数えたが、前年から開始された県の月三回巡回出張診療を受けたのが九か村、済生会の出張診療が八か村、日本赤十字愛媛支部の巡回診療が九か村、合計二六か村が巡回出張診療を受けた。

 産業組合経営周桑病院の設立

 無医村が増加する中で、医療費の重圧と医師不在の問題を農民自身の手で打開していこうとする試みが生まれた。農村医療互助組合や医療利用組合運動などがそれであり、前者は本県に例がないが、後者は大正期の喜多郡柳沢村、昭和一三年に設立された産業組合病院周桑病院を挙げることができる。
 喜多郡柳沢村に医療利用組合が出来たのは大正八年で、南予に相次いで誕生した吉田病院など町村立病院と機を同じくして無医村からの脱皮の現れであったが、二年後の大正一〇年には閉鎖された。柳沢村は、昭和一〇年時に医療利用組合運動を復活して三菱財団寄付金で診療所を建設、翌一一年には医師設置規程の補助金を受けて開業医を招聘した。またこの時期南宇和郡内海村家串にも医療利用組合が設けられていたようであり、越智郡九和村外三か村・新居郡大保木村外一か村などでも医師設置組合を結成して医師を求めた。
 こうした動きの中で、周桑郡産業組合連合会や喜多郡産業組合が病院設立を計画した。周桑郡産業組合では、静岡・東京・盛岡・青森・能代町・秋田・長岡など医療利用組合経営の病院を視察して組合病院設立と経営維持の自信を深め出資金一〇万円程度の病院建設を決定、郡村民の関心と支持を喚起する運動を始めた。「海南新聞」昭和一〇年一一月三日付は、「組合で病院設立、周桑産組が郡単位で計画、医師なき村の福音」と題して周桑組合病院設立の動きを報道、同病院の開設は地元の人々から罹病の際の生命の不安や経済上の打撃から解放されるものと期待されていると伝えた。この年の県会で野本県衛生課長は議員の質問に答えて、「産業組合デ診療所ヲ建テル場合ニハ、是ハ医者デナイ非医者ノ経営デアルガ故ニ、其資産状態、目的が営利デアルカ否力、産業組合ニ附随シタ組合デアルカ否力、或ハ其地方ノ開業医ノ数、医療普及ノ状態ト言フヤウナ実情ヲヨク調査シテ、ソレガ総テ合理的ニ合致スルナラバ是ハ許サヌト言フコトハ言ヘナイ、本県ニハ一ツモアリマセヌガ、サウ言フ届が出マスレバ、産業組合ト歩ミ寄リマシテ、ヨク実情ヲ調査シテ許可シタイト思ツテ居リマス」と産業病院認可に前向きの態度を示した。
 愛媛県医師会は、すでに昭和八年の総会で「産業組合に依る医療組合は其医療利用の組織に名目を借り、現下医業の制度を蹂躙するもの」と産組病院設立の試みに反対する態度を明らかにしていた。周桑病院設立運動が具体化するとこれに強く反発、昭和一一年三月一八日の総会で、産業組合病院なるものは「国民ノ保健衛生ヲ荼毒シ有害無益ナルモノ」だとして、「産業組合病院ノ跋扈ハ開業医ノ業務ヲ蚕蝕シ、之ヲ駆逐シテ遂ニ殲滅シ、吾邦ノ医療制度ヲ破壊スルニ至ルヲ以テ須ク之ヲ排撃シテ苟モ其存在ヲ許容セス」と激しい調子で反対決議を行い、これを県知事に提出した。またこの年一二月の県会で医師の山田庄太郎議員は、「斯ウ言フ病院が出来マシタナラバ之ニ類スル所ノ病院が県下ニ普及スルデアラウ、其場合ニ於テ県下七百ノ医師ナル者ガ非常ナル脅威ヲ受ケル」「診療費トカ色々ナ問題ガ無統制トナリマシタナラバ、現在ノ開業医制度ナルモノハ破壊セラレル」と医師会の立場を代弁して周桑病院設立に反対した。
 こうした県医師会の反対運動があったが、県当局は産業組合病院の設立を認め、農林省に設立認可申請を行って昭和一三年三月八日に許可された。同年七月、周桑産業組合病院は開院の運びとなった。この周桑病院と同時期に設立計画が練られていた大洲産業組合病院は、資金調達難で建設に至らなかった。なお大洲病院は、その後国民保健病院として設立が進められ、昭和二二年に開業した。

表3-10 免許別医師数の推移

表3-10 免許別医師数の推移


表3-11 市部郡部別医師数

表3-11 市部郡部別医師数