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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

三 看護婦・産婆の養成

 看護婦規則の制定

 医療の進歩と医療機関・開業医の増加で一定の資格を有し専門の知識を身につけた看護婦の育成が求められた。政府・内務省は大正四年六月三日「看護婦規則」を制定、看護婦を「公衆ノ需ニ応シ、傷病者又ハ褥婦看護ノ業務ヲ為ス女子」(第一条)と定義し、その資格については看護婦試験に合格するか地方長官の指示した学校または講習所を卒業するかのいずれかと規定している。看護婦試験は地方長官が人体の構造及び主要器管の機能、看護方法、衛生及び伝染病大意、消毒方法、繃帯及び治療機械取扱法大意、救急処置などの科目について施行し、受験者は一か年以上看護の学術を修業した者であった。看護婦の職務については、主治医師の指示した以外に被看護者に対して治療機械を使用したり薬品を授与したりしてはならないとした。この看護婦規則制定に伴い、八月二八日には「私立看護婦学校養成所指定標準ノ件」が公布された。これにより、看護婦学校養成所は実習に必要な病院及び相当の校舎・器具・器械の設備があること、寄宿舎の設けがあること、必須科目を教授できること、入学資格は高等小学校卒業もしくは高等女学校二年以上であることなどが要求された。
 愛媛県は、九月二一日に「看護婦規則施行細則」を布達し、各府県で下付した看護婦免許状はその府県内に限定せず全国を通じて有効であることなどを示した。また翌五年三月一七日に「看護婦試験規定」を公布して、看護婦試験委員は委員長(警察部長)・主事(県衛生課長)・委員(医師)三名から構成されるなどを明らかにした(資社会経済下六七八)。

 日本赤十字社愛媛支部の養成事業

 大正二年日本赤十字社愛媛支部病院が開業すると、松山病院の看護婦養成業務を引き継ぎ、大正三年四月一日に愛媛支部病院救護員養成所として再発足、その第一回生として生徒五名が入学した。この間、病院開業にあたりかねて大阪支部病院に養成を委託していた救護看護婦生徒一二名が卒業したので、直ちに看護婦として任用した。
 大正五年四月、日本赤十字社愛媛支部病院看護婦養成所と改称、当時の入学資格は高等小学校卒業者で、毎年五~一〇名の入学を認めた。大正時代後期には職業婦人としての看護婦の地位が認められるようになり、大正一一年には定員一〇名のところ二三名の受験者があった。この年産婆養成所も付設され四月一日から授業を開始したが、救護看護婦生徒のうち第二学年生を入所させ、両課程を兼修させることにした。
 昭和時代に入ると、経済界の不況が反映して看護婦志望者が増加、昭和二年二月の採用試験には応募者五七名の多数に上った。二月二五日付「海南新聞」は、受験生の中に高等女学校の卒業生が一〇名もあり、代用教員の勤務中の者も居たと報じている。同四年の受験生は六四名でそのうち公立高等女学校の卒業生一三名、私立高女卒業の者が一二名もおり、一五名が入学を許された。同五年八二名、同七年一一四名、同八年八七名とその後も志願者が増加した。日赤では昭和九年四月から入学資格を高等女学校卒業程度以上に改め、修業年限三年として看護婦資質の向上と改善を図った。
 昭和一〇年代になると軍事方面での日赤救護看護婦の需要が多くなったので、同一四、一五年には二二名、二四名の入学を許して一学年二〇名以上の看護婦育成をはかり、昭和一五年一月から一般の地方看護婦を選抜して三か月間赤十字救護看護婦に必要な補修教育を施し、これを臨時救護看護婦として採用した
。さらに昭和一六年から従来の甲種看護婦に加えて高等小学校卒業程度で修業年限二年の乙種救護看護婦養成を合わせて行うことにして、この年甲種生徒三二名・乙種生徒一八名が入学した。この激増する軍患者対策としての看護婦急造のための甲種乙種併用制は〇年まで続いた。大正四年三月第一回卒業生昭和二四年までの日本赤十字社愛媛支部病院看護婦養成所年次別卒業生数を挙げると、表3―14のようである。

 医師会による看護婦養成

 松山市内の医師有志により明治三四年三月に創設した松山産婆看護婦養成所は、同四三年三月に松山市医師会に譲渡された。以来、松山市医師会附属産婆看護婦養成所として継続運営されたが、産婆・看護婦ともに養成生徒数を増していくうちに大正五年以後一〇〇名を超えて収容しきれなくなった。松山医師会は、思い切って拡張の計画を立て新たに三番町に地所を求めて新築工事を起こした。翌一四年六月に(うち産婆・看護婦兼修者九七六名)に達したが、この養成所を卒業した者は延長して教科・実習の充実を図り、卒業生に対して無試験で看護婦免許状を下付されるように申請書を県を通じて内務省に提出、昭和五年三月に認可された。これに自信を得た市医師会は翌六年五月に産婆科の無試験指定を内務省に申請、九月に認められた。
 この時に制定された「産婆看護婦養成所規則」によると、養成所の目的を「純良篤実ナル産婆及看護婦ノ養成」をはかるため、「之ニ適当ナル学科及技術ヲ教授ス」(第一条)としている。修業年限は二か年で、第一学年で主として学説を教授し、第二学年で専ら実地練習と共に学説の補習を原則とした。授業時間は毎日午後一時から四時に至る三時間であるが、実地練習は時間外にわたるものとした。生徒の定員は一五〇名とし、毎年八〇名を募集、入学志願者の資格は年齢一五歳以上の身体強健で品行方正な女子であり、高等小学校の卒業生か高等女学校第二学年以上の課程を終了した者で、入学試験科目は国語(読方・書方・綴)・算術(四則)・口答試問の三科であった。
 昭和六年一〇月産婆看護婦養成所は、内務省の指令に従って松山看護婦養成所と松山産婆養成所の二つに分離することになり、一一月七日名称変更届を県当局に提出した。さらにこれを学校組織にしようと研究を進め、昭和一二年三月二一日に松山医師会附属産婆学校と同看護婦学校の設立願を県に提出した。養成所を学校に変更する願は四月一三日運動場設置を条件に認可された。その後、産婆学校は昭和一八年に助産婦学校に名称変更され、戦時下の助産婦・看護婦の急造がはかられた。戦後、松山市医師会附属の助産婦・看護婦両学校は昭和二六年三月で廃校、翌二七年四月から松山准看護婦学校が開校した。創設から廃校に至るまでの松山産婆看護婦養成所の年度別生徒数を挙げると表3―15のようになる。
 産婆看護婦養成所は、松山医師会のほか、北宇和郡・西宇和郡・南宇和郡・東宇和郡の宇和四郡医師会でもこの地域の看護婦不足にかんがみ明治四〇年代に開設したが、小規模養成にとどまった。また昭和一四年には傷痍軍人愛媛療養所設立に伴い附属看護婦養成所が設立された。
 日赤愛媛支部病院・松山医師会附属の産婆看護婦養成所卒業生など県内産婆・看護婦数を年次別に表示すると表3―16のようになり、看護婦資格者は昭和六年にようやく一、〇〇〇人を超えた。

表3-14 日赤愛媛支部病院看護婦養成所年次別卒業者数

表3-14 日赤愛媛支部病院看護婦養成所年次別卒業者数


表3-15 松山産婆看護婦養成所年次別卒業生数

表3-15 松山産婆看護婦養成所年次別卒業生数


表3-16 愛媛県下の看護婦・産婆数

表3-16 愛媛県下の看護婦・産婆数