データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 非常時下の衛生行政機構

 衛生課の内政部移管

 従来衛生行政は、中央は内務省衛生局、地方では警察部衛生課が所管してきた。昭和期の戦時体制下で、国民体力の管理・保健衛生・国民医療などにおける積極指導面が強化されてくると、内務省の一部局や本来治安取締を職務とする警察部では、大幅に膨れあがった衛生事務を処理しきれなかった。政府は昭和一三年一月厚生省を新設し、大臣官房・体力・衛生・予防・社会・労働の五局及び外局として保険院という陣容をもって、時代の要請に応じた保健衛生事務を担当させることにした。
 府県の衛生行政機構は旧態依然とした状況がしばらく続き、昭和一七年八月の「府県庁関係行政簡素化実施要綱」による地方庁機構の整理に際し、衛生課は内政部に移管されることになった。本県は、この新行政機構を同年一〇月三一日に発表し、各課の職務を具体的に記した「愛媛県処務細則」を定めた。そのうち衛生課の職務は国民体力法の施行、妊産婦手帳並に乳幼児検診、栄養改善の指導、衛生思想の普及、健康の保持増進、急性伝染病の予防、結核花柳病及び癩の予防、トラホーム寄生虫病及び地方病の予防、精神病予防、保健所健康相談所並びに治療所の管理、国民医療法の施行、医師・保健婦・看護婦・薬剤師など医療関係者の監督、日本医療団・医師会など衛生団体・病院の監督、衛生試験、鉱泉、上下水道並びに汚物掃除その他清潔法、伝染病院隔離病舎の管理並びに消毒、墓地火葬場死体解剖の取り締まり、屠畜場並びに乳肉の取り締まり、薬品並びに売薬類の取り締まり、公園・温泉・浴場などの衛生、市場・劇場など多人数集合場所の衛生、衛生統計などであった。こうして衛生課の内政部移管によって、衛生行政は半世紀近くにわたる警察行政からの従属を脱し、非常時下の健民健兵策に対処することになった。

 保健所の拡充

 衛生課の内政部移管と並行して、最前線の保健衛生指導機関である保健所の整備強化が進められた。つまり、昭和一七年六月に厚生省の基本政策として「国民保健指導方策要綱」が定められ、その中に保健所の拡充と保健所を中心とする保健指導の徹底が期された。その具体策として、昭和一九年に健康相談所など各種の保健指導施設を保健所に統合するか新たに保健所に改組するかして、健民健兵政策の浸透を図ることになった。
 当時、愛媛県には松山・今治・新居浜・八幡浜・宇和島の五健康相談所と宇和島・三島・大洲・卯之町・久万に同一九年一月新設された今治を加えて六か所の保健所とがあった。これより先、県は同一八年八月六日に健康相談所設置規定を改正して、健康相談所は結核予防の外に地域住民の健康相談に応ずることにした。この結果その業務内容は保健所とほとんど差異がなくなって保健所への一本化を容易にした。昭和一九年九月二九日、宇和島・今治の健康相談所は同地の保健所に統合し他の健康相談所は保健所に改組、新たに五か所の保健所を設けた。県内には宇和島・三島・大洲・卯之町・久万・今治・松山・新居浜・八幡浜・壬生川・野村・郡中・岩松・御荘・宮窪の一五保健所が存在することになり、改組・新設された大半の保健所は同年一〇月一日に開所し、壬生川と野村保健所は少し遅れて同二〇年三月一日に業務を開始した。しかし宮窪保健所は開所されないままに同二〇年三月廃止され、代りに西条保健所が新設された。
 各県における保健所への統合と新設により、昭和一九年末には全国七七〇か所の保健所網が完成したので、厚生省は昭和一九年一〇月二〇日地方長官に通牒を発して保健所業務を指示した。これにより、保健所は体力管理・母子衛生・優生・栄養改善・結核予防・勤労衛生などについて保健指導を行う所となり、以上の保健衛生に関する各種の届け出はすべて保健所を経由して県庁に届け出ることが規制された。ここに保健所は保健指導の中核であるとともに衛生面での下部行政庁としての機能を持つ機関となった。
 保健所が下部衛生行政機関としての性格を強めたことで、愛媛県の非常時下の衛生行政体制は県内政部衛生課―保健所―市町村衛生課―市町村衛生組合に系列化されたが、戦局悪化に伴う混乱と戦災で十分な効力を発揮しないままに終戦を迎えた。