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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 国民医療法の公布

 国民医療法と県医師会の改組

 昭和一七年二月二四日「国民医療法」が公布され、これに付随して同年一〇月二八日「国民医療法施行令」、同年一〇月三〇日「国民医療法施行規則」が制定された。これらの法律は、免許資格については学校卒業者も医師試験合格者もともに一年以上診療の修練を経ることを要件とする、医師の応召の義務、処方箋交付義務、診断書などの交付義務を規制する、主務大臣は三年以内の期間で指定業務に従事することを指令し、医療の報酬に関し必要な指示・命令を与えることができる、病院診療所の開設を従来の届け出制から地方長官の許可制に改める、国民体力向上の国策に即応し医療の普及を図るため日本医療団を設置するなどを規定した。また医師会についても国民体力の向上に関する国策に協力することをうたい、その種類を日本医師会と道府県医師会とに分け、ともに強制設置・医師の強制加入制をとることにした。
 この国民医療法の医師会規定に基づき、同年八月二一日「医師会及歯科医師会令」が公布されて、五二条にわたり法的規制がなされた。医師と医師会はすべての面で厚生大臣・地方長官・官庁の監督と支配の下に置かれることになったのである。
 医師会令で従来の県医師会と郡市医師会は解散を強制された。新しい愛媛県医師会の設立委員には安井雅一・酒井和太郎・岩崎虎雄ら一〇名の医師が知事から任命され、会則案を作成した。一二月二八日新しい県医師会の設立総会が開かれ、設立委員をはじめ各郡市の議員らが参集した。総会では、安井委員による設立経過報告、福本知事の告辞などがあった後、「愛媛県医師会会則」案を審議して満場一致でこれを承認、設立申請を知事に求め、知事はその場でこれを認可した。会則は八八条からなり、「本会ハ愛媛県医師会卜称ス」「本会ハ医療及保健指導ノ改良発達ヲ図リ、国民体カノ向上ニ関スル国策ニ協カスルヲ以テ目的トス」などと明記している。また旧郡市医師会は県医師会支部となり、支部長は県医師会長が知事の認可を受けて委嘱するとされた(資社会経済下八一一)。官製愛媛県医師会の第一回総会は昭和一八年二月一九日県
医師会館で開かれ、厚生大臣から官選任命された県医師会長安井雅一が挨拶、県知事福本柳一が非常時下の健民健兵政策に対する医師会の全面協力を求める告辞を行った。

 医師の減少

 表4―8は本県における医師数・無医村数の推移を示したものである。愛媛県では、昭和一八年の医師数は昭和一三年より一四二名、約二〇%の減少となった。陸海軍への出兵や軍医予備軍としての召集、軍需工場・医療団などへの強制徴用などが医師減の主な原因であった。町立吉田病院では、昭和一八年時「戦況悪化に伴い耳鼻科・婦人科・小児科と先生方が次々出征され、医師は賀川先生と眼科女医の越智先生と二人だけになったこともありました」と当時の看護婦が回顧しているが、他の公私立病院でも医療品の欠乏とともに医師不足に苦しんだ。また無医村が増加、昭和一八年には県内町村数二四五のうち九六か村が無医村であった。無医村対策として設置された診療所も国民健康保検診療所を含めて医師の確保に苦慮、近傍の町村に開業する医師の出張診療に依存した。この現状打開策として、昭和一八年一一月の通常県会で「(男性医師激減)ノ補充ハ女子動員ヲ為シテ皇国医道ヲ習得セシメテ其ノ活動促進ヲ図ルヲ最モ適切ナル砲方途ナリト思料ス」といった官立女子医学校設立の意見書を文部大臣あてに送ったが、当局の採用するところとはならなかった。

表4-8 医師数および無医村数

表4-8 医師数および無医村数