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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

三 学校保健

 学校保健関係法規と保健計画実施要項

 戦後の学校衛生は、昭和二二年三月三一日の「学校教育法」で生徒・職員などの健康増進を図るため身体検査を行い、適当な衛生養護施設を学校に備えること、学校に養護教諭を置くべきこと、伝染病にかかった児童生徒に出席停止を命じ得ることなどの基本的な規定が設けられたことに始まる。この法を基にして、同二三年四月二日に「学校清潔方法」、同二四年五月三一日に「学校身体検査規程」が制定公布され、「教育職員免許法」で養護教諭の新しい資格が明記された。また同二五年五月一〇日には「教育委員会法」が一部改正されて、学校保健に関し教育委員会と保健所の協力に関する基準が設けられた。
 文部省は、学校保健は学校医・養護教諭だけでなく、学校長以下全教師が共通の責任で遂行しなければならないとして、昭和二四年一一月「中等学校保健計画実施要領」、同二六年八月「小学校保健計画実施
要領」を発行した。この要領には、健康の定義と健康の必要性、学校環境の衛生管理、健康に適した学校生活、学校保健事業、健康教育などが詳述されており、各学校には保健主事を置きこの主事を中心に学校保健委員会を組織すること、児童生徒に衛生思想を注入するため小学校では適宜健康教育の時間を設け、中学高校では三年間に七〇時間の保健教育を履修させることなどが指示された。これに従い、愛媛県内の学校には保健主事が任命され、多くの学校で学校保健委員会が組織されて、昭和二五年時で小学校一八四・中学校一一八・高等学校四一におよんだ。

 学校給食の実施

 学校給食は、終戦後当時の著しい食糧不足に起因する学童の体位と健康の低下の防止を図るため、昭和二一年一二月文部・農林・厚生三事務次官の連名通達に基づいて復活した。愛媛県でも、昭和二二年一月下旬から六市の小学校児童約四万人を対象に元軍用罐詰による給食を開始した。その後、漸次町村の小学校にも普及し、昭和二五年二月末には小学校二四五校・中学校三四校・幼稚園二校の計二八一校、一六万五三八人の児童生徒が給食を受けた。この時期はアメリカよりの無償による給食時代で、そのほとんどがミルク給食を中心としたものであり、食糧難による栄養補給という臨時措置の雰囲気があって、給食施設も恒久的なものは皆無に等しい状態であった。
 このような無償給食は、講和条約の調印に伴い昭和二六年六月末での占領地域救済資金(ガリオア資金)の打ち切りで継続因難となった。政府は給食物資を購入して学校給食を続けようとしたが、父兄に給食費負担を強いたため制度上の不安定などの事情と重なって給食を中止する学校が増加、本県でも昭和二六年度は三万九、九二八人に激減、同二八年一月には戦後最少の三万一、七六二人に急落、道後小学校外三二校が継続実施するに過ぎなくなった。
 文部省では、教育の一環としての学校給食の推進を図るための小麦粉の半額国庫負担やミルクの安価購入をするなど給食費負担の軽減に努力した。また学校給食の法制化を求める全国的運動も次第に高まり、本県でも愛媛県学校給食推進協議会を結成して中央政府機関や政党・代議士に働きかけた。
 こうした世論を背景に昭和二九年六月三日「学校給食法」が制定され、ようやく法制化が実現して給食が促進されることになった。愛媛県では、昭和三〇年一月には三万五、九八九人、同一二月には四万四、六〇三人と漸次受給児童が増加していったが、この段階では二〇%増の普及率で全国平均の五八%には比較にならない最低クラスにとどまっていた。県教育委員会や愛媛県学校給食会は県内各地で学校給食普及大会や講演会を精力的に実施、啓蒙普及に努めたので、昭和三五年に小学校は五三%の普及率に達した。しかし中学校は二〇%の普及に過ぎず、夜間定時制高校の給食実施校はわずか六校であった。昭和三六年度からは県単独事業として三三〇万円の予算を計上して全県全校給食早期実現の方向を打ち出し、またこの年から定時制高校生に対するミルク無償給与を行っ栄養のバランスのとれた食事を提供するために食事内容の多様化学校給食の充実向上を期している。

 学校保健法と学校安全会法

 学校保健が重視されるにつれて従来からの関係法規を整理集約する必要が要望されたので、文部省は昭和三三年四月一〇日に「学校保健法」を制定し、大正一三年の学校伝染病予防規程、昭和七年の学校医職務規程・学校歯科医職務規程、同二三年の学校清潔方法、同二四年の学校身体検査規程を廃止して、これらの内容を一元化した。その主な事項は、学校保健の目的、学校保健計画の樹立と実施、学校環境の衛生的整備、就学時の健康診断の実施と事後措置、児童生徒の健康診断の実施と事後措置、教職員の健康診断の実施と事後措置、健康相談の実施、学校伝染病の予防、学校医・学校歯科医・学校薬剤師の設置と職務執行の基準、要保護準要保護者に対する国と地方公共団体の医療補助、学校保健室の整備とその基準、学校保健主事の設置などからなっている。これにより、学校保健の振興が法的に確立され、保健管理と健康教育の充実が図られることになった。愛媛県では、従来から小・中・高校別の保健研究協議会・発表会や学校保健講習会を実施していたが、昭和三八年一二月一二、一三日「広く一般の理解と協力を得るために」の標題のもとに、PTA・教員・学校医・学校歯科医・学校薬剤師等関係者延べ人員約一、五〇〇名が参加して第一回愛媛県学校保健大会を松山東高校で開いて、予期以上の成果をあげた。翌三九年愛媛県学校保健会(会長笠置正義)が設立され、その発会記念も兼ねて第二回愛媛県た。さらに昭和三九年度にはへき地ミルク給食の施設改造費一七〇万円を計上して、へき地学校の給食普及を重点的に推進した。また国においても学校給食の改善充実について保健体育審議会に諮問し、昭和四五年までに全国の小中学校に完全給食を達成する目標の下、給食・施設・栄養職員設置に対する国庫補助の方策を講じた。この結果、昭和三九年時小学校七六%、中学校五二%と順調な伸長を示した本県の給食普及率は、昭和四三年一〇月に至り小中学校ともに念願の一〇〇%を達成、完全給食実施校も小学校九四%、中学校六七%となった。昭和四六年度には県学校給食会を拡充整備し、学校給食用物資の総合的一元的需給体制を確立するため学校給食総合センターを建設した。各学校でも共同調理場の設置などにより近代化を推進、合理的能率的運営に改善が加えられ、給食指導の充実、食事内容の向上、栄養衛生管理の徹底などが図られた。
 昭和五一年度からは米飯給食が導入され、愛媛県では同五四年度から特産のみかん果汁を加えた。昭和五七年度の完全給食実施校は小学校九四%・中学校八四%で、児童生徒に学校保健大会を一〇月一八日県歯科医師会館で開いた。県学校保健会は日本学校保健会に加盟、昭和四二年一一月二五~二七日第一七回全国学校保健研究大会を松山市で開催した。
 学校保健法に続いて昭和三四年一二月一七日には「学校安全会法」が制定され、幼稚園小中高等学校における児童生徒の学校管理下での災害共済給付が実施されることになり、学校保健活動に学校安全の事項が加わった。また道路上の交通事故者の三分の一が義務教育以下の学童や幼児である実情から、昭和三六年に「交通事故防止について」の文部事務次官通達が出され、同四二年三月には「交通安全指導の手びき」により小・中学校における交通安全指導の目標や指導上の留意事項などが具体的に示された。愛媛県では、学校保健の重点目標の中に学校安全教育の充実及び交通安全の徹底の事項を昭和四三年度から加え、同四五年度から「学校保健」の題目に「学校安全」を並列させて交通安全教育を重視した。