データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 戦後の伝染病流行と予防

 終戦直後の各種伝染病の流行

 昭和二〇~二二年の終戦処理期における国土の荒廃と不衛生な環境に加えての復員・引揚げなどが伝染病に格好の温床となった。愛媛県でも赤痢・腸チフス・発疹チフス・ジフチリア・狸紅熱・痘瘡が軒並み流行し、久しく襲来しなかったコレラが侵入した。
 コレラは昭和二一年五月一七日バンコックからの引揚船で発生、引き揚げ者が全国に菌をばら散き患者一、二四五人うち死亡五六〇人を出した。本県には西宇和郡三瓶町に、患者が出、七月二三日時で一七名うち四名死亡という事態であった。初発患者と思われる三瓶町朝立の婦人は七月九日に発病し、付近の医師に食中毒と診断されて二四日死亡。家族の二男二女も発病したが二、三日で全治した。その後一〇日を隔てこの一家とともに水浴をした朝立川の川上の老人一家が発病、真性コレラと診断された。老人一家は川上にあって洗濯などをしたので朝立川一帯が汚染され、三瓶に爆発的に患者が発生した。同町は交通を遮断して検疫を続行、発生地の溝にDDTを撤布、石灰を拠入して消毒を施こし、町民八、〇〇〇人にワクチン接種を行った。
 七月二二日には三津浜にコレラ患者が入港して松山市民を恐れさせた。患者は二一日午後三時に福岡県若松港を出た機帆船共進丸の船長で、途中宇部に立ち寄って三津浜に二二日夜一〇時に入港した。船長は宇部沖から激しい下痢と嘔吐に悩まされていたので、入港と同時に医師の診断を求めたところ、コレラの疑いが濃く検便の結果疑似コレラと決定、直ちに温泉郡余土村隔離所に収容二四日真性コレラと決定、船員らも健康隔離され検便を行った。同船は航行中に患者の糞便・汚物などを海中に投じたので、三津浜外一帯の海面にコレラ菌が相当撤布しているものと見られ、高浜・三津・中島付近の禁漁、海水使用禁止などの警告が出た。梅津寺海水浴場も七月二四日から水浴禁止となり、八月七日解禁されるまでの二週間は夏の最盛時に人影もなく、業者を落胆させた。こうして七月下旬から八月にかけて、西宇和郡三瓶町付近、松山市三津・高浜、温泉郡西中島村などに続発し、県下の累計は真性一七人、疑似二六人、うち一六人が死亡し、八月一七日ごろになってやっと下火になった。
 赤痢は昭和二〇年に大流行した。この年県内患者数三、五七五人うち死者五九七人に達し昭和元年以来の最高を記録した。越智郡盛口村の盛では死者四〇人を出し、患者は海岸に建てられたバラックに収容され、県医師会松山支部看護婦学校の生徒が動員されて手当てに従事した。八月二九日付の「愛媛新聞」には、「宇和島市では二五日午後一時から上田市長、佐伯市立病院長、宮田市医師会長らが出席して伝染病対策協議会を開いて、目下猖獗を極めつつある赤痢禍防止について協議した」とあり、「この夏に入って市内だけでも五八名の患者を出しており、死亡率は二割の高さ、益々蔓延のきざしがある」と記している。また「西条市では赤痢は全市に及び、二五日現在で死亡一一名、全治二四名、隔離収容四八名、計八三名で蔓延防止につとめている」とある。終戦時の混乱に合わせて県下は赤痢禍の中にあったのである。翌同二一年七月には内子・五十崎に赤痢が集団発生した。この年の患者数は一、八五四人うち死者三一四人であった。
 腸チフスは昭和二〇年患者数三二〇人・死者三六人、同二一年患者数五〇六人・死者七五人、パラチフスは昭和二〇年と二一年の患者数が一〇五人と四八人であった。ジフテリアは昭和二四年の県下患者数一、三二八人うち死者九一人を出した。一一月一五日付の「愛媛新聞」は、「今年はジフテリアが青年老人などにも目立って多くなり、今後も同患者続出の懸念濃厚なものがあるので、衛生課では患者の早期発見および応急手当てを行うとともに他の健康者はなるべく患者に接近せぬこと、冬季は風邪ひきと間違へ手当てを遅らせぬこと、予防注射をすることなどにより、このジフテリアの予防撲滅を極力望んでいる。なお予防注射薬はいまのところ心配はないが、患者に最も必要な血清は届出のあった患者数に応じ各県に配給されるもので、本県の場合など未届患者が多いため必要量の三分の二は不足しており、各医師は必ず県に報告せねばならぬ」と報じている。ジフテリアは同二一年も継続して流行、患者一、二〇四人うち死者八三人を数えた。
 痘瘡は昭和二一年に大流行した。二月三日付の「愛媛新聞」は、松山市竹原町の四歳になる男児を初発患者として真性痘瘡が発生した旨を報じた。伝染経路は患者の父親が一月二〇日山口県小郡に出張して罹患、水庖疹と診断され男児も当初水庖疹と認められたが、二月二日に笠置医師と県病院前田医師により痘瘡と診断された。二月七日、二番目の患者が八幡浜に発生した。患者は三七歳の男子で、闇買出しのため松山~卯之町間を往来しているうちに列車内で感染したものと推定された。さらに二月一〇日には伊予郡中山町で四四歳の女性が横浜から帰って間もなく発病、同町内で感染者が続出した。相次ぐ発生に驚いた県は痘苗入手に躍起となり、痘苗不足のところを関係者の努力で四〇万人分を確保することができた。
 県下の痘瘡はその後も散発的に発生、二月二〇日までの合計は中山町八名、松山市四人、八幡浜市三人、内海村二人、弓削村二人、御荘、砥部、森松、余土、松前、郡中、宮窪の各地に各々一人の合計二六人に達し、そのうち死亡者は六人であった。三月二日付の「愛媛新聞」は、〝天然痘患者、温泉に入る″の見出しで、「真性天然痘患者が道後温泉入浴の大騒ぎ、二十八日午前十時頃松山市○○農業○○○○(55歳)は、発疹している身体で道後温泉神之湯に入湯、驚いた浴客が騒いで市内道後前田医院で診察を求めたところ正しく真性天然痘と判明直ちに松山市・県衛生課から係員が急行して〝痘瘡温泉〟を閉鎖、道後並びに附近は大騒ぎを演じた。温泉は一日午後一時から入浴禁止を解禁した」とあり、人々の狼狽振りが眼に見えるようである。連日のように新聞紙上を賑わしていた痘瘡は四月二〇日に至って頂点に達し、その累計は一〇
一人にのぼった。その後も続発して五月上旬までに患者は一四一人に増え、ついにこの年の患者一六二人うち死亡三六人を数えて、明治四一年以来の大流行となった。
 痘瘡は翌二二年には患者一三人・死者二人に減ったが、ジフテリア・赤痢・腸チフスなどが引き続き流行したことは表5―5に示すとおりである。

 予防接種法

 厚生省は昭和二一年七月九日日本脳炎を指定伝染病に格付けしたのに続いて、同二二年三月五日「伝染病届出規則」を制定して法定伝染病以外の伝染性疾患のうち結核・百日咳・肺炎・マラリアなど一三種について医師の届け出義務を規定した。同年九月五日には「伝染病予防法」を一部改正して都道府県に対する防疫の国庫負担率を三分の二に引き上げた。伝染病予防法は昭和二四年五月一九日、同二五年五月三○日にも一部改正されて衛生組合の規定が削除され、都道府県に防疫監吏及び技師の制度を設けるとともに、都道府県・市に対して平常時の鼠・蚊・蝿など駆除の義務を課した。
こうした予防法制の中で、戦後の予防医学・治療医学の進歩による成果として特筆すべきものは、昭和二三年六月三〇日の「予防接種法」の制定である。この法は、従来の種痘の外に腸チフス・パラチフス・ジフテリア・百日咳・結核の定期予防接種ならびに発疹チフス・コレラ・ペスト・日本脳炎・インフルエンザ・ワイル氏病についての臨時予防接種を国民に義務づけ、接種施行者を市町村長としたものであった。県当局は、この法に基づき同二四年七月一日「予防接種法施行細則」・「予防接種法施行細則取扱手続」を定め、詳細な実施要項を示した。また同日「予防接種費補助規則」を発布して、予防接種費用のうち三分の二の県
費補助を行うことにした。
 予防注射の効用で県内の伝染病は年と共に急速な減少の傾向を示した。コレラ・発疹チフスは昭和二二年から痘瘡は同三〇年から、パラチフスは同三六年から消滅、腸チフスは同三六年から、ジフテリアは同三八年から患者発生の著しい減少を見せた。しかし予防ワクチンが未開発の赤痢だけはむしろ増加の傾向を示し、クロロマイセチン・ストレプトマイシンなどの抗生物質をもってしても病原菌は次第に耐性を帯びてきて効果がなくなり、赤痢は流行を繰り返した。

 県立ろう学校の集団赤痢(昭和二七年)

 昭和二六年は同二二年以来の赤痢大流行で、患者六五人にのぼりうち二四人が死亡した。温泉郡神和村の六八人が最高で、原因はほとんどが流水の汚染・共同井戸・蠅などの媒介で、環境衛生の不良が指摘された。
 昭和二七年は梅雨期に入って新居浜市と南宇和郡内海村に発生し、ついで松山市本町の県立ろう学校の寄宿舎で集団発生した。
 ろう学校の患者数は六月二二日時で五七人に達し、このうち二五人は市立伝染病院に収容、軽症の下痢患者三二人は校内の寄宿舎に隔離された。細菌検査で菌種は二木菌による弱性のものと確認され、その後の発生はなかったが、一時は県衛生部も事態を重視して赤痢予防対策本部を結成したほどであった。この年県下の赤痢患者は一一二人、うち死亡二〇人であった。地域別には北宇和郡吉田町九三人、同郡立間村四〇人、上浮穴郡仕川村六九人、新居郡加茂村二一人、南宇和郡内海村一七人などで、新居浜住友化学会社で二四人が罹患した。なおこの年の赤痢患者は全国で一一万余に達し、戦後の最高を記録した。

 東レ・倉レの集団赤痢(昭和二九年)

 昭和二九年にも赤痢が大流行した。八幡浜市では三月までにすでに三八人を出し、喜多郡大洲でも七月に入って五人の患者が出たので、大洲保健所は集団検診を施行してさらに一五人の保菌者を発見、全員隔離病舎に収容して井戸・便所などの消毒を行った。
 七月二日には伊予郡松前町の東洋レーヨン愛媛工場に集団発生した。発生状況は、松前町筒井・岡田村高柳の両社宅及び同工場内寄宿舎を含めて二日に二六人、三日六人、四日二人、五日一九人、六日一九人で、七日時で七二人に達した。付属病院の隔離病舎だけでは収容しきれず、一般病棟・寮から筒井の保育所まで臨時病室にあてられた。
 県予防課と郡中保健所では、係員が現地に赴いて防疫指導に当たった。松前・岡田の両社宅七〇〇戸と寄宿舎の消毒検査を行い、岡田村の水源地の水質検査をし、寄宿舎に簡易消毒所を設け、生水を飲まぬよう注意を喚起するなど、防疫に追われた。七月二二日の終息までに患者数一四五人・保菌者三二〇人であったが、死亡者は一人も出なかったことは幸いであった。原因は専用水道の汚染による発生と判明した。
 八月九日時の県衛生部の集計によると県下赤痢患者八七八人うち死亡七六〇人で、秋口になってさらに発生することが警戒されたが、九月二六日から一〇月七日にかけて倉敷レーヨン西条工場に集団赤痢が発生した。これは給食の汚染によるもので、患者数二〇六人・保菌者一二六人であったが、死亡者はなかった。この年の県内患者は赤痢一、五二二人、疫痢二五三人、計一、七七五人、うち死亡者一二九人であった。

 砥部町・伊予市の集団赤痢(昭和三六年)

 昭和三〇年代に入りしばらく患者数一、〇〇〇台を割っていた赤痢は、昭和三四年以後毎年大流行して猛威を振った。
 昭和三四年には県下赤痢一、二一六人・疫痢七一人という多くの患者が発生した。四月一一日時、東宇和郡野村町に赤痢患者五〇人、上浮穴郡川瀬村直瀬小学校に九人出ていたが、五月に入って温泉郡小野村の小・中学校に保菌者八七人が発見されて大騒ぎとなった。村は防疫対策本部を設けて、病室に早替りした小学校三教室・中学校四教室にこれを収容隔離し、消毒その他に万全を期した。県衛生部では六、七〇〇人の村民全員の検便、健康診断、昆虫駆除などに着手したが、五月二七日までに二三五人の保菌者が新たに発見された。また北宇和郡宇和海村の日振島でも患者一一〇人、大洲市八多喜の粟津保育所でも園児九人が真性赤痢で隔離された。
 昭和三五年には赤痢一、一九四人、疫痢五五人の患者数であった。この年一二月下旬には環境衛生モデル地区に指定されていた喜多郡五十崎町に八三人の患者と保菌者を出して関係者に衝撃を与えた。
 昭和三六年秋の砥部町・伊予市の集団赤痢は驚異的な流行となった。一〇月二四日伊予郡砥部町原町地区に集団発生、簡易水道の汚染が原因で、患者数一四三人、保菌者七五人にのぼった。一〇月三〇日、伊予市郡中地区の小・中学校や保育園の末就学児などの間に一三人の赤痢患者が発生、その後続々と発病者が出、患者数二一五人に達した。また伊予市へ遠足に行った松山市拓南中学校一年生で同市上水道の生水を飲んだ生徒二九九人を細菌検査したところ七二人の保菌者が発見され、塩素減菌を実施していなかった水道の水源汚染が原因であることが判明した。患者は伊予市松前町共立衛生組合隔離病舎をはじめ東洋レーヨン愛媛工場の伝染病舎・松山市伝染病院・伊予市彩浜館に分けて隔離された。
 県衛生部は赤痢予防対策本部を設置して厚生省から担当医官五名の特別指導班を迎え防疫に全力をあげた。県内の検査能力を越えた七、一六一検体については大阪・兵庫・広島・香川の四府県に空輸して赤痢菌検索を依頼、陸上自衛隊、県医師会、近隣総合病院の医師看護婦の応援を得ての防疫活動が一か月続いた。一一月二八日の患者届け出一人を最後に猖獗を極めた赤痢の大集団発生も防疫陣必死の努力で比較的短期間に終息した。患者数三、七〇二人、死者三人で、戦後全国の最高を記録した。伊予市の赤痢集団発生は県内は勿論のこと全国に注目され、上水道の衛生管理面に大きな警鐘となった。
 昭和三七年は四月一二日に喜多郡長浜町出海地区に集団発生があり、患者数八八人・保菌者数二六八人に及んで同年三〇日終息した。原因はこれも簡易水道の汚染によるものであった。この年の県内患者数は一、二二三人・死者六人であった。ついで同三八年七月一八日伊予郡砥部町麻生小学校に集団発生し患者数一四二人・保菌者一一九人を出した。これは給食の汚染によるものと推定された。この年の県内患者数一、二七二人・死者一〇人であった。昭和四〇年には松山市立清水小学校で集団赤痢が発生患者二〇〇人を越して臨時休校した。川内中学校でも五〇人近くの患者を出し、この年の患者数一、〇二三人を数えたが、死者は二人にとどまった。昭和五四年七月には道後小学校で腸チフス保菌者が発見され赤痢も流行したので、市内の全小中学校で給食を中止した。

 日本脳炎と狸紅熱

 赤痢とともに戦後流行を繰り返しているものに日本脳炎と狸紅熱があり、両者はその実態に不明の点が多い。
 日本脳炎のビールスはコガタアカイエ蚊の媒介によるもので夏季に流行し、患者発生数は多くないが、抵抗力の弱い老人・小児が罹病して死亡率が高い。死亡に至らなくても後遺症を残すことが多く、適切な治療法はまだ発見されていない。愛媛県では表5―5に示すように、昭和二七年と同三三年に患者が多発した。
 昭和二七年の日本脳炎は南予中心に発生しており、患者数西宇和郡一九人・八幡浜市一〇人・北宇和郡八人などであった。松山市には三〇人の患者が出、うち一四人が死去した。昭和三一年の全国的な流行で予防接種の積極的奨励が始まり、国民も自主的に注射を受けるようになった。しかし同三三年には一一一人という県下最高の患者数を出し、同三八年七〇人、同三九年七九人と多発、同四〇年に減少したが同四一年にはまた六七人に増加するという状態であった。脅威を感じた県民は翌四二年の夏五八万人が予防接種を受けたので、この年の患者数は六人にとどまり、以後、予防接種の普及で罹患者は減少した。また昭和四〇年には県衛生部内に医師会の協力を得て日本脳炎研究班が発足、県下のコガタアカイエ蚊消長調べが実施されるなど蚊の撲滅運動が進んだ結果、昭和四七年以来患者発生ゼロの年も次第に多くなった。
 狸紅熱の病原菌は溶血性連鎖球菌で小児が罹ることが多く、咽頭のリンパ腺から侵入して全身に特有の紅疹を生ずる。この伝染病は戦後漸増して、昭和三四年には二〇二人、同三八年には六三七人というおびただしい発生を見た。昭和三四年には四月末までに南予を中心に一〇三人の患者が出て前年一年間の三倍近くになったので、県予防課は県下各保健所に警告を発した。昭和三八年は二月二二日新居浜市で若宮地区を皮切りに小学校・保育園児の間に大流行が見られた。特に六、七歳児が中心で患者数五一九・保菌者数二八六という数に上り、県衛生部・新居浜市・市医師会の懸命の努力で死者はなく、五月三〇日に流行は止んだが、この年の患者発生数は猩紅熱始まって以来最高の記録であった。
 法定伝染病ではないが、戦前に引き続き毎年流行しているものにインフルエンザ(流行性感冒)がある。ビールスに種々の型があるが、予防ワクチン注射がかなり徹底しており、安静・睡眠などの予防法も明らかになっているので、死に至ることは少ない。

 鼠族昆虫駆除と環境衛生の改善

 伝染病を媒介する鼠と蚊・蠅など昆虫駆除については、終戦直後進駐した占領軍の勧奨もあって、厚生省や県衛生部・保健所が督励した。愛媛県では昭和二九年後「蚊とはえのいない生活」運動が自主的な県民運動として展開された。
 県内各町村でも蚊・蠅の駆除をはじめ防疫の観点からの生活環境の改善への取り組みが見られるようになった。例えば、越智郡盛口村盛地区は戦時中連年赤痢が流行し、昭和一五年五五人、同一七年三〇人、同一八年六五人、同一九年三〇人、同二〇年四〇人の死亡者を出した。防疫に無頓着だった住民も親兄弟が倒れてゆく有様を見てようやく予防対策に真剣になり、昭和二五年から下水溝工事と清掃を地区民の奉仕で実施、各自の家庭でも庭先舗装や便所台所の改善に努めた。また衛生協力組合を結成して定期的な会合を開き衛生知識の把握を図った。子供たちもこれに習って毎日曜日の朝には大掃除を励行するようになり、この結果昭和二六年以降は一人の伝染病患者も発生しなくなった。
 喜多郡五十崎の上村・上宿間・谷成内の三地区は、上村出身の藤本薫喜医学博士の指導で、昭和三〇年以来環境衛生改善に取り組み、環境衛生実践会とその下部組織である対策本部・実行部・協力班が結成された。まずセメントなどを各戸に配り、協力班の共同作業で一六五戸余が便所の完全密閉と改造を完了した。次に取り掛ったのが下水工事で、泥を全部取り出し底と両壁をセメント張りにした。その間、蚊の撲滅も積極的に図られ、婦人会協力班により墓地の清掃・花立の改良が行われ、青年協力班はボウフラの絶好の生育となっている竹の切株を割って回り、学校協力班は毎朝の道路清掃と蠅取り運動を受け持った。この結果、蚊や蠅は急激に減少、町内では蚊帳をつる必要がなくなった。これに力を得た町当局と環境衛生実践会は、数戸単位にごみ焼却炉の設置を奨励、また県下に二台しかない動力噴霧器を購入して定期的に各戸を消毒訪問することにして、衛生模範地区としての名を県内に高めた。この五十崎町に昭和三五年集団赤痢が発生、環境衛生の浄化だけでは伝染病を完全に予防できないことを露呈したが、昭和三七年には東宇和郡宇和町全域が厚生省の赤痢予防特別対策地区に指定されて健康診断、環境衛生対策、予防思想普及など赤痢撲滅のための各種事業を三か年間継続するなど、各地で防疫上の生活改善実践活動が続けられた。

 近代的隔離病舎の建設

 戦前の隔離病舎は村ごとに準備されていたが、その設備は粗末で破壊寸前の堀立小屋に近いものが少なくなかった。厚生省は昭和二六年から全国の老朽避病舎を整理統合して、逐次新しい伝染病院・隔離病舎を建設することにした。県当局は、初年度に宇摩郡土居町・東宇和郡宇和町明浜町組合・同郡野村町城川町組合の三か所に隔離病舎を建設することにした。ついで、同二八年三月には大洲町立隔離病舎が、同二九年には三島町・川之江町・八幡浜市で、同三一年三月には新居浜市で隔離病舎が完工した。昭和四二年三月までに完成した各地の隔離病舎の規模・建設費を表示すると表5―6のようになる。

表5-5 昭和18~57年度 法定伝染病患者数・死亡者数(その1)

表5-5 昭和18~57年度 法定伝染病患者数・死亡者数(その1)


表5-5 昭和18~57年度 法定伝染病患者数・死亡者数(その2)

表5-5 昭和18~57年度 法定伝染病患者数・死亡者数(その2)


表5-6 戦後新築の伝染病院隔離病舎一覧表(昭和四二年時)

表5-6 戦後新築の伝染病院隔離病舎一覧表(昭和四二年時)