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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 医療機関の普及と愛媛大学医学部の設置

 医療法の制定と公的医療機関

 終戦後、連合軍総司令部の指示で医療制度についても大きな改革がなされ、ほぼ今日の制度が出来上がった。法規については、戦時下の医療制度に関する総合法典であった「国民医療法」が廃止され、従来の取り締まりを中心とした行政から医療水準の向上などの趣旨のもとに昭和二三年七月三〇日「医療法」「医師法」「歯科医師法」が制定された。医療法は、医療施設についてその管理、人的構成及び構造設備などの面から規制を加えており、病院と診療所は本質的に相異するものとして区別したこと、総合病院・公的医療機関・助産所・医療監視員の制度を設けたこと、医療機関整備審議会・診療報酬審議会・公的医療機関審議会を設置したことが主な内容であった。このうち、公的医療機関とは都道府県・市町村その他厚生大臣の指定した者の開設する病院または診療所をいい、厚生省は医療機関審議会の答申を得て、昭和二五年二月と同二六年八月に「医療機関整備計画」と「基幹病院整備計画要綱」をまとめた。前者では、人口二、〇〇〇の診療圏に対して少なくとも一診療所を確保すること、一般病院については各都道府県ごとに中央病院・地方病院・地区病院の三段階の公的医療機関を設けること、診断所は地区病院の出先機関とすることなどが決められた。後者では各都道府県に一つの最高水準の能力を持つA級病院である中央病院を、枢要の地にそれぞれB級の地方病院を、各保健所の中心地にC級病院である地区病院などを整備することを決めている。
 愛媛県は昭和二三年六月一日に愛媛(松山)・今治・伊予三島・南宇和の四病院を日本医療団から引き継ぎ、昭和二六年今治病院、同二八年南宇和病院と三島病院を建設したが、愛媛病院を含めて近代的な病院としての施設面に欠けているところが多く、医療法に基づく規格整備の必要に迫られ経営難を続けた。この県立病院を補なう形で各地に創設されたのが国民健康保険組合立・市町村立の病院であった。昭和一八年に宇和島・八幡浜・吉田の三病院しかなかった市町村立病院は、昭和二七年には終戦前後に完成した大洲・久万・野村・近永の四国保病院をはじめ坂石・宇和・立間の病院に県指導農協連合会の周桑病院と生名村の結核療養所・松山市の産院・伝染病院を加えると一四に増加した。

〈県立中央病院〉
 県立四病院のうち松山の愛媛病院は昭和三四年六月に鉄筋コンクリート造りに改築、病床数三二〇・診療科目一一科の施設と陣営を整え、県立中央病院と改称した。その後同三五年五月人間ドックを開設、同三九年一月未熟児センターの新設、同四二年一〇月小児病棟の増設などの拡充を進めたが、愛媛大学医学部設置に伴い関連教育病院になったのを機に、昭和四九年一〇月市内三番町の旧病院を廃止して春日町に病床数六〇〇の近代的な病院を新築移転した。公的医療機関の中枢としての役割を果たす施設を整えた県立中央病院は、同五四年八月東洋医学研究所、同五六年四月救命救急センターを設置し診療を開始した。
 県立病院には昭和三七年四月広見町ほか三か町村医療事務組合立近永病院が県に移管して北宇和病院として加わり、同四〇年一一月同病院に農村医学センターが設置された。また結核療養施設として昭和二八年一月に設置された県立新居浜療養所は同四〇年七月に一般病床を設けて県立新居浜病院と名称変更した。
 昭和六〇年時の公的医療機関を挙げると表5―8のようである。

〈松山赤十字病院〉
 松山赤十字病院は大正二年四月の開設以来七〇余年の伝統を誇る総合病院で、〝日赤〟の名で親しまれる県内最大の公的医療機関である。昭和二〇年七月二六日夜の松山空襲で二番町の病院が焼失したので、道後国民学校さらには旅館二軒を借り受けて診療活動を続けたが、旧陸軍城北練兵場東南隅(現在地)に新病院用地を求めて昭和二二年九月木造平家建て病床数一、〇〇〇病院が竣工した。昭和二六年八月本館が落成、同二九年五月鉄筋コンクリート造二階建ての病棟、同三一年八月鉄筋コンクリート造地下一階地上三階建ての病舎が完成、病床数も大幅に増加して一般二八九床・結核一一一床、計四〇〇床となり、約一〇年間に二二年復興当初の四倍に拡大した。昭和三二年九月総合病院の指定を受けて一〇診療部門を置き病院組織を改正、同三四年一一月本格的な耐火耐震建造物五階建病棟が竣工した。昭和四〇年七月救急病院、同四三年七月臨床研修病院の指定をそれぞれ受けて病院の整備充実を促がす要因となった。建築後約二〇年を経た木造手術室・放射線室は機能的にも衛生的にも改良改築せざるを得ない状態であったので、日赤県支部の資金と厚生年金事業団の融資を受け昭和四五年一二月手術室・放射線室の改築を含む診療棟・病棟増改築工事(一号館)に着手、同四七年三月鉄筋コンクリート造五階建ての新病舎が竣工した。昭和四九年ころから患者数も増加し経営状況が好転しはじめたので、残存する木造建物・工作物を一掃して防火施設完備の病院建設に取り組むことになり、診療棟・病棟・管理棟(二号館)の建築に着手、同五二年二月鉄骨コンクリート造り、地下一階・地上八階が竣工した。この建築で病床数は許可病床一杯の六四〇床となった。昭和五一、二年ころから患者数は逐年増加、先の二号館完成による増床をもってしても一か月以上の入院待機患者が出る始末で、昭和五三年病床数八〇〇床とすることを県に申請、同五四年四月許可されたので、診療棟・病棟・管理棟の増改築工事(三号館)を計画、同五四年一一月着工、同五八年三月鉄骨コンクリート造り、地下一階・地上八階を完成した。この三号館の完成で病院整備はほぼ完了、一〇月二四日総合落成を兼ねて創立七〇周年記念式典を挙行した。今日の松山赤十字病院は二二診療科三三部と総合健康管理センター・胃腸センター・腎臓センター・リウマチセンターの四診療センターを設置、職員数八五〇名を有する近代的病院として高度医療に対応できる地域医療の基幹病院として活動している。

 医療施設・病床の増加

 「医療法」は病床二〇以上所有する施設を病院、患者の収容施設を有しないか一九以下の病床を有する医療機関を診療所と称して区別した。昭和二〇年代の後半になると、経済の復興を反映して病院・診療所ともに増加してきた。個人経営の病院・診療所は昭和二六年時の一八・六三八から三年後の同二九年には二六・六六〇に増えたが、病院であっても二〇床程度のものであった。また人口一〇万対病院数は昭和三〇年時で四・五で全国平均五・七より下回っていた。昭和三〇年代は経済成長を反映して病院・診療数の増加と病院の大規模化が顕著になってきた。それは公益法人・医療法人・個人病院・診療所で目立ち、個人立の病院で病床一〇〇を超えるものも現われてくる。個人病院の病床数は昭和二七年四四五であっだのが同三六年一、六七七、同四二年三、二八七と増え、この結果人口一〇万対病院数は同三九年段階で七・二となり七・〇の全国水準を上回った。一〇万対一般診療所施設数は昭和三五年の五四・○から同四〇年には六一・〇に伸びた。
 同五五年時の人口一〇万当たりの病院数は一〇・二(全国七・七)、一病院当たり人口は九、八一〇・三人(全国一二、九一一・八人)で全国平均より病院が多い。また病床数は人口一〇万当たりで一、三三三・九床(全国一、一二八・二床)で、やはり全国平均より多い。診療所をみると人口一〇万当たりで六四・六(全国六六・四)、一診療所当たり人口は一、五四七・九人(全国平均一、五〇六・四人)で全国平均よりやや少ない。圏域別では、松山圏三九・二%、新居浜・西条圏一六・七%、八幡浜・大洲圏一六・八%などの順で、この圏域で七二・二%を占めている。また地区医師会別では松山市三一・四%、新居浜市九・二%、今治市八・九%、八幡浜市七・三%などで、この四地区で五六・八%に達している。開設者別にみると、一五四の病院のうち個人四七・四%、医療法人二二・七%、市町村七・八%の順であり、九九二の診療所は個人八一・八%がほとんどで、ついで市町村九・二%、学校法人二・六%、会社二・三%である。これらの病院・診療所はともにその半数が昭和四一年以降一五年間に開設しており、近年の施設の更新と増加ぶりをうかがわせる。

 愛媛大学医学部の設置

 昭和四〇年代の大学医学部の分布はその偏在が著しく、本県を中心とする香川・高知・大分・宮崎の五県にわたる地域は全く空白状態にあった。本県は医師の確保が困難で、多くの無医村地区を抱え、公立病院・保健所さえも医師欠員に悩んでいた。このため、愛媛大学に医学部を設置し、県民医療福祉の向上を図るべく、昭和四四年一月医科大学誘致推進本部を設置して本格的な誘致運動を展開した。同四六年六月には愛媛大学医学部設置期成同盟会を結成するとともに医学部設置の候補地を温泉郡重信町志津川に定めることを発表、政府・国会に陳情活動を展開した結果、昭和四七年度政府予算に創設準備費が計上された。ここに医学部設置が内定したので、県は敷地買収に着手し約二〇万㎡の団地を取
得した。
 昭和四八年九月二九日付で医学部が正式に認定され、学生定員一〇〇人、講座数二八、附属病院六〇〇床の規模を持つ愛媛大学医学部を建設することになった。本県には設置に必要な諸事業を推進するため愛媛大学医学部設置協力会が設立されて目標六億円の募金活動を開始した。昭和四八年一一月愛媛大学医学部が開講、同五一年外来診療棟(鉄筋四階建)・中央診療棟(鉄筋四階建)・病棟(鉄筋一〇階建)の大部分の建築が竣工したので、一〇月二日附属病院の開院式を挙行、外来診療ついで入院診療を開始した。

 へき地保健医療の問題

 都市部に医療機関が増設する反面無医地区は解消してない。本県は離島、山村地域が多く医療に恵まれてない無医地区は昭和四一年時七二、同四六年時に六一あり、過疎化とともに住民の医療確保が大きな問題であった。県は無医地区のうち環境、交通事情、財政事情など特に立地条件の悪い岡村・木下・高井神(以上今治保健所管内)、小田深山(久万保健所管内)、豊茂(大洲保健所管内)、大島(八幡浜保健所管内)、大保木(西条保健所管内)の七か所に昭和三一年度からへき地診療所設置を指定、運営費の助成を行った。また他の無医地区には巡回診療、ヘルス・ステーション開設による健康診査・保健指導、保健所の保健婦を定期的に派遣して地域住民の健康相談を実施するなどの施策を講じている。へき地医療に従事する医師については、昭和四七年度から毎年二、三名を自治医科大学に送って養成、愛媛大学医学部にも協力を求めてその確保に努めている。

 県地域保健医療基本計画の策定

 今日、保健医療の充実を図るには、健康の保持・増進から疾病の予防・治療・さらにはリハビリテーションまでを包括した地域保健医療計画の策定が期待された。本県はこれを緊急課題として、昭和五四年一一月県・県医師会・愛大医学部一体となった愛媛県地域保健医療基本計画調査協議会(会長吉野章)を設置した。
 同協議会は三年間医療関係者へのアンケートなどによる基礎調査を続けて、『愛媛県医療施設調査報告書』(昭和五七年二月)、『愛媛県患者調査動向調査報告書』(同五七年九月)、『愛媛県県民健康調査報告書』(同五八年二月)をそれぞれ刊行、同五八年から二年間策定作業を進めた。
 昭和六〇年四月一〇日吉野会長は愛媛県地域保健医療基本計画の原案を白石知事に報告した。同計画案は、保健医療圏の設定、生涯健康づくりの推進、医療供給体制の整備充実、保健医療従事者の確保、保健医療情報システムの整備などを柱にし、それぞれ早期に着手すべき対策や中期長期的に取り組むべき課題などを示した。保健医療圏は一次(市町村単位)、二次(保健所または地方生活経済圏単位)、三次(東・中・南予)、四次(全県)を設定、各圏域の特性に応じたシステム化・機能分担などの必要を説いている。早期に着手推進すべき対策としては、周産期保健医療対策の強化、腎移植の推進の検討、健康づくりの基本となる県民栄養計画の策定、へき地・離島の保健医療の整備、救急医療体制の充実強化などを挙げ、それぞれに具体的内容を示している。また今後数年内か長期的に取り組むべき課題として、母子保健医療システムの確立、検診体制の整備、成人病予防の研究・技術センターの整備、救急医療情報システムの構築などを提言している。県は、この計画に基づき新しい時代の保健医療政策を推進しようとしている。

表5-8 公的医療機関

表5-8 公的医療機関


表5-9 医療施設の年次推移

表5-9 医療施設の年次推移