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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 医療従事者の増加と看護婦養成

医師法と医師

 昭和一七年に「国民医療法」という総合法律に吸収されていた医師の身分及び業務に関する規定は、昭和二三年七月三〇日「医師法」として独立、戦後の医療制度を支える重要な法律となった。同法では、医師は医療及び保健指導を掌ることによって公衆衛生の向上増進に寄与し国民の健康な生活を確保することにあるとその職責を制定、免許の前提としての国家試験の受験資格は原則として文部大臣の認定した大学の卒業者とし、免許は医籍に登場することによって付与するものであることを明
記した。医学教育は「学校教育法」で一般の大学より二年長く六年とされた。
 医師法はその後数回改正されたが、昭和三六年六月二〇日にいわゆる〝医薬分業法〟と称される画期的な改正があり、薬剤投与の場合の処方せん交付が医師に義務づけられた。しかし医師会などの激しい反対で、医薬分業の開始は昭和三一年四月一日まで延期された。昭和四三年五月一五日の改正では従来問題の多かった医学生の国家試験受験前の実地修練(インターン)制度を廃止して、大学医学部卒業生は直ちに医師国家試験を受験することができること、医師は免許を受けた後も二年以上大学附属病院・厚生大臣指定病院で臨床研修を行うことといった臨床研修制度を取り入れた。また昭和四五年以後、医療需要の増加と医師不足に対処して、大学医学部や医科大学の新設が推進された。
 戦後、愛媛県の医師数を五年単位で挙げると表5―10のようである。昭和四〇年代まで漸増にとどまっていた本県の医師数は、昭和五〇年代から急増、五三年以後毎年一〇〇人近く増え続けている。この結果、人口一〇万対医師数は昭和四〇年全国三五位であったのが、同五五年には全国一九位にまで上昇した。県内地域別医師の分布状況について昭和四一年の人口一〇万対医師数九一・〇であった当時のものを図示すると図5―1のようである。愛媛県地域保健基本計画調査協議会の『愛媛県医療施設調査報告書』によると、昭和五五年時の人口一〇万対医師数は、全県で一五五・一、圏域別で松山一九六・八、新居浜・西条一五三・〇、宇和島一二八・七、八幡浜・大洲一二三・一、今治一一六・三、宇摩一〇七・七の順であり、医師分布の地域間格差は解消していない。

 歯科医師法と歯科医師

 昭和二三年七月三〇日「医師法」とともに「歯科医師法」が制定され、新しい歯科医療を定める法律となった。これにより、歯科医業は医業との分離が明確化され、歯科医師に紛らわしい名称を用いることが禁じられた。
 戦後愛媛県の歯科医師数は表5―11のようであり、最近は毎年三〇人程度増加して、昭和五七年には六〇一人となった。しかし全国水準から見れば、医師数二八位、四三八診療所の人口一〇万対施設数は二九・〇(全国三五・一)で、いずれも平均を下回っている。
 歯科疾患では予防措置が特に必要であるが、歯科医師は治療に追われ予防対策にまで手を広げる余裕のないのが実情であったので、昭和二三年七月三〇日「歯科衛生士法」が制定されて、歯科医師の直接指導の下に歯牙及び口くうの疾患の予防処置に当たる歯科衛生士が置かれた。また昭和三〇年八月一六日の「歯科技士法」で従来あいまいであった歯科技工師の資格が明確化された。愛媛県では、昭和四六年県立公衆衛生専門学校に歯科衛生士、同四九年に歯科技工師の課程が新設されたこともあって、近年増加が著しく、昭和五七年には歯科衛生士二八五人、歯科技工師三六一人を数えている。

 戦後の薬剤師制度と薬局

 昭和一八年に制定された「薬事法」は終戦後も引き続き施行されたが、戦後の社会事情から見て不適当な者が多かったので、昭和二三年七月二九日全面的に改正された。同法は、薬剤師の定義をはじめ薬局及び調剤・医薬品・用具及び化粧品などについて規定、薬剤師の免許については大学で薬学の課程を修学卒業した者を受験資格とする国家試験合格者に付与することを原則としたが、薬局の開設者は薬剤師に限定せず、知事の登録を受ければよいことになった。その後、医薬品は著しく進歩して薬事法が実情に合わなくなり、昭和三一年の医薬分業施行もあって薬事法が強く要望されるようになった。そこで昭和三五年八月一〇日「薬剤師法」と「薬事法」が制定され、旧薬事法が分割した。これを機に薬局は知事の許可制となり、いろいろな業務規制がなされた。さらに昭和三八年七月一二日の改正で、薬局の適正配置や薬剤師の員数についての規定がなされた。
 戦後の愛媛県の薬剤師数は表5~12のようであり、昭和五二年に一千人台に達し、近年の増加は著しい。性別では昭和五五年時男五一二人・女八〇六人で女子の占める割合は七〇・五%になっている。薬局数は昭和五五年末で三二四、人口一〇万対施設数は二一・五(全国二七・〇)である。

 保健婦助産婦看護婦とその養成

 保健婦・助産婦・看護婦の規則については終戦直後数回の改変を経て、昭和二三年七月三〇日「保健婦助産婦看護婦法」が定められた・同法は、看護婦を甲種と乙種に分け、甲種看護婦・保健婦・助産婦は大学程度の学校・講習所を卒業した後それぞれの国家試験を受けて合格者に免許を与えることにした。また乙種看護婦は新制高校程度の学校・講習所を卒業して知事の行う試験に合格した者に免許を与えることにするなど、看護婦の資質向上を図るために免許取得資格を相当高め、免許状を就業を条件とする業務免許から資格免許に改めた。この法はその後数回改正され、昭和二六年四月の改正では、看護婦の甲種乙種の区別を廃し、看護婦と准看護婦と改称した。
 保健婦助産婦看護婦の養成については、昭和二六年八月一〇日厚生省令「保健婦助産婦看護婦学校養成所指定規則」による指定機関で当たっている。愛媛県では、松山赤十字高等看護学院が看護婦、国立愛媛療養所・住友別子病院と松山・今治・宇和島・八幡浜医師会が准看護婦の養成施設をそれぞれ昭和二九年までに開設した。昭和三〇年代の後半には医療施設の増加、国民皆保険の達成による受診量の増大などにより看護要員に対する需要は著しく増大、また一方では医学医術の進歩による医療内容の向上に伴って看護業務の内容も次第に複雑高度化の方向をたどり、看護要員の量的確保とその資質の向上が大きな問題とされるに至った。厚生省は指定規則を改正して准看護婦から看護婦になることを希望する者のために二年制の教育課程を創設し、働きながら学ぼうとする准看護婦のために夜間授業を含めた進学課程を設けたりしたが、看護婦不足はますます大きな社会問題となったので、同四六年二月二五日指定規制を改正して、国・地方公共団体が公益法人の設置する養成施設の経費を助成し、また高等学校に衛生看護科の設置を進めた。この結果、昭和四六年三月愛媛県立公衆衛生学校に従来の准看護婦を入学資格とする二年課程にかえて高等学校卒業者を資格とする三年課程を増設、同時に看護婦学校卒業者を対象とする一年の保健婦助産婦科を付設した。また昭和四七年四月からは県立東温・西条・宇和島南高校に衛生看護科が新設され、同五一年には松山城南高校にも設置、既設の聖カタリナ女子、今治精華・帝京第五の三私立高校を加えて衛生看護科が七高等学校で開校している。三年程の看護婦養成機関は松山赤十字看護学校(昭和五一年四月高等看護学院を改称)や県立公衆衛生専門学校のほか同四五年三月創設の国立病院四国がんセンター付属看護学校などがある。昭和六〇年時の愛媛県内看護学校養成所を一覧表示すると表5―13のようである。
 戦後の本県の就業保健婦・助産婦・看護婦数は表5―14のようである。看護婦について見ると、養成機関の増設などがあって昭和四九年からは毎年二〇〇~三〇〇人ずつ増えており、昭和四〇年時人口一〇万対看護婦は二三六・八(全国二三六・五)でほぼ全国平均であったのが同五五年には五九三・〇に上昇、全国の四一六・七を上回っている。

 医療技師

 医療従事者には医師・看護婦・薬剤師のほか診療エックス線技師・診療放射線技師・理学療養士・作業療養士・衛生検査技師などがある。それぞれ「診療エックス線技師法」(昭和二六・六・一一)、「衛生検査技師法」(昭和三三・四・二三)、「理学療法士及び作業療法士法」(昭和四〇・六・二九)、「診療放射技師及びエックス線技師法」(昭和四三・五・二三)、「臨床検査技師街生検査技師等に関する法律」(昭和四五・五・二一)などで、その業務・資格が規定されている。
 昭和五五年時の県内病院・診療所における医療技師を医師・看護婦・薬剤師ともに表示すると表5―15のようである。愛媛県は、これら専業化した医療技師と看護婦保健助産婦養成を拡充統一することを意図して、現在の公衆衛生専門学校での看護婦第一科・看護婦第二科・保健婦助産婦科・臨床検査専門学校での臨床検査技師科・衛生検査技師科を合わせた県立医療技術短期大学設立を企画、昭和六三年四月の開校を予定して準備を進めている。

 あん摩・はり・きゅう柔道整復営業

 昭和二二年一二月二〇日「あん摩・はり・きゅう、柔道整復等営業法」が制定され、従前のこれら営業取締規則が廃された。この法律で、従来の営業免許が資格免許となり、公に認定された学校又は養成施設を卒業して知事の行う試験に合格しなければ免許が与えられたいことになった。その後、昭和三九年六月の改正でマッサージ指圧師が加えられ、同四五年四月の改正で柔道整復師が切り離されて新たに「柔道整復技師法」が制定された。
 昭和三〇年以後における五年ごとの県内の就業あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師・柔道整復師数を挙げると、表5―16のようである。

 新生医師会と歯科医師会

 昭和二二年一一月一日新生日本医師会が厚生大臣から設立認可され、これまでの日本医師会は同日解散した。この後、都道府県医師会・郡市医師会も所在地の知事の認可を受けて設立された。
 愛媛県の場合、昭和二二年八月二六日に第一回代議員会を開き、会長昇田栄・副会長桑原寛一らの役員を選出して「社団法人愛媛県医師会設立許可申請書」を県知事宛に提出した。ところが旧医師会の幹部であった者は新医師会役員への就任を遠慮せよとの指令があったので、一二月七日に開催された第二回代議員会で新役員の選挙を行い、会長に今川七郎、副会長に千秋四郎を選び、県に設立申請を再度行って三月一一日付医一四六号で青木知事から認可された。
 愛媛県医師会と前後して郡市医師会も社団法人として設立申請を県に提出し、昭和二三年中に知事から認可された。同二二年二月七日制定の「社団法人愛媛県医師会定款」によると、県医師会は郡市医師会の会員をもって構成し、医道の昂揚、医学・医術の発達普及と公衆衛生、昭和二二年二月七日制定の「社団法人愛媛県医師会定款」によると、県医師会は郡市医師会の会員をもって構成し、医道の昂揚、医学・医術の発達普及と公衆衛生の向上とを図り社会福祉を増進することを目的としている。また会員には医師の倫理を尊重し社会の尊敬と信頼を得るよう要求している。
 医師会長には昭和二四年三月から昇田栄が復帰、同三三年四月には今川七郎が再び就任して同四九年まで務めた。昇田・今川時代の医師会の動き、保険問題・医薬分業問題、医療危機突破闘争での保健医総辞退、日常の医学研究、県・公共機関と提携しての各種地域医療、健康相談・通俗衛生医学講座など公衆衛生活動の状況は、『愛媛県医師会史(総合版)』(昭和四四年刊)に詳しく叙述されている。昭和四四年五月には三番町の地に愛媛県医師会医学研修所(会館)が落成、県医師会の拠点となった。昭和四九年二月今川七郎の後を継いで吉野章が会長に就任、今日に至っている。
 新生歯科医師会は昭和二〇年一一月二一日に発足、会長に中島佐三が就任した。昭和二四年四月平島悟朗、同二六年四月西村一雄、同三〇年四月土居芳弥が歴任した後、昭和四〇年四月から正岡健夫が会長職につき、同五七年四月田窪才祐が後継して今日に至っている。その間、歯科医師会は地域歯科医療の確保とう歯予防公衆衛生の普及に活動した。昭和三三年一二月には堀之内に会館、同四四年四月には末町に歯科医学研修所を設けたが、昭和五三年二月には創立七〇周年を記念して柳井町に口腔保健センターを建設、県歯科医師活動の拠点であると共に休日・夜間救急患者の診療など県民奉仕のセンターとした。

 ※付記 この保健衛生編は、多くの部分で『愛媛県医師会史 総合版』を底本とした。同書は、愛媛県医師会が昭和四四年に刊行した一、一八〇ページにおよぶ本県の医療と衛生の歴史の決定版ともいうべき大著である。当時の県医師会長今川七郎氏から景浦勉氏を代表者に、伊藤義一、宮内孝夫、多田信義の各氏と筆者高須賀康生が執筆者に委嘱されて、徳丸喬・松友義長はじめ県医師会の長老の方々、保健衛生関係者の助言を受けながら分担執筆した。筆者は資料収集と衛生史を担当したが、今回の執筆に当たっては、衛生以外に共同執筆者の叙述と分析の部分を借用した点が少なくない。特に医師会史の医人伝・結核史・種痘史など多くの分野を執筆された医師・医学史研究家の宮内孝夫氏には、本文の全般にわたって監修をいただいた。

表5-10 愛媛県の医師数

表5-10 愛媛県の医師数


図5-1 愛媛県地域別医師の分布状況(昭和41年)

図5-1 愛媛県地域別医師の分布状況(昭和41年)


表5-11 愛媛県の歯科医療関係者数

表5-11 愛媛県の歯科医療関係者数


表5-12 愛媛県の薬剤師数

表5-12 愛媛県の薬剤師数


表5-13 愛媛県看護婦学校養成所一覧

表5-13 愛媛県看護婦学校養成所一覧


表5-14 愛媛県の就業保健婦・助産婦・看護婦(士)・准看護婦(士)数

表5-14 愛媛県の就業保健婦・助産婦・看護婦(士)・准看護婦(士)数


表5-15 県内医療従事者の総数(病院・診療所別)

表5-15 県内医療従事者の総数(病院・診療所別)


表5-16 愛媛県の就業あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師・柔道整復師数

表5-16 愛媛県の就業あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師・柔道整復師数


表5-17 新生郡市医師会設立年月日

表5-17 新生郡市医師会設立年月日