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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 愛媛県の防災体制

 災害警備活動

 愛媛県における災害警備事務は、明治六年二月の県発足とともに、警察事務の一部として聴訟課が担当した。翌七年三月に制定された「職制大綱」には、同課の分掌事務の中に「警保 県内ノ邏卒番人ノ事務ヲ管知シ及ヒ人命災異ヲ臨検シ不虞警備等ノコトヲ掌ル」と規定された。「人命災異ヲ臨検シ……」とはいわゆる災害警備活動一般を示すものである。
 明治八年五月、県の組織改正により警保事務は聴訟課から庶務課警察掛の分掌となった。同年一一月制定の愛媛県の職制章程には、事務分掌として「水火消防人ヲ管スル事」とあって、消防事務を担当することが初めて明確に規定された。この背景には、明治八年三月七日太政官達第二九号「行政警察規則」の制定があり、それによると、邏卒の責務として「失火ノ節ハ邏卒失火ノ合図ヲナシ一般ニ知ラシメ、且焼失ニ罹ル家ハ其人家ヲ助ケ、消防ノ事モ勤ムヘシ、消防人已ニ集ルニ至レハ勉メテ乱雑及窃盗ヲ防ク事ニ注意スヘシ(第廿五条)」また、「同断ノ節、第一ニ其人ヲ救ヒ出シ、次ニ書類金貨等ヲ出スヘシ、又官庁其他区戸長等ノ宅ハ文書第一ニ取出スヘシ」とあった。県はこれに基づき、同年四月「邏卒心得并勤方」
(県達坤第七一号)を制定し、従来「邏卒章程」(資近代1二一八ページ)で規定した火災予防と火災現場での警戒警備、消防活動への援助及び人命救助を一歩強め、「消防の事も勤むべし」と消火活動への第一次的かつ直接的な責務を明らかにしていた。さらに、翌九年二月、「警察掛事務取扱節目」(県達警号)では、水火難時における警部の消防組員に対する指揮権が明記された。その後、水火難時の即応体制の強化を図るため、臨場の警察官及び郡吏が直接消防組の指揮を行うこととなり、明治一二年九月一五日、県は各郡にあて「町村又ハ会社等ニ取設ル失火消防組ノ義ハ組々取締ノ者可有之候得共消防筋ニ於テハ該場出張之警察官及郡吏ノ指揮ニ応シ進退可致筈ニ付実地ニ臨ミ不都合無之様(下略)」との通達(県達乙第二九九号)を出していた。
 その後、府県官職制の改正等に伴い警察組織は再三にわたって改正されたが、災害警備一般事務は終始警察事務主管部に属した。明治二〇年七月「愛媛県処務条規改正」により、事務は従来の第一課から保安課に移され、「水火防禦ニ関スル事項」と規定された。以後、昭和一四年一二月に警務課に移管されるまで、半世紀にわたって保安課の担当であった。

 水利堤防と水防活動

 明治以前においては、水利・水防の問題は、幕府・諸藩とも特殊な例を除き自領中心主義、とりわけ幕領優位の制約があったため、一河川を統一する治水事業はなおざりにされる傾向が強く、自己の領地を対象とした用水・排水施設の修復などに重点が置かれた。したがって、水防はもっぱら地域住民の自衛手段として行われてきた。
 明治政府は、その発足とともに旧制度を一新し近代的統一国家建設の方針を進めたが、内政面ではとりわけ治水に力を注いだ。これは我が国の国土の特質から、国土保全がなによりも先決的な問題であったためである。最初に体系的な法制として制定されたのは、明治六年八月大蔵省達番外「河港道路修築規則」であった。これは全国の河川・港湾・道路を一等から三等までの等級に類別し、全国同一基準で管理者及び官民の経費負担を定めるものであった。
 愛媛県では、一等対象の河港道路はなく、二等対象に肱川・重信川・加茂川・山城川(現銅山川)その他二一河川、宇和島港など二〇港湾、道路駅逓筋六八里三〇町の道路が見込まれていた。ただ、水利堤防を主とする営繕費用については、旧藩税法に極めて甘苦軽重があって改正が困難との理由で、向こう五か年期限での改正と期限中一か年当たり二万二、四〇〇円余での委託とを同七年二月に内務省に上請し、同省の許可指令を受けていた(資近代l一九二~六ページ)。
 明治七年三月、県は「堤防修繕費用改正」に関する布達を発し、旧慣水理堤防方法の全廃とともに、
 ① 二等川筋で利害を受ける村々は、同心協議、一川筋総て相合して修繕すべきこと、
 ② 小川小谷で数村に実なきものは三等の部と心得るべきこと、
 ③ 人夫は組合村々から必ず出役すべきこと、
 ④ 人夫一人役米一升五合宛の積り、官費六分・民費四分を定額とすること、
 ⑤ 三等河港その他田地灌漑の用悪水路修繕費用は、民費至当であるが、従来官費相当分については、改正より旧官費超過の分は改正に引直し、低少の分は旧慣に据置き、利害を受ける郡村で民費修繕するよう説諭すること、などを布達した(資近代1一九六~七ページ)。旧慣廃止によるこうした改正では、当然のことながら利害得失を地域住民に生むこととなり、「川筋利害の多寡」や「現場利害に無関係」を唱え、従来の組合を廃したいと申し立てる状況となった。このため、県は同年四月、「目下の利欲に迷ひ人民相救の義務に悖り候条、是迄組合無之村々と雖も数村を駆て組合せ、猶従前組合有之村々とても可成数村に為致候趣意にて、従来組合村々を減省分割等致し候義にては決して無之旨、銘々篤と可致注意候」との告諭を発し、厳しく注意を促した。
 また一方では、三等以下の営繕費用について当分の間旧慣を参酌して官費給付を達したことから、明治八年春季の営繕申請が六千余件、金額八万円に達した。驚いた県では、六割給付で四万八千余円、秋季臨時の修築費を加えると定額の幾倍になるかもしれないと危惧し、掛官員の派遣・検査や申請案件の精査・節減を命ずる通達を各区長あてに送る状況となっていた(資近代1一九七~八ページ)。

 水防の自治組織

 明治一三年四月、「区町村会法」が制定され、水利事業は、直接農民の利益につながる小規模で直接的な耕地改良・開墾が町村民の協議体「町村会」で実施され、大規模で一般的な水利土功事業が関係する町村が集まって組織する「水利土功会」によって実施されることとなった。ここに、町村会や水利土功会が水防活動の自治組織として認知されたのであった。
 さらに、明治二二年実施の「市制」「町村制」制定前後、それまでの群小町村を強力に整理・統合することが進められたが、この新町村は従来の水利関係団体とは地域を異にするものとなった。このため、政府は同二三年六月、「水利組合条例」を公布し、「用悪水等専ら土地保護に関する事業のため」に普通水利組合を、「水害予防の為にする堤防・浚渫・砂防等の工事にして普通水利組合の事業に属せざるもの」を行うために水害予防組合を設置することを規定した。ここに利水と治水の分離がはじめてみられるとともに、従前専ら地方の慣行によって運営されていた自治的協議団体であった水利組合が制度上整備された上に、郡長・知事及び内務・大蔵大臣の監督権が加わってきたのである。こうして、水防の具体的活動の一つである洪水時における水防活動に法的根拠が付与されたのである。
 明治四一年には、全国で普通水利組合二、二六八、水害予防組合九四八にのぼる発展をみることになるが、さらに制度の充実を図るため、同年四月「水利組合法」が新たに公布された。これによって、水利組合と水害予防組合が誕生し、法人性の付与のほか諸規定が整備された。この結果、水防が法的体制を確立するのである。
 また、明治二九年制定の「河川法」においても水防に関する規定を設け、河川管理者である地方行政庁に対し、洪水緊急時における公共負担の賦課権、下級公共団体に対する準備命令権及び資材提供義務、従事命令権を付与して、水防に当たらせることとしていた。

 災害警報と水難救護

 防災面において災害警報の周知は重要な手段であるが、通信手段が発達していない時代にあっては、警察が主体となってその組織を通じ、警報伝達を行ったのである。明治一七年四月、県では「暴風雨警報取扱手続」(県達乙第五八号)を制定した。それによると、
 ① 警報は警察本署から各警察署へ、警察署は郡役所・警察分署及び署直轄の沿海交番所へ、警察分署は所在の郡役所及び所属の沿海交番所へ、電信または別使をもって報知する。
 ② 沿海の警察署・警察分署または交番所は、巡査を海岸に派し、船舶の出入りや難破船等に注意する。
 ③ 郡役所は、警報をすみやかに郡内各町村戸長役場に通告する。
 ④ 戸長役場は、警戒時間内に発生した暴風の概況、天気の模様及び被害状況を所轄の警察署または警察分署並びに主管郡役所に報告する。
 ⑤ 警察署は、警戒時間内に発生した暴風の概況、または天気の異状の有無を警察本署に報告する。となっており、警察が中心となって警報を迅速に管内に伝達し、住民に事前の警戒を行わせるとともに、被害状況を早期に把握しようとしていた。
 明治二二年一二月一九日に松山測候所が設置され、従来警察本署が行っていた気象通報事務は、翌二三年四月以降、同測候所から直接各警察署へ通知することとなった。また、同二六年六月には警部長通達により、暴風・水害その他天災が発生したときは、警察署・警察分署はその実況とともに被害状況を即報し、全調査終了後は報告表を作成してすみやかに警察本部(警察本署改称)に報告することとなった。いわゆる災害発生状況報告の最初である(愛媛県警察史 第一巻)
 水難救護については、明治三二年三月「水難救護法」が制定され、遭難船救護の事務は、最初に認知した市町村長が行うこととされた。なお、警察の責務としては「市町村長ヲ助ケ、市町村長現場ニ在ラサルトキハ之ニ代リ其ノ職務ヲ執行スヘシ」と規定され、第二次的な救護義務を負っていた。また、警察汽船の配備に伴い、同船による遭難船救護に直接従事するようになったのはいうまでもない。
 県警察では、明治三一年一一月、「水上警察規程」を制定し、警察船により警戒取締まりと水難救護活動を行うこととなった。また、沿海各警察署(分署)では、船舶遭難等の水難事故発生の際、帝国水難救済会員のほか、消防組(のち消防団)・保安組合・青年団員らの協力を得てこれを指揮し、遭難者の救助・捜索等の救護活動に従事したのである。