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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

三 罹災救助制度の成立

 罹災者の救助

 非常の凶荒や不慮の災害をこうむった窮民の救助について、明治四年一一月二七日に、政府は「県治条例」(太政官達第六二三号)中に「窮民一時救助規則」を発布した。それによると、① 水火の難で家屋を亡失した者、男一人一日当たり米三合、麦六合、雑穀九合、女一人一日当たり米二合、麦四合、雑穀六合の一五日分を速やかに救助すべし、② 同じく家屋を自ら営むことのできない者について、一軒当たり金五両充て五か年賦返納の積りで貸渡すべし、③ 類焼により農具を失った者について、鍬・鎌・鋤・馬鍬・稲扱・肥桶等、その土地相当の価を取り調べ、代金貸渡すべし、とあって、いずれも政府への伺い出の要なく、府県がその常備金をもってすみやかに施行すべきことを命じていた。
 また、水旱非常の天災のため夫食・種籾貸渡しの件については、その節ごとに政府への伺い出を命じていた。
 このうち常備金とは、年々大蔵省より下付されるもので二種があり、第一常備金は県庁諸費・官員巡察費・使部以下の月給等に充てるもの、第二常備金は管下の堤防・橋梁・道路等の応急普請や窮民一時救助に充てるものであった。伊予国の場合、明治五年一二月調べでは、第二常備金額が、石鐡県で五、四〇〇円、神山県で四、八〇○円であった。
 明治六年、県内は激しい干害と水害に見舞われた。このため、県では、秋収に際して県官を罹災各地に派遣して検見を実施、減租破免の措置を行い、また翌七年には先の規則に基づき、種籾及び作夫食代拝借願を大蔵・内務両省に申請し、その許可を得て窮民救助に当たっていた。
 明治八年七月、政府は先の県治条例中の規則を廃し、新たに「窮民一時救助規則」(太政官達第一二二号)を公布した。大要は先の規則を踏襲しているが、対象を「水火風震の難に逢った者」「流行病に罹り目下飢餓に迫る者」に広げたほか、「連村連市一時に暴災に罹り目下窮困に迫る者に対し、一〇日以内の焚出米を給与、災害の景況により仮りに小屋掛けを営み一時の急を救うこと」が予備金(常備金)施行として認められ、また、耕牛馬を非常の災変で失った場合に代価拝借が内務省経伺の上施行の条項として加えられた。
 さらに同一〇年九月、「凶歳租税延納規則」(太政官布告第六二)が発布された。これによれば、水害、干害等の凶災に罹る者で地租改正確定収穫高に比較して一村田方平均五歩以上の損毛にわたる場合は、年限をもって租税の延納を認可するとされ、畑方では大凶荒で飢餓とも唱うべき状況の場合には臨時延納を乞うことを得べしと規定されていた。
 ところで、先の「窮民一時救助規則」については、その趣旨が県民になかなか徹底しなかったようである。たとえば、明治八年一月一九日付け布達坤第一四号で県は各区長に対し、「水火之災ニ罹リ平素貧窮ニシテ一時凌難キ者共救助願及家屋自カラ営ム能ハサル者小屋掛料拝借ノ儀ハ、全ク事倉卒ニ出テ当分自立術ナク事実愁然ノ至ニ付、一時ノ寒餓ヲ扶助保存スルノ御趣意ニ候」と趣旨を確認するとともに、前年四月の火災や八月の水害関係の願書が一二月に進達する例があり、緊急を要する事案の取り扱いが不都合であるとして、今後は一か月以内に提出するよう厳重に注意を求めた。さらに戸長に対しては、同年六月二三日布達坤第一〇五号で窮民からの願書は災難当日から七日以内に提出させるよう注意すべき旨を命じていた。この布達は翌九年一一月にも繰り返し出されている。
 一方、租税延納の事例をあげると、明治一〇年、越智郡四か村、野間郡六か村、風早郡一か村において田方秋実不作による検見の願い出があった。検見の結果、当時は地租改正未定のため仮額により地租徴収を行う場合であったが、仮額収穫に対し五歩以上の損耗に当たるのは越智郡の二か村と野間郡の二か村であり、この四か村については延納を許可した。他の七か村については規則に適当しないとして仮額地租を完納させたが、おって改租整頓、収穫確定の段階で歩合に適当する損耗であった場合には、規則によりさらに相当の延納を稟議する見込みであるとの報告がある(資近代1七二七ページ)。

 備荒儲蓄制度のはじまり

 幕藩期の備荒貯蓄制度にかわる新制度を政府が模索しはじめたのは明治九年頃であった。明治一三年県政事務引継書によると、凶荒予備について、明治九年内務卿の内達により各府県で検討を始めていたようである。「凶荒予備ハ去ル九年中内務卿ノ内達アリシモ、未タ其良法ヲ得ス、然レトモ亦之ヲ放擲ス可キニアラス」とあり、愛媛県では、明治一二年一〇月、布達乙第三三九号(資近代1八三一ページ)で各町村戸長に対し、「勉メテ町村ノ議員ヲ鼓舞シ、其土実際ノ便宜ニ従ヒ、強カチニ五穀ニ限ラス、専ラ永久貯蔵ニ堪ユヘキ食品ヲ択ヒ、適宜貯蓄ノ方法ヲ立テサセ」と各地に適宜な方法を設けるよう救荒予備の論達を行い、また同時に一般県民に対しては布達甲一八九号によって救荒予備の必需性を諭達した。この結果、同引継書によれば、「即今続々町村会及町村聯合会ノ議決ヲ経、儲蓄ノ方法ヲ報告シ来レリ、故ニ自今其蓄積金穀ノ数ヲ調査中ナリ」と報告されている(資近代1七三一ページ)。
 明治一一年七月、太政官布告による「郡区町村編成法」、「府県会規則」、「地方税規則」のいわゆる三新法の公布により、地方制度の抜本的改革が行われた。災害関係については、地方税規則第五条に「非常ノ費用ハ(予算ニ立ツルヲ得サル天災時ノ費用ヲ云)別ニ賦課スルヲ得ルト雖モ、其府県会ノ議決ヲ取リ内務卿及大蔵卿ニ報告スルハ、第四条ノ順序ニ従フヘシ、其急施ヲ要スル事項ハ施行シテ後報告スヘシ」と規定し、府県における災害事変対策費の取り扱いを明確にした。また、区町村については、同規則第三条に「各町村限及区限ノ入費ハ其区内町村内人民ノ協議ニ任セ」と規定し、区町村の財政運営についてはその協議的自治的性格を法認しており、この「区町村協議費」の中で支出されることとなった。この区町村協議費の支出はその後、公共的性質に無関係のものが往々にしてあったところから、明治一七年五月、政府は「租税未納者処分規則」布告施行上の心得において、区町村費目を限定し、「戸長役場費、会議費、土木費、教育費、衛生費、救助費、災害予防及警備費」としていた。以上は、いわゆる一般会計上の財政措置に当たるが、これとは別に特別会計に属するいわゆる備荒貯蓄制度が新たに創設された。これが明治一三年六月一五日公布の備荒儲蓄法(太政官布告第三一号)である。

 備荒儲蓄法施行規則の県会審議

 備荒儲蓄法は、先の「窮民一時救助規則」と「凶歳租税延納規則」を総合させた法律で、「非常ノ凶荒不慮ノ災害ニ罹リタル窮民ニ食料小屋掛料農具料種穀料ヲ給シ、又罹災ノ為メ地租ヲ納ムル能ハサル者ノ租額ヲ補助シ或ハ貸与スル」ことを目的としたものであった。府県は、国庫配布の儲蓄金(毎年一二○万円)と府県の公儲金(管内の土地所有者から地租の幾分に当たる公儲金、国庫配付金を下まわらない範囲の額)で備荒貯蓄金を設置し、その徴収・管守・支給方法は府知事・県令が「之ヲ府県会ニ付シ其ノ議決ヲ取リ内務大蔵両卿ニ具状シ、其許可ヲ得テ之レヲ施行」することになっていた。また、支給方法と対象については、「食料ヲ給スルハ罹災ノ為メ自ラ生存スル能ハサル者ニ限ル、其日数ハ三十日以内トス、又同上ノ窮民ニ小屋掛料ヲ給スルハ一戸拾円以内、農具料種籾料ヲ給スルハ一戸二拾円以内トス」「地租ヲ補助及ビ貸与スルハ罹災ノ為メ土地家屋ヲ売却スルニアラサレハ地租ヲ納ムル能ハサル者ニ限ル」とあらかじめ規定していた。なお、施行は同一四年一月一日からであった。
 愛媛県にあっては、明治一三年(第三回)臨時県会に「備荒儲蓄法施行規則案」を提出した。議案説明書によると、同法の趣旨をみると行政の実際面では問題点があり、政府当局へ照会しているが回答がない、おそらく各府県からの照会があって詮議に追われていると思われる、しかし本則施行期日が迫り、県会議決やその筋の裁可を要するものであるので提出したとあった。ついで説明書は、目下の緊急時として「非常ノ罹災ヲ図リ万一ノ救助ニ備フル」ため、県内二〇余所に穀物分儲の位置を定めることを計画し、まず高松・多度津・西条・長浜・大洲・吉田の六地区に存する官有倉庫の下げ渡しを受けて儲穀倉庫とし、漸次他におよぼすつもりであると述べていた。
 県会審議では、「人民ヲ利セント欲シテ人民ニ却テ毒ナリ」「人民ニ取リテ有リ難迷惑」としながらも、「我々ハ大政府ヨリ公布ニナリタル法則ヲ左右スルノ権ハ固ヨリ有セサル」「仮令政府ノ公布ニ不満足アルニモセヨ之ヲ慢リニ喋々議スル訳ニハ参ラヌ」といった意見が支配的であった。このため審議過程での紛議はみられず、原案第九条の支給制限外の救助を要する場合「県令ノ見込ヲ以テ相当ノ処分ヲナシ」を「常置委員ニ諮問シ処分スヘシ」と修正して県令の独断に歯止めを図り、第一三条の罹災窮民に対する支給額について男女老幼の隔差を平等に修正するにとどまった。
 全国的にみると、備荒儲蓄法が実質上の地租増徴になるだけに紛糾した府県会が少なくなかった。一二一〇日ごろまでに臨時会の審議を完了した府県は、愛媛県など一〇県に過ぎず、審議中の府県は一一府県あって、そのうち七県では修正をめぐる議権の問題で県令・内務卿と紛争を起こしていた(愛媛県義会史第一巻)。

 明治一三年度備荒儲蓄金予算

 同県会で審議された明治一四年一月~六月備荒儲蓄金収支予算は表1-2のとおりであった。議案説明書によると、収入の部では、地租一円につき一銭一厘強で、人口一四〇万人を積算した国庫配附金、地租一円につき一銭二厘の割合で人口に積算した人民公儲金で予算を立てた。支出の部では、明治一二年度救恤実費支出の金高を基準にして、小屋掛料をその二倍、農具料をその五倍増とし、県下人口の千分の一に当たる一、四三九人を対象に、各三〇日間にわたり平均白米二合五勺を救助する予算であった。蓄穀諸費は前例がないため、穀物取扱い及び看守倉庫営繕消防など蓄穀に欠くことのできない費用を積算して、給与・運送費・需用費・郵便費・雑費・営繕費の費目予算を立てた。収支差引残金は倉庫の備えがない状況であるので、しばらく公債証書に換え置くつもりであった。審議の結果、施行規則第一三条が修正されたので、支出の部で罹災者救助中食料が自動的に改められ、これにともなって差引残の部で多少の修正があり、他は原案が可決されて確定議となった。
 備荒儲蓄に関する県会決議報告を受けた県は、一二月一七日「臨時県会決議報告ノ内第一、第二両号(施行規則、明治一三年度収支予算)ノ義者其筋へ進達致候条追而何分ノ赴可相達候」と県会議長に文書通達した。内務卿からは「備荒儲蓄方法ノ議ハ常置委員ノ議決スル限ニ非ラサルモノト心得ヘシ」と同法施行規則第九条の不認可指令が届いた。このため県では、同規則の第九条を削除し、第一〇条以下の条項を繰り上げて、同一四年一月一三日、県布達甲第七号で備荒儲蓄法施行規則(資社経下三九六ページ)を県内に布達した。また、同日甲第八号で収支予算も告示された。
 なお、内務卿指令により削除された支給制限外の救助に関する規定については、翌一四年(第五回)通常県会に備荒儲蓄法施行規則改正増補案として提出された。これは、「凶年飢餓ニシテ救助ヲ要スル場合ニ於テハ第三章ノ制限ニ拘ハラス県令ノ見込ヲ以テ常置委員ニ諮問シ本法制限内ヲ以テ適宜処分スルモノトス」の条項を第三三条に追加するもので、先に愛媛県会が求めた県会の意思を尊重して、常置委員に諮問することを改めて明記したものであった。議案は多数で確定議となり、県令の決議報告認可を経て布達された。

 備荒儲蓄法施行規則の実施状況

 備荒儲蓄法施行規則が施行された当初の状況について、「巡察使視察に付備荒儲蓄法施行取調報告」(資社経下四六二ページ)(明治一六年県治調)により述べてみよう。まず罹災者から救助願が提出されると、戸長は、家族の人員・所有地並びに小作地の反別及び有無・商工業等の業を営むの形状・一か年収益の多寡・敷地建物の広狭又は私借金員の額・地所建物書入れ公証の有無・飯料塩蔬の需用等を審究して、その事項を身元取調書に列記し願書に添付して郡庁に提出する。郡庁では、審査のうえ、やむを得ない事情の者に限り、奥書調印して県庁へ進達する。
 県庁では、主務者がこれを調査按検して貧福を判別し、給与を決することになるが、その区別は次のようであった。まず火災による罹災者の場合は、戸長提出の身元取調書の審査により、農業専業者については所有地のない小作者またはわずかな所有地があっても他借のため悉皆書入公証を受け、他に余裕なくその収益で一家の需用を支えることができない者に限り、小屋掛料及び農具種籾料を給する、商工業日雇稼ぎを業とする者については前例に準じ小屋掛料を給するが、所有地のある者や収益により一家数人の需用を支えるにおおむね足る者には支給しない。風水震災による家屋倒潰の場合は、所有地なく借地居住の者で二反九畝以下の小作あるいは商工業日雇稼ぎを業とする者では収益わずかで常に一家の口糊しのぎ難き者に限り小屋掛料を給する、土地所有者又は三反以上の小作については実地につき万やむを得ない者以外は給しない。風火水震等で一町村あるいは数か町村一時に災害に罹るときは、ただちに官吏を派遣し、戸長役場において罹災者の人名及び員数を調べ出し、各戸籍簿並びに財産台帳を按検し、罹災宅地の広狭や家財農具等の焼失(潰敗)等を実検する。その余の調査の振り合いは先に述べたとおりとしていた。こうした方法により同法施行以来給与を受けた人員と金員は、表1-3のようであった。また、明治一六年五月一五日現在で救助を受けている窮民の数は、県下で一一七人、その内訳は表1-4のようであった。

 備荒儲蓄法及び同法施行規則中の改正

 明治二三年法律第五号によって備荒儲蓄法は一部改正された。これにより備荒儲蓄金は中央儲蓄金と府県儲蓄金によって構成されることとなった。中央儲蓄金は、明治二二年度までに政府が毎年三〇万円を支出して形成した儲蓄金とこれより生じた利殖金で成立し、地方儲蓄金は府県が同二二年度までに国庫配附金及び公儲金により形成した儲蓄金とその利殖で構成したものである。これは、中央も府県も儲蓄金の蓄積が相当の額に上ったので、明治二三年からは国庫の支出と府県公儲金の徴収を廃止しようとするものであった。
 県では、明治二三年(第三一回)臨時県会に備荒儲蓄法施行規則改正案を提出した。改正点は公儲金の廃止であった。さらにこれに伴う同予算の更正予算案を提出したが、その中には従来儲穀用として設置していた西条・長浜・吉田三か所の倉庫及び付属器具が不要として公売見込みの雑収を計上していた。県会では更正予算中の「公売の見込み」を「公売」にせよとの修正をしたほか、減税になる両議案を可決、確定議としていた。

 罹災救助基金法施行規則等の制定

 明治三二年三月法律第七七号をもって罹災救助基金法が公布された。もともと備荒儲蓄法は、二〇年を限り有効なものとされ、満期後には各府県の儲蓄金は府県会の議決をもってその保存方法を定むべきものとされていた。ところが、備荒儲蓄金は、凶荒罹災に際して府県住民に多大の便宜を与えてきたほか、住民の有力な共有財産たる性格を有してその設置より管理・維持は府県会の議決するところで、府県自治の重要な物質的基礎となっていた。また、政府においても、罹災者救助の方法として、主として住民相互の共同出資によるこの自助的資金を活用することは極めて必要なことであった。このため、政府は、明治三三年をもって消滅する備荒儲蓄金を新法によって存続しようとしたものである。
 罹災救助基金では、支出すべき費目として、新たに避難所費・被服費・治療費・就業費を加えたが、一方地租を納め得ない者に対する租額補助や貸与は廃された。すなわち、従来の地租完納援助の機能は削除され、もっぱら罹災者救助にその機能を集中させることとしていた。基金の最低額は五〇万円とし、一年度の救助費がその年度初めの基金高の千分の五を超過し、その支出残高が右の最低額に不足する場合には、政府が支出額の一部を補助金として交付することとなった。救助の方法は、法律によるほか、内務・大蔵両大臣の認可を経て府県令を発布し、支出の方法と限度を定めることとした。必要の場合には、市町村長をして実際の救助をなさしめ、その費用は府県が支出するのが例であり、その経費を当基金で支出することとなっていた。この制度は、たびたびの災害に大いに活用されたのである。またこの基金は、制限額以上に達した府県では、その年度初めの超過額二分の一を限り主務省の認可を受けて、一〇か年以内の期限で府県の災害土木費その他の事業費へ利子付きで貸出することを許された。この制度もまた、しばしば活用されたのである。
 愛媛県では、明治三二年九月九日、罹災救助基金法施行規則(資社経下四〇四ページ)を令達した。
 この県令は、明治三二年改正府県制第一四三条の規定「此ノ法律施行ノ際府県会及府県参事会ノ職務ニ属スル事項ニシテ急施ヲ要スルモノハ其ノ成立ニ至ルマテノ間府県知事之ヲ行フ」により、県知事大庭寛一が専決し、内務・大蔵両大臣の認可を経て定められたものであった。また同日、県訓令第四六号「罹災救助規程」(資社経下四〇五ページ)が令達された。
 規則による支給方法をみると、避難所費は相当建物の借入れまたは仮舎の建設及び必要需用に対する実費、罹災者に対する焚出しまたは食品給与は通算三〇日以内で、飯糧給与内容は一三年以上・七〇年未満の男子が一人一日白米四合、女子及び一三年未満・七〇年以上の男子が一人一日白米三合以内とした。薬代は一人一日につき三銭以内であった。被服については、時服一組で費額一人二円以内とされた。治療費は、入院料・診察料・薬価及び治療品代・手術費等の実費、小屋掛料は一戸六円以内、就業費は一戸一〇円以内とそれぞれ定められていた。

表1-2 明治13年度備荒儲蓄金収支予算

表1-2 明治13年度備荒儲蓄金収支予算


表1-3 備荒儲蓄法施行以来給与人員並ニ金員調書

表1-3 備荒儲蓄法施行以来給与人員並ニ金員調書


表1-4 現在救助ヲ受クル窮民ノ数

表1-4 現在救助ヲ受クル窮民ノ数