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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

四 災害復旧と治水計画

 災害と治山治水事業

 風水害が年中行事のように毎年襲ってくる我が国においては、治山治水事業を確立することは最重要課題の一つであった。明治新政府は、明治六年一一月、内務省を設置し土木行政を所管させたが、全般的にみて、明治年代の後半に至るまでは、政府は諸政の改革と幾多の多難な事態に忙殺され、また国・地方を通じて財源の涸渇も影響して、土木事業の進展は遅々としたものであった。そのうち、治水事業については、大災害を背景として最も早く制度が整えられてきたのである。
 明治六年大蔵省番外達で公布された「河港道路修築規則」は、同九年六月には廃止されたが、治水の第一歩を示すものであり、一等河川については、その費用は地方が分担するが、工事施工は国の事業として行う法体制の基礎をなし、国家が治水を統一的に施工する方向を指したものであった。国は財政的制約もあってもっぱら淀川・利根川など大河川の直轄工事を主軸とし、中小河川はほとんど地方団体の自主性にゆだねられた。
 明治二〇年代になると、激甚水害が頻発し、治水問題が表面化した。同二八年九州大水害を契機に、河川管理・使用・工事施工の統一法規として、翌二九年四月「河川法」が公布された。つづいて翌三〇年には「砂防法」・「森林法」が制定され、ようやく治水関係法が整備された。しかし、財政的には治水事業の拡大は困難で、根本的・長期的な治水政策は、明治四三年の大水害を契機とした明治四四年の第一次治水計画によって、はじめて確立されたといえる。
 この計画によれば、国の直轄改修河川を六五河川とし、当時の財政力から全部を一挙に着工することができない事情のため、第一期二〇河川、第二期四五河川に分け、順次着工することとした。愛媛県には、第一期河川はなく、第二期河川として肱川が認定されたのみであった。

 非常災害と復旧事業

 明治一一年制定の地方税規則中には、非常災害対策に関する支弁費目はなく、河港道路堤防建築修繕費の費目により、府県は対応していた。また、区町村では、いわゆる区町村協議費の中で自主性に委ねられていた。非常大災害において、府県が負担に耐え得ないと判断されたときには、政府から臨時的に国庫補助金が支給されるにすぎなかった。愛媛県では、明治一二年七月四日、県布達甲第一一二号で「河港道路堤防橋梁修築規則」(資近代1七四四ページ)を制定し、県道以上の道路及びその道路に架渡する橋梁、道以上から他の県道以上へ通航すべき港湾埠頭、布達により指定する河海堤防について、官費及び地方税による修築を行うこととした。
 ところで、愛媛県における地方税土木費支弁の区域は、従来から旧各藩の慣行によるもので、大別すると、伊予国一円は旧藩費補助の慣行があり、讃岐国では(小豆郡を除く)六官四民、あるいは四分米取立等の制度の箇所をことごとく地方税支弁としていた。ただし、讃岐国の場合は修理届け出のたびごとに精査し、旧慣行の証跡を確認した上で地方税支弁対象としてきた。そのため統一性を欠き、権衡の宜しきを得ない状態で、県発足以来、この問題は大きな懸案となっていた。明治二〇年、県知事藤村紫朗は、この難問を解決するために、地方税土木費支弁区分法案と、同時に町村土木事業を助けるための土木補助法案を、通常県会に諮問の形式で提出した。内容をみると、地方税支弁には、国道及び県道並びにこれに属する橋梁、三津浜・今治・長浜・八幡浜・宇和島・高松・丸亀・多度津の八港湾、土器川・重信川・肱川・香東川・石手川の五河川がそれぞれ対象とされた。また、地方税補助対象としては、加茂川以下三五の河川、越智郡桜井海岸など五五海岸、国道線久米郡志津川村~県道線伊予郡灘町など一五道路橋梁などがあげられていた。この諮問案に対し、県会では第二次会審議で、常置委員会報告案をはじめいろいろの修正説や疑義が提示されたが、一応常置委員会報告案が可決された。ところが第三次会にいたって、平塚義敬から「元来土木費ノ事ハ改正ヲ望マサルニ非サレトモ、原案不完全ナレハ(明治)二一年ヨリ之ヲ実施スルコト能ハス」との廃棄説が提案され、多くの議員の同意を得て論戦となった。表決の結果は、四〇人の過半数で廃棄説が可決された。決議報告では、「(両諮問案ハ)重大ノ事件ニシテ区分ノ適否一朝認メ難キヲ以テ、本年ハ改正ヲ見合セ旧慣ノ儘ニ据置クベシトノ決議ヲナセリ」とあって、懸案解決は将来に持ち越されたのである。
 明治二三年一月、「地方経済ニ於テ非常災害ノ為メニ要スル土木費借入ノ件」(法律第三号)が公布された。これは、府県において非常災害のため臨時の土木費を要し、一時地方税負担に堪え難き場合には、府県知事は府県会の議決を取り、内務大蔵大臣の認可を得て、一〇か年以内の償還期限をもって借入金をなすことができるものであり、非常災害に限定されているが地方財政に初めて府県債の制度が設けられたものであった。また同法では、借入金方法として府県の備荒儲蓄金よりの借り入れを認めていた。
 愛媛県の場合、明治二六年の台風被害対策費として、四六万三、一三七円の国庫補助金が支給されたが、なお不足分は同法が適用されて、備荒儲蓄金より一四万五、〇〇〇円を借り入れ、一〇か年にわたって県税で償還されたケースがあった。
 国として制度的に災害復旧の補助制度が確立したのは、明治三二年の災害準備基金特別会計法と、それに基づく勅令第一六○号の災害土木国庫補助規程の制定であった。災害準備基金特別会計は、日清戦争の結果、清国から取得した賠償金の中から、一千万円を基金として設置したもので、その仕組みは、災害のために租税を特免した場合に生ずる歳入欠損の補填及び府県の災害土木費の補助に要する財源の補充に使用することとし、災害準備基金が一千万円以下に減少した場合には、これを一般会計から補填するものとされていた。また同時に規定された国庫補助規程は、当時すでに府県災害土木費が年々多額にのぼり、その補助に制限がないため、乱費に流れる傾向があるので、これを規制し、補助に統一を与える目的のものであった。その大要は、府県の災害土木費が当該府県の地租年額の一〇分の三を超えるときは、その超過額について、地租額と同額までは一〇分の四以内、地租額を超える部分の金額に対しては一〇分の五以内を補助する、いわゆる累加逓増方式で、また二年以上引き続き地租額以上の災害を受けた府県については、以上の補助の割合で算出した補助額の三分の二以内を増額できるものとしていた。
 ところで、明治期における愛媛県では、「地租年額ノ一○分ノ三」は約二〇万円に相当するもので、この規定では稀有で巨大な台風災害以外には土木費補助はないことを意味しており、事実その適用例はなかった。また、先述の河川法・砂防法にも国庫補助金が伴っていたが、本県には河川法に基づく国庫補助は全然なく、砂防法による補助が明治三九年以降毎年下附されているにすぎない。

 土木事業関係規則の整備

 明治二六年台風災害復旧を契機に、愛媛県では、土木事業関係規則の整備を図っていった。まず、明治二六年通常県会には、復旧土木費の臨時県会開催を前提として、水害のため破壊した河川堤防仮止め工事費支弁の件を諮問した。これは、町村または人民協議による仮止め工事をした個所についての地方税支弁の問題で、町村水害土木費補助基準を提示したものであった。議会は、諮問案のうち「地方税負担ノ河川堤防ニシテ町村又ハ人民協議ヲ以テ仮止メヲ為ササレバ地方税ヲ以テ仮止メ為スベキ必要ノ個所ニシテ、復旧工事ニ利便ヲ与フル個所ニ限ル事」と補助基準を厳格にする一部修正を答申していた。さらに、同じ県会では、町村長に地方税支弁の土木工事を検視させる建議が決議されていた。
 明治二七年一月の臨時県会には、当初、先の答申を基に町村水害土木費補助規則を提案する旨告示していたが、新任の知事小牧昌業は、開会前日、提案告示を取り消し、この規則の議会審議を見送った。その背景には、膨大な復旧予算の編成上の問題及び支弁区分の不明確な状況を踏まえ、県当局としては補助規則の公表を避け、町村水害土木費補助の際の参考基準にとどめようとする配慮がなされたものと考えられる。
 明治二七年三月臨時県会で、総額七〇万円余の水害復旧関係追加予算が議決されたが、その執行に当たった県当局は、工事施行の適切な運用を図るため、明治二七年告示第四八号「土木事業請負規則」(資近代3四二~九ページ)を布達するとともに、県訓令第二〇号「工区規程」(資近代3四九~五〇ページ)、同第二一号「町村水害土木費補助工事施行及補助金請求規定」、同第二四号「水害土木費出納規程」を各郡町村に布達していた。さらに、明治二八年一二月には、二訓第四五一号「土木工事施行方に付注意」(資近代3五三~五ページ)を発し、郡に対し工事施行の順序、工事設計方法、工事監督方法、水面埋立の際の検査方法などについて詳細な注意を促していた。
 機構面では、明治二九年六月より県下四か所に土木出張所が設置された。その目的は、土木工事の設計及び施行、工事監督その他土木に関する事件を調査するためとし、第一区の出張所は県庁内務部第二課内に置き、中予七郡の管轄、以下第二区は西条町で東予六郡、第三区は大洲町にあって喜多・西宇和・東宇和三郡、第四区は宇和島町にあって北宇和・南宇和二郡を管轄した(資近代3五六ページ)。また、明治三〇年通常県会に、県当局は土木技師雇用の諮問案を提出し、満場一致で可決答申を受けたので、土木工事に要する県吏員を置く「県吏員設置規定」を提出し、可決を得ている。また、同県会では、県費負担の河川海岸港湾調査のための「臨時土木委員設置の建議」が決議され、県はこれを受け入れ、臨時委員五名を置く「県委員設置規程」を提案し承認を得た。こうして土木事業推進の機運が次第に整えられてきたのである。
 なお、かねてから懸案となっていた市町村土木費補助規則については、県当局は、日清戦争後の戦後経営の重要事業として、土木施設奨励を理由に、里道改修・新築を企画する市町村に対する補助規則を明治二九年臨時県会に諮問し、修正答申を得た。その結果、同年八月、県令第六三号「市町村土木費補助規則」(資近代3五六~八ページ)を布達し、土木事業促進の基盤が整備された。同年一一月には、県令第七七号で「河川海岸港湾及堤防取締規則」が布達され、愛媛県における土木関係法令の整備が一段と進捗することになった。

 災害土木費補助規則の制定

 明治四四年三月、未曽有の激甚災害の発生を背景に、新たに「府県災害国庫補助ニ関スル法律」が制定された。この法律は、「政府ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ府県災害土木費ノ一部ヲ補助スルコトヲ得」との一条だけの法律で、その運用のすべては勅令に委ねられていた。当時の制度の特徴は、第一に、補助対象の事業の範囲は、府県・市町村・市町村組合・町村組合・水利組合及び市町村の一部負担に属する工事であること、第二に補助の方法について、市町村等の工事に対する補助金は、府県に補助するいわゆる間接補助制度であること、第三に災害復旧は原形復旧主義であることなどであった。
 愛媛県では、明治四三年通常県会において、いわゆる二二か年継続土木事業更正がなされたが、その関連で建議を得た県当局は明治四四年県令第一五号「土木費補助規則」(資近代3四四一~四ページ)を布達したが、併せて県令第一六号「災害土木費補助規則」(資近代3四四四~六ページ)を定め、布達した。これによれば、市町村・公共組合の工事にして災害のため復旧を要する土木費の県費補助が初めて明記された。工事対象は、河川・港湾・道路・樋管常設堰タイとされ、補助額、原形復旧主義等が規定された。
 このようにして、国・県のレベルで災害復旧制度の整備が図られてきたのである。