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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 干害と風水害

 明治六年の大干害と風水害

 明治六年、愛媛県は未曽有の干害と風水害に襲われ、県下全域にわたって大きな被害をこうむった。被害状況の詳細は不明であるが、「愛媛県紀」によると概要は次のようであった。
 この年二、三月ごろから潤雨なく、県下の河川、沼池はしだいに減水して、溝渠まったく乾涸の状態となった。五、六月になっても雨はなく、稲播種の養水を得ることができず、県下一円は深刻な水飢饉の様相を呈してきた。数万頃の田地は干上がって亀裂を生じ、たまたま泉水を汲んで田植えをしても枯萎し、そば・大小豆などの雑穀を播いても炎日のため生育しない状況となった。特に島嶼部においては酷烈で、農業用水はもとより、井戸水が涸れて飲料水に窮する有り様で、民間では朝に養水の役に奔走し、夕に祈雨の祭に労苦するなど悲惨をきわめた。長い干天のあと、六月下旬から七月上旬にかけて、東予地方には暴風雨が来襲、諸川氾濫被害いちじるし(新居郡誌)とあり、一時小雨を得たと思われる。
 八月二九日午前四時ごろからにわかに大雨となり、干天の慈雨と喜ぶ間もなく、八時ごろより西北の風が加わって雨足が激しく、一〇時ごろには激しい暴風雨となった。風勢は午後四時より西南に転じ、八時ごろには静穏となった。この暴風雨のため、県下の各河川がはん濫、海岸部では高潮に襲われ、各地で大きな被害を受けた。特に被害の大きかった越智郡今治村では、激浪のため防潮堤が決壊し、家屋の流失六〇戸、破壊四八戸、被害者一七三人を数えた。その後、一〇月二日午後六時ごろから県下一円に東風が吹きはじめ、夜半一二時ごろには激しい暴風雨となり、翌三日午前四時ごろおさまった。この暴風雨は県下各地で被害を出したが、特に重信川流域の浮穴郡北方村字中村では、家屋の流失一八戸の被害を受けた。
 県では、この大旱と両度の暴風雨の被害をみて、秋の収穫期に係官を現地に派遣して調査した結果、救済措置として、被災田畑五三一町歩余について租税の減免を行うとともに食糧・種子等を供給した。しかし、これらの救済措置は充分でないため、種籾・作夫食米の貸下げを政府に歎願していた。
 まず、明治六年八月の蕎麦種代貸付の伺い出は、総額四六六円一二銭六厘(田一反につき蕎麦種四升、一升につき代金五銭五厘)で許可された。翌七年一月伺い出の種籾代貸付については、五万四、三三六円一五銭(一反につき平均九升、蒔籾一石につき二円七五銭替)で禀請したところ、調査不十分として内務・大蔵両省貫属三名が派出調査にあたった。その結果に基づき、同年四月再度禀請していた。それによれば、対象は一三五か村、反別二、二五六町余、籾高一、五七九石余、代金にして五、一八二円一七銭(一反につき七升、蒔籾一石につき三円二八銭一厘二毛五糸)と約一〇分の一に査定されて、五年賦貸下げが指令された。さらに、同七年二月、夫食米貸付けの伺い出については、全県下対象に男子一八万六、一二一人、女子三三万二、二一九人(内七万九、七六六人は一五歳以下、六〇歳以上の男で女の部に入れる)で、米六万一、一四〇石余、代金二六万一、〇〇三円八一銭余を要望していた。内務・大蔵省では調査不十分として官員を派遣して調査した上で、再度禀請を命じた結果、同年五月、越智郡大浜村外一九か村についてのみ貸下げを認め、男八〇七人、女六四九人を対象に米一七一石余、代金七三二円四二銭四厘について許可指令を出していた。
 以上二件については、両省指令において、「最前申立ノ次第概数トハ乍申甚以不調査ノ段不都合ノ至ニ候、以後右様疎漏無之様厚ク注意可致事」と県の伺い出について厳しい注意指令が下されていた。県の伺い出が疎漏であったのか、国の査定が厳重であったのか詳細について論評は難しいが、いずれにしても厳しい干害であったことは事実であり、明治六年の大干害は、のちのちまで語り草となっている。

 明治一七年の風水害

 明治一七年八月一〇日及び二五日に、台風が西日本を襲った。八日一〇日の台風は、九州南部に上陸、四国南岸を経て北東に去った。二五日の台風は、九州北部を通り、鳥取県境港付近より日本海に出たもので、県内には大きな被害をもたらした。被害が激しかった主たる原因は高潮によるもので、その全貌は明らかでない、このなかで温泉郡山西村字大可賀新田では、午後一一時ごろ、高潮のため北西の堤塘が一時に決壊、一帯は潮が充満し、戸数約七〇戸のうち溺死者五三人、家屋の流失四九戸、由畑流失約五三haの被害を一瞬のうちにこうむり、部落壊滅の大惨状となった。このほか、各地の海岸部は軒並み浸潮されたようで、三津浜港の堤防崩壊、伊予郡内では浜村字新田で四〇haが荒廃、尾崎村で家屋流失約二〇戸、串村・大久保村で家屋流失・破壊七〇戸、西垣生村今出で死者九名。西宇和郡内では死者三一人、家屋の倒・破壊数十戸、田
畑流失一三九ha。東宇和郡田之浜浦で溺死者五人、同高山浦で家屋流失七八戸などの惨状を呈した。
 愛媛県では、同月二七日、松山監獄署の囚徒数百名を救援活動に出動させ、温泉郡大可賀海岸の死体収容と和気郡三津浜港の災害復旧に当たらせた。さらに、一一月一七日に特別常置委員会を招集し、総額二一万余円の土木費追加予算を撮出した。審議に当たった常置委員会では、工事の必要性を認めたものの、費額が過大のため目下民力の能く支えるところに非ずとして、委員の実態調査を基に応急修理にとどめることとし、予算を大幅に削減して、わずか三万九、一六八円の決議にとどめた。これを受けた県令関新平は、ただちに総額一五万三、九〇六円余の追加予算案を作成し、一二月一八日付けで「明治一七年度地方税収支予算追加議案常置委員会決議不認可ノ事由具状書」を内務省に提出、同二六日内務卿山県有朋から認可を受け、災害復旧を強行したのである。

 明治一九年の風水害

明治一九年九月一〇目に襲来した台風は、九州の南東部より豊後水道を経て、広島県西方を通過し日本海に出たもので、本県はその直撃を受けた。そのうえ、九月二二日から長雨となり、二五日にいたってようやく回復したが、各地で河川が増水し、立岩川(風早郡)、石手川(温泉郡)の堤防が決壊したほか、肱川がはん濫し、大被害をこうむった。立岩川の場合、九月二二日に堤防約一、三〇〇mが決壊し、神田・波田・八反地の三村で溺死者九名、家屋流失十数戸、田地流失四五haにおよんだところ、同二五日には尾儀原・才ノ原村等の流域各村が大洪水に見舞われ、溺死者一八名、家屋流失七百戸、田畑流失二九四haを加えていた。石手川は二三日に決壊、石手村ほか四か村で浸水、溺死者十数人におよんでいた。
 最も激しい被害があったのは、喜多郡櫛生村であった。九月二四日午後一一時ごろ、須沢川の上流である谷の奥で幅二七〇mにおよぶ大規模な山崩れが発生、山裾の須沢部落を直撃した。このため、死者三九人、家屋の埋没等七二戸の大惨事となった。
 県当局は、災害復旧のため、同年一〇月臨時県会を招集し、土木費二四万四千余円と町村土木補助費二万五、六〇〇円を追加計上して審議を求めた。議会は、原案では到底民力が耐えられないとして土木費追加を一五万四千余円に減額、町村土木費補助を削除した。県知事関新平は、やむを得ずこれを認可したが、これでは施行上差しつかえが生じるとして国庫補助を内務省に求めた。議会もまた、満場一致で国庫補助請願の建議を決議した。 内務省では、愛媛県の要請を入れて、同二〇年二月、「特別之詮議ヲ以テ工事補助トシテ金四万五千七百円可下渡事」と指令を発していた。

 明治二六年の風水害

 明治二六年一〇月一四日襲来の台風は、一四日朝九州の南部から豊後水道の南部に達し、本県全域を暴風雨圏に巻き込み、一五日に四国沖を南東方に去った。被害状況の詳細は定かでないが、九州・四国地方の被害は甚大であった。本県では東・中予、とりわけ東予地方の被害が激甚で、明治期で最大の大災害となった。それは、明治二七年三月開催の臨時県会に提出された災害復旧土木費追加予算の額で推察される。議案説明書によれば、「客年十月洪水海嘯ノ為メニハ県下至ル所其害ヲ被ラサルナク、就中新居周布桑村越智野間風早久米下浮穴郡ノ如キハ未曽有ノ災害ニシテ、地方税及ヒ町村ノ負担ニ属スル道路橋梁河海堤防樋閘用悪水路井堰等ノ破壊シタルモノ最モ夥ク其地方税負担ニ属スル道路橋梁堤防樋閘而巳ニテモ破損七千有余箇所ニ及ヒ云フヘカラサル惨状ヲ呈セリ」と概観している。県当局が係官を派遣した結果、復旧工費の予算は実に五一万九、六四八円余に達し、長浜港のごときは関係者負担に放任した場合には、復旧の見込みなく廃港に帰する壊滅状態であるとしていた。また、町村等の負担に係る復旧土木費については、一六万七、六七五円余の算定となっていた。
 県当局は、災害復旧予算として総額七〇万円余の超大型追加予算を組んだが、収入には、地租割・戸数割・営業税・雑種税の追徴では不足したため、ついに県政開始以来初めて県債発行に踏み切ったのである。金額は一四万五、〇〇〇円で八か年償還とし、県備荒儲蓄金よりの借り入れとしたのである。災害復旧は、単年度で終結せず、精算と繰り越し、増額を重ね、明治二八年度に至りほぼ九〇余万円の費用を要してようやく処理を終えた。なお、これに対する国庫補助の総額は、結局四六万三、一三七円の巨費に上っていた。
 この激甚災害に対しては、同年一〇月、天皇・皇后両陛下より御下賜金一、〇〇〇円が下され(県告示第一二六号)、また水害視察として片岡侍従が差し遣わされることとなった(県告示第一二七号)。

 明治三二年の風水害

 明治三二年八月二八日、四国地方に台風が襲来し、高知・愛媛・香川の三県に多大の被害をもたらした。東予地方は、二八日午前九時ごろから雨が降り出し、午後七時ごろには東風が強まって暴風雨となった。午後八時ごろ、北風に変わると風雨はますます強くなり、山間部では豪雨となった。台風は中国地方を経て、二九日には日本海へ抜けた。台風による被害は、県内では宇摩・新居の二郡にとどまったが、特に宇摩郡別子山村の別子銅山では、足谷川流域の見花谷・両見谷・小足谷などで大規模な山崩れが続出し、死者五一二人、家屋の倒壊一二二戸、同半壊三七戸、被害総額三三万五、〇〇〇円余の惨状を呈した(新居郡誌)。愛媛県では、大庭知事の緊急視察のほか日本赤十字社愛媛県支部吉川主事以下一二名が救援に向かい、住友では新居浜分店の急報に接し、住友家総理事心得伊庭貞剛が大阪衛戌病院林三等軍医以下一二名、大阪医学校医員等一一名の一同を伴なって来援した。罹災直後から九月二日まで、別子全山の人夫のほか、新居浜・四阪島からの応援の人夫を加え、六日間延三千人をもって負傷者救出、遺体の収容に努めたが、五百有余の死者のうち二四二体を収容したにとどまったといわれている。こうした人災のほか、別子銅山は、その施設設備に大損害を受けていた。すなわち、高橋の大熔鉱炉の倒壊をはじめ精錬所機能が壊滅的な打撃をこうむった。このため、住友当局はこの復旧を断念し、製錬の中心を移しつつあった新居浜への移転実現を早めることとし、開坑以来の別子銅山の歴史の転機となったのである。
 このほか、新居郡内では、加茂川のはん濫、国領川の堤防決壊による被害も激しかった。明治三二年九月七日付け愛媛新報によれば、九月五日現在の県庁調査による被害取調表では、死者八二八名、行方不明八七名、全壊家屋二八九戸、流失家屋三四二戸などとなっており、この暴風雨は明治期における災害では、最大の人的被害を記録していた。
 翌九月上旬、天皇・皇后両陛下は、侍従を差し遣わして被害状況を視察させ、救恤金一、六〇〇円を下賜されたのである。
 ところで愛媛県会では、この風水害について、明三二年通常県会において、別子山村の災害は別子銅山の鉱害に原因があるとして技師を派遣して調査を要求する建議が提出された。それによれば、「其主因ハ、住友吉左衛門鉱業上有毒煤烟ノ為メ四国満山樹木ヲ枯ラシ水源ヲ渇セシメ、然シテ其千万多数ノ被雇人ヲ山上山腹等最モ危険ナル位置ニ粗造ノ屋舎ヲ以テ居住セシムル等ニ之レ拠ルナランカ」と趣旨を述べていた。建議は満場一致で採択された。さらに議会は、宇摩・新居郡の河川はん濫の因は、各水源山岳の崩壊に基き砂石・粘土の流出とその凝固による河床隆起にあるとして、技師派遣の調査と救済の方法を講ずる建議を提出し、これもまた満場一致で採択した。一方、災害復旧については、同年一二月臨時県会に、復旧土木費一二万七、六七八円余、郡町村土木補助費五万八、九〇〇円余、宇摩郡関川堤防改修のための継続土木費八万円余の追加予算が提出された。このうち、関川改修費については、新居郡選出議員より補助方針について疑義が追求され、結局三万円を減額修正することで落着していた。
 このように、明治三二年の風水害は、県にとっては局地的災害ではあったが、その人的損失の大きさ、別子銅山の動向、銅山のもたらした環境変化の問題など、大きな影響を与えたものであった。