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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 干害と風水害

 大正元年の風水害

 大正元年九月二二日夜半に高知市付近に上陸した台風は、四国を縦断して神戸市付近を通過、若狭湾を経て日本海へ抜けた。このため、県下では、東・中予地方を中心として暴風雨となり、河川のはん濫、堤防の決壊があいつぎ、多大の被害が出た。西条警察署管内では、溺死者四人、家屋の流失・全壊四三戸、浸水三、二二〇戸、田畑の流失七七haを記録し、西条町では町の九割方が水につかり、西条高等女学校寄宿舎が孤立したため、女学生五〇余名はボートで救出される状態であった。また角野警察署管内でも、土砂崩れのため死者六人、家屋流失八戸を数えた(愛媛県警察史第二巻)。
 県当局は、先述のように総額四〇万円余の復旧費を見積り、応急工事を施行するとともに、大正元年通常県会に約三六万円の災害復旧予算を計上し、二か年継続で支出することとした。このうち、二四万九、〇〇〇円は罹災救助基金からの借り入れによる起債を財源としていた。

 大正九年の風水害

 大正九年八月一四日朝、土佐沖に台風が襲来し、翌一五日に四国西部を通過、瀬戸内海から北東に進路を転じて日本海に抜けた。このため、県内では東・南予に大雨を降らせた。特に、南宇和郡では、一五日から一七日の三日間にわたり豪雨となり、御荘では、一五日に二二四mm、一六日二四七mm、一七日に一一七ミリという豪雨であった。御荘署沿革誌によると、一六日夕刻に僧都川がはん濫し、城辺・御荘両村は泥海と化し、家屋の倒壊・流失八戸、浸水一、〇五三戸、道路・堤防の決壊二二〇か所とあり、また東外海村大浜地区では山崩れが発生して三〇戸が崩壊・埋没するなど、同村で死者八人、家屋の流失・倒壊二三七戸、西外海村でも死者行方不明三人、家屋流失・倒壊五六戸など各地の惨状が記録されている(愛媛県警察史第二巻)。
 県では、災害復旧費三八万円余を、翌一〇年九月の県参事会急施会にかけ、可決を得て施行した。なお、財源三四万円は起債としていた。

 大正一二年の水害

 大正一二年、六月の梅雨期に入って長雨が続いていたところ、七月一一・一二両日にかけて瀬戸内付近にあった梅雨前線が、済州島方面の低気圧に刺激されて活発となり、県下に梅雨末期の集中豪雨をもたらした。このため、中・南予地方を中心に河川のはん濫・堤防の決壊があいつぎ、大災害となった。大正一二年八月臨時県会における宮崎通之助知事の説明によると、被害は、死者九人、家屋流失一二戸、同浸水約三、〇〇〇戸、田畑流失・埋没六〇九町歩などとなっていた。
 県当局は、当初この臨時県会で災害復旧予算を組む予定であったが、被害の全貌を掌握できないことや国庫補助のからみで提出を断念し、同年末の通常県会に予算を提出した。それによると、復旧費総額は約三九〇万円であった。予算では、県費にかかる直接工事費一三二万円余を一二年度に七〇万円、翌一三年に六二万円余の二か年継続で支出しようとした。また下級団体・個人にかかる復旧費は、約二二六万円の多額に上ったので、低利金融の道を講じることとして、臨時部貸付金一二五万円余を二か年にわたって計上していた。その結果、追加予算額は、昭和一二年度一〇四万円余、翌一三年度一九三万円余、計二九七万円余の巨費となった。その財源は、国庫補助金が約三〇万円、起債が二三〇万円、その不足分を県税の増徴によることとしていた。

 昭和三年の風水害

 昭和三年は風水害にたびたび見舞われた年であった。六月二五日から二八日にかけての豪雨では、大洲・八幡浜周辺は総降水量四〇〇mmを越すもので水害となった。八月一八日には、台風が足摺岬付近に上陸、松山の東方を経て瀬戸内海から日本海に抜け、八月二九日から三〇日にかけては、台風が佐田岬を通り、広島・松江を経て日本海に入った。こうした四度にわたる風水害で県下各地は非常な災害を受けた。
 愛媛県では、復旧費総額一二六万余円を昭和三年度六二万円、翌四年度六四万余円の二か年継続事業として予算化し、起債一一八万円余その他を財源に当てていた。

 昭和九年の干害と室戸台風災害

 昭和九年は、五月以降から降雨量が非常に少なく、七月一三日、同二四日に多少の降雨があったが、稲の植付け不能は一、〇〇〇町歩、遅延するものが一万町歩以上となった。その後八月末まで夏型の天侯が続き、若干の降雨があったものの平均部では雨量少なく大干害となった。旱ばつによる被害面積は、水稲のみで三万五、一六八町歩におよんだ。県当局が九月一日現在でとりまとめ、農林省に報告した県下農作物の被害状況は、水稲一、一八八万余円(減収四五万石余)など総額一、六七〇万円におよぶものであった。関係者は応急対策を講じてきたが、被害の増大に危機感をつのらせ、異例の臨時県会開催を求め、国への意見書を決議するとともに、西日本一〇県と共同して政府関係先に大規模な陳情を行った。
 こうした矢先の九月二一日、四国・関西地方は超大型台風、室戸台風の猛威にさらされ、激甚な被害をこうむったのである。台風の中心は、室戸岬の西方より四国に上陸、淡路島・大阪を通り、同日夕刻金華山沖に出た。中心の西方にあたる本県でも、松山では最大風速二二・八メートル、降雨量一八二mmが観測され、東予地方では三〇〇~五○○mmの降雨と最大風速三〇メートル以上の暴風雨となった。この台風は未曽有の大型台風であり、その被害は三九府県にもおよんだ。被害状況をみると(気象庁編日本気象災害年表)、死者・行方不明三、〇三六人、家屋の全壊・流失四万三、〇四八戸に達し、損害額は七億円を越えた。
 県内でも、死者・行方不明三〇人、家屋全壊八五戸、同流失七一戸、農作物二割減収九〇一町歩などの大被害を受けたのである。
 このように、待望の雨ではなく、旱害に加えて風水害と二重の災禍を受けたため、その災害対策は一層厳しさを増すこととなった。
 ところでこの昭和九年という年は、我が国全体においても災厄の年であった。室戸台風をはじめとする大小十数回の台風とそれによる北陸の大水害と関西の大風水害、東北地方の冷害、西南日本の干害と枚挙にいとまがなかった。このため政府は、第六六臨時帝国議会を召集し、深刻な地方窮乏の緩和を図るため、災害対策事業を行うこととした。国費配分については、各地方から熾烈な陳情運動が展開されたが、政府は四六府県を窮乏の度合いにより三種に分け、それぞれ別に定める標準によって事業量を分配したのである。本県は、第二窮乏地方、特殊の地域を除いて窮乏著しい府県、一四県の中に位置づけられていた。
 昭和九年通常県会において議決された災害対策関係費は三件で構成されていた。第一は、室戸台風災害土木費で、総額九一万円余、財源は国庫補助二四万円余と六六万八、〇〇〇円の起債などをあて、二か年継続事業であった。第二は、いわゆる旱風水害対策事業費二三七万円余で、財源は国庫補助二〇六万円余と起債約二〇万円などであり、これは三か年継続のうち二か年分について判明しているものを計上していた。第三は、災害対策施設費二五万円であった。これは、前記の二議案に不満を持った県会の突きあげを受けて、県当局が妥協の産物として提出したものであった。なお、提案説明に立った知事一戸二郎は、第二の旱風水害対策事業費について、現在判明している三か年分を合算すると、国庫補助金の総額が二一四万六、〇〇〇円で、事業費の総額は約四四〇万円に
達すると述べていた。

 昭和一三年の風水害

 昭和一三年は数次にわたって風水害に見舞われた。七月三日~五日にかけての集中豪雨で、東予地方を中心に死者五人の被害、八月一日の暴風雨では南予地方の被害が甚大で明治一九年以来の大洪水と称せられ、死者一六人、家屋の流失・倒壊一八三戸、浸水家屋七、九四二戸、耕地被害四、五〇〇余町歩におよび、被害総額四五二万円に達した。さらに八月二八日及び九月五日の台風では、今度は主として中東予地方の被害甚大で、死者五人、家屋の流失・倒壊一〇五戸、浸水家屋五、七〇〇戸、耕地被害四四一町歩に及び、被害総額四〇五万円余に達したのである。
 県当局は、応急施設として一〇万円余の措置をとるとともに国に対する災害補助を強く要望した。その結果、一〇九万円余の国庫補助内定を得て、一三年通常県会に総額三〇六万円余の災害復旧費を計上した。内訳は、県施行分が約二八〇万円、町村に対する補助二六万円余としていた。その財源をみると、国庫補助を除く一九七万余円全額を起債に求めていた。なお、この県会では、新規施策として水害防除施設費三〇万円が計上追加され、水害激甚の二十数河川の改修が開始されることとなった。

 昭和一四年の干害

 この年七月初めから夏型の気圧配置で西日本では高温寡雨の状態となり、近年まれにみる干ばつとなった。本県では、植付け不能七八二町歩、植付けはしたものの収穫皆無に陥ったもの四、二一七町歩、五~七割減収のもの三、四五〇町歩、五割未満減収のもの一万〇、五六五町歩に及び、九月二〇日における県下の水稲収穫予想は、平年作に比し二四%の減収を算するに至った。農作物全般の被害額は一、九八〇万円の巨額に達する状態となった。
 この干害対策として県当局は、八月急施参事会、一〇月臨時県会などで二二一万円余の追加予算を決議、さらに翌一五年一月臨時県会で五一万円余を追加、総額二九〇万円余の予算を計上した。その財源は国庫補助金一九八万円余、県債七三万円余などとしていた。

 昭和一六年の風水害

 この年は、六、七、八月の降雨出水、八月一五日と一○月一日の台風により大きな被害を受けた。特に一〇月の台風は、鹿児島湾から九州南部に上陸、間もなく北東に進路を変えて広島県から鳥取県西部を通り日本海に出た。本県では、九月二八日から台風の影響を受け、総降水量
は東予及び南予で二五〇mm前後に達し、海上は暴風となり大災害を受けた。死者五人、行方不明七一人、家屋全壊二一八戸、浸水五七三戸、船舶流失沈没七七隻等の被害であった(気象要覧)。
 県当局は、土木復旧費を総額一八九万円余と見積り、同年通常県会に追加予算を計上した。その内訳は、県費工事費が一二七万円余、市町村分復旧費六五万円に対する県補助四八万円などとなっていた。その財源は、国庫補助金九一万円と県債を充てていた。

 昭和一七年の風水害

 昭和一七年は、六月一四日の中南予豪雨、八月二七日から二八日にかけては九州北西部を通過した台風、九月二一日に足摺岬の東海岸に上陸し、本県を縦断し中国地方東部から日本海に達した台風などにより、県下全域にわたって大きな被害をこうむった。被害を合わせると、死者一三人、家屋の流失・全壊一一八戸、家屋の浸水一万六、〇四六戸、田畑浸水一、五〇三町歩におよんだ(気象要覧)。
 県当局は、土木災害復旧費総額四六二万円余と見積り、同年通常県会に提出した。内訳は、県関係が三三三万円余、市町村関係一二六万円余に対する県費補助九六万円余などで、財源は約半額二三〇万円余の国庫補助金と残額は起債に依存していた。

 昭和一八年の大水害

 昭和一八年九月に発生した水害は、県史上で空前の大災害をもたらした。七月二一日に四国南方八〇〇㎞の海上に達した台風は、迷走・停滞したあと、二四日に愛媛県下を北上して中国地方から日本海に去った。中・四国地方と九州東海岸では、台風と不連続線の活発な活動により、二一日から二四日にかけて降雨が続き、各地で記録的な豪雨となり、大水害を引き起こしたのである。四か日間の降雨量(二四日午前一〇時観測)をみると、宇和島九四二mm、野村九〇五mm、城辺八七〇mm、宇和町七四六mm、松山五四〇mm、東予平地部三〇〇~四〇〇mmであり、八幡浜・大洲は洪水のため観測値が出ていない(気象要覧)。
 肱川上流における雨量は七〇〇~八〇〇mmに達したものとみられ、大洲における水位は二三日二六尺、二四日には二八尺となり、大洲盆地は一大湖水と化し、街は水中に浮かび、舟によって救援が行われた(なお、肱川出水量記録としては、明治一九年九月一一日の三二・四尺が計測されている)。罹災の特に激甚なところは松山市以西南地域県下一帯にわたり、特に重信川・肱川流域において激甚をきわめた。被害状況をみると、死者一一四人、行方不明二〇人、家屋の全壊一、一三二戸、半壊一、四五三戸、流失九一一戸、床上浸水二万七、〇二〇戸、田畑流失五、八九六ha、浸水一万八、二九〇ha、堤防の決壊一、〇七四か所、道路の損壊二、〇一二か所など、惨状をきわめた。
 さらに九月二〇日、台風が高知県宿毛付近から四国に上陸、岡山・鳥取両市を経て、翌二一日に日本海へ出た。本県では、一九日から風雨が強くなり、二〇日は暴風雨となって全般に風水害を受けた。被害状況をみると、死者・行方不明八人、家屋の全壊・流失一六三戸、床上浸水三、七七三戸、田畑の流失三二四町歩、浸水六、五四〇町歩などとなっていた(気象要覧)。

 大水害の復旧

 さて、前記の大水害について、県知事相川勝六が内務・農林両大臣あて報告した七月二九日現在の「水害状況並復旧対策」(資近代4六三一~九ページ)により、県当局の対応を次に紹介しておこう。災害当時、地方長官会議に出席していた相川知事は帰任の途、尾道よりの乗船中に最初の水害状況報告を受けた。既に今治・松山間の鉄道が不通のため、特別仕立ての船により同日夜松山へ帰着、ただちに幹部会議を開催し、迅速なる復旧を行うことや現場の状況調査に当たることを命ずるとともに、必要物資の調達について協議をしていた。
 翌二四日、全庁員を召集して水害対策に傾注すべきことを訓示し、通信・交通手段杜絶のため、各罹災地へ二人一組で緊急派遣を命じた。翌二五日、県に知事を本部長とする「愛媛県臨時災害対策本部」を設けるとともに、地方事務所にも「対策本部」を設置した。県では、復興には莫大な労力を要するとの見地から、広く勤労奉仕を勧奨して直接松山市及び付近を中心とする学徒、その他団体や町内会等を動員し、市内のトラックや軍用トラックの融通を受けて、これらの勤労報国隊を現地に輸送した。七月二九日現在までに、その人員は延二万人に及び、このほか罹災各地で学徒・一般県民がそれぞれ勤労奉仕を自発的に展開した。
 罹災者の救援については、災害発生以来、ただちに県下の医師・薬剤師を動員、県から防疫班を派遣するとともに食糧・衣料等の救援物資を送りこんだ。交通機関については、予讃線松山~八幡浜間、内子線・宇和島線はそれぞれ全線不通であったが、長浜~五郎間は八月一日に復旧見込みで、五郎~内子間の復旧を急ぐこととしていた。今後の要人員見込みは、松山長浜間一万六、〇〇〇人、長浜大洲間一万人、大洲八幡浜間四、〇〇〇人の計三万人であり、約二五日間で復旧見込みとしていたが、宇和島線については当分開通の見込みが立たないと報告していた。このため、当分の間は海上輸送に代用する方針で、予讃線開通には二か月の日数を要すると述べていた。なお、知事以下県官吏も災害復旧の現地入りし、陣頭指揮や罹災者の士気昻揚に当たったが、報告では、この際全県下にわたって勤労動員体制を組織化する必要性を論じていた。
 九月三日、県は「災害復旧並土地改良ニ関スル勤労動員二関スル件」の通牒を発し、「災害復旧並土地改良ニ関スル勤労動員要綱」の決定と大政翼賛会において「県勤労報国隊指導本部」の設置を通達するとともに、すみやかに郡市勤労報国隊指導支部を設置して運用の万全を図るよう命じている。

 風水害による愛媛県災害土木費国庫補助規程の制定

 昭和一八年一〇月二三日、勅令第七九一号により、「風水害ニ因ル愛媛県災害土木費国庫補助規程」が公布施行されることとなった(資近代4六五一~三ページ)。これは、明治四四年三月法律第三号「政府ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ府県災害土木費ノ一部ヲ補助スルコトヲ得」によって、非常災害の場合に、各個の単独で出される勅令にあたるもので、愛媛県の場合はじめて適用されたものであった。勅令の内容は、「昭和十八年七月ノ風水害ニ因ル愛媛県災害土木費ニ付テハ国庫ハ予算ノ範囲内ニ於テ災害土木費国庫補助規程ニ依ラズ県工事費ノ八割五分以内及下級公共団体ニ対スル県補助費ノ十割以内ヲ補助スルコトヲ得但シ県補助費ニ対スル補助費ノ割合ハ下級公共団体ノ災害土木費ニ対シ内務大臣ノ定ムル所ニ依リ其ノ八割ヲ超ユルコトヲ得ズ」というもので、災害土木費及び市町村等への県費補助に対して、高率の国庫補助を約したものであった。
 災害復旧費は、昭和一八年通常県会に提案された。予算の概要説明にあたった相川知事は、この未曽有の災害で学徒、各種団体、町内会、部落会および香川県の特別勤労奉仕隊の協力により、迅速に応急工事が完了したことについて感謝の意を表するとともに、「県ノ総力ヲ挙ゲテ断乎災害復興ヲ図リ、戦力増強上我ガ愛媛県ノ負ヘル使命ヲ見事ニ完遂シタイ」とその覚悟のほどを表明した。つづいて予算編成にふれ、輸送力の保全、食糧増産の見地から土木復旧事業と耕地復旧事業を最優先したと述べた。国庫補助については、土木復旧において県工事につき八割五分以内、市町村工事につき八割ないし九割以内と内定、耕地復旧において五割ないし六割五分、公共施設復旧において七割と、それぞれ高率補助が内定していた。歳出予算は総額三、四八六万円余の膨大なもので、内訳をみると、県関係土木工事費二、一四七万円余、市町村土木補助三八九万円余、災害対策施設費(耕地復旧関係)六五万円余、災害対応施設助成費(耕地復旧・公共施設復旧)七一五万円余などとなっていた。財源は、国庫補助金が二、八四五万円余で八二%を占め、残りの六四〇万円余が県債となっていた。なお、災害対応施設助成費については三か年継続事業の初年度分が計上されていた。
 ところで、この通常県会の第一号議案第一読会では、昭和一六・一七・一八年と連続するこの自然災害は、戦時下の財政不足による土木対策の不備に起因するものであるとの指摘や、災害復旧にあたって内務省と農林省とが別々の方針で復旧にあたる二元的な方針を批判し、完ぺきな根本的治水を図るべきだとする要望が出されていた。
 なお、先述のように、この災害を契機に、待望久しかった肱川改修が国の直轄工事として開始されたことを付け加えておきたい。