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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 火災と海難

 大正期・昭和前期の火災状況

 大正元年から昭和二二年までの三六年間には、愛媛県内での建物火災は、一万〇、五九八件の発生で、被災棟数一万五、九四二棟、焼失面積一一九万三、九九九ha、損害見積額は約一億四、○○○万円余の損害を生じていた。発生件数をみると、大正期は年平均三五八件であったが、昭和前期は年平均二四九件とかなり減少している。昭和一四年以降、一九年までについては詳細な統計を欠くが、大正元年から昭和一三年までの原因をみると、失火七、五七一件、放火四四八件、不審火・雷火その他五八二件となっている。原因の八八%を占める失火は、大正期年平均三二四件であったが、昭和に入ってからは漸減し、年間一〇〇件台になっている。その理由としては、防火思想・防火設備の普及のほか、電灯の普及、かまどの改
良、わら葺き屋根の減少など、生活様式の近代化による改善が進んだことによる(愛媛県警察史第二巻)。
 愛媛県では、火災予防のため、明治四四年八月に市町村に対して「役場、学校及市町村立ノ病院、隔離病舎等の営造物ニハ軽便消火器ヲ備付スヘシ」(資近代3五四四ページ)の訓令を発していたが、大正五年県政事務引継書では、「火災ニ基ク損害額ハ年々拾万円内外ヲ算シ、常ニ盗難ニ因ル損害ノ約倍額ニ相当セル実況ナルヲ以テ、従来消防機関ノ設置及軽便消火器ノ設備ヲ奨励シタル結果、続々其ノ設置ヲ見ルニ至リ、客年来迄ニ二百十七組ノ設置状況ヲ告ヶ又宿屋料理屋等ノ特殊営業者及学校、病院、興行場等ニハ殆ト軽便消化器ヲ設備スルニ至リ」(資近代3七一二ページ)と報告し、消防機関の設置や軽便消火器の設備が完備の域に達したと述べていた。

 おもな火災

 『愛媛県警察史』によると、この期の大火災としては次のようなものがあった。
 〈松山市の大火〉 大正七年一月二六日、松山市湊町五丁目の活動写真常設館の松山館から出火、折からの風にあおられて、同館を全焼、その南方の市場に延焼したあと、さらに伊予鉄道電気株式会社施設へ火の手が移り、本社屋・松山停車場・社員合宿所などを焼き尽くす大火となった。この火災は松山地方では空前の大火といわれ、負傷者三十数人、被害額は一〇万円を超えたといわれる。
 〈南宇和郡東外海村の大火〉 大正八年一〇月二一日、南宇和郡東外海村字岩水の民家から出火、強い西風にあおられて近隣に延焼し大火となった。出火の原因はかまどの火の不始末によるもので、被害状況は家屋の全焼五九棟(住家二八棟 非住家三一棟)、半焼二棟、損害見積額約六万円であった。「御荘警察署沿革誌」によると、罹災者は飢餓に頻する状況で、罹災救助並びに各地の義損によって当面の生活をしのぐ状況であると記録されている。
 〈西宇和郡伊方村の大火〉 大正一〇年一二月二四日、西宇和郡伊方村大字大浜の民家から出火、同地区一四六戸のうち六五戸を全焼する大火となった。被害状況は、家屋の全・半焼一二一棟(住家一一四棟 非住家七棟)、損害見積額約三三万円といわれた。原因はかまどの火の不始末であった。
 〈宇摩郡富郷村の大火〉 昭和八年五月一二日、宇摩郡富郷村大字豊坂で製材所から出火、折からの強風にあおられて、同地区を焼き尽くすとともに山林に延焼、えんえん六時間半にわたって燃え続く大火となった。被害状況は、家屋全焼七七棟(住家二五棟、非住家五〇棟、神社二棟)、山林焼失約三〇〇ha、負傷者十数人、損害見積額約三五万円であった。原因は、製材所の石油発動機の火花が揮発油に引火したものであった。
 愛媛県では、「愛媛県罹災救助規程」(大正一五年訓令第八七号)をはじめて全面的に適用して罹災救助を行った。
 〈北宇和郡日吉村の大火〉 昭和一〇年六月二七日、北宇和郡日吉村大字下鍵山の民家物置小屋から出火、折からの強い南東風にあおられ、街路筋を三方に燃え広がる大火となった。被害状況は、民家(住家四〇棟 非住家二一棟)、巡査駐在所・郵便局など六三棟、四、九五〇平方mを全焼し、被害見積額は約二一万円といわれた。原因については確証を得られなかった。

 おもな海難事故

 『愛媛県警察史』によると、この期のおもな海難事故は次のようであった。
 〈青島青年団員の殉難〉 大正三年一月七日、喜多郡長浜町大字青島沖の海上で、救難に出動した青島青年団員一三人が遭難し、全員死亡あるいは行方不明となる惨事が発生した。ことの起こりは、同日払暁、大しけとなった伊予灘海上の青島東方沖合いで、一隻の打瀬船が救助を求めたことにあった。難船の報で救助船が再三出動したが、そのうちの一隻が非運にも二重遭難したもので、翌朝温泉郡味生村大可賀海岸に漂着し、死亡一人が確認された。三津署では、警察船第二愛媛丸の出動のほか、近隣漁船の協力を得て捜索に当たったが行方不明者を発見することはできなかった。
 この勇敢壮烈な行為は、官民あげて強い感銘をよび起こし、その殉難を悼んだ。県知事深町錬太郎は、一月一二日、青島青年団を表彰、金五〇円を賞与した。二月一三日には、青島港前広場において喜多郡葬が盛大に挙行され、郡では青島漁業会前に慰霊碑を建立してその義挙を顕彰した。また、愛媛県水産組合と三津浜魚市㈱・伊予日々新聞社・愛媛新報社・海南新聞社の四社が発起人となり、義援金を募集して遺族に贈った。なお、殉難の原因となった打瀬船は、広島県御調郡立花村の漁船で航行不能のため郡中港へ漂着したが、全員無事であった。
 〈汽船八重山丸の沈没〉 昭和六年一二月二四日午前五時三〇分ごろ、越智郡亀山村大字名駒の龍神灯台東南約四○○mの海上で、大阪商船所有の大阪・鹿児島航路定期船八重山丸(九六四t)が、大阪商船のチャーター貨物船関西丸(大阪・岸本汽船所属八、六一八t)と衝突して沈没した。この事故は、現場が来島海峡の難所であることや真冬期の未明であり、瞬時に沈没したため、八重山丸の乗員・乗客八九人のうち、四九人が死亡または行方不明となる惨事となった。
 関西丸と付近の漁船が救助にあたったほか、今治警察署から警察船隼丸が現場に急行、今治・波止浜地区の関係者が救護、捜索に当たった。遺体収容については、翌年一月までに二三人との報告が「今治警察署沿革誌」に記されている。
 〈機船第三大和丸の沈没〉 昭和八年一月二四日午前三時ごろ、由良半島小猿島沖合い約一・六㎞の海上で、南宇和郡東外海村字深浦福山磯太郎所有の発動機船第三大和丸(五〇t)が、激浪のため転覆、沈没した。この事故のため、乗員・乗客三七人のうち自力で泳ぎ着いた水夫一人を除き、全員が死亡または行方不明となった。第三大和丸は、八幡浜・小筑紫(高知県宿毛)航路の定期船で、二三日夜半宇和島港を出港し、しけ気味の宇和海を次の寄港地南宇和郡西外海村中泊港に向け航行中であった。
 二四日、内海村魚神山漁民による漂流死体の収容や第三大和丸の行方不明で遭難が推定され、生存者の報告によって事実が明らかとなり、御荘署を中心として救護、捜索が始まり、警察船第一愛媛丸・発動機船二十数隻が一一日間にわたって捜索を行った。
 〈南宇和郡漁民の遭難〉 昭和八年一〇月二〇日朝、台風が鹿児島県枕崎に上陸、宮崎市の西方を経て県内を通過、瀬戸内に入り北東に去った。この台風のため、県下と高知県西部では、一九日夜から二〇日未明にかけて暴風雨となり、特に海上では激しく、出漁中の漁民多数が遭難し、明治四二年以来の大きな惨事となった。御荘警察署の調べによると、南宇和郡の東外海・西外海・内海三か村の漁民一、八四三人はいわし沖取網四八統として、発動機船四八隻と網船・小船など二八〇隻に分乗して、一九日夕刻から高知県幡多郡鵜来島沖合いの海域に出漁中、二〇日夜半過ぎから暴風雨に襲われた。このため、漁船四五隻(発動機船二隻、網船一七隻、小船二六隻)が沈没・流失し、死者一八人、行方不明二五人、船体・船具の損害額一一万七、〇〇〇円余の被害を受けた。
 二〇日朝から、御荘警察署・宇和島警察署は総動員で警察船第一愛媛丸ほか漁船四三隻を動員して捜索に当たっている。
 〈汽船浦戸丸の沈没〉 太平洋戦争中の昭和一八年七月一五日一一時四〇分ごろ、温泉郡難波村大字下難波の波妻ノ鼻沖合い西北約一海里の海上で、関西汽船所有の大阪・別府航路定期船浦戸丸(一、三二六t)が宮地汽船所有の不定期貨物船聖山丸(四、二三二t)と衝突、沈没した。このため、浦戸丸の乗員・乗客三七八人のうち、三二三人が死亡または行方不明となった。
 衝突した聖山丸と付近を航行中の貨物船二隻が救助に当たったほか、北条警防団などの救助船が出動した。管轄の松山西警察署では、管内沿岸市町村の警防団に出動を命じたほか、警察船第二愛媛丸を現場に急行させ、救助船の指揮にあたった。なお、遺体についてはのち、潜水作業により船内から一〇五体を収容している。