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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 干害と風水害

 昭和二〇年の風水害

 〈枕崎台風〉太平洋戦争が終わって間もない昭和二〇年九月一七日午後二時ごろ、九州南端の鹿児島県枕崎付近に上陸した台風は、中心気圧や中心付近の風速などいずれも昭和九年の室戸台風に匹敵する猛烈なもので、「枕崎台風」と命名された。九州東部を通過した台風は、一七日午後六時には愛媛県の北西端を経て、ここで進路を北東に変えて広島県に上陸、翌一八日午前六時ごろ能登半島をかすめ、本州を横断
して太平洋上に去った。敗戦直後の混乱期で気象警報業務は行われておらず、台風の通った西日本各地を中心に大きな被害を受けた。愛媛県では、一七日から暴風雨圏内に入り、松山測候所では同日午後八時四〇分に同所開設以来の最大風速二五・四mを観測し、風速計の風杯が飛散した。この時の瞬間最大風速は四二・一mであった。県下の被害状況は、死者一五九人、行方不明二三人、家屋の全壊六、九五五戸、半壊一万〇、九四三戸、流失八九○戸、田畑の流失七〇一町歩など甚大であった。
〈阿久根台風〉 一〇月一〇日、今度は中型の阿久根台風が襲来した。鹿児島県阿久根に上陸した台風は、枕崎台風とよく似た経路で北九州を経て山陰から日本海に抜け、青森県の西方で消滅した。愛媛県では、八日から豪雨となり、総降雨量は各地で四〇〇mmを超え、特に東予では、沿岸部で六〇〇mmを超え、河川のはん濫があいついだ。被害状況をみると、死者一六人、家屋の全半壊二三戸、同流失三五戸、田畑の流失四三〇町歩などであった。

 南海道大地震

 昭和二一年一二月二一日未明、南海道沖(和歌山県南方)でマグニチュード八・一、震源の深さ約三〇㎞の大地震が発生し、震動や津波により中部以西の各地で大きな被害が出た。愛媛県では、二一日午前四時一九分ごろ、震度四度(中震)から五度(強震)の地震に襲われ、被害は県下一円に及び、死傷者五八人、家屋の全半壊一、三四三戸に達する大震災となった。特に周桑郡壬生川町・国安村の被害が大きく、壬生川町では死傷者二〇人、家屋の全半壊一、三一三戸におよんだ。地震後、瀬戸内海沿岸では地盤沈下が続き、その対策に追われることになったのである。

 デラ台風

 昭和二四年六月二〇日午後一〇時三〇分ごろ、デラと名付けられた台風が薩摩半島南端に上陸、鹿児島市を通過して九州を北上、翌二一日午前六時ごろ玄海灘を抜けて日本海に去った。この台風のため、九州・四国地方は大暴風雨に見舞われ、愛媛県では海上及び沿岸で被害が続出した。特に、海上では北宇和郡漁民の遭難、青葉丸沈没の二大惨事が発生し、多数の死者、行方不明者を出した。県下の被害状況は、死者四六人、行方不明一八八人、船舶の流失一〇四隻、沈没三五二隻にのぼった。
 このうち、川崎汽船所有の門司・高浜・今治航路定期旅客船「青葉丸」(五九九t)は、六月二〇日午後九時に乗員四六人、乗客八五人を乗せて高浜港を出港、福岡県門司港に向かう途中、台風の暴風雨圏内に入り、二一日午前三時ごろ、大分県姫島東方一〇海里の海上で、激浪と突風のため転覆、沈没した。乗員乗客一三一人中の一二八人が死亡または行方不明となり、生存者はわずか三人にすぎないという大惨事であった(愛媛県警察史第二巻)。 被害大であった八幡浜市ほか一市一町一一村が災害救助法の適用を受けている。

 ルース台風

 昭和二六年一〇月一四日午後七時ごろ、ルースと名付けられた台風が、鹿児島県串木野市付近に上陸した。台風は、九州を北東に横断、午後一〇時ごろ国東半島付近から周防灘に入って山口県防府市付近に再上陸、一五日午前三時ごろ島根県を通過して日本海に抜けた。愛媛県では、一四日から暴風雨となり、佐田岬灯台では最大風速六八・九mを観測した。一〇分間平均の風速六八・九mは、我が国の地上観測では最大のものであった。東予では山間部を中心に三〇〇mm以上の豪雨と河川のはん濫、南予では強風、東・中予の沿岸部と島しょ部では高潮と風波による被害が続出した。県下の被害状況は、死者、行方不明者四四人、家屋の全半壊六、二八〇戸、流失二〇二戸、船舶の沈没・流失五六五隻、田畑埋没五〇三町歩におよんだ。被害の大きかった今治市ほか四市三町一四村が災害救助法の適用を受けている。

 昭和二七年の水害

 昭和二七年七月八日以降、梅雨前線の北上に伴って県下に降雨が続いていたが、一〇日夕刻から一一日朝にかけて前線が活発となったため、東予から中予北部にかけ一〇〇mm以上の豪雨となり、各壊が続出した。特に、松山市では海岸地区で家屋の倒壊・埋没があいついだ。高浜町一丁目水ヶ谷では、土砂流により二一戸の家屋が埋没・流失し死者八人を出す惨事となった。県災害対策本部では、一一日正午、松山市に対し災害救助法を発動し、罹災者の救助の策を講じた。県下の被害状況は、死者・行方不明一七人、家屋の全壊・流失六三戸、田畑埋没・流失一六七haなどであった。

 昭和二九年の風水害

 昭和二九年は四度にわたって台風による風水害を愛媛県ではこうむった。八月一八日の第五号、九月八日の第一三号、九月一三日の第一二号、九月二六日の第一五号の台風である。このうち、第一二号台風に
ついては、今治市ほか三市七町一五村に対し災害救助法が発動れた。また、第一五号台風は、青函連絡船洞爺丸の沈没の惨事をもたらした台風であるが、県下でも死者、行方不明一六人、家屋全半壊一、九一七戸、流失八六戸などの被害を出していて、松山市ほか四市二二町二九村と県下全域にわたり災害救助法が発動されていた。

 近年のおもな災害

 昭和三〇年以降、本県では例年台風による風水害、集中豪雨などの自然災害を受けているが、幸いにして大災害に至らず推移している。このうち、災害救助法の発動のあったものをみてみると、昭和三〇年九月の台風第二二号による水害による松山市、昭和四七年九月の集中豪雨水害による今治市・玉川町・朝倉村、昭和四九年九月の台風一八号風水害による伊予市と三崎町、昭和五一年九月の台風第一七号と集中豪雨による新居浜市・東予市・丹原町・玉川町・菊間町などの事例がある。
 また、干害としては、昭和四二年六月から九月にかけて、松山気象台始まって以来の異常干天となり県下全域とりわけ南・中予地区で激甚な被害をこうむった。被害総額は農作物、主として果樹を中心に二五五億円におよんでいた。南予地域の干害は、昭和四四年八月から一一月にかけてもあり、農業用水等が不足し、果樹など四〇億円余の被害をこうむっている。