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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

三 国防婦人会

 国防婦人会誕生

 国防婦人会は昭和七年(一九三二)三月大阪で産声をあげ、一〇月に大日本国防婦人会という全国組織に発展し、翌々年には全国で一〇〇万人を組織するに至った。愛国婦人会の気どったところもなく、台所から飛び出して来て活動していますというスタイル、白い割烹着に白地に黒で「大日本国防婦人会○○○支部」と書かれたタスキをかけて活動した。満州事変から日中戦争(日華事変)へと戦時体制が強化されていくなかで、陸軍省を後援に会員獲得に乗りだしていったのである。国防婦人会は全婦人を対象に国防の実をあげ、近代戦の様態に対処しようとするもので、地域婦人会員がそのまま国防婦人会に網羅されていった。

 国防婦人会愛媛県本部設立

 本県においては、昭和一〇年六月、愛媛県学務部長名で国防婦人会結成のすすめを通牒として出している。この夏から秋にかけて各市町村単位の国防婦人会の分会や支部が創設されていった。昭和一一年(一九三六)一月三〇日、大日本国防婦人会愛媛県本部の発会式ならびに第一回総会が松山連隊内練兵場で開催された。一月三一日付の「海南新聞」によると、「一万五千・集ふ銃後の花」-燦々!真白く咲き誇るの見出しで、熱気溢れた発会式の様子が報道されている。昭和一〇年三月五日に温泉郡新浜分会が五〇名足らずの会員を擁して県内最初の発会式をあげて以来、わずか一一か月で会員数一二万人、分会・支部数二七八と成長し、この日は一万五千人が集まった。国鉄、伊予鉄は臨時列車を出し、トラックで、徒歩でと「松山への道」は白一色の氾濫となったようである。午前一一時より連隊側の進行で発会式は始まり、会則を決め、本部長に烏谷とみ(中将夫人)、副本部長に田北ひさ子以下四名が推薦された。事務所は連隊司令部内におき、松山連隊区司令官の監督指導を受けるようになる。「銃後の花」を城北高女・済美高女の生徒と合唱して閉会した。
 昭和一二年(一九三七)七月二〇日付の「愛媛新報」によると、松山支部(船田操支部長)は役員会を開き、○精神的活動を重視する。○出征軍人を誠心誠意見送ること。○国防の問題に関しては他の婦人会とも必要に応じて行動をともにすること、○軍人家族訪問。○「愛媛国防婦人会機」献納について討議している。そのころ、三津の会員たちは三二班に分かれて千人針、石井村の勝軍神社(伊予豆比古命神社の境内)、山越の還熊八幡社の守札を留守宅を経て北支派遣兵に送る準備にかかっている。同年、国民精神総動員運動が開始されると国防婦人会は積極的に協力した。昭和一三年になると評議会においても結束を強固にして重大戦局に即応し、国民精神総動員運動の趣旨に善処するよう指導方針を確認している。この年八月には県下一六万会員の代表が松山市庁に集って役員会を開き、「家庭の国防という私共の本来の使命を全うすることに力を入れると共に、経済戦・思想戦の戦士として力強く雄々しく働きましょう」と宣言した(「伊豫新報」八、二五付)・昭和一四年四月、
会員数も一七万五、○○○人を超えたので、本部役員を増員することにし、これまでは上層役員はすべて将校夫人であったので、民間から選ぶことにし、副本部長に船田操が推薦された(「伊予新報」四、一八付)。一〇月二二日付の「伊予新報」によると、婦人団体の活動が注目されるなかで、愛国婦人会・国防婦人会・連合婦人会・女子青年団の四婦人団体はちかごろは各種の報国運動に共同して活動するようになった。さらに一歩進んで合一まで到達することがのぞましいと評されており、婦人団体統一を要望する声が出るようになってきた。

 モンペと精動運動

 国防婦人会県本部では時局多端なおりから、会員にモンペを着用させて活発な活動をしてもらおうということになり、役員が古着などを利用して考案中で、来る一二月八日に事務所に各自の製作したモンペを持ち寄り、適当なものを決定することになった(「伊予新報」昭和一四、一一、二八付)。愛媛県精動支部は昭和一五年の大目標に節米の徹底と貯金の奨励を取り上げてきたが、節米については実行のみきわめがついたので、食のつぎは衣に移行して、婦人連盟を結成して、市町村に支部をおき、それらの連盟員たちに祭日、縁日などの人出の多い時をねらって街道に出てもらい、華美な服装の者や高価なものをつけている婦人たちを監視するとともに反省を促すことにした。衣は夏は浴衣一枚、冬は羽織と着物という程度のものにするようつとめ、真の戦時生活に全県民が透徹しようというのが眼目であった。この運動に国防婦人会が全面的に協力することになり、街道で華美な服装の女性を見かけたら、反省を促すビラを配ったりした。
 昭和一六年には婦人三団体統合の動きがさかんになるが、本県でも統
合すべきであるという新聞記事が見られ、三団体の長もそれは結構なことであると語っている(「伊予新報」昭和一六、六、一二付)。しかし、統合の日を前にして、統合の主導権争いも当然あったと考えられ、この時期に国防婦人会、愛国婦人会とも活動に拍車をかけているようである。同年九月二日の「海南新聞」は、「金属類へ下る赤紙」の見出しで、九月一日からすべての金属類へ召集令がかけられた。家庭に眠る鉄、銅を回収しよう、門扉、鉄火鉢、鉄瓶などはまっ先にお国のお役に立てねばならない、そこで、国防婦人会の会員たちはエプロン・タスキで「回収の尖兵」として乗り出した、本県の会員たちも九月二日に理事会を開き、全員が協力することにした、と報じている。

 国婦慰問使節中支戦線へ

 国防婦人会愛媛県本部にとって最後の大事業を行った。全国にさきがけて前線慰問が計画され、県本部の特派慰問使節として松本幾代、木下光代、前谷節子ら三名は中支戦線の陸海軍を慰問しようと昭和一六年一二月二三日松山を出発した。上海、南京からさらに揚州の永津部隊を慰問し、第一線に銃後の熱援を力強く伝え、国防婦人会員として意義ある視察を行い、翌年一月一一日夕刻松山駅に無事帰るとの連絡があった。一六万会員は出迎えて慰労の意をあらわそうと準備中である(「海南新聞」昭和一七、一、一一付)。婦人団体の統合を前にして大いに宣伝効果の上がる事業を行ったものである。

 国防婦人会の解散

 昭和一七年三月一四日午後一時半から大日本国防婦人会愛媛地方本部の解散式が連隊内練兵場で行われた。県内各分会長、役員ら約一、○○○名が参集し、高度国防国家建設のため、他の婦人会と共に発展的解散をとげ、異名同心ともいう大日本婦人会愛媛支部として再出発することになった。昭和一一年一月三〇日、この場所で発会式をあげて以来六年間の活動の幕を閉じたのである。