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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

四 愛国婦人会

 愛国婦人会の転機

 明治三四年(一九〇一)に国のために戦う軍人およびその家族の救護を目的に創設された愛国婦人会であったが、婦人会としての事業も次第に組みこまれていった。大正一三年の事業報告では、軍人救護と一般救護に分けられ、一般救護では授産場、職業紹介所、妊婦保護、罹災者・極貧救済が加わってきた。大衆へ目を向けることによって活動への賛同を得ようとしたが、多くの婦人の加入を実現することにはならなかった。
 昭和七年一〇月、満州事変の翌年に国防婦人会が創設されるにおよんで、愛国婦人会は相当なショックを受けた。上流婦人の社交的団体という性格を持っていた愛国婦人会に対して、出征していく兵士に一杯の茶を、温かい励ましの声をと立ち上がった国防婦人会には庶民的なたくましさがあった。会員数が延び悩んでいた愛国婦人会にとって活動の基盤が競合している婦人会の出現にとまどい、改めて自分たちの会の活動に活路を見出さねばならなかった。そこで、組織づくりの大改革と事業を拡大する努力がなされた。
 昭和七年に、それまで事業を行うのは本部(東京)と支部(府県)であったのに対して、これ以後は分会(市分会・町村分会)を事業主体とした。そのねらいは、会務の内容充実と「婦人報国」のために奉仕しているのだという実感を会員一人一人に認識させるためであった。一般会員に活動に参加していることを認識させて地についた婦人会として再生しようとしているのである。事業について、大正一三年より増えているものに婦人報国運動がある。その中で目を引くのが愛国子女団の創設である。国防婦人会への対抗策として愛国婦人会員の予備軍育成に着手したのである。昭和一二年三月時で七団が結成されている。同一三年二月
二三日付の「愛媛新報」によると、来る四月新学期を期して松山市の全女学校が愛国子女団の結成式をあげる運びとなったとある。本県で一番早く結成したのは愛媛県女子師範愛国子女団であるが、その活動例をあげると毎月二回弁当に梅干デーを励行、オヤツを節約してその金を慰問品に代え、菓子を作って三津浜町の出征軍人家族に贈る等の機能を発揮している。
 昭和一四年に入り、東予・南予の女学校にも愛国子女団が結成された。二月二二日に今治の三校、二四日に新居浜・西条、二五日に川之江・三島、三月四日に宇和島、家政の各県立、私立の高女が相ついで結団した。県下全体で一八校、六、五〇〇名の団体となったのである。
 昭和一四年四月一〇日、愛国婦人会愛媛県支部は第二回総会を松山中学校の校庭で梨本宮妃を迎えて盛大に行われた。会員七万人のうち二万人が出席して一層の発展のため努力することを誓った(「伊予新報」四、一一付)。昭和一六年、県支部は創立四〇周年を迎えて会員倍加運動を展開した。婦人団体の統合が近づくなかで自会の会員増加にどの団体も躍起になっていた。当時会員数は八万六、一〇三名であった。

 愛国婦人会解散

 昭和一七年二月二七日午前一〇時より松山市勝山町の愛国婦人会館において、四〇余年の歴史を持つ愛国婦人会愛媛県支部の解散式が行われた。県下各連合分会長、市町村分会長ら約三〇〇名が出席し、新婦人団体へ前進を誓い、愛婦の幕を閉じた。会館や資本財産は「日婦県支部」に継承されることになった(「愛媛合同新聞」二、二八付)。