データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

一 自然と民俗

 気候と民俗
 本県はその位置や地形条件を反映して、瀬戸内式気候から冷涼多雨の山地気候まで多種の気候特性をもつ。すなわち本県の気候区は次の三気候区に分けられるのである。
 (一) 雨の少ない県北の沿岸地域
 (二) 雨量が多く、冬は寒冷な高知県境の山間地域
 (三) 温暖な南予海岸地域
 降雨量の少ない北部沿岸は、いわゆる瀬戸内式気候区で、本県で最も平坦地に恵まれた水田耕作地帯である。しかし、しばしば旱害に見舞われたことから灌漑用の溜池や湧泉が多くつくられた。なかには重信川沿線に見られる伏流水利用による埋樋があったりする。
 農業の発達とともに、田養水確保は農民の死活問題であった。そのためどこの農村も村の記憶や歴史的伝承といえば「水喧嘩」の話が出てくる。
 ○嫁入りするなら黒田はおよし 夏の水汲み血の涙
 ○嫁におやりな田野丹原へ 死ぬる末期の水もない
 ○嫁に行くなら徳丸おやめ 上がケンドで地が石原で人に情のないところ
 まだあるが、いずれもその土地柄を活写した俚謡で、その地の実態を言い得て妙である。黒田は伊予郡松前町黒田のことで、土地が砂地でサトギ(砂糖きび)や野菜の栽培地であったが、夏ともなれば井戸水を釣って灌水していた。そのための施設であるはね釣瓶があちこちにあった。さて、その水汲み役が嫁であって、嫁いびりの仕事であったというのではないけれども、人びとは水に困りがちな地域を評するのにこんな表現を用いて揶揄したのである。
 新居浜の沢津あたりも水不足で困った所で『西条誌』によれば、「岡崎川の銅水を引く、(中略)外に小池六カ所あれども、田地を潤すに足らず。故に小さき井を掘り、釣瓶にては水取り沃ぐ。因て地懸りの井の数甚だ多く、五百に近し。苗代田の水といえども、皆かくのごとくして取り用ゆ。炎旱には、男女老弱をいわず、数百の井の辺に群り汲み、夜を以て日に継ぎ、難苦深き村とは聞こゆ。ここの奴婢童豎の歌に、
 習て何する水取歌を、不断沢津におりはせず つらいものぞや沢津の子供、生れ落ちると水を取る
みな辛苦於悒の余りより出しなれば、ここにしるして水少なきのこ証とす。」と、農村の水の苦労を述べている。
 灌漑水に苦労する土地は「月夜にでもやける」といわれ、旱損の生じやすい耕地の管理はまことに血の涙であったのである。農民を苦しめること甚大なものがあった。そのような水田を「籠田」といったが、別に伊予市市場や川之江市妻鳥など段丘状の耕地で水掛かりの不便な土地にも言われた。それで、「夏の水汲み血の涙」と冷評されたのである。
 松前町徳丸の俚謡も土地柄、村柄、風土性を言い得ている。当地は江戸時代に松山藩主の御膳米供給地にあてられた美田地帯である。「上がケンドで、地が石原で」とは、その土質が矢取川、重信川の沖積地であることを説明したものである。
 このように村柄、土地柄、人情を評した俚謡は各地にあり、もっと酷いのもある。しかし、なかには変わった表現の俚謡もあった。
 ○嫁にやるなら八倉へおやり、八倉山かげ日の出が遅い、朝寝するのによいところ
 伊予市八倉は山蔭に開けた集落であり、朝日のさす時刻は遅い。しかし、嫁女がそのため朝寝するのに都合よかったか否かは疑問である。人情的におっとりしている土地柄とも言えるが、皮肉った諷刺にもとれる。
 とまれ、人びとはお互いの村を批評するのにこのような文芸的発想をもってしたのである。封建的村意識を露呈した俚謡であり、かつだれの創作か不詳ながら、古人のすぐれた創作力、文芸能力のたしかさに驚かされるのである。
 農家の嫁の幸福はその労働条件にあった。「おなごの言うことはキリグサより上に採り上げぬ」とまで言われた封建社会にあってはなおさらであろう。キリグサはキリブサともいい、踵のことだ。人体の最下部である踵だから最低である。嫁の地位の低さが、昔はひどかったのである。
 ○縁があるとも問屋へ行くな、樽のかっぽで血の涙
 ○縁があるとも日浦へ行くな、死んで末期の水がない
 温泉郡川内町の問屋、日浦地区を評した俚謡だが、山村にもまたそれなりに労働上のアクシデントが待ちうけていたのである。夏の山仕事で嫌悪されたのは、かつぼ(ぶよ)やあぶに刺されることである。そのかつぼよけから農作業着が案出されたり「火ぼて」といういぶし用具が考案された。『西条誌』にも山村のそんな生活ぶりが紹介されている。
 最近では、近代的な水利開発事業のお蔭で、往年のごとき水の惨劇はもう聞かれなくなったし、水利慣行も最少限度のこと以外は無用になって水喧嘩もなくなったが、とにかく水は人間の生存を左右するものであったから、さまざまの水の民俗を生んだのである。

 雨乞い

 旱魃時の「雨乞い」はその一つである。人びとは慈雨を要求するあまり、科学をのり越えてさまざまな雨乞い儀礼や芸能を実演してきた。松山地方の雨乞いで特筆される民俗に松前のおたた(魚売り女)の関与があったが、その背景には巫女信仰的なものが存在したようである。また、仮面を水面に映して雨を祈る「御面雨乞い」が松山地方にあった。あるいは念仏の功徳や芸能に訴えた「雨乞い踊り」「念仏踊り」を発生させた。
 これに対し、比較的雨の多い石鎚山系に沿う山地地域には、それなりの生活慣習(民俗)を見る。いわばそれは人間の生活の知恵である。米麦を始め雑穀を収穫するのに、一時期乾燥させるイナギ(稲架)を山村では常設稲架にしているが、無蓋稲架もあるがこれに杉皮屋根(現在はトタン屋根が多い)を覆っている土地がある。伊予三島市富郷町などではこれをハデと称している。ハデには収穫物が常にかかっている状態がよいと考えるからであろう、ハデモリと称して収穫物の一部を必ず残しておく風である。これは日本人(農民)の物に寄せる伝統的な心遣いだ。柿などの果実についても、キモリ、スモリ、キマブリなどと称して、一つは取り残しておく風習であるが、それは来年の収穫をよくする呪法だと言われる。
 肱川上流の村には、川の木橋に屋根をつけるなどの工夫を加えた橋が数ケ所ある。橋の永久性を考えての工夫施設である。このように人びとは気候に順応しながらできうる限り生活条件を生かした生活をしてきたのである。

 風と民俗

 佐田岬半島の三崎町や南宇和郡西海町外泊をはじめ、宇和海沿岸の集落は、冬季は西風(アナジと呼ぶ)が、夏は南風(マジという)が強く吹くので、民家は防風のための石垣をめぐらしている。西宇和郡三崎町正野の民家は防風林やヘイカサ(防風垣)を設け、屋根には石おもしや瓦を漆喰止めにしたりしている。この石おもしを同郡瀬戸町大久ではフクロイシと呼ぶのである。また外泊は近年〝石垣の村〟ということでクローズアップされているが、およそ百年前に完成した分村である。同町中泊地区から分家した二男、三男が開拓した分家集落で、現在四一軒の民家が残っている。傾斜した山腹に階段状に大小の石垣を築き、狭い道路には石畳を敷き詰め、冬の強い季節風や潮害から住居を守っているのである。
 海岸の村の防風対策が石垣であるのに対して、山村部、平野部では防風林を設ける。これをヨウガイと呼んでいる。冬の季節風は、どことも峻烈で、肌を剌すほどであるので「耳そぎ風」「庖丁風」などの異名をもって呼ばれているが、いみじくも名付けたものである。「○○のまつぼり風」というのもある。ある時、突然に吹いて来る突風現象をいうのである。まつぼりは内証銭のことでヘソクリともいい、私蓄財のことだ。温泉郡重信町下林字助兼は皿ケ嶺降ろしの吹きつける小集落である。いわゆる渓口集落の先端地であるので、ときどきフェーン現象を発生させることがある。それを昔の人は「助兼のまつぼり風」と呼んで来たのである。
  ○嫁に行くなよ野田牛淵へ 石鎚おろしで吹きもどされる
 石鎚の霊峰を朝夕に眺望できる同郡重信町の野田や牛淵では、冬の野良仕事で石鎚おろしの寒風のさらし物になる。「お山おろしで髪からす」とも歌われているように、頭髪がざんばらになる。人びとは手拭いで頬被りして農作業に励んだのである。
 石鎚山脈から吹き下ろす突風をヤマジ風という。単にヤマジともいうが、川之江市や伊予三島市などの法皇山麓地域は、日本三大局地風であるこのヤマジ地帯である。屋根瓦が飛び、作物はちぎられるなどの大被害を生じるところから、作物栽培も低いものを栽培し、民家も低目であり、屋根は漆喰止めや石置きをしている。
  ○といこさんのお山に雲かけた 雨が降るとも 風吹くな エー風吹くな
 これは、この宇摩地方の「雨乞い歌」である。といこさんとは伊予三島市にある豊受山(一二四七m)のことで、地方の人はオトイコサンと尊称している。山頂に豊受神社がある。旧五月と九月の一三日の祭日には頭屋制によって毎年風祭りが行われる。氏子たちはその日七荷片荷のホガイと称して、夏は三六五個の小麦団子、秋は米団子をホガイに入れて神社に供えて風祭りを行うのである。山頂には風穴があって、そこがヤマジの吹き出し所と目され、風穴に団子を投げ入れて風鎮を祈願するのである。伊予郡砥部町大平の幸宝師の山間にも風穴があり、文政三年(一八二〇)以来毎年春に風神祭をしている。
 風祭りは風鎮祭とも称し、強風被害の発生地域では現在も行われている。一般に山麓地帯で事実上風害のあるような地域の民俗となっている。たいてい二百十日前後にオコモリやオツヤをする所が多い。
 大三島の大山祇神社では七夕節供に風鎮祭をする。同社貞治三年(一三六四)一月の文書「記禄」中に「七月七日風鎮祭御神事御供奉幣二ヶ度也」とある。そこで三島系の神社には風鎮祭をする例があるが、上浮穴郡面河村中村の三社神社もその一つである。同郡久万町畑野川や下直瀬では、旧七月一日にしていた。部落全員が寺や辻堂に集まり、大数珠をくりながら百万遍念仏を唱え、風鎮祈願をしていた。東宇和郡野村町天神や宮成でも七月一日が風祭りで、愛宕社で百八本の竹ぼてを立て、七五回の立念仏を申した。また、南予地方では「お伊勢踊り」を奉納して風鎮祈願をする。なお、台風襲来の際には「風切り鎌」を立てる風もあった。長い竹竿の先に鎌を結びつけ、刃先を風向に向けて立てるのである。
 つぎに、瀬戸内海沿岸では、夏の夕方二~三時間のあいだ全くの無風状態になって蒸し暑くなるひとときがある。これが「伊予の夕凪」である。陸風と海風が交替する時期におこる現象であって、まったく息のつまるような時間帯である。

 風 名

 風といえば吹く方位、時期またその性質からさまざまの名称がある。この風名は日常生活のうえで最も関連の深い海上生活者による命名が多いという。
 本県に普遍的に使われている風名は、北の風をキタカゼ、南風をマジ、東風はコチ、西風はニシという。東南の風をヤマジとかヨウズといい、西北の風をアナジというのである。またそれぞれの中間名があるが、これは所によって多少方向が違うけれども大体言い方には東西南北の風位を基本にして言っている。北西の風アナジは近畿以西でひろく用いられており、南風のマジは南伊豆から日向までの太平洋沿岸に行われる風名である。

 自然暦

 昔の人は暦を持たなかったから自然現象を見て農耕の時期を判定していた。いわゆる「自然暦」を用いていたのである。鳥の姿を見たり、草木の芽吹くのを見て、種蒔時期を予知したり、作柄を占ったり、天候予知をしたりしてきた。たとえば
 ○ねむの花が咲くと大豆をまく
 ○柿の葉が一銭銅貨ぐらいになったら牛蒡をまく
 ○雑木が紅葉したら麦をまけ
 ○木の葉が紅葉し、阿部牛を追い込んでも判らないくらいになると麦をまく
○郭公が鳴き始めたら、粟、麦をまく
○こうかの木の花が咲いたら、大豆、小豆をまく
                 〈伊予郡中山町〉
○山桜の葉が出たら牛蒡をまく
 ○ほととぎすが鳴きだしたら、とうもろこしをまく
 ○八月の闇夜になったら、そら豆をまく
 ○日和大豆に雨小豆        〈松山市湯山〉
 それぞれの土地で人びとが永い体験の末に得た俚諺であり、生活の知恵そのものである。
 高山の雲形を見て農耕の目安にする民俗があるが、本県でも石鎚山の残雪を見て苗代のもみまきを決めていた。
 ○石鎚の雪 鍬の柄と見ゆる頃、苗代時と知れよ三四郎
 これは道前平野の農村に伝承されてきた俚諺である。石鎚山の残雪が最後まで見られるのは雪瀑谷であるので、そこの残雪の解け具合を見て苗代時期を判定していたのである。「鎌形」という所もある。石鎚山村の旧千足山村では「犬の伏したる程になれば粟をまく」という。また「みのかさ雪」になったら焼畑に、粟、稗をまくといっていた。
 これは雪形ではないが温泉郡中島町睦月の人は「伊予太郎が出たら明日は晴天」という。「伊予太郎」とは石鎚山のことであるが、石鎚山が明澄に眺望されるときは、翌日も晴天と保証できたのである。

 川と民俗

 水の流れる流れ川(走り川ともいう)に対して湧水の泉、井戸のことをカワというところがある。また、流れ川のうち狭小なものを松山地方ではイデという。さらに小さい川をコイデという。泉や井戸をカワというのは越智郡の島嶼部や佐田岬半島、中国、九州、沖縄などである。
「エジプトはナイルの賜物である」との有名なことばがあるが、わが国の川の場合も、時としてあばれ川になることもあるが、一方では母なる川として流域住民にさまざまの恩恵をもたらしてきた。本県を代表する河川には肱川、重信川、加茂川、銅山川、国領川などがあるが、大きなものはない。
 川は灌漑や生活用水の水資源をはじめ、生活物資の輸送運搬交通路として重要視された時代がある。たとえば肱川の場合だと流域の村々では、現在の道路が開通発達して馬車が通り、トラックが走り出すまでは専ら川そのものに依存する生活状態が長かったのである。奥地からの材木などは筏で流し、物資は川舟によったのである。

 筏流し

 筏流しといえば肱川が最もよく知られているが、宇摩郡の銅山川牛馬立川にもあった。また、南宇和郡一本松町の篠川でも行っていた。ただし肱川は筏師がついたが銅山川は無人の流材法であった。材木に山師の刻印を打ち、鉄砲セキを設けて流し、揚場で集材する方法である。このような方法を一本松町では「川狩」と称した。上流は川幅が狭く水量が少ないため筏が組めないところから一本流しにしたのであるが、水量不足のときは堰を設けて水を溜めては流した。
 肱川の筏流しはだいたい昭和一五年(二四年とも)ごろが最後であった。肱川本流と小田川とに行われていた。小田川の場合、上流の梅津からだと内子まで一日、内子から長浜まで二日かかった。各沿線に筏連中の組合があり、それがツギモチで中継して行く仕組になっていた。筏連中へは一六、七歳で加入する。そのとき酒一升を買って行く。一人前になるには四、五年かかった。その一人前とは仕事量である。筏が組めることと、筏流しの技術の修得が先決で、百サヤ(三タマ)の筏組みができれば一人前とみなされた。また、四、五回失敗なく筏流しができれば一人前と認められた。
 賃金は組入りのとき歩率をきめるが、初入りで三歩役であった。しかし、普通の職人に比べればずっとよかったのであり、ついで筏流しの技術を修得すれば八歩役もらえ、一人前になったとき一人役がもらえた。一人前になったときにも連中に振舞酒をする慣習であった。賃金支払いは二〇日内外でした。長浜までのオクリは問屋にサヤワタシで賃金をもらった。そのとき各連中が寄って賃金協定をなし、決算を終わると世話人の家でご馳走を食べて慰労の祝宴を開いた。これを筏算用とも算用祝いともいったのである。肱川の筏乗りは昭和一〇年頃を最盛期に、以後道路開通によるトラック輸送にとって代わられるのである。
 この筏師のことを一本松町では「出し方」といっていた。土佐の安芸方面の人が渡世にしていて、一本松町正木の者は助手で雇われていたということである。また、宇摩郡の銅山川や馬立川でも切り出した材木を流し、阿波の白地の揚場まで搬出した。これも鉄砲堰をつくり流材する方法で、筏師は乗らない方法であった。

 寸太木流し

 雑木の薪炭材をスダギという。石鎚山麓の村びとは、この寸太木を背負うて山越えし、里で売っては生活の資を得ていた。ずっと奥地の者になると、それさえできぬため、寸大木を一時乾燥しておいてから川流しする方法がとられていた。川の沿岸には処々に揚場が設けてあり、中揚げしては休めておき、天候や水の浅深を考えて何回かに分けて次の揚場へ流送したのである。各山や渓流から流された寸大は最終的には加茂川の古川土場に集められた。その模様を「皆この古川土場に積み集めたれば、高き事は陸の如く、長き事は塘の如く、夥しき事たとえるに詞なし。」と『西条誌』は記している。

 川 舟

 主として生活物資の運搬輸送にあたったのが川舟である。この川舟の運行が盛んであったのはやはり肱川であるが一本松町の篠川にも行われていた。
 川舟には、一〇石積、一五石積があった。肱川沿線には支流も含めて各所に川舟の船頭がいて、それぞれ所在地の地名を冠せて「大洲舟」とか「鹿野川舟」というふうに呼んでいた。鹿野川の白岩義男(明治二四年生)の話によれば、鹿野川に一七はい、赤岩に五、六ぱい、尾野萩に一四、五はいぐらいはあったという。この川舟が増加したのは彼が少年時代からだという。彼は一二歳から舟が好きで乗り始め、二五年間川舟で生きて来た肱川筋きってのベテランであった。民謡がとてもうまく、自慢ののどで民謡を歌いながら肱川を往き来したという。「大谷郷土誌」(現肱川町)によれば硯、石丸にも川舟が九はいあったとある。石丸の川舟は江戸中期から著名であったらしく、「大谷七景」の一つに挙げられていた。「石丸にまつ人涼し戻りぶね」「真帆できて帰る雪解や春の風」など俳句の素材にもなっていた(三島神社奉納額)。
 川舟は人を乗せることもあったが、主は物資輸送で、下りは薪炭、帰りは日用品、肥料、石油などを積んで上がった。明治初年までは年貢米輸送が重要目的であった。それには大舟という二人乗りが用いられた。
 つぎに小田川を上下した内子舟は、特産のサラシロウ(白蝋)を積んで長浜に運んでいた。明治時代には内子の知青橋近くに東門堂なる川舟問屋があった。

 もやい舟

 川舟は下りだと長浜まで一日で行けたが、上りは数日を要した。上りは綱をつけて人力で曳いて上った。二、三の川舟の船頭が協力して曳き上げたので、これをモヤイ舟と称したのである。要領は二、三の川舟を連結し、オモテダシ(かじ取り)が一人舟に乗り込んで誘導役をする。他の者は五〇メートルぐらいの綱で引っ張った。時には付近の村人の応援を頼んだりしかことがあったが牛に曳かせたこともあった。
 川舟仕事は重労働で、脆弱な者にはつとまらない。船頭は一升飯を食わねば一人前とはいわれなかった。なお、ついでながら内子町の船頭はロウスル(白蝋の積荷)がかつげたら一人前といわれた。従ってその賃金は他の職人に比してもよかったし、初心者でも二倍近い賃金を得ていた。

 信 仰

 漁民ほどではないが川舟にもそれ相応の信仰習俗があった。道野尾の「辰ノ口権現」、菅田の「冠岩」、下須戒の「立神岩」など、川中に突出している巨岩の所は難所とされ、かつ聖所になっていて、ここを通過するときには、積荷の一部を、木片やかずらでもよいから投げ供え航行の安全を祈る風があった。
 しかし、この川舟も道路開通によって衰微した。明治三八年、大洲-五十崎-内子-中山の県道が通じ、まず内子の川舟が衰えた。肱川本流では昭和一〇年ごろまであった。

 生活の川

 川は地域の人びとに不慮の災害をもたらすこともあるが、一方では母なる川、生活の川として必須の存在である。人びとは多面的に川と付き合い、川の利便を生かしつつ、それなりの生活文化を育んで来たといえる。
 貧しい食生活のタンパク源として川魚が食膳を賑わした。当然川魚漁法が発達した。しかし、その漁法は一つの川筋でも上流、中流、下流で多少異なっており、また川の性質によっても異なる。例えば重信川と肱川とでは同様の方法もあれば全く異なる方法もある。
 昔は川もきれいだし、魚も豊富にいて、夏になると子どもは「川ぜつき」「川殺生」をして遊びほうけたものである。一日中魚を追って遊んだ少年の日の思い出はだれにも忘れがたい。市信川では、①釣り ②突き ③すくい ④仕掛け ⑤網 ⑥石投げ ⑦つかみ ⑧しきり ⑨夜かわ などの方法があった。なお、下流ではやなを設け、落鮎やかにを獲る方法もあった。
 肱川の場合は獲物も多種であったから、漁法も多種多様であった。主なものを例示すると、①ほてまき ②珠数釣り ③どんぶりがけ ④はえなわ ⑤たでこみ ⑥桶づけ ⑦四つ手網 ⑧じんどう 等々である。時期によって漁法も変わってくるが、禁止された漁法もあったようである。川と漁法についてはかなり書くことがあるがこれくらいにしておく。要するに人間の生活がある所には、それと関わった民俗-風俗習慣があり、人びとの生活ぶりがあるのである。

 橋の民俗

 昔は川には橋がなく、不便な生活を送った。流水の状態によって板橋や丸木橋が架けられたりすることもあった。その橋たるや増水時にはぱっと開いて流れるように架設されてあった。綱やかずらで橋材を岸に繋ぎ止めて流失しないようにしていた。冬期だけ仮設されることもあった。また川幅が広く水量のある大洲城下の肱川の場合には「舟橋」を設けていた。
 橋が現代のように各場所に架設される以前には、渡し舟がその不便を補っていた。渡し舟には船頭がいて棹で操る方法のものと、川の両岸に張り渡した綱や針金を乗り手自らがたぐって船を操る方法とがあった。肱川にはこの渡し舟が各所にあったし、他の川にもあったようである。重信川では重信町下林に昭和一五年ごろまであった。また、銅山川では金砂町ヤナ場に渡し舟が昭和二〇年過ぎまで残っていたようだ。
 橋の有無は近代化が進むにつれて人びとに文化の隔絶感を抱かせた。川筋を隔てて文化的停滞が余儀なくされることもある。川が地域を区画する自然境界なら、橋はそれを連結する機関であり、文化と生活を連繋させる機能を果たす機関である。従って橋は、橋の向こうの外部のもろもろのものの進入路になるものでもあった。橋の向こうは外、こちら側がウチという意識は大なり小なり現在でも存在するわけで、村落における共同体習俗のなかに、それは如実に表現されてくる。例えば正月になって年頭の初祈祷(組祈祷とか日待祈祷という)や土用祈祷の関札を立てる場所や、小正月の念仏の口明けに南予地方で行っている〝鬼の金剛〟の大草履を置くのも橋の袂である。宇和町の永長橋には毎年、巨大草履が設置されるので有名であるが、これを村境の谷川につるすところ(上浮穴郡)もある。
 橋はまた人生儀礼とも関わっている。幼児の夜泣きどめの呪法には一本橋の木を削り取り、それで火を点じて子どもに見せるとなおるという。新生児の初宮詣りをするのに、途中、川を渡ることはタブーとされている。それでそのときは針を用意して行き川に投げ入れてから渡る風が北宇和郡などにあるが、西宇和郡では忌明けまで生児の川渡りはタブーである。また、上浮穴郡地方でも新生児が橋のトオリゾメをするときは「ここは橋ぜ」といってから渡る風である。はじめにもいったように川は一衣帯水の境であり、橋の向こうは別世界ととらえられていたからである。生児における空間世界は橋から内にあると見たのであり、それが基本的世界観となっていたのである。悪魔の侵入する場所とも受けとめられていたから、そのための呪法として針を川に投ずる習俗を生んだと考えられる。

 川と信仰

 川と年中行事 川は年中行事や祭りとも関係している。心身の穢れをはらい清めるみそぎを川でするように、川には浄化力があるという認識が日本人にはあった。稲虫の虫送りや実盛送りの終着も川であり、七夕の物洗いや笹流しをはじめ、盆の施餓鬼棚の供え物を処分するのも川である。およそ聖物の処分には焼却(ハヤスという)するか川や海に投じて流す方法とがある。
 六月祓いの夏越祭を川原でする所がある。西条の伊曽乃神社では加茂川に祭壇と茅の輪を舗設して行っている。
 盆行事にボンメシ、ボンクドなどといって子供らが川原に小屋掛けして寝泊まりし、クドを築いて飯を炊いて食べる風習がある。盆飯は南予地方の特徴ある民俗となっており、それも川で行う。また、川施餓鬼と称して川念仏がある。松山市の日浦や五明地区、北条市立岩地区などに行われている。松山市川之郷では、盆の一五日の夕方、土橋の上に立って太鼓を打ちつつ念仏を唱和しながら手にした竹の葉を一枚一枚ちぎっては川に流すのである。
 死者を埋葬した翌日を一般に〝墓直し〟と称している。葬儀当日はとりあえずの埋葬ですませ、翌日家族と主な親類縁者が集まって川石と川砂を運んで墓地を整えるのである。川砂で覆い、その上に川原の白石を並べて覆うのである。盆の祖霊迎えの迎え火を家が川に近い場合に川端に出て焚く風もあるし、施餓鬼旗を川原に立てる風は東予の民俗であるが、川は祖霊、諸霊の至り通う路でもあったのである。南予には「川ミサキ」の信仰がある。不幸な死に方をした者には流れ灌頂の民俗があり、水子供養にもその風習がある。いずれも水の再生力、浄化力を信じた信仰である。
 大洲市八多喜の祇園神社の祭礼は、もとは旧六月一四、一五日であった。その一週間前には塩垢離祭がある。現在は春祭りとして四月に変更しているけれども、潮垢離祭は肱川河原に金幣を奉持して渡御し、潮垢離をとる形の祭儀を行い、かつ川の神を祭る神事である。
 川には川の神、水神がいる。川を汚したり、小便をしたりすると罰が当たるといってやかましくいわれたものであり、それが村落社会に住む者の心得であった。
 川はまた神々の通路と目されていた。川は、山からの神々の通路であるばかりでなく、海からも神々を迎え進行させる役割を担っている文化史的通路であった。
 わが国では川上を神聖視し、その川上から尊い神仏が川の流れに乗ってやってくるという信仰があった。海に近い社寺には、神体や仏像が漂着したとか、網にかかったとかの伝承から祀られるようになったと創祀伝承を伝える社寺があるように、河川流域には「流れ宮」伝承がある。流れ宮伝承の多いのは重信川である。他の川にもある。温泉郡重信町の客八幡神社、岡八幡神社、三奈良神社(当社に奈賀礼白鬚宮を合祀している)、下流の伊予郡松前町高柳には「流宮稲荷神社」がある。椿神社で知られる松山市居相の伊予豆比古命神社にもある。
 大野ヶ原から流れ出る船戸川には船戸森三島神社(野村町惣川)の流れ宮伝承がある。実際は神社が川沿いにあるのでいわれた縁起譚であると考えられるが、実際に川流れがあって祀られるようになったと土地の者は信じている。要するに流れ宮伝承も寄り神信仰の一パターンであって神霊勧請の信仰観を示すものである。
 つぎに川に関連して記しておきたいのは「寄り物」の所有についてである。海辺の人たちは大荒れの早朝に、競って打ち寄せられたさまざまな物を拾いに出かけるが、この寄り物は最初の発見者の所有になる。一人で運搬できない材木などは、占有のしるしに小石をのせたり縄を巻きつけたりすることがあったが、この慣行は川の場合にもあった。例えば重信川の場合だと、川上からの所有者不明の流材があれば、最初の発見者は石を置いて占有標にしていたのである。

図0-1 愛媛の風位名称

図0-1 愛媛の風位名称