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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

二 仕 事 着

 様々な労働を行うときに着る衣服が仕事着であるが、伊予ではコギノとかノラギ、ヤマギ、山行き着などと称している。上浮穴郡では、コギノは腰きり巻袖の麻製の仕事着であったというが、これはコギヌという古いことばが転訛したもののようである。さて、この仕事着の目的は、労働に際して身体を防護するとともに労働の機能を高める必要があるため、形態も労働の種類によって異なりが多い。一般に男の仕事着は上体と下体を区別する上下二部形式のものが多く、漁師や女は一部形式の着物であった。

 ハンテン

 後藤守一はハンテンを「形は羽織に似ているが、脇襠も胸紐も共になく、また襟を打返さず、半襟をかけるを普通とする。民間下流のものが、防寒の用としたものである。起源は江戸時代後期に起こったものという説があるが、恐らく古くから民間に行われた道服の系統のものであろう」と説明している。普通は綿入れの袷半纒であるが、単半纒もある。
 さて、県下の半纒を概観する前に「道服」にっいてみておこう。「室町時代、庶民が外衣とした羽織の形のものを着ている。羽織特有の折り返し襟も、まち脇もないらしいから羽織とはいえない。古人はそれを道服と呼んでいる。道中をするときに用いるものという意義の道服である。小袖が外衣に変わってきたものである。キモノうえに用いるものとして道服が用いられ、これは外衣のためもあり、着て帯をしめなかったのであろう。羽織の用を普通するものがある。江戸時代の半纒はこれの流れのものであろう」といわれている。半纒の形、機能、起源、系統などが、これでよく理解できる。そこで本県の半纒およびその変化したものについて概観してみよう。
 ハンテンと呼んでいるのは、北宇和郡日吉村・津島町、東宇和郡野村町・城川町、伊予郡広田村、松山市、周桑郡丹原町・小松町、宇摩郡別子山村、西条市など県下全域におよぶ。ハンテンは普通綿入れであるが、別子山村ではハンテンといっても袖なし丸胴のものを言う。城川町上川では筒袖ハンテンと断わっているのは、半纒はもともと広袖であったからであろう。南宇和郡一本松町広見では筒袖で野良仕事には袷を用いる。女子の場合はやわらかい生地を用い、袖は袂が丸くなっている元禄袖である。
 津島町上槇はのネジッポハンテンも一種の筒袖である。喜多郡や西宇和郡でも広くそう呼んでいる。防寒具のツヅレ、オリツヅレは古着を裂いて割り糸を依って織ったものをいう。西宇和郡三崎町で女性のオリコというのは同じデンチの系統で麻または本綿のツヅレ糸をよって織ったものでこれに袖がつくと道服になる。

 デンチ

 袖なし半纒を近畿、中部地方ではデンチというが、本県でもデンチという場合が多い。伊予郡山間部から上浮穴郡、松山市、温泉郡、北条市、越智郡、周桑郡、西条市など広く見られる。広田村にはデンチアツシがある。布地は厚い生地のネルである。
 アツシという名称を使っているところは、東宇和郡・西宇和郡・喜多郡地方である。アツシ(厚司)は大阪地方から産出する厚くて丈夫な平地の本綿織で、紺無地か大名縞で、半纒や仕事着、マエカケなどに用いるのが普通のようであるが、この地方でいうアツシは刺子にしたデンチのことであった。また、ポンシ・ボンシとも呼び、大洲・喜多郡地方ではハンコ・サルコといった。大洲市恋の木では綿入れの袖なしを女性用としハンコといっている。また女性用の軽便な防寒衣類として座ぶとん状のものに紐をつけて背中に当てたサルコもあった。伊予郡松前町ではこれをサルデンチという。ともあれ、それは重ね着をしても活動を妨げない仕事着として広く用いられたのである。ちなみに、コとは衣服の総称をさすことばで、越智郡魚島村では盆や正月の衣服をボンゴ、ションガツゴといっている。
 ポンシー・道服 袖なしの綿入れ、あるいは半纒の袖なしをポンシ(一本松町正木、同広見)、ボウシン(宇和島市九島)、ポンシ(日吉村犬飼、城川町影、同上影)、ポンジ(野村町小滝)、ポンコン(八幡浜市中津川)などといっている地域がある。すべて南予地区である。語源も意味もよくわからない。ポンシーがもとの語で中国語ではなかろうかというが、定説にはなっていない。手織りとか平織りとか手織機とか繰糸車とか種々の説があるようだが、本県の場合、手織りの布地で作った袖なし半纒を指していると考えたい。
 ポンシー系統の呼称が南予地方内陸部に集中していること、同じものを同じ地区で違った名称で呼んでいることも興味をひく。たとえば一本松町正木ではボンシのことをドウブクという。正木では道服は男女の形式が違う。男用は半纒の中へ綿を入れたもので、女用は袖口が小さくしぼってある。いずれにせよこれらをみると、服装文化の伝播には二つの流れがあったように思える。これをもっと追求するとおもしろいことがわかるような気がするが、それは今後の課題である。
 小袖が外衣として変化し、道服を生み出し、その道服から半纒が生まれ、その半纒が種々な名称に分化し、材料によって名称を異にすることがわかってきた。
 瀬戸町三机の秋祭りで、お練りに参加する人はケドを着る。牛鬼かきは平ケドといい、表ケドは役付きが着ることになっている。ケド取締というのは練り警護の役である。
 その形をみると道服である。したがってケドというのは褻道服即ちケドウフクの「ウフク」を削ったものであろう。ケとは日常のことを言い、晴れの反対語である。晴れは祭りである。したがって本来は日常用いる道服を晴れの日に用いたものであろう。それがのちには祭り用のものに改めてもこれをケドと呼びならわして、たまたま呼びつがれたものではなかろうか。
 襦袢 一般的にもっともよく使われているのは襦袢である。ポルトガル語のジバオから出ているという説がある。形は古くから行われた袗衣即ち肌着であり丈が短く衽がなく単を普通としたが袷のものもある。胴と袖とは裂を別にすることもある。共裂のものもある。筒袖、袖無しは恐らく古くからであり、最初はこれのみであったろうが、広袖のものが現れるに及んでは、一時は庶民、小者の用とされたが、しかし、のちには再び中流社会もこれを用いるに至った。筒袖襦袢を京阪では鉄鮑、江戸ではツツッポと呼んだという。
 本県ではジバン・ジワンといい、あるいは色を入れてコンジバン(紺襦袢)というところもある。ハルジバン(一本松町)というのは色が黒かネズミ色である。別子山村では下着は木綿の襦袢か、雲斉襦袢かである。雲斉織りというのは江戸時代末期から足袋の底に使われた厚地のものをいう。新宮村には楮布襦袢がある。楮布は楮から糸を引いて作った布である。木綿や麻のとれない地域では古くから使われていた衣服材料であり、万葉集の時代すでに一般化していた。それ以来使われているものである。

 前掛・腹掛

 前掛は衣類の汚れを防ぐとともに下半身を保護するための補助衣の一つで、農家や商家をとわず広く用いられた。マエカケは江戸中期以降の名称であるといわれる。また、巾や丈もさまざまで一様ではない。
 本県の農山漁村の働き着の場合、ほとんど婦人の着用するものでマエダレといったりマエカケと言っているが、八幡浜市中津川では男子もマエダレを着用している。瀬戸町では暑いときは水に濡らしたマエカケを背にあてて仕事をした。このような機能からみてもマエカケ、マエダレは実用的なものであった。なお、宇和島市九島で使っていたエドハラは江戸腹当を略したものである。

 股引・パッチ軽袗・裁付

 下半身の衣服は股引かパッチが多く県下全域にみられる。股引は、股はばきの転訛したものであるという説があるが明らかでない。江戸では股引は木綿製、パッチは縮緬か絹地製、京阪では股引は丈の短いもの、パッチは丈の長いものでいずれも生地は問わなかったというが、要するに脚部を細くし、股上が左右から重なって後部で合わさる形式のものである。語源については、パッチは朝鮮語で袴をいうパヂから転じたものであろうといわれる。
 本県でもパッチを使うところが多いが、別子山村ではハウチと言っている。北条市小川谷では下くくりバチと言って、尻割れで足首をしばる式のものを指している。小松町では股引は麻製であった。別子山村でカルサンと言っているのは、ポルトガル語のカルサオの転じた名で筒の狭い仕立ての袴、かつ膝下を脚袢ごしらえにし膝下と裾を紐でしめたものである。南蛮服飾のズボンの影響をうけて立体的裁断を伴いながら日本化したものであろうといわれる。西条市の石鎚山麓ではカルサといっている。広田村高市でタッツケというのは「軽袗」と相似たものであり脚絆の部分をすべてコハゼ留めにかえたもので、裁付袴のことである。カルサン・カリサ・タッツケなどはいわゆる山袴のことで、上浮穴郡や東宇和郡の山間部では、もっぱらユキバカマ・イガバカマといった。パッチが足や腰に密着するものであるのに対し、山袴は腰廻りに余裕をもたせる形態をとっているのである。

 被りもの

 松山市久谷町縮川では手拭のハチマキを使い、夏は麦ワラ帽子である。老人は冬季には頭布を被った。越智郡岩城村海原では夏はトンギリ笠(菅笠)、冬は手拭でホウカムリをした。周桑郡丹原町明河ではそのほかにタクラバチを用いた。宇摩郡新宮村や伊予郡広田村はタコロあるいはタコロバチと呼んだ。同郡双海町法師や東宇和郡城川町竜泉などはマンジュウガサ、北宇和郡日吉村犬飼や上浮穴郡美川村有枝などはヒノキガサを日よけに用いた。また東宇和郡野村町や西宇和郡瀬戸町・三瓶町、温泉郡重信町山之内などはアミガサを用いてきた。
 また雨天時に用いる笠を、南宇和郡ではタイコロバチ、北宇和郡はマンジュガサ、東宇和・喜多郡はタコロバチ、タッコロバチ、北条市や越智郡ではタクラバチ、宇摩地方ではタッコロバチともタコロガサともいった。
 このように、被り笠の呼称にはバチ系統のものとカサ系統のものがみられる。バチは竹皮を用いたバッチョウガサ(番匠笠)の変化したものと思われ、このバチ系統の呼称が南宇和郡(タイコロバチ)、西宇和郡や八幡浜市(タッコロバチ)、喜多郡(タコロバチ)、伊予郡・越智郡・周桑郡(タクラバチ)および宇摩地方(タッコロバチ・タコロバチ)など広く見られる。やはり、いずれも竹皮(タコロ)を用いた笠である。これに対して菅を用いたスゲガサは、上浮穴郡や周桑郡、新居浜市などで用いられ、他にはあまりみられない。また、笠の形状が丸いところからきたマンジュガサも、北宇和郡の山間部などに限られている。

 漁村の仕事着

 漁村における仕事着は農山村のものとやや異なり、一部形式で身丈の短い着物を着用し、あとはこれに前掛が加わる程度であった。これは漁村における仕事内容から海水に浸ることが多く、網漁の場合など男はもっぱら褌一つの裸体であることが多く、ドンザ・ヤンダ・ツヅレなどと呼ばれる刺子系統の労働衣服も実際の漁のときには着用しなかったのである。
 宇和島市蒋淵は典型的な段畑とリアス式海岸のムラであるが、男たちは褌に木綿の半着物であるアツシを着た。漁に出るときにはこれに縄を編んだ腰蓑をつけ、雨天時にはさらにタカラバチと蓑をつけた。また、冬はアツシの上にヤンダを着た。ヤンダはボロ布を集めて縫った厚手の着物で、浜や山畑での仕事にも使ったのである。帯は黒木綿かモスで、一年を通して裸足であった。ただ畑仕事にはアシナカ草履を用いてきた。
 瀬戸内の漁村でも、専ら褌であった。白木綿を用いることが多かったが、越智郡魚島村では白褌は鱶よけ、赤褌は陰きんよけであるといった。また冬の海ではドンザとて筒袖の長着を着て綿入れをはおったのであった。
 このように、漁村には漁村の仕事着があり、すでに定形化してしまった既存の長着物と異なり個々の地域社会や人々の労働条件によってそれに適した相応の工夫がなされていることが、仕事着の大きな特徴であった。地形的にも風土的にも変化に富む本県の仕事着も、まさしくそうであったのである。なお、節末に県下の仕事着一覧表を付した。

図1-1 みの仕立図(秋田忠俊原図)

図1-1 みの仕立図(秋田忠俊原図)