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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

三 祭りの食事

 龍王祭礼献立

 『松山叢談』第二下、真常院殿定行公の項に「公御代より御領分神事八月九月の内執行ひ可申様被仰出。是は親類交会の為手軽き料理を出し相親しむことなり。殊に八九月の比は畑物沢山の時節を思召、左の品平皿に用ひ候様御定の由。芋 牛蒡 葱 焼豆腐 竹輪崩し崩しとは蒲鉾を云。今以神事の節此通なり。」の記事がある。
 また『余土村誌』に「(一)膳部 稲餅 (二)横曳吸物膳 茶漬飯の小豆飯 (三)平之部 芋・牛蒡・焼豆腐・葱・すまきくずし等 (四)鉢盛肴 (イ)口取り 蓮根・柿・紅薑・かじめ・くずし等 (ロ)三杯漬 人参・大根・露芋・生荷・生魚肉等 (五)吸物之部 稀に出すのみ」と書かれている。いずれも祭礼の客賄献立である。
 神祭りには神前に供えるべき特別の献立があり、その神食を祭りに参加した者が神と共食する直会がある。祭りの食事は神との饗宴であって、食べることによって神威を享け神慮を測ることであった。ここに宇和島市遊子津之浦の、「文化六己巳八月十七日 龍王祭禮賄向定書覺帳」がある。横帳で両表紙を入れて八枚の小冊子である。津之浦の文書は昭和二七年初春の火災で焼失したが、この覚帳は清家家で保管されていたので消滅をまぬがれ、漁協組合長先山千兵衛に移管された。漁協の「潮直」会議案として竜王祭執行につき改善意見を求める資料として昭和三一年八月二五日の委員会で発表された。この竜王祭は「漁舞」と呼ばれ寛永年間よりの覚帳があった。
(貼紙) 一、屋起 貳枚 一、土かはらけ 四つ 一、中折 壱置   (※神前備付の器物を示す)
  龍王祭禮献立
 一、茶漬 香のもの 座付 一、三つ盃 さかな種々 取合可申こと 一、吸物 前後見合程能時分差出可申こと
膳部 鱠 めう姜 露いも 作身  汁 取身 さゐとうふ 青味菜  香の物 大根 茄子  平皿 いも 焼とうふ さと 干房 しいたけ  飯
 一膳後盃差出不申候ニ付せん部之内程能物ニ而一ニ献御酒指出可申こと  (※前夜祭一七日夕方の賄と推察す)
同十八日朝餉部(※神職が島の行事に出発する朝の賄と推察す)
 皿 焼物鯛 醤油掛  汁 とり身 さいとうふ 青味菜  香のもの 大根  平皿 ね巻ざと 茄子 大いも  飯  無酒
嶋ニ而昼献立(※島における来客・祭主等の賄と推察す)
 一、一夜造り神酒 神前備 尤太夫衆へも差出可申事  一、三つ盃 さかな  酢漬 めう姜 作身 生姜  一、吸物 手棒汁 千り鰤
 一、しとぎ・もみ菜 入重差出ス 丼 見合
   但此三種仕成書之通所方役人中あはたとり共太夫衆同様嶋ニ而差出可申こと
膳部 太夫衆差出ス  (※この膳部は神職の島に於ける賄と推察す)
 皿 屋き物 醤油掛  香のもの 大根  飯  尤吸物己んふたニ而  煮染 焼とうふ さと 牛蒡 小いも 志いたけ
一、恵美須舞  御神酒壱舛 掛け鯛壱掛け (※二品の供物を神前に献供し、恵美須舞を奏する行事と考察。現在と略同一である)
一、嶋舞相仕舞次第網干江相渡可申こと
一、於網干神楽相仕舞次第太夫衆賄右之通御酒肴種々差出可申こと 尤還懸香のものにて茶漬指出可申こと
     (※神楽終了後、島と同一な賄を差出す)
一、於網干所方役人中賄之義右之通舞中場御酒肴差出可申候尤無鹿略様取計可申こと(※神楽中方々役人にも島と同一な賄を差出す)
(貼紙) 一、網干舞場八畳敷 但下へ莚敷上薄縁之事 尤十畳敷間敷事 上方苫囲之事
     一、同改方面々詰所六畳敷 但下へ莚敷 尤此上敷ハ浦々より持参之事  右両様共日覆致候事         
     元網順番之義ハ先例之通小矢の浦を初とし津野浦迄順廻り 当番相済候節ニは本浦元網廻り仕舞より結出
   網之当番順左之通  甘崎結出へ 番匠浦結出 津ノ小網結出 同大網結出 本浦結出
    (※漁舞当番を浦別網順でなく元網と結出網に分け、元網が先に当り、元網が終了すると結出網が元網と同様順廻りで当番となる)
  右此紙面此度一同相談之上相定候者也 然上者此紙面少茂相洩候様已後急度相守可被申候 自然心得違之面面等茂有之候ハヽ其砌急度過料可申付候者也
   文化六己巳八月十七日  遊子浦村君  源太郎 同弥惣治 同久兵衛 同幸八 同源蔵
                同 百姓横目  清八   同村君横目  源之進
                同 組頭  祐次郎 同善兵衛 同幸之進 同平九郎
                同 組頭横目  太郎右ヱ門
                同 庄屋  久治兵衛
      右 当番浦々家中              (※-)内の註は先山千兵衛の記載
 このような申し合わせは越智郡玉川町の御頭行事にもみられる。「和霊神社御頭」に、「人々膳わん持参之事 献立 平 やきどうふ はんぺん ぐぼ 里いも 切こんぶ  坪 阿へ物見合 汁 麦みそ津み入 見合  めし」(文化七年午八月)、「弁財天御頭」献立に「一、魚 たい 大根 汁 あつめ 一、坪 里いも こんにゃく かぶちや  引て平 牛蒡 こんぶ 焼たうふ八つ切一つ さかな ひしぎ牛旁  焼物 鯛  さかな 煮染 青菜 小さかな ひれ吸物 焼物鯛二つ」(宝暦一三年未九月二七日)が報告されている。

 弓祭りの献立

 神祭りに参加する者の食事とその作法が伝わる行事に弓祭りがある。
 (1) 大元神社奉射行事(東予市黒谷) 前立・後立の部所が決定し、着席すると「弓場ぬくめ」の饗があり、雑煮を受ける。
 (2) 肥海八幡神社弓祈祷(越智郡大三島町肥海) 三度弓が終わるとナカイレ(中入)といって昼食になる。頭元から炊き出しする。馬場の一隅に仮設の炊事場があり、ここで煮方・宮方が調理する。雑煮と煮〆といった簡単な食事で、その食事作法は小笠原流である。まず雑煮が出る。朱塗の二の膳に吸物椀で出る。白箸がつけてある。また膳には別に裏白の上に薄い輪切りの大根を載せてつける。雑煮は餅二個、にんじん・焼き豆腐・さといもの具を入れたものである。雑煮の餅は三口で食べることになっており、三日月型に歯切ることは下品としてやらない。汁は最後に吸い、箸は食物以外の器物につけぬのを作法とし、箸の運び方にも作法がある。雑煮についで一献(三つ盃)の儀がある。次にサカナ(干わらび・煮豆)、煮〆(豆腐・里芋・昆布)が出る。これは雑煮を食べた吸物椀のふたの上に盛られる。(雑煮を食べ終わったらふたは上にして重ねておく)。中入れの食事を運ぶのは給仕の役目で、当元が紋付・はかま姿でいちいち挨拶する。後宴…(ゴウドマカナイ)弓祈祷が終わって弓宿にもどった射手たちは師匠その他に挨拶回りをし、弓矢や衣装など道具じまいをしてから頭元での酒宴の席に出る。神職・氏子総代・部落総代・師匠・組長ら案内された者だけの会食であるが厳粛な儀式である。
 (3) 宗方八幡神社弓祈祷(同町宗方) 祝宴はすべて小笠原流。茶が出て本膳となる。必ずホゴとナマコの吸物がつく。昭和八年「祭礼覚」には、「一、座附 瀬戸貝之吸物 ほうれん草  一、飯 吸物膳其ノ終ニテかさの飯  一、肴 かずのこ一 にしめ一 やきもの一 にまめ一 なます一 〆五皿  右終リテ射場ニ出ル 旧正月十一日午前八時半案内ス十九人前。 一、吸物膳 雑煮 座附朝 九日、十一日ノ座附前茶ヲ出ス由ナレドモ此ニ当人ハ出サズニ付以後注意スルコト  一、吸物ナマコ 三度弓  一、本膳粥 廿五度目 向附ケハ食塩、二十五度目ハ三度弓ヲ加算シテ十回目ニス。 晩 一、本膳 飯 汁 カス汁ニホゴ  平 豆腐・人参・牛旁・昆布ニくづし  中置き スリ大根 ナマコ 酢あヘトス  皿 なます。 晩 一、肴 かずのこ さしみ にしめ 鯛やきもの なます。 的場 肴 一、なます 一、こんにゃくのでんがく 一、にしめ」とある。
 (4) 盛八幡神社弓祈祷(越智郡上浦町盛) 〔射手潔斎訓練〕お射手衆は各の家を朝昼晩とも順次廻って食事する。女を忌むので廻り飯の家の女子は親類や近所に避ける。[奉射]弓場ぬくめ(酒)が出る。神職・矢拾いには三つ組盃、お射手衆には蓋付塗椀で上・岡ともに一・二番のところに揃える。上の一・二番が神官に口上する。燗場の給仕が三人で配る。肴は七ヘラ半に削った生大根十二切をつける。爛「神主さんお役場さん、この方へお銚子が見えましてございます」神「この方へも見えましてございます」爛「おはじめなさいませ」神「うけます。おあげなさいませ」爛「あげます。おうけなさいませ」神「しからばご一緒に致しましょう」。このやりとりが終わると次は上・岡の一・二番が同様口上のやりとりをして揃って飲む。次に上・岡同時に一~三、二~四番の口上がある。一「○○(三番名)さん、私かせんだって食べ荒しました持合わせがございます。なにとぞあなたにおりょうがえしとうございます」三「めでとう頂戴します」一「それはありがとうございます。(もう一度雫を乾して盃を置き)すえておしやくのお手を借りますでございます」三「さあおすえなさいませ」。上・岡とも一-三、ニ-四番へ盃が進められ、一・三番は同じ動作で飲む。全部に廻り終わると、上の一・二番は下手に、岡の一・二番は上手に向いて納めの口上を交わす。上「○○さん××さん、お盃も廻り詰めそうにございます。流しに致しましょうかにございます」岡「さようなさいませ」。第一射(ツイタチ)から十二タテまでのバラ射が終わって矢分けのときに酒が出る。二四タテの酒には六~一二、六~三、三~一番の間で口上がある。二九タテ、小的三タテの酒がある。〔宿元下向〕お射手衆に宿元から雑煮を出す。大きな餅三つ、下には大根が入っているだけ。〔頭屋餐宴〕お射手衆が休息しているうちに頭元に集合する定刻が近づくと岡の矢拾いが誘いに来て、矢拾いたちは出発時刻を通知しあう。お射手衆は宿元のゴテシュサンに挨拶して宿元を出る。口上がある。お射手衆は矢・扇子・提灯を持って定められた当家に赴く。お射手衆と矢拾い一四人全員は各自当家の主人と勝手衆に挨拶の口上を述べる。見物人たちは口上や儀礼の間違いを大笑いしようと注目している。当家主人へ「ご亭主さん、御免つかわさいませ。まず今晩おめでとうございます。どうか当年はお日柄ようにお当の親元でございますそうな。つきましては大勢でございますのに、御案内つかねさいまして、早速よばれて参りました。」お勝手衆へ「御勝手の衆、御一緒に御免つかねさいませ。まず今晩おめでとうございます。あなた方当年はお日柄ようお当番でございますそうな。…(以下当家主人へと同じ)…」先に来ている神職・部落総代・氏子総代にも「神主さん、お役場さん、おめでとうございました」と挨拶をする。お射手衆は鏃が床の間に向かぬよう矢を矢棚に納めて待つ。やがて主人が「神主さん、お役場さん、両家お射手衆、どなたさまにもお座におつめなさいませ」と案内する。三つ声の応酬があって座席につく。まず茶の礼がある。正席は神主、部落・氏子総代、お射手衆は岡が奥側、上が表側で一番から順次居流れる。矢拾い二人と部落小使は下座。座が決まると餅が出る。五個のうち一個は赤。神主以下には普通の湯茶、お射手衆にはダイフク(抹茶)で一番のところに出される。主「神主さん、お役場さん、両家お射手衆。お茶が出ました。どうぞおあがり下さい。」射「ごいんぎに改ったお茶の子トウにございます。私不調法者が頂戴いたしましょうか」の挨拶でお射手衆だけが餅をたべる。懐紙を顔の前にかざし餅の縁を少しずつ回しながら角をたてぬよう食べる。抹茶茶碗を右目上に捧げて口上を述べて喫し二番に横になって向かい合って茶碗を授受し、二番は正面に向きなおり喫し、順次上側の末席-岡側の末席に。上の末席は茶器のほめことばを口上する。岡の末席から上席へ。岡の一番は「お茶は私で廻り結めそうにございます。私こと不調法でございまして、逆に戻しはよう致しますまいが、とどきし戻してみましょうかでございます。還り茶をもう一たて頂戴いたしましょうかでございます」と口上して茶器を賞め上一番にもどす。茶碗が引かれると本膳(一の膳)が出る。四季五色の七種の料理で容器は蓋付き。各蓋に何を取り分けて食べるかの決まりがある。春(青)イケモリ トサカ きくらげ 梅 その他 さしみ二切 醤油入チヨク 他を象る 夏 (赤)実汁の桝  秋 (黒)つぼ  冬 (白)御飯  中央 (黄)へりようず  胡蝶折紙 紙で蝶を折り中に胡椒を入れる  かんしき 南天の葉を敷き、香の物二切。御飯・汁がつけられ主人挨拶、一座挨拶があって食べている間に二の膳が出る。青 木皿に刺身二切  赤 二の汁  黒 ひら  白 蓋付茶碗の中に刺身二切、味噌黄 ちょく形容器、ゆりの白あえ。客が箸を置く一応櫃と汁を下げる。三の膳が一斉に出される。櫃と汁を再び出す。ホゴの焼きもの・にし・つめ(蓋付茶碗に山海ものを入れる)の三種で、主人から「あっさりカケテくれるよう」挨拶口上がある。カケメシは強飯(しいめし)なので受けねばならない。飯・汁が引かれて御神酒一献、主人・一座の口上がある。ついで口上あって燗酒。三献は矢拾いから上席へと逆の盃。四献はトリノサカナ(雌雄抱き合いの魚)が出るトリノサカズキで親碗で受けるがこれにも口上がある。つぎに湯桶が出る。親碗で受け一の膳のカンシキで椀をすすぎ香のものを食べて飲む。下座から膳が下げられ、上座に及ぶと賞め口上がある。ついでカンスノサンチャ(追い立て)と茶菓子が出る。お茶の子という。お射手と主人との口上があって、一座は茶菓子を紙に包み、料理の残りを用意してきたイレコ(重箱)に入れて貰って帰る。頭屋餐宴のあと花開き、弦外しにも飲食の宴があって作法・口上・座持ちの訓練が行われる。
 (4) 猪木の的射(北条市猪木) 女人禁制別火生活の行事でお役者さん(射手)の世話は頭屋が担任する。一月五日夕刻、射手は雑煮を食べ神社に参進して的射し、頭屋に帰って雑煮と酒肴。六日朝も雑煮、餅の数は一八個のきまりである。大的を射てのち祝宴となる。料理には梅の小枝などを添える。次年の頭屋には竹べらを通した湯豆腐が出る。各人二合半の大盛飯(以前は五合飯)を食べる。このカケメシを食べ残すと不作になると忌む。
 神祭り行事にとも吻う食事は、祭りに付属した副次的なものと考えられがちであるが、逆に食事そのものが祭りの主体の一部であったとも考えられる。神饌は神の食事であるがゆえに、神饌を調製することも主要な神ごとである。穢れを忌んで女人を遠ざけ別火を用い、垢離をとった人たちが調理した。神祭りを執行する神職や頭屋、その他の参加者は神に代わって、あるいは神とともに神饌を食べ、神が満足するであろうように満足した。神人共食の行事が神ごとの核をなすものの一つであることはつとに注目されてきた。一月一五日の新居浜市大島の左義長、東予市・丹原町の神明はんで子供たちが唱える「とうどや左義長や餅のかげも今日ばかり」、「餅のこげも今日限り」ということばのなかには、単に餅の食い終わりという意味ばかりではなく「お正月=正月様=鏡餅=餅」の終わりが小正月行事に無意識のうちにこめられていると考えるのは思いすごしであろうか。とうどの炎の中に正月の神との別れを告げ、正月神の再現を祈念する心の残影がこめられているように思えるのである。宇和島市遊子の漁舞・東予地方の弓祈祷の献立が伝承されているのも祭りの食事であるからである。

 神々の食事

 大山祇神社の旧九月九日の抜穂祭の神饌のひとつに「花盛り」がある。白米五合を炊ぎ、握り飯にして奉書に包み、わらしべで結んだものを三個供える。熟饌が供えられる。参列者に分け与えられる熟饌として「菜葉めし」をつくる。白米一升を炊いて菜葉に包み棕櫚の葉でくくった百個を神に供え、のち直会用として戴く。大西町九王の獅子船では獅子の立ち芸が行われる。継ぎ獅子である。船上で餅つき行事が行われる。餅を臼に入れて揚く所作を演ずるだけであるが、とにかく〝縁起餅〟を搗くのである。
 肱川の清流に沿う大洲市八多喜に祇園神社がある。旧六月一三、四日(現在は新暦の四月一三、四日)の例祭の前に潮垢離祭がある。瀬戸内海の潮はここまで潮上げするといわれる。例祭奉仕者の潔斎儀式である。奉仕者に神供司がある。岩津組の水沼本家が担当し、世襲の家筋である。オハケノセマチという神田を耕作し神饌を調理して献上する。潮垢離祭ではオモッソを四個を調理する。小麦を蒸して搗き固めて円筒形にしたものである。老女が頭に戴いて運ぶ。祭場では修祓のあと御幣を立てたオモッソを神供司が捧げ持ち水際に出て祈念しながら流れに放つ。終わって斎主・神供司は金幣を捧じて流れに入り沫浴して金幣に水をそそぎかける。神楽を奏上し直会がある。オモッソが神供司から参会者に分与されるのである。
 越智郡菊間町蔵之谷の太郎坊では、お盆入りの二百昼「麦のどぶろく」を供える念仏供養行事がある。地区の二八軒が持ち回りで、裸麦一升に麹五合を加えとろ火で炊ぎ三日間大瓶に仕込んで発酵させる。二枚の葉に麦のどぶろくを盛り、お堂と鳥居が混在する「お太郎さん」にある高仙山城主河野通光の墓前に供え、鉦と太鼓に合わせ一四六回念仏を唱え終えて、麦のどぶろくを椀ですすりながら歓談する。仏教的な色彩の濃い行事にも供物共食の型が見られるのである。

図1-3 弓祈祷の膳仕立て(越智郡島嶼部地区民俗資料調査報告書)

図1-3 弓祈祷の膳仕立て(越智郡島嶼部地区民俗資料調査報告書)