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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

五 マチと町家

 マチと町割り

 ムラに対してマチと呼ばれる地域がある。愛媛県においても松山や宇和島の城下町をはじめとして西条や吉田などの陣屋町、さらには在町・門前町・宿場町などのマチが、周辺の農山漁村(ムラ)を背景として成り立ってきた。そして、これらのマチの景観的特色は、町家と町並みにおいて最も端的に表れるのであり、喜多郡内子町のそれはつとに知られている。また、宇和町卯之町などにおいても伝統的町並み保存の運動が活発化してきているのである。
 さて、マチ景観の特徴としてあげられるのが計画的なマチづくり、すなわち町並みの形成が考えられる。マチの住居は通りに面して縦に長く区画された屋敷の上に構えられ、境界には共有の排水溝を切るなどして隣家との間を画している。これが城下町とか陣屋町などの大規模なマチになると通りも複数となり、ために各通りを中心とする個々の大きな区画ごとに一つの町内を形成してきたのであった。したがって、現行地名表示にみられる四周を道路に囲まれた一区画をもってする方法とは異なり、かえって実生活に即応した区分であったのである。
 例えば、北宇和郡吉田町の旧吉田地区は、伊達家三万石の陣屋町であった。地区の中央を流れる立間川に架かる桜橋を境として橋上・橋下に分け、町人たちは橋下にマチを形成した。それは裡町・本町・袋町(魚棚)の三本の筋(通り)に面した三町から成り、それぞれがまた三丁に分かたれていた(図1-12)。各丁は、通りから一六間のところで四尺幅のミゾゴを境に長方形に区画され、それがさらに間口四ないし一〇間の幅をもって短冊型に縦割りされて個々の屋敷となっている。通りの両側には二尺幅のミゾゴを設け、これら大小のミゾゴを集めて排水を行うオオミゾゴが各町の三丁目中央を国安川へと通じているのである。

 町家

 以上のような計画的な町割りの中に人々は町家を構えたのであるが、個々の町家もまた農山漁村などのムラとは異なったマチ特有の民家様式を示している。
 吉田町本町において綿糸や反物を商った保田家は、通りに面した平入り中二階のオモヤとその奥の妻入り平屋のザシキの二棟を結合させて母屋としている。そして、母屋の右半分を占める土間はトオリニワとなって裏へ突き抜けており、その裏に吹き抜けの釜屋・女中部屋・漬物部屋が別棟一棟で接続している。また左半分はミセ・オータイノマ・ナカノマ・ザシキと一列に並び、その先に廊下を隔てて風呂・便所を設けていたのである。そして土間の表口・裏口はともにオオト(大戸)をはめて内にクグリドをつけていた。ミセは外に対して蔀を設けていたが、昼間はこれらをすべて開けることで開放的な空間をつくり出していた。それと同時に、裏に続く私宅としての生活空間はやや閉鎖性を伴っており、職場としてのミセ空間とは異なりを示していた。したがって訪問する々との関係性によって入口は同一でありながらも応待の場所に違いがあり、ミセからオータイノマ、そしてナカノマ、ザシキと変化してい
くのであった(図1-13)。
 こうした町家のもつ様式は、また各地共通するものがあった。そして、瓦葺き二階屋ないし二重屋根であること、そのため軒が低いこと、表に装飾を施していることなども町家の特徴である。吉田町の周辺農村では一一尺ないし一二尺の柱を用いるというが、マチでは八尺ないし九尺しかなく、軒の庇までの高さも六尺というのが一般となっていた。宇和町卯之町はかつての宿場町であるが、その一画の仲町にはなお古い町並みが残されている。図1-14は、江戸時代末期の建築と伝える蝋屋であったもので、平入り一部二階の母屋とこれに続く付属屋からなる典型的な短冊形の町家である。先の保田家以上に通りニワの比率が高く、屋敷全体の奥行きも長い。
 ところが間口の広い町家になるとその様式も異なり、中庭が造られるなど、屋敷全体の利用に余裕がみられるのである。吉田町魚棚の岩城家の場合、図1-15のようであった。間口八間に奥行三間半の平入り中二階のミセと妻入りのザシキを接続させ、ザシキの左右には外庭をとっている。また隣家と接する右側には炊事場・釜屋・物置を配し、裏には蔵を設けていたのである。表は両端一間を壁仕上げとしたほかは大戸と蔀を用い、通りに面する左側は塀を設けて区画した。すなわち、マチの住まいは一見して外に対し閉鎖的であるが、表通りに面する表口のみはきわめて解放的な空間構造をとっており、ムラの比ではないのである。それは、生業形態や地割りという特殊な条件を有するためではあるが、マチの住居の大きな特徴となっている。
 ところで、家が軒を接するマチにおいて最も恐れられたものは火災であり、これに対する工夫もあちらこちらに凝らされている。瓦屋根が早くから普及したこと、釜屋の桁を漆喰で塗り固めたり吹き抜けにしていることなどは、やはり火災予防からであった。また、隣との間には一尺巾の小さな水路を設けているが、これも排水施設であるとともに防火の役目も負っていたのである。吉田町ではこれをヒヤバといっている。なお、初期の目的から遠ざかってはいるか、ウダツもそうであった。
 ウダツの本来の意味は棟を支える柱のことと解されるが、これが町家において防火のために設けられるようになるのは江戸時代半ば以降のことであるという。すなわち、隣家との境に軒より一段高くなった防火壁を設けて類焼を免れようとしたのであったが、県下ではこうした本式のウダツは発達しなかったようである。それでも内子町や卯之町、吉田町の町並みには、これの変化した飾りウダツを見ることができるし、袖ウダツなれば看板などを兼ねて方々に残されている。なかでも飾りウダツは、豪商たちの財力の象徴でもあったわけである。
 ともあれマチには、そこに適合するためのムラとは異質な生活空間が存在し、独自の住生活が展開されていたのである。

図1-12 吉田町人町の町割り

図1-12 吉田町人町の町割り


図1-13 吉田町の平均的な商家(復元図)

図1-13 吉田町の平均的な商家(復元図)


図1-14 江戸時代末期の町家(蠟屋)

図1-14 江戸時代末期の町家(蠟屋)


図1-15 間口の広い商家(吉田町魚棚ー復元図)

図1-15 間口の広い商家(吉田町魚棚ー復元図)