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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

2 田植の習俗

 田ごしらえ

 田植ができるように水田整地をすることをタゴシラエ、ジゴシラエという。その方法は耕地の事情によって差異がある。一般には鋤起こしをして肥料を鋤込み、水を引く。とくに保水に留意して耕地周辺の畦を固める。これをアゼツケ、アゼヌリ、アゼゴシラエなどという。畦には大豆をまく。
 『農家業状筆録』は「苗うへ付二日三日前、牛にて田を鋤起し置(き)、真鍬にて牛にかかせ、土をよくやすらけ、兎かくに数へんすきかへすほど土地こなれて能和らぎよしといへり。苗をうゆる前日、または当日にても、先づ一番に畦の内ひらの土を鍬にて畦へ重(ね)置(き)、足にて外ひらをならし、内ひらを踏みて鍬にてならし、岸高き処へは畦豆を植(え)、夫より牛にて真鍬をかかせ、芟敷のいつる処は〝大あし〟とて木にて製したる、長さ壱尺四五寸に幅は九寸ばかりなるものを足にはき踏込(み)、鍬を持て土地をよくならす。是を〝しろ引〟といへり。尤其村々所々の仕来(り)仕くせあるものゆへ極かたし。扨、苗うへは、五月のせつなり。夏至の前後苗うへの時は、民家の男女老幼有たけ出て、男子は田をかき、または苗を配り、女は早乙女とて苗を栽るなり。苗配(り)の土地の善悪又は広狭の考あり。うゆる事手早き早乙女は、広田五畝、山田三畝くらひ植ると老農中せしなり。扨また田を栽るとする時、〝三盃おろし〟とて、芽柴、竹の内(子)を建て、正月に三宝に入置る米または有合(せ)の米にても持行(き)備(供)へ、又苗三把を備(供)へ、男子植初(め)、早乙女に田をうえさす。昼食のせつ三ばい祝とて飯を桝に人たると御酒とを備(供)へ、植し早乙女よりいただき、夫より追々頂戴すといへり』と記している。近世末期の田植前後の事情を述べたものであるが、この慣習はつい最近まで行われていたことである。
 なお、畦つけがすむとムクチを入れる。続いてしろかきをする。馬鍬を使って水田をならし田植ができるようにするのである。

 苗取り

 「苗取りは一の大役、晩には竹の子の味噌汁食わそ」と田植唄にあるように大役であった。取り方が悪いと収穫にも影響するが、植付けができにくいのである。一般的呼称は苗取りであるが、コマツトリ(松山市興居島)という言い方もある。
 苗取りには作法があった。家の主人が、まずその年の明き方に向いて取り初めをしてから作業にかかった。その時、最初に三苗を残してから取り始めたなどの伝えもある。苗取りは吉日を選んで行う。大安の日が選ばれた。巳午の日や四十九日苗は忌みた。三日苗はとらない。それで前日か当日に苗取りをする。
 取った苗は束ねて藁でくくるが、そのくくり藁をノバセワラという。オノボセワラ、単にノバセともいう。ムスビワラともいうが、変わった例ではテネソワラ(北条市)、ノザシワラ(松山市平田町)がある。
 ノバセワラは正月に用意する。初春に村を訪ねてくる三番叟舞し(阿波のデコ舞し)に「お恵比須さんに踏んでもらう」と言って拝んでもらい、これに御幣を立ててもらうのである。松山市溝辺町などでは、藁すぼをつくり、二箇所をくくって、これに鯛二尾をさしてノバセワラを祭ったそうである。松山市石井ではこれをフクスボといった。
 北宇和郡日吉村ではシメワラといい、正月に門松にかけた藁を用いることになっていた。東予地方では、宇摩郡土居町関川のノバセワラは、正月一一日のハタキゾメに脱穀したワラを用いることになっており、それは稲刈りのときに、平年には一二把、閏年には一三把を刈り取って用意し、軒下にかけて保存しておいた稲藁を用いるということである。
 不揃い苗 不揃いに束ねた苗はキノボリナエ(北条市・越智郡・宇摩郡など)といって早乙女から嫌がられた。コシオレ(温泉郡川内町)、オカイ(伊予郡)、オカイタバ(松山市興居島)、オカイナエ(松山市久谷)、オオダクリなどという所もある。とにかく苗さばきがよくないのである。
 補植用苗のことは、エナエ(温泉郡)、フセナエ、マゴナエ、トリコナエ(伊予郡)、タテナエ(越智郡)、イケナエ(宇摩郡)、ツケナエ(松山市興居島)などの呼称がある。ヨビナエ、ヨウビナエという所もある。テナエは水口の所へ仮植えしておく。
 余り苗 苗取りをするとき、苗床周辺の苗はノギといって取り残すことになっている。ノード、ノーゲ(宇摩郡)、ノジ(松山市久谷)ともいっている。また植え残りの苗は畦に積み上げて泥などを掛けておき、肥料にしたりする。

 田植日

 田植時期を一般にサツキというが、シツケドキ、ウエツケドキなどともいう。山村地帯の田植は里に比してだいぶん早目であるが、平野部では夏至をメドにして田植を始める。それをチュウといっている。チュウ、バイとかチュウさがり三日だのいう言い方をしており、そして半夏生までに植え終わるのを理想とした。「半夏半作」という諺がある。半夏生は暦法の雑節で、草木の毒気と病難を払う日として、殺生や不浄を忌む日と目されている。「はんげのはげ団子」の言葉があるように、この日は団子やうどんを食べる風習であった。
 田植は原則として村単位で行っていた。モヤイとかイといって共同田植が普通であった。上浮穴郡ではそれをイイレといっている。久万町下直瀬では、田植は部落一斉に始めて、約一〇日間位で終了する。田植の日取りは正月の村のお爛酒(初寄り)のときに、めいめいが相談してイイレと日程を決めていた。

 田植の忌日

 田植には忌日がある。俗に四九日苗のタブーである。籾まきから四九日目の苗は、ナイビ、ナエビ、ナエヤクなどと称して植えないのである。ヤクナエ(厄苗)ともいい、この苗を植えると四九日の法事を問う米になるといって忌みたのである。三三日苗も忌みた。北宇和郡津島町や宇和島市祝森などでは、三三日苗がナイヤクだという。また坎日田植もしない。四九日苗の俗信は全国的な俗信になっている。
 またナヌカ(七日)、ココヌカ(九日)などヌカのつく日、巳・午の日も忌みる。大洲市粟津では旧五月の卯の日は田植をしない。氏神の祇園神社の祭神に関する俗信からで、この日田に入って水を濁すと不作になるという伝えである。南宇和郡一本松町では、旧五月一日、一五日の田植も忌みた。この日に田植をすればクスリダ(薬田)になるというのである。つまり収穫のほとんどが医者の薬代になってしまうとの俗信がある。
 旧五月中の特定の日を忌みて田植をしない習俗は本県南予地方の特色である。またこの日は牛の使役を禁じてきた。この習俗は、かなり古くからの習俗と見えて、日本最古の農書といわれる「親民鑑月集」(『清良記』)にも記されている。すなわち「扨五月朔日、五日、十五日、十六日、二十五日、此五日は牛を休め中日に定たり。此日牛を遣へば急雨ふらずと古来より申伝。大殿清貞公は此日牛を遣ふたる者にきつく御せっかん有りし」(巻七之六、清良宗案問答の事)とある。以上のようなことから、田植は四九日苗を避けて、五〇日苗を目安とし、五二日、五三日苗を植える。
 池川次太郎の『農業実験録』によれば、「田の植え付の時は処々相異なるも妨なし。又た(ママ)異ならざるべからず。而して苗植え付け時は、其土地の籾蒔どきより五十二日若くは五十三回目の二日に限るべし。若しも誤りて五十五日乃至五十八日目にもなるときは苗に虫発生して頻りに傷むなり。抑も植え付け適当のときをサツキといふ。このサツキのときは鍬の金一時間中に忽ちサビルなり。このサツキにあらざれば俄にさびることなし。実に些少の時間にて其の結果の大差違を生ずるは稲に若くものなし。故に二三日の遅速にて一反歩に付き米四五斗の相違あり。(以下略)」とある。これは道後平野における実験録であるが、田植時期はこのように大切であったから、農家も随分と気を遣った。

 田植の方法

 現在は機械植えになっているが、以前は定木や縄を用いて田植をした。しかしそれ以前は定木を用いないヤタラウエ、目見当植えであった。これをアルキダというのであるが、明治中期まではそうであった。これに対して前者の定木植えをシロキダというのである。
 田植歌に「朝にツボに入るなはいるなと、夜中に殿御がささえた(私語)」(温泉郡の朝歌)というのがある。ツボニスルといって、早乙女が植えおくれて、自分の場所ばかりが湾のようになるのをツボといい、わざとこうして未熟な若嫁などを困らせようとしたのである。田の畔の一端まで植えて来てくるりと引き返すときに、ツボにされた一人が殊に目立つのである。ヤタラウエの場合にこのような現象が生じたのであるが、定木植えになってからは全員が一斉に後退して植えてゆくのでそのようなことはおこらなくなった。それで正条植を喜んで田植歌が生まれたりしている。
 坪当り植株 田植定木は土地によっての違いがあるが、植え間隔八寸八分から九寸が多かった。中には八寸五分や九寸三分というのもあった。九寸の場合だと一坪に四三ないし四五株植わった。定木植え(正条植え)以前のヤタラ植えの場合は、かなり密植になったと思われるが、これについては藩の指導があった。
 松山藩では「一歩の内、鋤株数、山分は凡そ百二三十、里分は大方五六十より八九十株なり。あしき田ほど、稲に子数出ざる故、株多く植えるなり」(松山藩郡用記)とある。子数は分檗のことである。
 今治藩では、稲の品種は三宝米を栽培させる慣例であった。籾播きは八十八夜前で播種量は坪当り(六尺五寸平方)八合が普通で、苗代一面にバラマキした。挿秧は藩の初期には籾播き後五十三日から五十五日見当に着手し、四、五目間に終了する例であった。しかし、螟虫虫発生の被害甚大であったことから、これを田植が早く苗の太り過ぎによって腐敗するものと誤認し、籾の種を坪一升ないし一升二合とし、田植を遅延させた。挿秧株数は、江戸時代中・末期の安永より天明に至る十ヶ年間は平均六十四、享和より文化に至る十ヶ年間六十三、天保年間に至り五十五株になった(この三期の平均は六一株)。
 非常時の田植 田植は水さえあれば文句なしに片付くものであるが、年によると空梅雨で水不足のため田植ができぬ年がある。そのときは池水を利用するしかない。それで上手から下手に水を切り落とし、配水しながら田植をしてゆくのである。
 多勢が加勢(モヤイ)してやるのでこの方法をオシダ(押田)と称した。また「歩植え」という方法もある。水の状況を予想して地主の持田の二分植えとか三分植えといって、その二割とか三割を田植して雨を待つのである。
 しかし、平常時でも以前は田植といえば共同田植が一般的であった。イイレ(結)のことは既にふれたけれども、所によってはこの結固めの贈答をする風があった。宇摩郡新宮村上山の一部では、田植の前日に夜どんなに遅くなっても餅か団子をつくって、早乙女に来てくれる人にそれを配って歩き、手伝いを依頼する風であった。翌日に持ち越してはならぬ慣習であった。
 早乙女 田植の植え手はサオトメ(早乙女)とかソウソメと称した。男女老若にかかわらずそう呼んだ。普通一人役者で一日に六畝か七畝位植えたが、それ以上植える人もあった。
 田植えの服装 男は筒袖の絆天に短目の股引、女は足に脚絆をはき、年頃の女は赤腰巻、年配の女は紺縞の腰巻をし、着物を足が半分位出るようにたくし上げて着る。そして襷を掛ける。手には腕抜と手負(手甲)をする。頭は手拭を被るか頬被りをしてタクラバチ(竹皮製の笠)をかぶる。雨天時はこれに簑を着けた。
 この服装は、温泉郡あたりで見かけられた服装であるが、上浮穴郡久万地方では、男はコギノと呼ぶ紺に横縞の入った田植着物を着、早乙女は鼠色の横縞の入った着物を着て、ブツタカの帯を結んだ。この田植着物は毎年新調することになっていたと、伊予三島市上猿田の老婆が語ってくれた。
 田植の禁忌、田植が終わった日の入浴はタブーであると各地で言う。入ると稲が足を洗って活着しない。稲の発根が悪くなる。あかがついていないと稲が黒まん(実らない)からだといったりしている。
 次に、畦越しの田植を忌む風が広く言われている。尻なし子が生まれる、オサンバイの神がお腹立ちになり、腹痛を病むなどの理由が言われており、この禁忌は県下全域にわたっている。