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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

二 海 上 交 通

 海上道中里数

 海の道は、陸の道と趣を異にする。ことに風力と人力によって予船を動かしていたころの航海にとって、天候は最大の味方でありかつ敵でもあった。順風満帆の船旅は快適そのものであるが、逆風なれば間切りながらの操船を強いられる。陸上を脚で歩むことが出来る強風でも、海は怒涛そのものとなり船は港に避難して碇を打ち、ともづなを取り息をひそめねばならなかった。陸の道には道標があり里人に案内を受けることが出来たが、海の上には道しるべはなかった。屹立した山頂が頼りであり、沿岸のたゝずまいがもの言わぬ案内者であった。吉田藩船大工の浦上与右衛門は嘉永六年(一八五三)三月、大坂迄「海上道中里数」心覚え帳に航路から見た沿岸図を画いている。下の絵図はそのひとつで、伊予灘から見た出海-長浜の見取り図である。新谷領泉とあるのは出海、九周とあるのは櫛生の宛字であろう。(出石寺)沖よりミユル……とある。船の位置や航路がわかっていても風や潮の具合によっては船は進まぬ。都合のよい風を待ち、潮の流れを待たなければならない。荒天に際しての避難の港が必要であるとともに、風待ち潮待ちのために港で停泊をしなければならなかった。越智郡島嶼部の石船・塩船・渡海船・上荷船、あるいは今治桜井漆器や伊予の縞物を行商した船にしても動力船となる以前はこのように自然の制約を受け、自然の力を利用しなければならなかったわけである。宇和島藩の『大成郡録』には〝摂州大坂江宇和島城下より道程〟として、百弐拾七里弐拾三町弐拾八間と記載しているが……内、弐拾三町弐拾八間 椛崎船場迄陸路、百弐拾七里 椛崎より三崎鼻通大坂迄船路……とあり、陸路と船路の単位のちがいが著しい。なお同じき道程でも塩成―三机を利用した場合は百拾五里五町弐拾八間であり、その内訳は……弐拾三町弐拾八間 椛崎船場迄陸路、捨三里 椛崎より塩成浦迄船路、拾八町 塩成浦より三机湊迄陸路、百壱里 三机湊より大阪迄船路……となる。宇和島藩主の参勤交代は宇和島椛崎(樺崎)を出航し、佐田岬半島中央部で伊予灘との陸地のもっともくびれている塩成-三机を駕籠で通り、三机御仮所に到着。岬を廻航した御座船は半日で三机に入り藩主を乗せて播磨の室津に向かった。岬を両断して直接に瀬戸内海に出ようとする壮大な計画をやりとげようとしたのは富田信濃守知信で、その工事は慶長一五~一八年(一六一〇~一三)……ほり切の長さ、塩成の方ふりより三机の方こぶり迄、三百四拾間、高さ弐間より十弐間まで。同底幅、塩成の方は、弐拾四間、三机の方は四拾間、同峠の中上口の幅、三拾壱間。富田信濃守改易之時は、右之普請も箇条之内のよし(「宇和旧記」萩森殿之事)……。挫折したとは言え雄図といわねばならぬ。いま、宇和海には吉田町奥浦・三浦半島細木・由良半島船越の運河があるが、この塩成は現代の工法をもってしても不可能に近いという。もって信濃守も瞑すべきか。三机八幡宮碑(安政三年=一八五六=丙辰六月一日 舌間浦道士役童手書)には三机湊の景観が銘記されている。また『宇和旧記』は「三机湊、船の掛り所、深さ拾弐尋余。奥へ押入 弐町四五反」と記し次のように各所への航程をも示している。

礒崎浦へ 五里、三崎のはなへ 六里拾六町、宇和島城下へ 弐拾四里拾六町、周防かむろへ 拾八里、同へぐりへ 拾五里、大洲青島へ 拾壱里、いわうへ 拾五里、やしまへ 拾三里、上の関へ 拾八里、ななせへ 拾六里、ゆりへ 拾八里、長浜へ 八里、三津の浜へ 拾九里、興居島へ 同断、つわ瀬戸へ 弐拾三里、安芸広島へ 四拾壱里、同宮島へ 三拾六里、鞆へ 四拾弐里、牛間津へ 六拾弐里、むろへ 七拾弐里、兵庫へ 九拾里、大阪へ百三里  一、三机より大阪迄湊々夏冬乗別 夏下内乗 礒崎へ 五里、長浜へ 三里、高浜へ 八里、はづまへ 三里 はなぐれへ 五里、いげへ 五里、ともへ 五里 冬上外乗(後略)

 いかなる方法をもって海上道中の里数を道上のそれと同じように算出したのかわからぬが〝凡その〟里数で示さざるを得なかったのが海の道の特質であった。

※なお、吉田町奥浦の堀切りは、門口の堀切といわれ『宇和旧記』板島殿之事・奥浦の項に次のごとき記事がある。「一、此浦に間口と云所あり、大潮の時は舟の通も成るべきやうにてもさもなし、然る処に、寛文三年(一六六三)に、法花津浦に新蔵人と云庄屋あり、其身有徳なるにまかせ鷹を飼置、所々鷹野致すよし聞えければ、科代として、彼間口をほらせらるるよし。 一、間口ほり切の長さ百弐拾弐間、横三間余、右之内高山浦の方、海辺より十一間は一枚石のなめらと云やうなる物のよし、惣じて海境より海境迄、内外汐干分百参拾間有之由、此ほり通しも、今は埋りて小船も通りかね申のよし。」井関盛英が『宇和旧記』を草した天和元年(一六八一)すでに航行不能に近かったこの堀切りは、昭和のはじめ吉田町出身の山下汽船社長山下亀三郎の拠金により完全に開鑿された。

安政七年(=万延元年=一八六〇)、吉田藩の町医者岡太仲は、藩主参勤交替迎船の一行に加わり豊後丸に乗り組んで大坂までの往復航海を体験した。その日録「大坂御迎船海上往来」は「第一、川入迄の海上浪の手枕 四月一五日より同月二七日迄 大坂迄海上」「第二、安治川滞船浪花噺 四月二七日より六月朔日迄」「第三、安治川御出船御下り 六月朔日より」の三部に分かれている。
 第一、往路における日程は、四月十五日(吉田ヨリ一里)牛川浦泊、一六日―一八日(二三里)三机浦泊、一九日夜(一二リ)青島泊、二〇日夜(一七里)御手洗泊、二一日夜(一八里)友湊泊、廿二日-廿三日夜(一二里)多度津泊(御手洗ヨリ此所迄三〇里)、二四日夜(一〇里)出崎泊、二五日夜(五里)牛窓泊、二六日夜(二五里)明石泊、二七日夜(一五里)安治川入、となっている。余裕のある日程のなかに金毘羅参詣のためか多度津に寄港している。第三、復路は好天に恵まれて藩主を乗せた一行は吉田に急いでいる。六月一日(大坂より一五里)明石泊り、二日夜(二〇里)大多部泊り、三日夜(二三里)アイノ白石泊り、四日夜(一八里位)木の江泊り、五日夜(二〇里位)青島泊り、六日夜(一七里)佐田泊り、七日夜(一八里)未ノ上刻吉田御揚場へ御着船、であった。御船の行列は「①日向丸―②日吉村―③小雀丸④千鳥丸―⑤八幡丸⑥水艇・(舟へんにユウ)、碇艇・(舟へんにユウ)⑧豊後丸⑨佐武丸⑩てんま⑪てんま―⑫兎丸、御船数〆十二艘」である。

①御座船付属船・櫓二〇挺立 ②御使者船・櫓八挺立 ⑤御座船・千石の瓦据・櫓六四挺立 ⑥水伝馬・水汲用船・櫓一六挺立 ⑧炊事船・櫓三八挺立 ⑨御供乗用・櫓四〇挺立 ⑩⑪各四人乗 ⑫馬積込用船・櫓二〇挺立(「北宇和郡誌」より)。③④は御座船漕船・櫓各々八挺立(手代り四人)の鯨船か。

 往路、四月一五~二七日の日記のうち、航海関係記事のみを摘記してみる。

……<弥四月十五日> タ七ッ半過ル頃と思しきに御奉行御乗船有 御船一統乗揃ひ節鯨船ニ而人数改有 相済否哉御出船有て子の下刻御出船 巳の上刻と思ふ頃より帆を巻午刻佐田浦江御入船と成 此所に汐待 タ七ッ時分此所御出船と成追追南風程能相成ければどの御船御船もこゝちよく帆を巻せて黄金ばいを通串浦もはるかに見へぬれバ追風もますますまさり(略)三机浦近になりけれバ東風と成 帆をおろしおす声のかまびすし(略)タ七ッ時分過て三机浦へ御入船(略) <十六日夜> 三机浦止宿二十四里 夜の九ッ時分より雨降り出す(略) <十七日> 雨天同所泊(略) <十八日> 雨天同所三机泊(略)九ッ時分より快晴と成 <十九日> 青嶋泊十一里 鷄鳴の頃より苫をとりて支度をなし東山明渡りける節三机浦を御出船 此三机の湊出口より見渡せバ日の出わ長浜の空二当りける。三机より長浜江道法十里と聞 七り共八り共九り共云人有 辰の下刻の頃喜木津浦沖御通船兎丸と押合二少々まける 佐竹丸と右同断之所押勝也 加子の勢ひ竜虎の如し 其声かまびすし(略)けふわ追風もなぎさこぐ加子の櫓拍子も同じけれ(略)昼八ッ時分青嶋江御着船 碇をおろしとも綱取此所に御休船 此嶋より二里斗沖に大ミなせ小ミなせと言嶋有 登りニハ左二見て通ル 道法聞人毎に不定故にわれ八里斗と定 此所は大洲御領なり 此所家五六十軒位と見える(略)<廿日> 晴天御手洗泊十七里 朝快晴いたし日東山に登るに随ひ御出船と成 御相図の太鼓の音のしければ御船どれもどれもと声をあげて青嶋をあとになしこぎいだしける 尤辰上刻也(略)灘□沖当りより帆を巻揚て□風に任せて御船至而早く 此帆を巻前ニ加子声を揃へて押行ける時壱尺斗の鯛流れ来□艇・(舟へんにユウ)是をあげ見れバあたらしき故大悦帆に任せてこれを料理す(略)程無三ッの浜沖をとふり過て興居嶋となりぬる 是を左に見高浜を右に見て此瀬戸を通る 地方より凡壱里斗と見此所ニて帆を下半道程行て又帆を巻立あひの白□と云有是を左ニ見て通ル 右ニ三ッ間有瓦焼の名所也 岡に腰折山と云名所有古哥集坏にいでたり三ッ間の上ニ当ル青嶋より興居嶋迄七里 此所より御手洗迄十里と聞 三ッ間遥ニ隔る頃より雨降かゝり格別ニもふらざりし故ぬれ走りいたしタ七ッ時過る頃此所御手洗の湊ゑ御着船(略) <廿一日> 快晴鞆泊十八里 此朝も御手洗之湊に苫をとらせ御船の支度一統致しおひおひと御出船ありしかば帆を巻一統声を揚てぞ登りける しかれ共聢と風もなけれバおろしつ巻つ道をいそぎけるが只海沖□て追風ますますましにけるニぞ加子悦び予も同断ニて一盞を催せしが(略)大三嶋宮の遙沖を通ル 鶏島を近く右に見て通ル 三原の(略)至而間近き沖を通る也 沖より見れバ並松のありありとして定而陸地ハにぎわひ之事ならんと見ゆ大坂迄かく有けんと云(略)尾ノ道を左に見て通るなり 三原より尾ノ道迄壱里有 此尾ノ道の前ニ大鯨じま小鯨じまと云二嶋有 尾ノ道の前ニ前嶋と云有是ニわ狐不居よし口伝有 多嶋と云所有左ニ見テ通ル見込よろしく随分繁花の地に思ゆるなり 右ニ当りて百貫嶋有小じまなり タ七ッ過ル頃あぶと観音の沖を通る(略)岡より観音の初穂と云て小舟来ル思ひ思ひニ茶銭を遣ス此所より鞆の湊迄一里と聞 七ッ半時分御着船(略) <廿二日> 多度津泊十二里 朝七ッ時分右鞆の湊を御出船有之 御座船の太鼓の音も□□たり 加子の櫓声もたからかに讃州地方□進ミ押渡り着(略) <廿三日> 雨天同州多度津泊昨暮より降出ス 此朝も明方より煙りはげしく相成(略) <廿四日> 曇天出崎泊十里 辰の刻より御出船有 □嶋を右二見て通ル □ッ半時分ひゞのふかヘニて汐かゝりニて碇をおろし(略)申の刻ニも及ぶと思ふに貝の音も高く一二三番と聞ゆるよし支度を追(ママ)ぎ櫓揃ひけり弥御出船有ル 是迄快晴不致雨降出 苫船ながらニ櫓拍子揃へてこぎ登り暮前二及ぶ頃ニ到り出崎と云所ニ而泊り夜ニ入候得者牛窓迄御船不行(略)<廿五日> 雨天牛窓泊五里 出崎ニ而夜も明ぬれバ同所ニ御船止り(略)タ七ッ時より雨降リあがりし故に七ッ半御座船より貝の音烈しく聞 間も無二番貝三番貝とおとするよし 碇をあげて御出船有 おひおひと夜に人けるが五ッ半過牛窓の湊に御着船 此所泊 出崎より此所牛窓迄五里位 此出崎八日野より壱里斗沖なり(略) <廿六日> 快晴明石泊二十五日早朝此牛窓御出船と成 然ル処作夜五ッ半頃ニ御入船のよし湊の風景さらに不分よし 今朝漸見物いたし半道斗過て帆を巻揚四ッ半頃赤穂の沖を通りし時城遙ニ見へける(略)間も無室津の沖を□か通る 此所より大坂迄三十里と聞(略)夫よりゑ嶋并に亀嶋を右に見て通ル けふわ南風にて烈しく御船は只飛ぶが如く八ッ頃ニわ明石も近く手を指出よふの思ひなし一統の心地いさましく最早明石江壱里ばかりと思ふ所より汐あしくなりける故漸と明石江こぎ付 此夜御泊と成(略) <廿七日> 晴天北東風安治川入十五里 寅の上刻より明石を御出船有之 松の戸もおしあけがたと成ぬれバ兵庫の沖と打すぎ行 岡を遙に見れバ繁花の地と相見へ艫なる人に尋ねきゝしニ此所は古跡かずかず有て生田の森或は湊川楠氏の墓抔有 うしろなる大山頂上ニ者摩耶の観音有 此山より四方をみれバ眼下に見くだし播州地より上は大坂川口迄あざやか也 こふべも過行 西の宮沖を見てとふり明石より兵庫迄五里 兵庫(ママ)迄十里 次第ニ曇りけれバいそがわしく加子もいきほひ出して行けるが程無天保山も遙に見え猶更に勢ひさかんニなりける 八ッ半頃安治川口江御入船(略)

復路、六月朔日~七日までの航海関係記事。

……<六月朔日> 晴天 卯之刻(略)川瀬の水につれ其はやき事矢のつく如し浪花の国もけふ限りとなごりおしさもあとたへて午の刻兵庫の湊ゑ汐御かゝり有て八ッ半時分此所御出船 大坂より兵庫迄十里 明石へ五里 此明石之城下江七ッ半頃御着船 (略)此所ニ御滞船 <二日> 晴天 松の戸の夜も明ぬればはや御座船に貝の声櫓声も揃ふていさましくこそ見へにける(略)八ッ時頃衛嶋に汐待ニなり水取行(略)大多部泊り <三日> 晴天 卯中刻此所御出船有し所ニ四ッ時分近きに牛窓沖へ御通船(略)大多部より牛窓迄五里(略)八ッ時分備前ひびの深井と云所ニ汐かゝりと成(略)牛窓より此出崎五里位(略)此所よりゆがさん迄は三里位と言也 出崎より深井迄三里 七ッ時分と思ふ頃深井御出船と成 向ふ風にして押櫓の声一同にぎにぎしくいさましゝ此所十丁斗こぎ出し下ルニ左ニ見れバ讃州高松の城下遙に見へる也 出崎よりひゞの深井迄三里位 おひおひと夜に人けれ共それをいとわずゑいやいやと櫓拍揃へて押行□ニ夜の四ッ時分と思ふ頃アイノ白石と□よふよふと御着船 白石泊 深井より白石迄十里 <四日> 晴天 此白石と云所 わ汐の満干をおける みち行節者上ゑ満行下ゑ満行両方ゑわかれしとなる(略)半時分此泊り白石御出船(略)鞆の湊三原杯もあとニ見て故郷も近く下りけれバめばる崎と云所に御関船見へける 是者宇和嶋様也 御参勤御登りなり 八幡丸ニも打切の太鼓なり 帆をさげ給ふゆヘニ御船一統それに順じて御礼有 即刻又帆をあげて壱里斗り行て木のゑと云湊に御入船 此所江一夜御滞船 白石より此所木のゑ迄十八里位 此木の江の湊より三里下ルと御手洗の湊有 <五日> 四ッ時分曇ル九ッ時分より快晴 夜の七ッ時分より木の江の湊を御出船と成 夜明ける故目を醒し見れハはや六里斗下りしと聞 九ッ時分高浜の湊江御汐留り 木の恵より高浜迄十二里位 四ッ時分より曇りけれバ御座船にわ帆柱をかへして雨の用意有ける故あとあとの御船一統それに準し用意をいたし右に記し置候通高浜江御休船ニ成 夕方定而御出船有べし 八ッ時分御出船と成ル(略)向ふ風ニて帆のうわさなし 押づめニて七ッ半過青嶋迄下り此所ニ汐掛り 高浜より青嶋迄八里位と聞(略)此青嶋寅の上刻御出船となり <六日> 晴天 青嶋弥夜 夜の七ッ時頃御出船と成けるが日東山に登ル頃ニハ最早喜木津沖となり加子の者共もかへりのいきほひひとかたならず 思ひの外御船もはや一統蛭子の祭りをたのしミける 五ッ時頃喜木津浦沖御通船庄屋御機嫌伺二罷越(略)九ッ時分三机浦江御入船汐懸 八ッ時分此所御出船となる 青嶋より三机迄拾里 七ッ半過三崎御鼻御廻船 至而風波おだやかニて少少北風有 黄金はへもありありと近くして通り岡の磯ニわ五拾石位の売船二艘繋ぎ磯をたのしミ居たりと見へたり かく有けるよろしき都合云斗なし 夫より佐田浦江御入船 井之浦前へ碇をおろし御船繋(略)夜七ッ時分佐田浦出船と成 <七日> 晴天 此佐田浦夜明七ッ時分御出船と成 ほのほのと明ねれバかじや鼻もわかりかね其いきほひ加子を揃へて押程に次第次第に郷国の近く見へ渡り(未ノ上刻吉田御揚場所へ御着船)

 碆・風・潮

 碆は文字どおり波の下の石であり暗礁である。しかし、通常は島とは呼べないほどの岩礁をいう。漁撈の目当となるが、航行にとっては危険な障害となる。前項の六日の記事に……黄金はへもありありと近くして通り……とある黄金碆は三崎浦お鼻の野坂権現より……中のおうがう 地より五町五六反程、沖のおうごう地より七町ほど(宇和旧記)……とある〝おうごう〟であろうか。『宇和旧記』 にはここに……鰯ばへと云は地より七間ほど、地のあさばへ 地より三町五六反程、中のあさばへ 地より四町ほど、長瀬碆 地より弐町三四反程、平瀬碆 地より弐町程、三つ瀬碆 地より壱町程……があることを特記している。
 帆走は風に頼る。風向・風力により帆の張りかた航法を工夫する。風がなければ人力で櫓を押さねばならない。航行者は経験によって風のみちを体得する。……一、二間津よりも上よりも参る船は、御はな迄北風真帆なり、佐田へも宇和じまへも参る時は、ひらき(※横帆)のよし。 一、佐田より出船する船は、南風ひらき、御はな廻り申時は真帆(※追風)になり、廻り候て上へ参候時は、又ひらきなり。一、佐田より真帆は東風なり、是には豊後内へならでは、まいられざる也。一、下より参る船は、南風真帆、是も御はな廻りてひらきなり。(宇和旧記)……と記す。
 潮汐の干満もまた航行・汐がかりにとって重要である。佐田浦は……汐がかりする所は深さ五尋ほど……であるが、湾内の「潮のかんがへの事」を考慮しなければならない。『宇和日記』は、朔日から一五日までの湾内の干満を日ごとに「朔日 朝五つ弐分たたへ 昼八つ弐分ひつまり 夜五つ六分たゝヘ 同八つ六分ひつまり」のように記し「十六日よりは朔日と同前に成申故、不及記之、是は五月の潮のかんがへのよし、四季にすこしづつ相違有之由」と註記を加えている。
 瀬戸内海へ差し込む潮は紀伊・鳴門、関門、豊予海峡を通る。干満の潮流は内海においては複雑になる。『宇和旧記』は次のように潮のうごきを記載している。

一、潮は熊野浦より指込、備中の白石まで七十五里さすなり、然るにより、堺大坂の潮よりは、明石の潮半時遅し、播磨の潮より備前の潮二時違申候、備中の潮は備前より一時遅し、大坂の潮より備中の潮は三時違申候、是は道の程七十里有につき、三時の違有り。 一、筑紫の佐賀関より指込潮は、上の関にて、半分は備中の白石へ指申候、白石にて上のと行合ひ一つに成り、引時も両方へ引、是七十五里有故なり。 一、上の関に残りたる半分の潮は、下の関へ指下り申候、是もあひの嶋まで七十五里有り。一、熊野よりさす潮も白石まで七十五里、九州より指込潮も白石まで七十五里、いづれも南浦は七十五里有て、潮かはる也、此指引を能かんがへ船を乗也。 一、月の出潮入潮と申候て、月の出入に少しも違不申候へども、所により一時二時も三時も月の出より違申限、是七十五里指込ほど遅し、此考へ第一なり。 一、北国海に潮汐の指引なしと云説有、是ひとつの不審なり、かたしほとて、五日も十日も一方へ引申由、彌不審有、但しほの満干は有といへども、大なん故、渡海の舟はすくなく、鍛錬するものなきと見えたり、かたしほと云事も有事にや。

図3-5 「海上道中里数」(吉田町立図書館蔵)

図3-5 「海上道中里数」(吉田町立図書館蔵)


図3-6 三机湊 塩成堀切(愛媛面影)

図3-6 三机湊 塩成堀切(愛媛面影)