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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

2 きまりと制裁

 習俗の自己規制

 村組のひとつひとつの小集団は、ごく身近にいる近隣の人々の日々のくらしをどうするか、いかに交際をするのか、そういったときの一応の目安を明らかにしていた。いわゆる冠婚葬祭の習俗規制によってむら社会を律していたのである。もとよりウチマの倫理は世間一般に通用するものではない。あくまで個別的かつ具体的な事柄であった。だから規約どおりにものごとがはこんでいたかというと必ずしもそうではなかった。もともとウチマの者同士に通ずる不文律の多くは規約ということばに置きかえにくい性格のものであったから、むらの規約は一度つくられると次から次へと改正項目を加えていることが多い。それだけむら社会の倫理感が大きく変化していたということができるであろう。むらの規約を盾にとって人をあげつらうというようなことは、むらうちではあまり好まれなかった。もしそういう人がいたとしてもすぐに我が身にふりかかってきて「吐いた唾は呑みこめないのに」と、かえって言挙した者の立場が悪くなったりすることもあった。むらの規約は習俗の自己規制以外のなにものでもなかったのである。このようにむらの規約は〝法〟というにはなお余りがあり、ウチマの倫理は世にいう「道徳・倫理」とも違っていた。本来むら社会は、そうした「法」や「道徳」の及ばない水面下でいきづいていたのである。自然の姿により近かったと言うこともできるかもしれない。
 事例40 越智郡玉川町畑寺は世帯数五七、人口二八九人のむらである(昭和四五年現在)。村組は一号組から五号組まであり、それぞれ昔からのつきあいをしている。すでにこのむらの規約が報告されている。

   規約
一、入営兵士の事
一、人営歓迎の準備は組人中よりなす事。但し仕出は其家より酒一升以下、竹ワ壱本宛。
一、出発の時、其家より酒壱升以下、竹ワ壱本宛組人中へ出すこと。但し隣家にてなす事。餞別をなさざる事。但し酒は出さざるも差支へなし。
   歓迎の時
一、兵士帰宅同時に組人中へ立ったままにて
   〇酒一升以下 ○肴有合壱つ
一、歓をなさざる事
一、但しニギリ飯を出すこと
一、飯、酒出さざるも差支へなし
一、兵士歓送迎の節、組人中は時間延長するも手弁当のこと。
一、兵士の退営、土産は一切なさざること
   埋葬ニ係ル改約
一、穴掘人ハ穴シマイヲナシ棺台ヲ地蔵堂へ持行の事
  ○但シ死人の内ヨリ提灯ヲ持行ク (注)本文後に抹消(昭和十三年八月廿一日 組ニテ穴掘り及仕度ヲ為スコト)
   初七日
一、初七日ニハ念仏後汲茶、糯ヲ支出ス
  其ノ以外ノ品物ハ仕出ヲセザルコト
一、組ノ礼ハナサザル事
一、法事一切組念仏ヲナサザル事
一、法事一切供エ糯并二供菓ヲ配ラザル事
一、穴掘人ヘハ組内ヨリ金五拾銭ヲ仕払フコト
一、町買物人ヘハ壱人前弐拾五銭宛、弐人前金五拾銭ヲ組内ヨリ仕払フコト
  但シ弐人以上ヲ要スルトキハ死人ノ内ヨリ一人前弐拾五銭ヲ支払フコト
  右二項ヲ廃シ 穴掘リヲ為シタル二名が次の不幸ノトキ町買物ヲ為スコト
  昭和十三年八月十二日
一、穴掘人   (略)
   昭和二拾九年拾月改正
一、葬儀 今迄通り御悔はせぬ事。十七日は今迄通り
一、病気見舞 見舞品は随意 全快祝は廃止する。
一、出産祝 初産の時に限り祝を受くるも差支なし
  次回出産より廃止する
  帯取祝並に誕生祝等は内祝とする
一、建築について歓は廃止・返礼廃止
一、結婚祝の時 歓並に樽開は自由
一、縁付の時 贐は随意、後賑は廃止
一、婚礼後 里帰り土産は廃止する
  仕度品は見せぬこと
  子供泊りの土産は廃止
   神社祭祀申し送り事項
  御扉開き
毎年一月七日
献備品 一、白米一升 一、玄米一升 一、神酒 一、鏡餅 一、海魚大小二尾 一、野菜一台 一、乾物一台
一、果実一台 一、菓子一台 一、荒こも一枚 一、カワラキ三枚
時間は決定次第神職に通知のこと。十二月末と九日の縁日に本社境内未社のメ縄を取りかえること
 祈年祭
一、毎年二月十七日であるが、当元と神職が相談の上二月下旬又は三月に執行する。
  献備品は、御扉開きと同じ。但し荒こも、カワラキは不用
  例祭
毎年十月十五日
時間は神職から当元へ通知する。
献備品 祈年祭と同じ。
十月十六日 氏参り。
昼食、夕食を準備の事。人員はその都度通知する。
  新穀感謝祭
毎年十一月二十三日であるが、農繁期のため神職と当元に於て相談の上十二月に執行する。
献備品は例祭に同じ。

 ムラハチブ

 むらのきまりには制裁の伴うものもあった。むらでは「法」というものにかかわる以前にむらの取決めとか「そういうことをしていると親に顔むけができなくなるよ」といった恥の気持ちが暮らしを律していた。むら制裁のなかでも最も一般的なムラハチブ(村八分)は、今に人々の意識下で根強く残っていると考えてさしつかえない。

事例41 越智郡大西町新町部落自治憲章
秩序保持に関する特別内規
本内規は部落自治の精神ヨリシテ最モ慎重ヲ期スヘキ事項ナルモ秩序保持ノ見地ヨリ之ヲ制定シ概ネ左ノ要領ニヨリ処理スルモノトス
(1) 部落慣行内規ニ違反(約束ノ不履行ヲ含ム)シアルコトヲ確認シタル際ハ先ツ管理責任者ヨリ内規ノ説明ヲ行ッテ速ヤカニ之カ反省(改正)ヲ求ム
(2) 違反者(約束不履行者ヲ含ム)カ部落責任者ノ注意喚起ヲ無視スルカ或ハ反省ノ誠意カ認メラレサル際ハ協議会ニ於テ反省(改正)セザル事由ノ申立ヲ求メ、事由ヲ慎重ニ検討審議ノ上部落ノ採ルヘキ意志ヲ伝へ善処方ヲ要請ス。
(3) 以上ノ手段ニ依ルモ尚且ツ之ニ応セザル場合ハ其ノ経緯ヲ大会ニ報告シ処置ノ決定ヲ仰クモノトス

 事例42 伊方郡松前町昌農内の殿倉にはコガフセ部屋があり、大きい酒コガが置いてあった。これはむらのなかに規約を破ったり、祖税が納められず組に迷惑をかけたりした者を折かんするための部屋であったという。また旧岡田村大字恵久美の申し合わせ規則のなかに、

一、スベテ賭博ヲナス基ノ金ノ多少ニ依ラズ、取扱ヲシタル者ハ、村中交際ヲ断チヌ。村中ニテ小作人タルトキハ地主ハソノ地所ヲ取り上グルコト。
マタ其ノ借宅地ナルモノハ速カニ立チ去ラシムルコト、とある。

 事例43 温泉郡重信町では、組の初寄りは、正月に開かれ初祈祷今日待祈祷と併せて行い、組長以下役員の改選、年間の行事計画を相談し、新年宴会をするところがある。組の相談事は寄合いで決めている。山之内麓では、組長から三度集会の通知をして、なお寄合いに出なかったら過料一銭をとったという(明治二八年)。下林別府組の大正七年旧正月初祈祷のとき定めた規約には、次のようにある。

(1) 集会の時間厳守のこと 時間には板木を打って知らせるが、これより三〇分以内で必ず集合すること
(2) 右規約に違反したものは、左の罰に処する
   (イ) 正当の理由なしに不参した者は酒一升
   (ロ) 右時間に遅刻者は酒五合
   (ハ) 許可なくして中座したものは酒五合
(3) この規約をよく守り一ヶ年皆勤者は組長および神仏協議員協議の上賞与する
(4) 集会のとき履物を踏み替えた者は酒一升を買うこと
 事例44 伊予郡広田村高市では、むらうちで行状素行の悪い者、犯罪者には、むら寄り組寄りによってそれぞれ協議し、ムラハズシ・ムラママコ・クミハズシ・クミママコ・ムラザリなどを決め、寄合いへの出入りを禁じ、祝儀不祝儀の時のシニョウグミにも入れなかった。
 事例45 南宇和郡一本松町小山では、ワカイシのなかに盗みや暴行など悪行をくり返す性の悪い者があるとワカイシグミに頼み、コモ巻きにして川へ放り込み改心させる風習があった。放っておくと命がなくなるので、そこらはちゃんところあいを見計ってあらかじめ決められている助け役がそっと助けてやったという。
 事例46 大洲市では、道路修理の出夫に際してノコシミチというのがあった。欠席者への懲罰の意味も含めて加重な分量の仕事を残し、早急に仕事をやらせることを定めているむらがあった。