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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

1 さまざまなつきあい

 組入り

 むらの基礎的集団である組は、ダン・ク・ガワ・ジョ・カブ・ジゲ・カス・ヒキアイ・コウチュウなど多様な展開を示している。この組内のつきあいは世代を越えて続いており、人の一生を通して深い絆で結ばれていた。遠くの親類より近くの他人という教えもあった。もし事情があって他村から引越してきたときには組入りをした。その土地で生まれ育った者をハエヌケと呼び、ハエヌケの意見が優先するところもなかにはあった。組入りすると近所づきあいから始まって、神祭り仏まつりのつきあいに至り、むらや組の財産の管理にまで及ぶことになる。
 事例47 東宇和郡野村町惣川では、組に入ったらオタノミガケノ酒といって酒を買って組の者に出す。北宇和郡津島町御槇では、シンカドは米一俵積めば昔のカドと同じ風に取扱われた。また酒でも出せばジゲの付合いは出来たという。
 事例48 旧上浮穴郡浮穴村(喜多郡河辺村)には近隣集団としての組が三一あり、濡れ草鞋の親はこの組内でたててきたし、仲間はずしの組バネもこの単位で行われた。
 事例49 温泉郡重信町では他村あるいは他地区から来た者は、組長に「組入り」を届出た。組長は組寄りの場で全員に披露した。
 事例50 大洲市ではヒキアイへはいることを組入りといい、組入りが許されるとアシアライといって、酒宴の席を設けて組内の人を招待するか、または酒や銭を組へ納めて、将来のツキアイを願う挨拶をするのが習わしであったという。今でもヒキアイによっては組入りのとき昔ながらに組入金などを納めるところもあり、養子や嫁を迎えるとヒキアイを招いて酒宴を催し、披露を兼ねてあいさつするところがあって、これをアシアライと呼ぶ所がある。
 事例51 伊予郡松前町ではヒキアイの内で農業の手助け、建て前、婚礼、出産等の祝いごとから火災、水害、病気、葬儀のような災難に至るまであらゆる幸不幸に協力し合っていた。よそから部落へ入って来たり、分家する家があると「組入りする」といってヒキアイに入った。組入りは、組の寄合いの席に出席し、酒一升を出して挨拶するのが昔からの習わしであったという。

 戸数制限

 組入れがあるといってもいくらでもうけ入れたわけではなく、それなりの限度があった。大洲市三善の石橋組では、滝城の秘密を老婆が明かしたので以後戸数七戸以上に増やすことができないという戸数制限の慣行が成されていたという。上浮穴郡柳谷村西谷の中久保部落は、ずっと昔から一七軒。西宇和郡伊方町得能森組では一三軒の掟があった。また平家の落人大野氏の残党が住みついたと伝える柳谷村井伏は二三戸、伊予三島市富郷町元之庄の竹林寺は七戸以上に増やしてはならぬということである。
 むらや組の実態をみると構成員にいくらかの異動はみられるものの、戸数はあまり大きく変わっていない例が報告されている。小松町黒川はかつて、石鎚登山道の季節宿で賑い、わずか一〇日間のお山開きの間に一年間の経費を稼いだといわれている。このむらでは米が穫れなかったので、例えば玉川町木地で今治地方の農家の牛を預かり百日間で米三斗を得て正月のセチゴメにしていたように、石鎚登拝者が持参する宿へのお礼米がなによりも魅力であったという。この黒川の戸数は、明治初年から昭和一五年までずっと二四戸で昭和二五年には二六戸とほとんど一定していたという。越智郡玉川町ではむらを出る人があればその家のカブを買って組入りしていた。これをカイズワリといっている。伊予郡広田村高市では、廃家があるとカドをタヤサヌようにと廃家のカドをもらってあとをみたという。

事例52 愛媛大学農学部が行った昭和四五年における北条市横谷の実態調査によると、

(一) 全体の戸数は、終戦前後に引揚者や戦災者を受入れた際に多少増加したことがあるが、明治初年から現在にいたるまで、三五戸から三七戸という数が保たれていてほとんど変動がない。
(二) 本地は四方を山に囲まれた海抜一五〇m内外の傾斜地にあって新しい宅地を造成する余地に乏しい。そのため離村したものがあった場合に限って、その跡を埋める形で他から入村するに過ぎなかった。
(三) 耕地が少ないので一家の経営面積をこれ以上細分化することは経営自立上許されず、従って二、三男以下の者は、すべて転出することを当たり前とした。
ということである。

 葬式組

 組内のつきあいのなかで欠かすことができないもののひとつが、葬式組のつきあいであった。東予では葬式組のことをトキグミと呼び、南予ではヒキアイと呼ぶことが多い。
 事例53 東宇和郡城川町では葬儀の運営は隣保互助の組織十人組、あるいはヒキアイによって行った。親類への知らせ、棺桶造り、墓穴掘、野道具作り、その他手伝いをした。高川地区では、部落に不幸組が組織され各戸より一人以上でて、区長が葬儀委員となっていろいろな役割を指図していた。不幸のあった家は親戚の人などでこみ合っているので、不幸組の人は別に精進宿をとった。
 事例54 同郡野村町中筋地区では、葬儀には講中の人が喪家の隣家に精進宿をとり、当日に限り食事をして、墓穴掘りや葬式用の張物、大工仕事をした。
 事例55 西宇和郡伊方町では部落ごとに数戸で念仏組をつくっている。葬式の世話をしたり、春の彼岸と旧一一月、お講連中が会費を持ち寄り祖先の供養をした。
 事例56 伊予郡砥部町では、ヒキアイに死者が出ると女は炊事を手伝い、男は親類への知らせや葬儀の打ち合わせをし、役場への死亡届、寺への連絡、当日は穴掘り、祭壇作りなど葬儀全般の準備から式後の片付けまでして、翌日に墓直しを行った。以前は、葬儀のあるときには白米をイレコに入れて持ち寄ったが、現在は悔みのオツツミだけに変わったという。
 事例57 大洲市ではヒキアイに死者があると、たとえ夜中でもすぐにかけつけて、女は仏のマクラメシをたき、炊事を手伝い、男は親類への知らせや葬儀の打ち合わせをする。当日は講仲間から一名ずつ出て、穴掘り(つぼ掘り)、棺作りなど葬式全般の準備をし、式後片付けをして終わった。講仲間の申し合わせで、クイデタチ(自宅で食事をしてのコウロク)としたり、精進宿をとって講仲間の人の炊事や食事を別世帯にするなどいろいろであった。
 事例58 喜多郡長浜町では葬儀があると各部落に講連中が作られ、葬式一切を連中で取り仕切り、喪家の者が口出しすることはあまりなかった。講連中は、各戸男一人女一人の都合二人が手伝うことが多かった。
 事例59 東宇和郡宇和町では、死者が出ると講組では、昼夜の別なく直ちに死者の家か、講組長の指示した場所に集まり、白米一升を持ち寄った。講員は死者の家族と協議し、走り使いやその他適宜に別れて仕事をした。遠くに親類があれば夜道でもでかけていった。墓の穴掘りには酒肴が届けられた。このとき豆腐をつけるのが習慣だった。
 事例60 南宇和郡一本松町では葬儀は組内の手伝いによって進められる。このあたりでは組のことをスカと呼ぶ。本町地区では、組内がそのまま念仏講になっていて組うち総出で手伝っている。正本の宇和田地区の場合は、宿毛市の草本藪や小川のスカと講組みをした時代もあり、ところによってスカと念仏講組との構成員が違っていた。念仏講の仕事は親戚への連絡、棺桶作り、墓掘り、野道具作り、キリバナ作りから薪とり、米搗きまで行った。上大道では、ナカヨウの臼が置かれていた。その用途は、もし組内で不幸があったとき、米が間に合わないので、組で玄米を持ち寄り白米にして葬式に間に合うように用立てていた。念仏講は米を持ち寄り、一部を喪家に香典として渡し、一部は組内で炊いてその日に食べた。デタテのときには喪家から酒肴を出し、念仏講の人を賄った。墓掘りには、昼弁当と酒一升が届けられた。

 裸のつきあい

 組内のつきあいはいろいろな方面にわたっていた。西条市黒瀬では、昭和初年ころには部落のうち数軒しか風呂のある家がなかったので、むらの人たちはモライブロをした。家の者が入浴した後、順次風呂をもらったのである。山崎組にはフロモトという屋号の家があり、「風呂があいたら入らしてよ」と挨拶して入浴し、仕事のことやら世間話をして「ごちそうさま」といって帰っていた。宇和町明石下(二区)五番組では、今でも共同風呂があって、夕方には野良仕事につかれた人々が汗を流している。この共同風呂は昭和元年に作られ、かつて四八軒の利用者があったが今は五番組六軒、六番組一軒、七番組一軒の計八軒になっている。
 このような裸になって遠慮なく話しあえる密接な人間関係のなかでも、とりわけ仲間づくりの縁を大事にする風が今に根づよく残されており、ツレ、アイボウ、ホウバイ、オナイドシ、無尽仲間、オコウ、祭仲間などのいわゆる「連中」のすることはむら社会に大きな活力をあたえ、むらづくりの源動力となっていたのである。大洲地方では、仕事仲間のことをモヤイといった。ごく親しい者同士でモヤイをするといい、炭焼き、山林伐採、木出しなどの作業を行い、仕事が終わると日役や売り上げによってそれぞれのとりぶんを精算して解散していた。また田普請、田道作りを共同で請け負ったり、人夫頼母子もあった。建前には普請組を作って助け合ったという。組内や親しい者のなかに病人がでると、仕事が遅れていたので人々が共同でその家の家事を手助けしていた。火災や水害等の災害時にも助力をかって出たのも仲間であり、組内の人々であった。不幸にあった人を見ればむらで生きる人々は、他人ごととしてみすごすことはできなかったようである。あれこれ言う前に手がで、からだが動いていた。
 事例61 西宇和郡伊方町では病気が悪化したり、大手術をする際、親戚や近所の人々が神仏に願をかけ、その守護をいただいて全快を祈った。
 事例62 同じ佐田岬半島の瀬戸町足成では、急病人が出ると、親戚知人の若者を雇ってゴチブネの五丁櫓で、三机の医者まで一時間かけて漕いでいった。また大久では、急病人を船に乗せ、医者のいるところまで送った。その船を「押しきり」と言った。二〇人を雇って八丁櫓で、八幡浜まで海上一時間半かかったという。
 事例63 東宇和郡城川町では、組内に「病人門」がでると近所の人がイイレをした。
 事例64 同郡宇和町では近所に病人がでると部落や組では病人ごもりと称して、病気全快の祈願に神社へかけつけた。
 事例65 上浮穴郡久万町では病人などが出て田植えや農作業が遅れた場合、株の者、親類の者が手伝った。コウロクで助けられた家は、盆、暮に砂糖やタオルなどでお返しした。
 事例66 南宇和郡一本松町ではスカに病人があってトリツメタ(重態になった)とみると、スカの各家から人々が集まり、みんなで氏神様に参詣し、病気平愈を祈願した。御荘町平城のお大師様や皇太神宮に願をかけ護付を受けて帰り、病人のフトンの上にのせたり、天井に貼りつけたりした。重病人の家があるとシツケや取り入れ等の農作業が遅れたので、日を決めて手助けに行った。また急病人がでるとスカの人が集まって病人を戸板に乗せて医者のもとに運んだ。
 正木では行路病人を発見したとき、どのスカでも病人を一番近い人家に運び、母屋の狭いときには納屋に寝かせ、スカ中が廻り持ちで家から薬や食糧を運んで看病した。もし病人の病が重くなるとジゲ中に触れを出しスカオクリをした。スカオクリというのはオダという竹の籠を編み、それに病人を乗せて担いでスカからスカへとリレー式に引き継ぎ、宿毛の医者まで運ぶやり方である。病気が回復すると路銀と弁当を持たせて出発させ、亡くなると再び籠に入れて無縁墓に葬った。小山では行き倒れがあると、なるべく近くに竹や木で小屋を建て病人をその中に寝かせ、スカの各戸から交代で薬や食べものを持ち寄り介抱した。これを小山ではマワリヤシナイといっている。

 事例67 大洲市ではイキダオレ(行路病人)や組内に身寄りのない病人があると、ヒキアイでは順番に世話をしてきた。そのような人をヒキアイのヤッカイモノになるといい、イキダオレはなるべくヨソヘ仕向けていたという。順番に世話をすることをマワリヤシナイといった。
 事例68 重信町では重病人がでると松山の病院に運ぶのに戸板を担架代りにして組の者が運んだ。病人の回復を祈って組中が神社にお籠りして、ひたすら本復延命を祈願し、これを「千人力」・「万人力」などといった。

 相互扶助

 組内にはまた、いろいろな労働慣行があった。コウロクといえば、労働を提供することであり、イイ(結)といえば一種の交換労働であった。南宇和郡あたりでは、田植、収穫などの農繁期に、互いに労力を出して助け合っており、助けてもらった同じ日数だけお礼に行くやりかたをしており、これをテガイといっている。むらで生きるには皆と同じ働きができるということが必須条件であった。そのことによってはじめて労働力が対等に交換できたのである。働くということは皆と力を合わすということであり、ひとりひとりの力は微力であっても全体にまとまったとき思わぬ力を発揮しているものである。

      コウロク
 事例69 喜多郡肱川町では、火事とか崖崩れの災害のとき、各家から、木一本、米一合、麦一升、縄一ボウ(二五ヒロ)、カヤ一シメ(一ヒロの縄でしばったもの)を持ち寄り、共同で復旧作業を手伝った。また飲料水用の樋かけも、木に溝を掘ったり竹を使ったりして樋かけを行っていた。ほかに、田植え、田草取り、稲こき、蚕のあがるとき、櫨取り、麦播き、井戸掃除、水路の手入れ、肥くみ、田畑の道成し、屋根の葺替え、宅地づくり、新築の材料運びなど一〇人も一五人もが集まって共同で仕事をすることがあったという。
 事例70 大洲市では無報酬で手伝いにゆくのを「おしあげに行く」といい、これをコウロクと呼んだ。手伝いの範囲は、特に親しい人から親類、ヒキアイ、講仲間、部落あるいは地域全体に及ぶこともあったという。建前のコウロクはまず地づきに始まり、木寄せ、棟上げとなる。母屋の棟上げにはヒキアイ一戸から二人、他の組からは一人が一日から二日の手伝いに行く。米、野菜、酒、祝儀を持参した。昔の建前には、大縄、コマ縄などを持ち寄った。
 家が火災に遇うと組内では米、衣類、世帯道具など、できる限りの物を持ち寄り、灰かきをすませ、仮屋を建てる材料、縄、葺草、材木、竹などを持ち寄って掘立小屋を建てた。水害の時には、近隣や親類の被害のない家から、キリダメに入れた炊見舞や生活用品を持参し、後片付けに当たっていた。家の建前、葬式以外はクイデノコウロク(クイデダチ)で「コウロク根限り」という言葉通りの働きをした。

イイ
 事例71 上浮穴郡久万町では田植え、稲刈り、山仕事など特に多忙な時には、イイのイレアイあるいはイイのイレアイコをした。イイは四、五軒で組み、互いに助け合った。親類や組中で組むのを原則としているが、他の組ともイレアイをした。互いに気心の知れている者が作業のやり方等を考えて組み、イイの相手は親の代から決まっていることが多いという。また田植えの日時などは、正月に確定しておきそれに従ってイイのイレアイをする。イイをいれてもらうと、イイモドシ、イイナシに行くことになっていた。
 事例72 大洲市の平野、南久米、菅田地区では手間替えをイイと呼び、「イイを入れる」「イイをもどす」「イイナシ」「イイをかろうとる」などといった。手間替えは田植え、取り入れなどの作業をはじめ、田打ち、田の草取り、籾すり、畑打ち、肥くみ、麦の中耕除草、麦たたき、肥草刈り、肥草おろし、薪とり、蓆打ちなどに及んだ。普通は一人役相対で精算した。牛耕を依頼した場合三人役に換算するなどして手間を交換しあっていた。