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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

2 むらのオモヤクたち

 村役と村仕事

 村役はむらうちに住むオトナ(オセ・イエモチ)たちをさまざまな役割によって組織し、村仕事を通して生業の基盤を整備し、地域の景観を秩序だててきた。むらうちの恒例行事をとどこおりなく執り行い、次の世代に伝えるのもまた村役の仕事であった。
 ここに二つの村の規約がある。ひとつは予洲宇和郡成妙郷国遠村庄屋所(北宇和郡広見町国遠)に於ける「神務・村政規則」であり、もうひとつは越智郡大西町の「新町部落自治憲章」である。前者は国遠村庄屋今西幹一郎永政が萬延元年(一八六〇)に綴ったものである。後者は新町部落の申合わせ事項を明文化し運営の適正化を図るため、昭和四五年初頭協議会において慎重に検討されたものである。両者に関連はない。一方が一方に影響をあたえたということも全く考えられない。それにもかかわらず目録に記された内容が大同小異である。このことは、むらをひとつにまとめてゆくうえで、村役と村仕事によってむら社会に於ける時間(暦)と空間(むらの伝承的景観)を制御する方式がかなり普遍的な事象であったことを示している。むらでは「封建制」とか「近代」といった時代区分で示される一回性の歴史とは質的に違った歴史をあゆんできた。

 事例73 神務・村政規則 国遠村庄屋所(抄)
     目録
一、 神務之事
二、 念仏供養之事
三、 庄屋相続之節御達書之事
四、 組頭役義被迎付候節同断之事
五、 横目役断之事
六、 小頭之事
七、 五人頭之事
八、 蔵方之事
九、 舛取之事
一〇、賄方之事
一一、役座之事
一二、小走り之事
一三、使番之事
一四、御池番之事
一五、蔵番之事
一六、年頭之事
一七、御用始之事
一八、御法度向申聞之事
一九、百姓家督引渡之事
二〇、同目見之事
二一、入百姓目見之事
二二、無縁目見之事
二三、聟嫁養子目見之事
二四、商人之事
二五、大工木挽之事
二六、諸職人之事
二七、宗門請送り之事
二八、蔵方勘定之事
二九、井川御普請之事
三〇、鎌留之事
三一、御免取御請状之事
三二、御蔵付之事
三三、御米差切之事
三四、中銀之事
三五、中割之事
三六、役算用之事
三七、諸納銀取立之事
三八、小役品払取立之事
三九、百姓家督売買之事
四〇、村用道具之事
四一、宗門改別銭之事
四二、使番分解之事
四三、賄方銀米之事
四四、庄屋所屋根替之事
四五、村中道橋直候事
四六、山焼之事
四七、刈敷山之事
四八、旱魃之節作配方之事

事例74 新町部落自治憲章(抄)
    内規目録
一、 部落役員ノ定数及任期並ニ選出要領等に関スル内規
二、 部落三役所掌区分ニ関スル内規
三、 部落三役以外役員ノ任務分担、職責権限、任務遂行要領等ニ関スル内規
四、 氏子総代ノ選出要領並ニ任期等ニ関スル内規
五、 年度途中ヨリ部落ニ転入セル者ニ対スル部落戸数割ノ賦課等ニ関スル内規
六、 準部落民ニ対スル区費、一部ノ賦課ニ関スル内規
七、 部落財産ノ管理並ニ境界線ノ設定等ニ関スル内規
八、 部落ノ管理ニ係ル溜池、農道、水路、提塘等ノ保全に関スル内規
九、 農道、水路ノ拡張及改修等ノ際ニ於ケル敷地ノ登記ニ関スル内規
一〇、苗代消毒及雀追ニ関スル内規
一一、水番ノ出役ニ関スル内規
一二、幕板、鉄板等部落備付備品ノ貸賃等に関スル内規
一三、部落霊柩車ノ使用管理ニ関スル内規
一四、基地管理ニ関スル内規
一五、秩序保持ニ関スル特別内規
一六、附則
(一) 顧間制ニ関スル内規
(二) 添付書類 (1) 部落一般歳入、歳出予算書 (2) 協議員ノ任務分担区分表 (3) 恒例的年中行事予定表

 オモヤク

 この越智郡大西町新町では、区長、会計、作方を三役と呼び、この三役を補佐して三名の土木委員が選出された。三役と土木委員で恒例事項を処理していた。全員協議会の場合には先の役のほかに団体協力員二名、作方を補佐する地区方面委員二名、側から一〇名(上町二名、下町二名、東町二名、駅前一名、金光前一名、中原、政所二名)の協議員がでた。側というのはこの地方の基礎的小集団の名称であって、役所と関係のある自治分会、納税組合とは構成が異なっている。また区長・会計・作方の業務を監査する監査委員二名をとっている。氏子総代は、野間神社一名、大井八幡神社一名をとり、大井八幡神社の氏子総代は氏子会計を担任し、荒神社の総代を兼ねており任期は四年であった。
 部落三役をオモヤクと呼ぶところもあった。区長はむらを統轄主宰しており、惣代とか年行司と呼ばれる世話役は、かつてはむらの庄屋筋とか土地の有力者が多く「金があって系統がようて弁が立だなあオモヤクにはなれん」といわれているところもある。いわゆるフルカブと呼ばれる家筋がその近隣の家々をまとめ、フルカブのいくつかが連合してむらをまとめてゆくという方式があった。村役選定にカブを優先させてゆくやりかたは、村役のしくみそのものに擬制的なオヤ・コ関係とか、族制の論理がもちこまれ、村役の権威を補強していた。先例を重んじ、筋を通すやりかたがとられていたのである。ここにいうカブとは本来家の分け前、取り分といった意であった。任意の家と家との間の付き合いのなかで、その都度分け前がきめられ、家柄として評価されていた。村仕事をデブといい、大西町宮脇では池役でよく働く者にはコウブといって賃が高かったという。「あの人は短命であったがそれも人のブニよ」という言い方がある。家の分け前がカブであれば、人(自己)の分け前は自分であった。この分け前が人柄をあらわした。こうした分け前、とり分はおいおい固定化の傾向がみられ○○株としてさまざまな権益に理解され、カブがその家に備わった家督として考えられるようになった。むら社会における人柄の評価についても「一度はられたレッテルはなかなかはがすことはできない」といっている。
 これに対してむらの人々が切磋琢磨し、誰がオモヤクになっても不思議でないというようなむらもあった。いわゆる「器」の大きさに応じて村役を選定する方式がとられ、例えばオモヤクを籤できめることがあったし「誰それにオモヤクになってもらおうではないか」と推挙の声があがると、その人は「ヤクが当たった」といって他にかわることができないという不文律を残しているむらもある。ちょうど人生の節目節目に厄年を迎えてきたように、年がくればむらの重責を担ってきた。これが人の道であった。「世はまわりもち」といい、一生のうちに何度かはオトナ(オセ)社会のなかでむらづくりの苦労をしなければならなかった。カブを優先させる村役のしくみに対していくぶん活性度の高い方式であったということができる。例えば「あの事業を行うには、あの人しかオモヤクの適任者がいない」というように、仕事を中心にした村役をつくることができた。むらの人々はこの二つの方式を上手に使い分けながら、むらの秩序を守りつづけてきたのである。

 カオと秩序

 このようなオモヤクをまたカオヤクとも呼んだ。顔が広いとか、顔が効くというあの顔である。むらというのは本来みなドングリ(同じ)だと考えられていたから、そうしたなかでオモヤクとして統率をとり、むらをまとめるにはそれなりに工夫が凝らされていた。例えば、あの人はオモヤクになってカオが変わったとか、角がとれて丸いカオになったということも聞く。それは、各々の役割に応じた人々の振舞いやカオのもつ意味がむら社会の秩序と深く関わっていることを示している。オモヤク、カオヤクのとる態度は当該むら社会の権威となっており、秩序に関する演劇的効果があった。それはヤク(役=厄)とかブ(出夫=ブニ・カブ)ということばがもっているさまざまな意味のひろがりをひとつのものとして、まるごと生のままでうけとめて暮らしてきたむらの人の生き方に深くかかわっていた。オモヤクにはわずかばかりの報酬があるというものの、「銭金ではなかった」のである。
 事例75 東宇和郡城川町では役所と住民とを結ぶいわば行政の最末端組織をみた場合、大字に総務区長、字に区長、隣組に組長がいて役所の伝達や市町村税の徴収を行っており、村組としての活動が行政の一端を担っていた、ということができる。このことをむらレベルでみた場合、各部落で一年または二年毎に区長、農業組合長、小走りなどの改選が年末になると行われ、どこの部落でも世話役を選ぶのは大変なことであったという。昔は各戸でわずかな米を集めて区長その他役員の報酬に当てられたが、戦時中などは一年区長を務めると牛の子一頭は損をするといわれるくらいであった。しかし、むらの人々は銭金のことはいわないで、それぞれに務めを果たしていたのである。
 事例76 同郡野村町惣川では、旧藩時代、村には庄屋がいて、その下に組頭(役人という)小頭、五人組頭がおり、庄屋からの布達は小走りが触れていた。この組頭、小頭に相当するものを、現在は「村年行司」「組年行司」と呼んでいる。村年行司は部落総代(区長)であり、組年行司は組長である。天神地区の場合、村年行司は上村と下村に各一人いて、任期を二年としている。改選は夏祭りに行い、上下の村年行司が一度に改選されることはなく、いずれかに旧任者を残しておくしくみになっている。村年行司の仕事は、夏祭り、秋祭り、天狗嶽の恵美須祭り、雨乞い、念仏踊りなどむら人総出の行事の指導監督役であったという。組年行司の改選は正月一六日である。年行司はむらの人々の協力を得て各種行事や出夫の計画を練った。出夫のことをムラブといっている。組は年行司によって運営されることになるのであるが、さらにゴチョウグミとかヒキアイと呼ばれ、葬式、病気見舞い、祈祷、農事などいろいろな相互扶助を行っている。組や部落の仕事はデゴトとかクミコウロクといわれ、無賃で奉仕していた。道なおしも念仏もみなデゴトであった。
 事例77 同郡宇和町明石は一区、二区、三区に分かれ、年行司は三人いる。区長は部落の行事を取りしきる。総地租割りという土地持ちにかける部落費と、一等から二〇等までに区分した等級割りによって各戸にかける部落費をあわせて徴収していた。また年行司は、部落のオコモリの賄い方の世話もしていた。コバシリが一人いて区長の指図を各戸に触れたり、役所のいろいろな雑用を引き受けているという。
 事例78 温泉郡重信町の村役は、江戸時代の庄屋に相当する者を総代、区長などといい、以前は旧家や資産家の戸主がなっていたが現在は選挙によって選出されているという。村役にはほかに会計、土木などがあり、時代によって役務や名称に変遷があった。また社寺総代、檀家総代なども重要な村役であった。牛淵では氏子総代は「年行司」と呼ばれていた。区長場からの伝達や雑用は「小走り」が行った。
 事例79 伊予郡広田村高市部落には二人の部落総代と四人の神社総代、二人の寺総代と小走り一人を置き、むらをまとめていた。毎年一回の定期の字寄せを寺で行って、部落役員の改選を行っている。高市は鴨滝組(第一番組)・上本郷組(第二番組)・日ノ浦組(第三番組)・下本郷組(第四番組)・石野組・野地組(第五番組)・宮の成組・山谷組(第六番組)と分かれ各組長は一年交代となっている。この組はまた、それぞれ近隣集団であるゴチョウに分かれこれをとりまとめる伍長を置いていた。

 一人前の条件

 むらうちでの農事の世話からはじまって山村には山村の、海村には海村の生業基盤を整備し、主として村仕事を取りしきっていたのが作方(作見)であった。役、出夫の総元締でもあり、営農組合の世話を取りしきったこともあった。作方の所掌が後に会計(帳場)と役使いに分化することになる。各種の行事予定を作成し、むらのもめごとをまとめてゆく総代(区長)の女房役であった。この作方を務めた後、総代職につくことを慣例としているところもあって、村役の実務を覚えむらのありさまを隅々まで知っていなければならなかった。
 むらで共同作業を行った場合、村仕事として役をつけるか否かを作方が決めていた。人々の力を結集して作業をするので村普請ということもある。あるいは総出、軒並役、家並役、村役と呼び、家の中心となっている男が出て働いた。東予にはイエモチという言葉がある。老人が出ることは少なく、働き盛りの男であった。南予の隠居慣行のみられるむらでもヘヤの老人が出夫にでることは少なかった。また、あまり若くてもいけない。相応に働ける一人前の男でなければならなかった。むらではそれぞれ一人前の基準があった。例えば、北条市横谷では次の仕事を軽々と行えるのが一人前の男であった。
 事例80 一人前 ほご(一荷) もっこ(一つ) 馬ほご(二俵) 弊(表俵一二枚) 薪木(二〇把) 松山刈り(三百本) 薪伐り(三百貫。十年生くぬぎを三尺だまにする作業) 杉皮むき(皮坪三尺角百枚) 
 事例81 一本松町 奉公人の夜ナベ仕事の基準(稲田文書)モッコ、春一荷。ホゴ、秋一荷。馬ホゴ、秋一荷。籾俵、秋三十俵。草履、毎月三足宛、年三六足。

 共同作業

 むらの生活環境が変化して、勤め人が多くなると村役に一家の長が出られなくなり、その家の女が代役で務めるようになっている。それでも村役は恒例の行事になっていることが多かったので、わざわざ週末を選んでできるだけ男が出られるように配慮しているむらもある。中四国農政局愛媛統計事務所が十年ごとに行っている農業集落調査の昭和五五年調査結果によると、一集落内で平均七割が非農家で農村内の混住化が著しく進んでいるにもかかわらず、集落内の共同作業は他県にくらべて熱心に取り組まれているという。農道の補修作業を共同で行っている集落は調査対象三一八六集落のうち八〇・六%にのぼり、共同で農業用水路の管理補修をしている集落は六七・六%である。愛媛県では、このようにむらとしての機能が今なお高い水準で維持されており、全国平均より一〇%ほど高かったということである。
 むらでは農道の補修作業をミチツクリといい、農業用水路の管理補修をイデホリとかミゾサラエといった。こうした村仕事は春役とか秋役と呼ばれることもあり、周期性をもっていた。だから、むらの神ごとや仏まつりの行事等と密接な関連があった。祭り前のミチツクリをカミサンミチツクリと呼び、神輿の巡行、道中芸をくりひろげる道々を念入りに修理して神仏を迎えていた。こうした村仕事を通して、神社と草わけの家とを結ぶふだん使うことのない古い道が復原されたり、むらの人々が大切にしている樹木のまわりの雑草が取り払われて、むらのさまざまな伝承的空間を生き生きと蘇らせていたのである。村仕事の作業の合い間に年をとった者は若い者に昔からの申し伝えをしていた。出夫をナグサミヤクと呼び世間話に花が咲き、歌のひとつもでてきたものである。
 出夫はまた荒役とか若役といって緊急の防災活動に従事することがあった。越智郡上浦町では池番のことをタニガシラと呼び、台風時には池の水量を確かめ、水路や道路の様子をみて、堤や井堰の復旧のため荒役といって村の人々を招集した。むらをおそった災害にもめげず、人が住むにふさわしい環境を維持してこられたのはこうした地域の人々のたゆまぬ努力があったからである。若者が荒役のために命を落とすこともあった。荒役に出かける男子は力紙を結び、風雨のなかに飛びだしていたということである。
 事例82 上浮穴郡では部落がいくつかの小部落に分かれている。部落を大組、小部落を小組という。部落や組には、道役・出夫などがあり、組付き合いの公役があった。ミチツクリも公役の一つで、美川村沢渡では、春一番が吹くと春の道役があり、夏は盆の道草刈りが行われ、秋は台風のあと道普請があった。今では春は節供のあとの四月四日、夏は夏祭り翌日の七月一六日に行われている。久万町畑野川では、秋の社日に道づくりをした。小田町吉野川では秋祭りの前に、氏神様の通る道を清めるため、お宮から各お旅所への道に土を入れたり、道ばたの草刈りをした。今日では道路は舗装され、橋はコンクリート橋となって公役は軽減されてきたが、面河村笠方のように過疎化の激しいところでは夫婦がともに出なければ道路の維持管理ができなくなっている。
 事例83 伊予郡砥部町ではむらの共同作業を出役といい、ミチツクリ、イデホリを行っている。ミチツクリはふつう秋祭り前に行っている。今では道が舗装され、役もずいぶん楽になった。それでもむらには各所で道路を補修しなければならなかった。むらによっては午前中にミチツクリをし、午後には手分けして集会所や神社、寺院の掃除をし、役の後、酒席を設けて、区長や役員の伝達申し合わせ事項を相談した。イデホリは、春五月前の農作業の暇な時期に行った。用水の引き入れ口や池の樋尻から流末までを、水路の関係者でイデザラエをした。かつて「イデホリは百姓の骨休み」などといって、作業中たびたび腰をおろし、世間話をしたという。また池の改修を行ったりすると特に池役があった。それらの役は人夫賃が支払われた。それに対してコウロクは、もし事情があって出られない場合には逆に出不足として日当を出さなければならなかった。コウロクはむらの年中行事や信仰行事が主であった。麻生校区には広い区有林があり、三年に一回の出夫を割り当てて、下刈りや間伐等を行っているところもある。
 事例84 大洲市では出夫のことを出合い仕事、出仕事、コオロク、寺ヤク、組ヤクといい、テベキという地域もある(森山、蔵川)。むらでは出夫には必ず出た。もし出られない場合には、役で決められている人夫賃に相当する額の日当を出すか、他の機会をみつけて出夫に多く出るなどの取り決めがなされていた。藩政時代から明治中期にかけて、山間部の出夫に山焼きの仕事があった。当事、山から屋根の葺草や肥草を得るため、春の彼岸過ぎに、人家に近い山麓を除き、各戸一名が出ていっせいに山焼きをしたという。ミチツクリ(道普請・道路修理)は出夫の主要なものであった。大川地区の大貸部落では明治二一年の道作りの記録によれば、旧暦七月から九月までに延一〇〇人役、一戸平均五人役の出夫がなされていたという。蔵川から荒間地峠を経て柚木に至る約一〇㎞の大洲往還の道作りは、蔵川戸主会の取決めで、上四〇軒・下四〇軒・本村八〇軒と分かれて三年交替で一〇月初旬に行われていた。割り当て地区内からは、必ず各戸一名出夫し、道草刈り、道ならし、溝さらいなどをした。またこのとき大洲町内の製糸場・米屋・雑貨屋などで寄付を集めてまわり、ミチツクリの慰労費に当てていたという。
 事例85 喜多郡肱川町では、量の多い什事を消化するのは骨の折れることであるから、五人組や部落の共同作業により力を出しあって大仕事を行ってきた。部落に通ずる道を年二回手入れしており、これをデブ(出夫)によって行っていた。道端の草を刈ったり、道の凹凸をなおし、通りやすくなるように手を入れる仕事であった。
 事例86 南宇和郡一本松町ではスカ(組)やジゲ(部落)の道路、河川堤防の修理、神社の清掃など共有の施設や、共同の利害に関する仕事をナカシゴト(ナカ仕事)といっていた。たいてい義務的に各戸一人づつ出て作業した。ジゲではこれに要する労力以外の経費をジゲの予算から出した。このジゲの徴収金を「横成り」「ナカ用」などといった。横成りは半分を各戸均等割に、他の半分を資産に応じて割り当てた。正木では横成りのことをナカ用といい毎年一二月に集めた。
 事例87 伊予郡松前町では鶴吉部落の長尾谷川流域にある神取泉を含む数ヶ所の泉を、二年に一度底さらえする行事があった。この大ざらえには鶴吉、横田、大溝、永田、東古泉、筒井、浜、南黒田の各むらから二五〇名余の人々が集まってきた。それぞれの部落から二名のジョウレン(鋤簾)に乗る者を選び、残りはみな鋤簾についている二本の綱を引っぱった。鋤簾乗りは、下半身を水につけ浮かばないように、前後左右に倒れないようにあやつり、綱組が綱を引っぱって泉をさらった。泉の周囲は鍬で掘っていたが、底を掘るには鋤簾がよかった。
 事例88 温泉郡中島町では部落の共同作業をモヤイという。道なおし、川ざらえ、護岸作業などをするとき、各戸一名ずつ出役していった。これをコウロクということもあった。同町上怒和では、護岸作業の基礎工事のひとつである捨石作業はヒキアイ(小組合)毎に実施した。

 帳籠り

 村入用を算用し、むらの財政を掌握していたのが会計であった。村入用は近ごろでは「部落費」と呼ばれている。恒例の村仕事で使役の賃を支払う経費と、特別な費用、例えば池役と呼ばれる溜池の改修とか、護岸工事のような大事業にともなう部落負担、これらを合わせて歳出とした。今では神社費とか村寺の祈祷料は特別会計にしているところもあるが、つい近ごろまでその区別を設けていないむらもあったということである。これらの出費に対して、むらではそれぞれの家々に相応な負担額を課し費用を徴収していた。部落費の賦課には二通りの方式があった。ひとつは戸数割り、もうひとつは反別割りというものである。戸数割りは、家々を何等級かに区分して一軒前の負担額が決められ、反別割りは主として水利に係る土地に課せられていたので、資産をもっている者にはそれだけ多くの負担を強いられている。ごく最近の傾向として、各家の車の所有台数に応じて、道路使用にかかる負担を出しあい、ミチツクリの費用としているということである。このような村入用の算用は、かなりの手間をかけてむらの人々の納得のいくような負担額を決めてゆかねばならなかった。吉田町魚棚ではこの算用の期間を「帳ごもり」と呼び、越智郡大西町新町では土木委員に対して「年度末決算時ニハ三役ニ協カシ決算事務ヲ補佐スルモノトス」という一項が加えられている。もと竹村入用の算用は米を基準にして行っていた。現金で計算されるようになったのも戦後数年経ってからのことであった。
 事例89 『大字横谷昭和拾八年度仕役付込帳 作見河原亀一』より最も出役の多かったK・I氏の場合を抄録してみよう。村の賦役は村役が「仕役付込帳」に個人別に出夫の有無を記録し、年末総寄りに組算用をして清算した。出夫は一人役米二升を基準にしていたといい、水害時に出すむしろ、かますなどの現物もそれぞれに米でもって対価をあらわしていた(表4―1)。

 むらの音響空間

 区長や組長がむらの人々に寄り合いやむら仕事の連絡をする場合、重信町では法螺貝を吹鳴して小走りを呼びよせむらの人々に伝達したという。小走りはむらの通信、広報を担当し、むらの人々に重宝がられていた。上浮穴郡久万町でも、組長が小走りを呼ぶときには法螺貝を吹き、部落内の各戸間に小走道があって連絡が密であったといっている。小走りは役の日に「おこし貝」を吹き、二回目には「寄せ貝」を二度吹いた。寄りには「寄せ貝」を吹いて人々に知らせていた。
 オコモリの晩にドドーッという大きな木が倒れるような音がして翌日そこへ行ってみても何事もなかったという話が人々の間に伝わっているような、もの音一つしない静かな村里が多かったから、それだけ法螺貝の響に寄せるむらの人々の関心はひときわ高いものであったに違いない。あの音はどこそこのむらの音だと、それぞれむらの人々は聞きわけていた。例年は、越智郡大西町山之内の小山では「小山側に鉦一つ」といっている。これは葬式にたたく鉦が小山側には一つしかなく他にかえがないことをさしており、この鉦の音をきき死者をとむらっていたのである。むらにはむらの、決して他に変えることのできない独自な響があったのである。その音響空間はむらの人々の喜怒哀楽の思いを伝え、暮らしのなかに一定のリズムを刻んできたのである。

図4-4 広田村高市の組構成

図4-4 広田村高市の組構成


表4-1 横谷K・I氏の昭和18年度出役

表4-1 横谷K・I氏の昭和18年度出役