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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

一 家のしくみ

 自分という存在

 地域社会のなかでの自分という存在は、己の取り分かどのくらいの大きさであるかによって決まっていた。このような見方は、近隣の基礎的小集団や、親族レベルにも拡大されていた。「田は田中、人は人中」ということわざがあった。孤立した生き方を避け、近所づきあいのなかで、人柄、家柄の良し悪しが話題になったり、兄弟が皆揃って元気だとか、親類が多いとか少ないという言いかたのなかに、当該社会に於ける系譜関係の伝承や親族関係のしくみを見透して生活してきた人々の姿があったことを知るのである。
 今日では、名をあげると言えば、立身出世という意である。だが本来の意味は、むらうちでの己の取り分や家の分け前がどのくらいであるのかを社会的に確認する手続きであった。それぞれの分に応じた働きが期待されており、神社仏閣等への寄進額のなかに掲られた名前の序列が、当該むら社会の家柄評価の典型とされていた。
 むらでの日頃のつきあいでは、名をあげなくても直接顔をあわせて互にやりとりすることができていた。自分という存在のあゆみは、任意の条件のなかでさまざまな生き方を選びとってゆくことによって、その足跡をしるしていた。己の取り分の多寡は常に変化しているのである。男のカイショを評価していた社会にあっては、男伊達の良し悪しが生存の条件を決定していた。一生うだつがあがらなかったとか、一本やられたとか、一枚上手だとかいうことに気を配っていた社会では、毎日顔を見あわせて互いの順位を確認していたというべきであろう。座り場所の順位は人生という劇場でのそれぞれの役柄の違いを明らかにしていたのである。男も女も役割の変化を通過儀礼のなかで象徴的に演じ分けていた。例えば親が隠居すると、女に杓子首をわたし、オカノ座(炉辺の嚊座)をまかすということがあった。主婦権の譲渡は座り場所を変えることによってより明白な社会的事象となりえたのである。自分という存在は己の居場所がどの位置にあるかによって示されていたのである。

 性的社会化

 男といったり女という場合、地域社会での生活をみると、様々な性差を認めていたことが報告されている。「一人前の男になる」「女になった」という言い方があることでもわかるように、男である、女であるということは一つの社会的地位である。男に対しては男としての、女に対しては女としての態度や行動が周囲から期待されていた。ただ、ここにいうところの男の役割、女の役割というものは、その属する地域社会、文化のなかで決定されるものであって、容易に一般化することは困難である。例えば働くということに関して、男女の性差はなくなったということがこのごろ言われるようになってきた。しかし今でも隧道(トンネル)掘りは、工事が完成するまで女を中に入れないという慣行が残されているのである。性差はそういった意味で幻想であり虚構であるということもできる。しかし、それらがある種の文化装置として自分という存在をかたちづくってきたとしたら、その事実を明らかにしてゆかなければならない。性的発達とはただ肉体的な次元の問題ではなく、生き方の問題でもあった。性的役割の獲得には家庭環境が主要な位置を占めていたけれども、伝統的な地域社会にあってはそれにも増して子供組とか若者組といった仲間の役割が非常に大きかった。むらの若衆や娘達が、泊り宿で寝起きしたり神社仏閣への参詣に出かけたりして、日頃の生活場所から隔離された状態に置かれることがあった。そこでは男であるということは女を知るということであり、女であるということは男を知るということを学び、これがひとつの試練の時期として位置づけられていた。古い装いをぬぎすてて新たな生き方に移ってゆく変化の過程は、人の一生を通じてこれ一度きりというわけではなかったのだが、地域社会のなかにあってはこの時期の若者に対してとりわけ強い関心を払っていたのである。

 家族構成

 家族を構成するのは男であり女である。それぞれ夫、妻、父、母、子、きょうだいというような役割が家族の生活周期のなかで獲得される。そして、男と女は、夫婦関係、親子関係、きょうだい関係の連鎖によって結ばれている。
 核家族の家族構成は一組の夫婦とその子どもからなっている。拡大家族は、既婚者の核家族が、その親たちの核家族と結合してできている。ことに父親の核家族と息子たちの核家族からなる三世代の男子によって構成された父方拡大家族(直系家族)を特定地域社会における価値指向の典型として理解しようとする傾向もみうけられる。
 家族の結びつきは、血は水よりも濃いと言われるように親子が血縁関係によって結ばれており、夫婦が男(雄)と女(雌)で結ばれている。しかしだからといって生物学的要素が家族の恒常的な結びつきの全てであるかというとそうではない。家族内のそれぞれの役割は社会的地位として把握されており、人間関係の結ばれかたは当該社会に固有な社会、文化環境の総体のなかでそのしくみが抽出されるのである。血縁関係はなくても盃を交わして親子になったり、きょうだいになる例もあり、跡取りのない親が養子を迎えて親子になることは一般の家庭でも行われるところである。
 家族の生活周期のなかで最もダイナミックな展開は子が親になることによって示される。子が親になるということは、ひとりの人間が配偶者を得て子を育てるということである。家族の営みは基本的には育てられる家族と育てる家族が連綿とくりかえされることによってなりたっている。地域社会ではそうした家族の営みの輪をたちきるまいとする強い願いがあったので、配偶者がいなかったり、子がいなかったりするとずいぶん肩身の狭い思いをしなければならなかったということである。

 夫婦関係と親子関係

 家族のなかで、夫婦関係を第一義的に先行させ他の関係よりも強調する家族を婚姻家族という。婚姻家族ではおおむね育てられる家族と育てる家族が夫婦単位で別世帯になる傾向がみられ、多世代にわたる拡大家族の形成をはばみ、核家族による世代毎の分節化かすすんでいる。伝統的な地域社会のなかではこうした家族を「隠居制家族」として理解してきた。隠居制家族は、別世帯を構成した隠居者と後継者とが、別居、別食、別財であることをひとつの理念としながら、その存在形態は実に変差に富んでいた。竹田旦は『宇和地帯の民俗』のなかで、この地帯の隠居慣行の特徴を次のようにまとめている。

(一) たいていの家に常設のヘヤがあり、別居隠居の習性が活発であること。
(二) 嫁入婚にもとづく別居隠居で、本来隠居年齢は比較的低いとみられること。
(三) ヘヤでは寝泊りだけで、食事や仕事はオモヤと共同にするのが一般で、隠居は別居、同食、同財型であること。
(四) ヘヤにはオトシタを全部つれて行くが、そのヘヤをもって分家創立にあたる慣行(隠居分家)がないこと。
(五) 先に若夫婦をヘヤに入れ、後に世渡し、隠居に際して老夫婦と寝所を交換する、いわゆる嗣子別居の習慣があること。
(六) 隠居者による講組織などが盛んであること。
 さらに『愛媛県民俗地図』によれば、「隠居制といえる慣行があるのは、上浮穴郡方面と南予地域である」との指摘もあり、こうした慣行は宇和地帯ばかりでなく、広く南予地方一帯に分布していることが知られているのである。
 家族内のさまざまな人間関係のうち、親子関係を強調する家族が親子家族である。この親子家族では親と子を結ぶ強い絆が直系親を重視していた。家父長の権威は男系系譜の永続を指向し、それだけ傍系系譜をその下位において、夫婦関係を従属させていた。男系が強調されればされるほどその男系のかたわらにありながら常に弱い立場にたたされていた嫁および姑の問題が深刻であったのもこの家族の特徴であった。親子関係を強調する家制度の生活原理は、家族を超えた人間関係のなかにも強い影響をあたえていた。日本の社会構造の特徴としてあげられたいわゆるタテ社会の人間関係がかたちづくられていたのである。
 『愛媛の県民性』のなかで、砥部町における家族意識についてのTAT(絵画統覚検査)結果がまとめられており、この町ではいわゆる家族中心主義から核家族的な夫婦中心の家族イメージに移行しつつあることが報告されている。なかでも、男性の肩に若い女性が顔をよせている絵に対して、この町の高年齢層では他の地区より「父と子」という反応が多く、父親の権威が無意識レベルに強く残存しているということである。またNHKの全国県民意識調査によると愛媛県の東予地方が「伝統的な意識の強さで著しい特徴を示す地域」にあげられており、全国を一八一に区分したなかでその傾向の強い順から二〇番目にあたっているとのことである。親子関係に強調点を置いたこの地方の人々の人間関係のもちかたや生活態度を窺い知ることができる。愛媛の家族は夫婦関係を基軸にした南予地方と、親子関係を基軸にした東・中予地方に大きく二分されていた、ということができるのである。

 きょうだい関係

 愛媛県では、きょうだいといえば兄、弟、姉、妹の関係をすべて言いあらわしている。仲の良いホウバイ(盟友)をさしてまるできょうだいのようだといっていた。それに対してきょうだいは他人のはじまりという言いかたも残っている。きょうだいの家族内の地位は、家の継承や相続のしかたによってかなりのちがいがあった。オモヤの継承者はカカリゴ、アトトリ、アトタテと呼ばれ、きょうだいはオトシタとかオトドイと呼ばれていた。
 きょうだいのうちのどの子にカカルかということは、その家の親にとって重大な関心事であった。家はふつうさまざまな養子慣行をもってその永続を計りながらも、家で生まれた息子からその息子へと引き継がれてゆくことを理想としていた。多くの場合、跡取りには長男を優先する傾向がみられた。跡取り息子は家屋敷からクドの灰に至るまで、親から受け継いだ家督を守り次代に伝える責務を負っていた。ことにオモヤの跡取りにはセンゾマツリブン(先祖祭り分)として特別な家督があたえられるのが普通で、この取り分かオモヤのふるまいを決定づけ親類づきあいのなかでの権威の源泉となっていた。分家したり他家に縁づいてゆくオトドイに対して跡取りがどれだけの気配りをしているかによって、きょうだい関係のもちかたにちがいがあったのである。この関係が強調されると家を通してオモヤ(主家・本家)、あるいはデザト(出里)への擬集が進み、オジ・オバ・オイ・メイ・イトコといったより広い親族関係がもたれるようになる。生活環境の変化のなかでオトシタの多くは都市への出稼・就職等により分出世帯を構成し、オモヤを離れてゆくことが多くなってはいるものの、今に盆、正月の帰省が繰り返され、先祖の年忌供養を営んでいる。
 跡取りは家の財産を一括して相続することが多かったが、例えば宇和島市九島では分割相続の慣行が残されていた。とくに二人兄弟のときには均分相続に近かったというから、きょうだいの間の格差は少なかった。むしろ「兄の嫁になるものは七生の罰をかぶったもの」といったり、本家相続を嫌い兄が分家した例もあったといい、本家に留まることよりも分家独立の気運が旺盛な地域であったということができるのであろう。親は少々無理をしてでも嫁取り前のオトシタに分家住宅をアラダテしておいてやれば、それからはオトシタの働き取りで切り盛りしてゆけるものだといわれていた。こうした傾向は今では、愛媛県民の持ち家率の高さとなって表れており、「伊予の建てだおれ」ということばもあるほどである。とはいっても無制限に分家独立を繰り返していたわけではなく、地域社会のなかで分家するということは、生態的・社会的・文化的な環境を維持できるだけの適正規模の範囲を超えてはいなかったのである。
 家の継承と相続について長男優先の方式をとらないで、親がカカリゴを選びとる方式があった。この慣行があるところでは、財産は均分に相続されることが多く、そのうえ親の選んだ子供が結果的に末子が多かったという事情から、ときには「末子相続」と呼ばれることがあった。保内町のある地区ではこうした相続慣行がかつて活発に行われていたということである。ここでは分家独立した家と本家との間に系譜上の格づけがあったり、本家の権威的な統制といったものが形成されることが少なく、家族は小世帯に分離独立する傾向がみられた。

 世渡し

 北宇和郡津島町の小西家は、三百年の長い伝統を誇る家柄であったという。初代は米屋惣兵衛次成で宇和島前野家より分家して岩松に移り酒造を始めた。その後、小西家の代々の経営は宇和島藩に於ける経済的実力を増大させていった。ことに、製塩・製蝋に関する特権をもつとともに、御荘平城村武蔵江湖・高近村近家、ひびの江新田、汐崎、御荘長崎、馬瀬新田、樋元新田、小島新田等、新田開発を積極的に進めていた。この小西家には次のような伝承があった。
 事例1 小西家には奇妙な家憲があった。本家の「主人公」として生まれた以上は、正月元旦の雑煮餅を食ってはならぬというきびしい掟があった。初代の惣兵衛は九六歳という長寿を保ったが、その後の何代かは六一歳の還暦を迎えるまで生きていた「主人公」がない。それというのも小西家の何代目かの「主人公」が本家小西の繁昌が万代不易ならんことも祈ったところ、この神様が夢枕に立って、「本家小西は津島の長者として子々孫々繁昌疑いなしだ。だがそのかわり「主人公」の寿命は六一歳を越すわけにはいかない」とのお告げが下ったという。それ以来、小西家の「主人公」は元旦の朝の膳についても、雑煮餅だけは箸をつけないというしきたりになったと伝えている。それは雑煮餅を食べることによって、齢を一つ重ねることになり、それだけ、六一歳のお告げの歳に近づくことになるから、なるべく歳はとりたくないという悲願をこめて、このしきたりを伝えていたとのことである。
 この伝承は「餅無し正月」といわれるもので、各地に類例が多いが、餅無し正月の伝承には水田稲作以外の、畑作(焼畑)をめぐる文化類型の可能性が説かれようとしている。ここでは家を継ぐ者の歳のとりかたについて考えてみることにしよう。小西家の事例でも説明されているように稲を作ってきた日本人の多くは、正月に新年を迎え、雑煮餅を食べることで齢をひとつずつ重ねるというのがごく一般的な常識であったようである。だから例えば、兄の歳を追いぬこうとして弟が正月餅をたくさん食べたという笑い話があったり、「正月の餅をよけ食うとるだけのことはある」といって年長者の言動を支持する傾向がみられたりする。小西家の「主人公」はこうした文化のしくみを拒否し、別のしくみで歳をとってゆこうとしていたようである。それがどのような歳のとりかたであったかはこの事例では説明されていない。わずかに六一歳という年齢がこの問題を解く糸口になっている。六一歳といえば厄年である。祝儀不祝儀、年祝等にみられるように、人の一生にはそれぞれに大きな節目があった。その節目を境に人は大きく変わっていった。なかでも家を継ぐものの歳のとりかたからすれば、親が世を譲り跡取りが跡を継ぐ交代期が大切な節目であった。
 事例2 宇和島市戸島では六一歳になると隠居するのが原則であり、それも旧正月のツメと月日まで定まっていた。この島では、昔ジエキという悪病がはやって困った時、お大師様に願を立てて助けてもらったといい、それから六一歳になると旧正月二一日にお籠りをする習慣が残されている。このお籠りが隠居の役で、六一歳になりお籠りの仲間に入ればそれが隠居になったしるしである。そして数日後の晦日の晩「わしも隠居するけん、今日からお前らに家をやるぞ」と宣言してヘヤに移る。九島では親が六一歳、子が三〇歳というのが標準で、いずれかがその年齢に達しなければ、世渡しは行われない。
 戸島の事例では、世渡し・世譲りが隠居慣行と密接な関係にあることがわかる。世渡しをしてヘヤに入った親夫婦はジーヤン・バーヤンと呼ばれるようになり、世代呼称の変化がそのまま家族内の地位の変化に対応している。世渡しとともに地域社会での祭りや講には跡取りが出席し、イロリの席もヨコザに若主人が座るようになるのである。つまり地域社会のなかで歳をとるということは、ただ単に一年一年の齢をかされることであるばかりでなく、ひとりの人間にとって、他の人と同じように過ぎ去る一年という年のもつ意味が、三年にも七年にも相当する重みをもっていることがあった。この日を境にとか、この期に及んでといった言い方が強調されたり、娘の適齢期や世渡しの時期に人々の関心が寄せられたのも、人が歳をとるということがただその人個人のことばかりでなく家や親族やむらの問題でもあった。ことに地域社会では齢をむだに重ねることを忌んでいた。「年を食うとるだけでつかいものにならない」といったり、適齢期を過ぎた娘をソバダネといったり、家の厄介者をゴクツブシといった。食べてゆくだけのその日ぐらしをしていたのでは、わが世の春はいつまでたってもやってこないということをいましめていたのである。

 家 督

 家の相続の時期を考えた場合、隠居制家族の慣行がとられているところでは、親夫婦がヘヤに入る時期と世渡しの時期がほぼ重なっているので比較的若い跡取りが家を相続することになる。それに対して親子関係を強調する家族では家父長の影響は老後に至るまで続いており、いわゆる死に譲りという言葉で示されるように、親の死を機会に跡取りが家督を相続するというところもあった。そうした地域にあっては歳をとった跡取りが家を相続することが多かった。東中予では嫁をとって子供が二、三人いるオセ(乙名)をイエモチという。イエモチは一家のハタラキドであった。しかし、イエモチがその家の財布の切り盛りをしているかというとそうとばかりはいえないところがあった。イエモチはその家の家業・家産(家・屋敷・田畑・山林等)を維持してゆく上での労働力の中核とはなりえても、その経営権は親の手中にあるというのが実態であった。家族内での跡取りの生活の中心は働くということにあった。それは家族内の精神的な結合や愛情・幸福といったものを犠牲にしてでも、その家の家業を守りぬくという家意識が根底にあった。
 従来、地域社会に於ける伝統的な家の姿は家業、家産、家風、家訓、あるいはさまざまな象徴(神話・儀礼・屋号・カドナ・家紋・家印)、むら社会における家格、家柄等によって示されてきたのであるが、そうした家のなかで生活する人々にとって、どのように歳をとってゆくかということはきわめて重要な意味があった。このことは、家が人々の歳のとりかたを決めていたように、人々の歳のとりかたのちがいが逆に家のかたちやしくみを変えていったということもできるのである。
 事例3 東宇和郡城川町の高川地区ではほとんどの家にヘヤと呼ばれる隠居家をもっている。親夫婦と若夫婦がヘヤとオモヤに別れて暮らし、それぞれナリワイもショタイも別にしている。カカリゴに嫁を貰うと親はオモヤを譲り、オトシタを連れてヘヤに移る。カカリゴは主に長男で、二男、三男にかかることや、男の子がいても娘に婿を迎えてかかることもあったが、こうした事例は多くはない。高川ではカカリゴがいつ結婚するかによって親夫婦のヘヤに入る時期がきまり、ある年齢に達したからヘヤに移るということではなかった。ヘヤに移るのは昔からトウジトウヤがよいとされていた。いまでは嫁のすわりがとれると半年くらいしてよい日にヘヤに移る。親はできるだけ早く子をかたづけようとしたので、高川では隠居の年齢が低かった。子供が少ない場合はオトシタばかりでなく、オモヤの孫をヘヤの子として児やらいすることが多かった。クミ、ヒキアイのデヤク、コウロクはオモヤがした。オモヤにはオモヤのつきあいがあり、ヘヤが口ばしを入れるものではなかった。オモヤはその家のカドを代表していた。オモヤにはオモヤ家督があり、ヘヤにはヘヤ家督があった。家督の割合はカドによって違っていたが、七・三にするところが多いようである。三夫婦いるとすれば、ひとつのカドがオモヤ、ヘヤ、カンキョとそれぞれ世代分節化していた。カンキョ家督は少なく、あのカドにはカンキョ山があるといって珍しがられた。山が少しあればキリバタ(焼畑)でカンキョの食い扶持くらいはとれていた。家督以外の財産を作って亡くなるとカタミとして兄弟でショウブワケ(形身分け)した。家督はカドに備わったものなのでそれを減らさないように心がけていた。高川では人間一生のうち少なくともオモヤ家督とヘヤ家督と二度の家督を相続しているのである。

図4-5 家族構成

図4-5 家族構成


図4-6 育てられる家族と育てる家族

図4-6 育てられる家族と育てる家族