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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

2 民間信仰的な講

 ここでは、先に扱った代参講的な講と異なって、ほとんど代参を伴わず、ムラなり地域社会内で古くから信じられてきた民間信仰を基調に、その共同体的意識を確認するために講員が日を定めて寄合って飲食を共にする、いわば祭り的な講をあげてみる。

 念仏講
月に一回とか、年に何回とか定期的に、輪番制の講宿に集まり、念仏を唱えるなどの勤行を行い、そのあと赤飯などを食し親睦を深める講である。この念仏講が同時に、葬式の世話をする葬式組になっているところも多い。
 事例1 西条市今宮や丹原町石鎚地区には各部落ごとに念仏講があった。毎月一回、当番の家に講員が集まり、弘法大師を祀り念仏読経を唱和した。座敷に大きく円座し、大数珠の輪を全員でくりながら念仏を唱える。終わると一緒に食事をするが、組内の打合わせや伝達もこの念仏講のときに行われた。
 事例2 温泉郡川内町井内。当番の家で念仏講とか観音講をした。組の青年が木綿袋をさげて家々を回り、各戸から白米一合と茄子、カボチャ、ジャガイモ、煮干などをもらって帰り、若い娘たちと一緒にこれらを煮て、モブリ飯を炊き、これを大きな丸いむすびにする。集まってきた組の衆と一緒に、よもやま話をしながら飲食した。念仏講とか観音講といっても、念仏を申すことはなく、ただ集まって食事をするだけであった。しかしこれも割合早い時期になくなってしまった。
 事例3 大洲市恋木や新谷では正月一六日を念仏の口開けといって念仏宿からヒキアイヘ念仏の知らせにまわる。念仏宿は順送りで、念仏箱がまわされる。「口開け」と一二月一六日の「口止め」の年二回はどこのヒキアイでも念仏が唱えられるが、八月一六日を併せて年三回催す所もある。
 念仏箱には念仏講の記録・唱え書・鉦とシモク(鉦をたたく槌)、それに不幸のとき棺打ちに使う釘を入れるところもある。恋木西には文化年間からの記録、新谷の古町には万延年間以降に年々書きとめた記録がそれぞれある。古町では念仏が終わったあとで酒一升と豆腐三丁で精進落ちをして解散するが、ほとんどの所では、念仏の知らせのとき、念仏宿が大きい袋に二合半桝を入れて各戸から講米を集めておいて、精進落ちの握り飯や簡単な精進料理を作って出していた。戦後、講米を集めるのをやめて宿構えとし、酒一升、肴は精進料理と申し合わせてきたが、次第に派手な酒食を伴う所が多くなってきている。なお、クチドメからクチビラキまでの間にヒキアイに不幸があっても、念仏を申さないことになっている。
 事例4 南宇和郡一本松町では組内に死人が出たときスカ(小組)の人々が葬式を手助けする組織を念仏講といい、昔は墓穴掘り、親戚への知らせ、米搗き・薪とり・葬具作りなどをした。念仏講の本来の意味は、もとは葬式の経費を助けることであったが、のちには次第に労力奉仕が主となるように変わったのだという。
 念仏講の講組み範囲はおおむねスカ単位であるが、正木宇和田の場合は、地理的な関係で宿毛市の草木藪や小作のスカと講組みをした時代もあり、所により多少の相違がある。
 以上の事例から、念仏講と一口でいっても、さまざまなタイプがあることがわかる。月ごとに講をもつものと簡略化して年三回ひらくものがある。七夕や盆行事とも習合したりするが、注目したいことは、葬式組としての機能をはじめ冠婚葬祭の互助組織あるいは村寄合的な性格をも併せもつ念仏講の存在である。また信仰行事としての性格が薄れ食事だけの講や敬老会的といわれる講すらある。はっきり「講」とは呼ばないが、念仏を唱えオツヤを行う講中的な念仏行事は北条市に多い。城川町の楽念仏も講中的な念仏行事に加えられる。
 近世における念仏講は派手な内容になる傾向があったとみえて、たびたび規制をうけた。例えば越智郡岩城村にのこる天保一一年(一八四〇)の「御法制御倹約並びに仰出書」の中には「一、葬式手伝いは先方より頼み候ほか参り申さず事。一、念仏講右同断」とある。
 このような念仏講は、先の諸事例のほかにも伊予三島市中ノ川、丹原町明河(葬式の時に万事世話をする講)、中山町梅原地区(隣保班念仏講)や同町漆、城川町上嵯峨谷地区(お大師様念仏講)、野村町白髭地区や同町小滝、瀬戸町塩成・大久、三崎町正野、三瓶町和泉、八幡浜市中津川など県下各地に存在したし、今も行われている。

 大師講
 県内の大師信仰はほぼ弘法大師信仰に集約されており、それに基づく県内の大師講は、月の二〇日あるいは二一日を選んで行われ、弘法大師の尊像を掛けて礼拝し会食するもので、県内に広く分布する習俗である。
 事例1 宇摩郡新宮村久保ヶ内の大師講は毎月二〇日に内田豊一、後藤広、後藤鷹敏、内田巧、菅原竹茂の五名が輪番で当番となり講をひらく。ずっと昔は竹の峯部落のカネトウから久保ヶ内までの、かなり広範囲の参集者があったが、不便なので別々に行うことにし、更にサゲフリから手前の家八戸ほどになったので現在、五戸だけの講となった。もとは年寄の集まりであったが、部落の相談ごとをするのに便利なように当主の集まりとなった。夜九時ころ、五戸の当主が床の間前に座り一人が先達となってお経をあげ、のこりの四人がこれに続いて拝む。床の間には右に八十八か所札所印の掛軸、中の弘法大師像の掛軸、左側に十三仏(不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観自菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閣如来、大日如来、虚空蔵菩薩)の掛軸をかけ、その前に菓子や果物などを供える。明治三〇年代に始まった講といわれる。同村杉谷の大師講もほとんど同様である。
 事例2 越智郡上浦町瀬戸では正・三・七・一一月の二一日にひらく。講は九つあり、隣近所の人が回り番の宿に集まる。二〇日の晩に辻のお大師像を宿にもってきて祀り、食物を持ち寄り念仏を唱える。翌二一日には、瀬戸に限らず、大三島の各地部落に大師参りに行く。お大師参りに来た人にはテシオ(小さなザル)やキザラ(木のサラ)に菓子などをのせて接待するが、米の出来た時分には握り飯をごちそうする。
 事例3 伊予郡砥部町。石手講ともいい、現在は一〇人一組で各所にたくさんの講ができている。毎月二〇日に輪番で石手大師へお参りする。前夜からオコモリする人もいる。また三角、水満田や高尾田、八倉など講連中の家へきまった日に順番に回って、御詠歌や般若心経を唱え、あとで宿が出したお茶を呑んで帰る大師講もある。
 事例4 南宇和郡内海村柏の大師講は老女たちの集まりで、月の二一日(現一五日)に百万遍の大数珠をくって念仏と御詠歌をあげ、すめば飲食になる。二人の世話人がいる。
 以上の諸事例から、県下の大師講には次のような諸類型があるといえる。
(ア)ほぼ毎月定期的に開かれる大師講。
(イ)島四国や地四国と習合した大師講。
(ウ)少数ではあるが、村寄合いとしての性格を併せ持つ大師講。
(エ)男子だけあるいは女子だけで構成する大師講も相当数みられる。
(オ)四国八十八ケ所の札所寺院近くでは、札所への代参を伴う大師講がある。
(力)虫供養としての大師講がある。温泉郡重信町や東宇和郡宇和町などでは一一月二三日を大師講の日だといって大師粥(小豆粥)を炊き、菜っ葉に少量盛って田畑で殺した虫を供養する。
 このように県下の大師講にはさまざまなタイプのものがみられ、それらがさらに普遍的に分布しているのである。そこにはまた、愛媛県における弘法大師信仰の厚みが表れている。
 さて、大師講とはいわないが、毎月二〇日に当番の家で弘法大師像の掛軸をおがむ講をシンゴン講とよぶこともある。西条市西之川下谷組には現在でも六軒(昭和四〇年まで一五軒)の戸主が加入するシンゴングミが講を組織している。当番のヤドはクジできめる。鉦を叩いて真言を勤行したあと、ヤドが出したお茶(昔はカユ)を飲み、世間話をした。最後のヤドをオトシヤドといい、これが正月二〇日のハツシンゴンのヤドとなる。ハツシンゴンのとき、講員一人につき一〇〇円(昔は一銭)ずつ集め、積立てておく。昭和五七年現在で二万円近くあるが、掛軸などの修理に使われる。

 庚申講

 干支の庚申に当たる日に身を慎んで徹夜する庚申信仰は、もともと中国の道教の説からおこった。すなわち人の体に潜む三尸という虫が、庚申の日ごとに天にのぼり、その人の罪を天帝に告げ、その結果、天帝はその人を早死させるから、長生きするためには庚申の夜に身を慎んで徹夜をせよと説いたのである。この三尸説は中国から伝来し奈良時代末から平安時代にかけて、貴族社会中心にうけ入れられ、室町時代には、仏教風の儀礼化かすすみ、庚申(供養)塔の造立も流行した。江戸時代になって庚申信仰の対象として青面金剛が有力となり、また一方、庚申が猿田彦に付会され道祖神信仰と習合していった。その間、庚申堂が建てられ、講組織による夜こもりの慎みを核とする庚申待ちが、伝統的な日待ち、月待ち習俗を基盤に成立し、さかんとなったのである。
 事例1 宇摩郡新宮村では旧暦正・五・九月の二八日に「二八講」といって、庚申さんにご馳走を供える風習があった。堂成と柿の木の両部落住民が順番に家を回って行ったもので、大正期に途絶えた。
 事例2 越智郡伯方町北浦の庚申様はまま子で苦労をなさったので、ご馳走をしてあげる。この庚申講の宿はクジで決める。「六月庚申 池入らず」「七月庚申籔枯らし(ヤブガラシ・日照のこと)」という。
 事例3 東宇和郡野村町渓筋地区では、庚申の日は諸善を行い守庚申といって徹宵する。講員集合して酒食を共にして一夜を語り明かしたともいい、庚申の日に出来た子供は、盗人になるという。今日では廃れた。
 事例4 南宇和郡御荘町長洲では、庚申様は作物の神と考えられ、雨をもたらす恩人といわれている。百姓株の者が庚申講に加入し、庚申田が三畝歩ずつくらいあり、その組で耕作して講の経費をまかなった。
 以上のように庚申講は多くの場合庚申の日を選んで、講がもたれている。庚申様はまま子で苦労なさったとか、庚申が作神となることもあるが、「三戸の説」すなわち夜籠りの慎みの伝承が残っているところも南予地方など各地で聞かれる。
 次に講組織がない地域での庚申信仰をすこしみておく。越智郡玉川町では、庚申の晩に猿田彦神の軸物を出し、奉掲して祭る。庚申さんは盗人だとか、貧しい方だとかいう。それで些少のことを「庚申さんの家ほどしか田がない」といったりもする。今治市本町の神供寺境内にある庚申の縁日は旧六月八日で、大般若経を転読し法要する。露店も多く出てこれを庚申会と呼んでいる。
 庚申塚も各所にあるが、上浮穴郡美川村中黒岩の惣津山では、昔の本街道沿いに造立していた。六〇年ごとに部落費用で自然石の石塔を一本ずつ建てた。しかし有力者がいなくなって塚も造らなくなった。庚申塔は、中島町二神の大欅の下、津島町上槇の一本榎の根元にあり、また八幡浜市中津川では八幡浜-宇和街道と八幡浜-中津川街道の交差点に庚申塔がある。城川町内に多くのこる茶堂内にも庚申塔が祀られている。
 次に、庚申講と社会伝承の関連を宇和島市祝森の場合でみてみよう。祝森の柿の木地区には現在も庚申堂がある。そこには素朴な石像の青面金剛と厨子に納められた青面金剛像が祀られている。厨子入りの方は底部の墨書から天明三年(一七八三)、京都の仏師の作とわかる。また石像の方には著名な縁起がある。同地区阿瀬部にある普門寺所蔵の『感得霊夢記』は次のように説く。
 昔、柿の木部落に孝行な兄弟がいた。兄は地蔵菩薩を信じ、弟は青面金剛を崇拝していた。そこへ弘法大師が巡って来て、兄弟に感心され、それぞれ仏像を刻んだ。兄弟の子孫は代々長命を保ち栄えたので、松が鼻に地蔵堂(庚申堂から二㎞ほど北方)を、松尾坂麓に青面金剛の堂を造った。乱世となるや、子孫は四散し、堂はこわれ、像は土中深く埋もれた。延宝五年(一六七七)に至り、北宇和郡広見町深田の庄屋河野勘兵衛通行は、祝森に来て余生をおくっていたが、松が鼻で石を枕に寝ていると、夢に憎が現れて「私は地蔵菩薩だ。私を掘り出し供養すれば、災難を除き婦人が信心するならお産を安泰にしよう」と告げた。通行がお告げに従ったところ、果たして地蔵菩薩の像を得たので、これをその地に祀った。これが現在の子安地蔵である(子安講参照)。その後、天和元年(一六八一)再び夢のお告げと二匹の猿の導きで松尾坂の麓に青面金剛の石像を掘り出し、お堂を造り祀った。これが現在の庚申堂である。
 戦前には講も盛んであったが、戦時中の食糧統制によって酒の入手が困難となってやまってしまった。しかし昭和四五年ころ柿の木下組の庚申講が復活し今日に至る。下組の戸主が、庚申の夜、七時ころ各自、お堂で拝んだあと、堂前の集会所にあつまり酒宴をひらく。酒二升と肴の費用は、下組内の各戸が一〇〇〇円ずつ負担する。
 戦前の講は、三つのムラグミ(柿の木上組・下組・祝の川。各一五戸前後)にそれぞれあった。宿は輪番で回し、盛合せ、酢漬けなどは宿もち、酒二升は講員一人につき八〇銭ずつあつめて賄った。講は夕飯どきに各戸の主人(講員)が宿に集まって、ひらかれた。九~一〇時ごろまで世間話や作柄の話をした。徹夜をしたことはないが、普段、宴会で歌も出ずに話ばかりしているとき「オコシンコウの晩ではないぞよ」という。講の日、宿は赤飯とお神酒を庚申堂に供えた。
 同地区内にある他の講(伊勢講・出石寺講・金毘羅講)が、柿の木全体のなかの有志によって結成、運営されていたのに対して、この庚申講は、柿の木の三つの組内全体が参加し、これを伝承してきた点が注目される。ムラグミがひとつの共同体としてまとまってゆくために、この庚申講は、きわめて重要な役割を果たしてきたのである。
 ここで同地区の社会伝承に若干ふれておきたい。柿の木部落の共有地を「ナカの山」とよび、そこからあがる資金をナカゼニとよぶように、「ナカ」は、部落=ムラ=村落共同体そのものを表す言葉である。ナカは、道つくり(年一回、稲刈前の九月初ころ)、井関の管理・ナカの山の管理(寺・神社の費用にあてる)といった共同体的仕事をすすめてゆき、デブ(出夫)の決算をきちんとした。戦前は一二月一日のシワスイリにナカ全体の費用を精算したが、現在は毎年一月三日に決算している。これをナカザンニョ(なか算用)という。
 ナカザンニョに重要な役目と責任を負う者をハコモチといい、柿の木三つのクミに各一名ずつ、統率力のある人物を選挙できめ、任期を二年とする。ハコモチは組長とは別で、いわば会計係である。重要書類を入れた木箱を預かるので、ハコモチの名がついたのであろう。
 大正中期ころ、部落所有の「ナカの山」を処分したとき出来た資金が戦前まであった。このナカゼニは、部落の人が、田地購入、家の建替え、芸者買いなどの資金として年の初めに借り、シワスイリのとき返済した。利息はネンイチといって年一割であった。ハコモチは、このナカゼニの運用管理の全責任を負っていたのである。
 また、組の統合性の強さは、例えば居所が他の組に移っても、つきあいは以前どおり元の組で行うことからも窺える。上組のL・M・Oの家(図4-15)はいずれも下組に移動しているが、冠婚葬祭は上組のつきあいである。Nや15、16、そ、た、も野井地区(庚申堂より南方)や下組に移住しているがつきあいは元の組で行う。以上のようなムラグミごとの社会的まとまり(統合性)を信仰的側面から支えたものの一つとして、古くからクミごとに展開された庚申講が位置付けられると考えてよいのである。

 社日講

 社日は、春分、秋分にもっとも近い戊の日のことである。温泉郡では、この日、田の神が去来するといわれる。また社日に地神をまつる所が県内に多い。東宇和郡宇和町では、特に秋の社日に土地を掘ったり、土を動かすことを忌み、初物の甘藷や里手を神に供える。土地の神をまつるためにこうした禁忌が存在するのである。

 この日、共同飲食の風がある。南予では社日講とか地神講と呼んでおり、中予や東予ではオコモリ、オツヤといっている。新宮村では地神さんのお堂にタユウサン(神職)を招いて祭り、皆が米一合に酒代を出して、トウヤで祝う。秋の社日には床や恵比須棚に、餅を山盛りした桝を供える。
 宇摩郡土居町には部落の各ムラグミに「社日社」があり、道路今田の傍に「社日社」と刻んだ自然石がある。オジジンサン・オシャニチサンと呼び、作神様として部落で祭りをする。
 北宇和郡津島町御槇の社日講は春の社日に集まりをした。お社日様はその間は土へおりておられるという。二〇戸位で組んでおり、一戸当たり米二合半ずつ出し、当番は順おくりである。お社日様にはオワツボ(餅)・オヒカリ・焼米を供えて、夕方から当番の家に集まる。
 同町岩渕では、お正月様が節分から社日様になるという。また社日様は春のシツケ(仕付け、田植)に戻り、秋の取り入れに来られるといっている。そこで社日の日には仕事を休み、部落中が集まって、オコモリをし、共同飲食する。
 南宇和郡城辺町山出では、秋の社日に少しの稲を刈り、それで焼米を作って供え、このときの稲藁は正月シメを作ったり、田植えの苗をくくるのに使う所もある。
 以上、本県の社日習俗は春の予祝・秋の穂かけ祭をそれぞれ性格として、また講とかオコモリの形態で共同で営まれているのである。因みに社日には、道後平野や道前平野では八社八幡参りが盛んであった。それぞれ、湯月・桑原・日王・正・日招・山崎・還熊・勝山の八幡宮および高知・甲賀・保内・鶴岡・徳威・綾延・福岡・湯座の八幡宮を巡拝する。また宇摩郡や越智郡には七鳥居参りがある。

 荒神講

 荒神信仰の性格は多様で、おおよそ次の三つに大別されている。すなわち、①火の神や火伏せの神としての性格をもつ三宝荒神の信仰、②屋敷神・同族神・部落神としての地荒神の信仰、③牛馬の守護神としての荒神の信仰である。これらの荒神信仰を基調とする荒神講の実態をみてみよう。
 事例1 川之江市金田。東金川・下金川(井之上を含む)及び半田などで江戸時代から昭和初期ころまで行われていたもので、下金川の場合は宝暦九年(一七五九)に始まり、昭和二六~五〇年までの間中断があったものの復活している。荒神信仰と経済的な相互扶助を目的とする村内有志の組織である。現在、下金川の荒神講には、宝暦九年からの「荒神講銭揃帳」が昭和二六年まで揃っている。それによると、「講番揃物定覚」として、「一、正・五・九月 三度ニ銭拾匁宛揃置申筈ニ講組中相談仕相極申候」とあって、清蔵・作十(重)郎、清右衛門以下一二名が以上の「覚」をかわし、宝暦九年正月廿八日に一人銭拾文ずつ出している。二年間はつみたて、三年目から一割五分の利子で貸付けしはじめたようである。講金や利金の運用についてははっきりわからないが、安永八年(一七七九)・文化一二年(一八一五)には利息の一部を「神楽入用」にあてたりしていることがわかる。また嘉永六年ころには、銭にかわり米で掛けた時期もあった。のちには講員以外の一般の者にも利子一割で貸しつけるようになるとともに、寛政ころからは一年以上の長期貸しつけも始まっているもようである。
 講員は、下金川の草分けが中心であったといわれている。草分け九軒のうち昭和五七年現在は宮内姓の二軒をのぞいた七軒が、講員である。以前は、正・五・九月の二八日に、現在は正月二八日の年一回、半田町の熊野神社の神職を招き、荒神さんのある清涼庵で午前一〇時より昼食をはさんで一時すぎまで講をひらく。一人一〇〇○円の講金(食事代)で、神職への謝金は部落費から出す。酒は酒屋からの寄贈がある。昭和二六年以前の講は年三回、荒神さんに参拝したあと夕刻よりトウヤ(当屋、古くは講座ともいった)とよぶ宿で開かれた。毎回、三日前の二五日までにトウヤの家の名を触れて回った。講の当日、トウヤは朝から講の幟を門にたてた。講銭を各自、持参し賄い料とした。
 正月の荒神講では旧金川村の氏神・大西神社の祭日(五月九日、一〇日)に行う芝居の世話をする年行司(各小字より一人ずつ計七名)を選ぶ。年行司は芝居費用を部落中から集めるゲイワリの仕事や、琴平あたりから芝居一座を雇ってくる仕事をする。また、正月の荒神講では、村有地の財産からあがる収益等の決算報告をする。村有地を貸して、その地代があがっていた。また現在は、下金川の共有地の荒神さんの敷地を三分の二ほど処分してできた財産があって一応、部落の財産となっているが、その管理権はこの荒神講がもっている。荒神さんの敷地には、お大師さん・観音さんを安置する建坪七坪の清涼庵、その近くにお社日さん、石鎚さん、荒神さんを祀っている。
 事例2 伊予三島市中ノ川。高知県長岡郡地蔵寺の三宝大荒神高峰神社を信仰する講で、江戸中期から始まり、全戸が加入している。五月・九月の二回祭りをする。当番(輪番)の家に集まり、荒神の掛軸を拝礼、飲食する。また講の日に、鶏の絵をかいた幟を当番の家に立てる。その奉納者鎌倉市太郎が、タゴリ(咳)で苦しんだ若いころ、夢に荒神様があらわれ、鶏の絵をかいて信仰すればよいとお告げがあり、実行すればすぐ全快した。そこでこの幟を奉納した。鶏は三宝大荒神のお使いだとされる。鎌倉家では鶏をたべない、村の人も一般に鶏を殺さない禁忌がある。
 事例3 南宇和郡御荘町長洲では旧一〇月二八日が荒神様のお祭りである。二八講という。地区内四組のうち当番の組の者が耕作する荒神田から収穫した米でドブ酒を造り、ごはんを炊いて他の三組のものを招待した。ごはんは、ちらし寿司で、大皿に山盛りについだ(六、七合の米を炊いた量)ものを食べる風習があった。その盛り方が少ないと不作になるといって盛れる限り盛りつけたという。
 右のうち、川之江市金田の事例は、村内有力者の講で、信仰的機能と経済的機能の両面性をあわせもった荒神講といえる。そして時代によって、そのどちらかが強化されることがあったものと推測される。また伊予三島市中ノ川の事例は三宝大荒神の信仰で一応、火伏せの神信仰となっている。これが全戸加入型の講であるのに対して、屋号をもつ家のみの講である場合は部落神としての地荒神信仰の一面をもつものと考えられる。鶏を荒神の使しめとする信仰も注目される。
 さて荒神講は、瀬戸内海周辺に多く分布している。一方、南予では荒神講のほかに「お荒神申し」とか「荒神様寄り」という名の荒神祭りがさかんである。宇和島市戸島本浦では、氏神天満神社よりもソラ(上方)にある荒神社に、古老三人が毎月の一日にオコモリして火難除けの読経(不動明王真言)などのオツトメをする。これをオコウジンモウシという。オツトメを怠ると島に火事がでるといい、それをコウジンの崇りだという。
 南宇和郡城辺町緑では、一二の小字の組ごとに、お荒神様が祀られている。年一回(一〇月下旬~一一月上旬)お荒神祭りをする。神職または法印を招いて、荒神祓いをし、餅撒きをする。組員は出し米といって、糯米三~五合と粳米二合、ほかに肴、神酒代を出し合い、晩は「荒神様寄り」といって宿元で共同飲食をする。宿元は各組員が輪番であたる。その時、各戸からその年に収穫した稲の新藁でシメナワをつくって持参し、祭りが終わると各自の家の軒先につるして、魔除けとする。このように南予地方には火伏の神としての性格、また御霊信仰的な性格の荒神がある一方、作神として部落中に信仰される地荒神的な性格のものが並存しているのである。

 その他の講

 民間信仰的な講としては、以上のほかにも次のものがある。天神講(越智郡大三島町肥海など)、高野講(越智郡宮窪町浜など)、祇園講(宮窪町余所国など)、山の神講(八幡浜市中津川など)、水神講(越智郡伯方町伊方など)、麦祈祷講・稲祈祷講(伊予郡中山町漆)、芋地蔵講(越智郡上浦町など)・ハリキリノ祈祷講(伊予郡広田村高市)・甘酒講(北宇和郡三間町成妙)、彦四郎講(松山市新浜・湊山町)・大日講(城川町今井・安尾)・観音講(西宇和郡三瓶町鴫山など)、般若講(喜多郡内子町石畳など)、日待講(越智郡玉川町竜岡上地区など)、月待講(喜多郡長浜町柴地区など)、エビス講(広田村高市など)、愛宕講(上浮穴郡柳谷村など)・地蔵講(中山町など)。

図4-15 宇和島市柿の木・祝の川地区のムラグミ配置

図4-15 宇和島市柿の木・祝の川地区のムラグミ配置