データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

二 経済的な講

 経済的機能をもつ講には、ユイ・モヤイ講といった協同労働や労力交換を目的とする講もあるが、ここでは主に物資の融通・金融を主目的とする講についてみていく。
 無尽講も頼母子も実質的に区別しがたいが、一応、講名がその地で民俗語彙として伝承されてきた事実を重視したく、講の実態についての記述は両者を別けておこなった。
 ちなみに、桜井徳太郎によると、無尽=頼母子は、その結成する目的によって二つに分類される。一つは、特定な人や家の困窮を救済しあるいは特定な事業に賛同して寄附を行う目的をもつものであり、そういう対象になる人や家、または事業の発起人をオヤ(親)と称することが多いので、これを親頼母子(親無尽)という。
 この親頼母子(親無尽)に対して、オヤといわれる特定の人や事業に関係なく、これに参加する講員一同の金融を目的として設立される親無頼母子講がある。前者の親頼母子講においては、入札によって講金を受け取る者をきめる場合でも、初会に限って、抽籤入札の方法をとらずに優先的にオヤに与える。これに対して親無頼母子は、すべて初回から入札制ではじめ、落札者がその都度、講金を受領するしくみになっている。

 無尽講

 南宇和郡西海町内泊では、不幸があったり災いのあったときに親類や友人が集まり、一口いくらかの金を出しあって無尽講を始める。その後のことは二番会のときに規約を作る。旧盆と旧正月には、全体の中から費用が出て相当の飲食をした。扶助を受けた家をオヤと称し、オヤは種々の世話をしなければならなかった。オヤは扶助の返還について、いくらかの考慮をしてもらった。
 南宇和郡一本松町では、不慮の災害を受けて資金を必要としたり、一家の主人が早死にをした家などを助けることが動機となって無尽を作った。最初の一回は皆で掛金を出してその家を助ける。助けられた家は会合のとき酒肴を出して賄う。二回目からは会員で落とす。落とす希望者がない場合はクジを引いて落とす人をきめる。助けられた家を親といい、やはり払い戻しはするが、わずかな金額でよかった。無尽の名称は、親の通称をとって○○無尽などといった。さらに掛金をかけきれぬ人のための対策として登記無尽・証人無尽というものもあった。同郡内海村柏には、昭和一二、三年頃の不景気時代に、三〇以上の無尽組織があり、一軒で一〇~二〇もの講に加入していたという。一軒一〇円、二〇軒で一組というのが通例であった。やがて掛金が集まらなくなり、オコウツブレとなった結果の借金も多かった。
 宇和島市三浦西に残る「三浦庄屋田中家文書」に、天明四年(一七八四)から寛政六年(一七九四)までの一一年間にわたって続いた米無尽の記録『米無尽牒』が残っている。発起人は、権八・小兵衛・万右衛門の三人で天明四年、五年に「壱口より弐石弐斗宛」一〇人(浦)から計二二石の米を集め、発起人三人が受けとった。この三人は一〇年間毎回、二石六斗四升を掛けている。発起人の次から落とした者は、一人につき二石八斗六升ずつ掛け、まだ落としていない者は、漸次、少ない量の米を掛けて、九番の寛政四年には落としていない者は二人だけとなり、彼らからは掛け米を出させない。その一部をあげておく。

 (天明四年)
  辰壱番米弐拾弐石      拾八俵弐斗  権八
                拾八俵    小兵衛
    但壱口より弐石弐斗宛  拾八俵弐斗  万右衛門

                拾八俵弐斗  権八
  巳弐番弐拾弐石       拾八俵    小兵衛
                拾八俵弐斗  万右衛門

   發起より弐石六斗四升
   残り九人より拾九石三斗六升
     壱人より弐石壱斗五升壱合壱勺弐才宛、但元壱石ニ付九斗七升七合七勺八才ニ当
     (中略)
  丑十番弐拾五石五斗弐升
   發起より弐石六斗四升
   前取八人より弐拾弐石八斗八升
         壱人より弐石八斗六升宛
  残り壱人より不出
      (以下略)

 頼母子講

 川之江市金田町では、ある家で金が入用となったが金がない場合、一定の人員(例えば、一一人)の人にたのんで頼母子講に加入してもらう。一番に金を取る人(発起人)を親といい、その家に加入者全員が集まり、その中から金預かり(総代)を信用のある顔役の者から選ぶ。一番に取る親は、例えば年二回掛で一回一〇円掛の場合手取りが一〇〇円になる。次からの掛け金は親の場合一回一〇円であるが、次から取る二番札以下は入札にて、一〇〇円から何円か手取り金額を切って札を入れる。一番多く切った人に落札するが、落札した人は次回から一一円五〇銭(一割五分の利子)を毎回掛けてゆかねばならない。その利子分と入札で切った金額を足した金額をまだ取っていない者の間で分配する仕組みである。親は利子を支払わないかわりに、一回目に酒を出して接待し、二回目からはウドンなどの食べ物を出す。講を開く時に親は、講員へ知らせる役目ももつ。持ち寄った金は一応金預かりが預かって持帰る。入札で落とした者は、借用証書とひきかえに金預かりから現金を受けとる。借用証書は満講になった時に惣代より返される。
 昭和初期に一回一〇円掛で一〇〇円取りといえば、日当四〇銭の当時からみて約十か月分の給料にあたり、頼母子講としては一番大口であったという。
 越智郡上浦町の頼母子講は、火災にあって新しい家を造りたい者が、親戚、友人に頼んでつくられた。講組の出資を受けて家を造ることができた。その後、毎年とか半年に一度とか講を開いて、講組の家が順次、講金を受け取るという仕組みで、昔は発起人の名をとって、某の頼母子を致しますからといって触れて回った。発起人は利息なしで第二回以降の講に出るが、二回目の人からは入札して落とし、利息をつけて掛けてゆく。最初の人は利息を払わずにすむかわりに、宴席に招かれて行った場合、上席にすわることを遠慮する慣習があって肩身の狭い思いをした。これは明治時代の古いことで、現在では、最初の人も利息を払うようになっている。
 同郡魚島村魚島では、布団や呉服などを購入する時令船を造る時に頼母子講が組織される。船の場合は金額もはるので二〇~三〇人が参加した。布団などの場合は、布団屋の行商人が、親しくなった島民のだれかに頼母子の結成を頼んでつくられることが多かった。行商がこうした頼母子講を介して行われることは、島民にとって購入しやすいし、また行商人にとって出向けば必ず売れるという保障にもなって、万事都合のよいことであった。
 上浮穴郡柳谷村では、多額の金銭を必要とする人は、世話人に仲介してもらって頼母子講を開く。同村本谷では、頼母子講を開いてまず最初に、頼母子総代を選んでいた。落とすとき、オラビザケが行われた。講が廃止になることをクサッタという。同郡美川村では、昭和一三年ごろの掛け金が、一円前後であった。当時、卵一個が一三銭、日役が男七〇銭、女五〇銭であった。頼母子の宿は、終了するまで頼んだ者の家で行われる。また、頼母子講の利子を不景気のため引下げることもあった。さて、金銭を対象とする頼母子講のほかに、県下ではさまざまな頼母子があった。北条市には、米頼母子・萱(瓦)頼母子・家頼母子などがあった。同市中村では明治中頃まで、草葺屋根の萱頼母子があったが、大正期に小麦藁を作るようになり、廃れた。同市柳原では、組内に火災が出ると家頼母子講をつくり、家を再建した。頼母子を受けた家では、毎月、講員を招いてお礼にニンジンメシを振舞ったという。
 上浮穴郡久万町畑野川に米頼母子があった。米は枡目が一定していて、物価が変動しても、米一升の量は変わらないところから、米を対象とする頼母子をするのであるという。明治四三年一二月にはじまった大野亀吉始めの米頼母子簿が残っている。同町下畑野川上田組にはボタモチ頼母子があった。毎年米二俵をかける。一五~二〇戸で構成、ボタモチで会食した。同町にはまた、この米頼母子をもとにして、屋根の葺き替えのために瓦頼母子をやっていた。
 伊予郡双海町法師でも、屋根葺きの材料や労力を提供する茅頼母子、牛を買うときの資金を集める牛頼母子があった。温泉郡重信町花山の萱頼母子は二二戸で結成され約二〇年目毎に葺き替えに奉仕する。萱を刈るのに一日三〆以上を二日間刈るほか、葺き替え当日の奉仕として一日~三日間奉仕する。
 大洲市蔵川や梅川などに現米頼母子・ふとん頼母子・萱頼母子・人夫頼母子があった。現米頼母子は、不時の消費が多かったり、災害などで不作のため飯米に困っている人へ応分に出し合って米の現物を融通するものである。人夫頼母子は、ユイ(イイ)やモヤイの労力互助の仕組みにも通じるものであった。これは講を開いて一年ごとに取り方が定まり、それぞれ自分の必要に応じて仕事(山林の手入れ・田普請・開墾など)を進めた。同市田処の馬頼母子は、大量の荷物を運搬するとき、馬の労力を出し合って加勢するもので、助けてもらった者は、必要に応じて馬の労力で返済した。人の労力に換算して返済することも、話し合いによってできた。

 その他の経済的な講

 無尽講とか頼母子講とは称していないが、その実体はそれらと全く異ならない講がある。上浮穴郡久万町下直瀬や下畑野川のエビス講は、牛馬が死んだ場合に始める。牛馬の持主の株の人が中心となって二〇数人で年三回開く。最初に牛馬を買う家で「座ガタメ」をする。二回目の講からはクジで落とす。同町の各地にある米講は、一般にいう米無尽・米頼母子と同じもので、毎年秋に米二斗~二俵くらいずつ掛ける。一〇~一三人が参加する。
 屋根講とかカヤ講とかいう講も瓦頼母子・カヤ頼母子と同じものである。周桑郡小松町黒川の屋根講は、一〇年ごとに各戸順回りで屋根の葺き替えをした。組または個人所有のカヤバヤシがあった。葺き替えは講組で世話をし合い、各戸から竹二〇本、カヤ三三把(一把は五尺三寸)、カズラ一五〇本(五尺のもの)を持ち寄った。屋根師は広島県方面から三人来ることになっていた。葺き替え作業が終わるとムネマツリ(棟祭り)をする。御幣一〇本を作り、一本は棟の中に敷入れて隠してしまい、残り九本は三本ずつ三か所に立て、米とゾウモン(イリコなど)を桝に入れて供え祭った。
 上浮穴郡面河村渋草では屋根ヅキアイとよぶ講があった。組の者が母屋ならば二日、駄屋ならば三日間、合力することになっていた。一〇年ないし二二~三年に一回くらい回ってくるが、カヤは各戸から三荷(一荷は一二把)ずつ持ち寄る。しかし、亥年と寅年には屋根替えはしない。同郡美川村大谷にカヤ講、上黒岩にカヤ組があった。カヤを刈り、運び、葺く作業をまとめて三人役といい、各一回は必ず参加しなければならない。これを怠ると、罰金として米一升を出した。同村東川のカヤ組合、水押のカヤツキアイ、程野のフシン組などがあった。フシン組は、屋根をふく時にしかつくらず、フシン組長は長い者は五~七年もつづけて担当することがあった。
 北宇和郡日吉村節安にもカヤ講があった。屋根替えには一戸当たり二人役を持ち寄る。葺き替えの当家と特に親しいものは数人役を出す。カヤ場は共有で、屋根の葺き替え時には午前中に刈取り、午後に運搬の日程が組まれる。一人一回一〇〆のカヤを一日二回刈取り、運搬する。昼食は自分持ち、夜食は客としてよばれる。一五戸で年々、順番に屋根替えを行ったが、葺き材の変化に伴い、カヤ講も昔どおりには行われなくなった。
 東宇和郡野村町の渓筋地区には出世講があった。一五人ほどの集団で一組となり、労力を提供し合って田畑の開墾なり、山林の開発なりを行った。クジ引きによって当番の指図で作業した。