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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

一 子  供  組

 新居大島のトンド

 各部落正月飾りの注連縄、門松、笹類を集めて数メートルの四角錐型を大竹四本を支柱として組立て、蓬来山と記した紙の大幟を先頭に掲げ、また男子のいる家では小幟を一段下げて並べ掲げる。昔は吹きぬき流し、幟も掲げて威勢をはったという。トンドの近くに仮屋を設け臨時にイロリを立てて夜番をした。他部落から焼き打ちの夜襲を、これで防いだ。行事は一五日の前の晩からあった。
 一五日の暁、東の空かほんのり白くなるとトンドをはやす時刻の近づいたことを口々に唱え知らせる。水汲み、新入りを戸毎に走らせ「トウドウ カキダスカラ ミナデテコーイ」と触れてまわる。家々からはモチのカゲなどお供え餅を盆にのせて持ってくる。なお、便所のお飾りで小さいトウドさんをつくる。二つのトウドを大勢の力で立てたまま海浜にかつぎ出し、神社より火の合図を待って各部落一斉に点火、火勢の熾烈を競い、よろこぶ。火勢は暁の闇に上り人々の顔がくっきり浮かぶころ、部落総代が燃え上がるトンドをその年の明き方に向かって、先頭につけた綱を曳いて横倒しにする。四つ柱をとって一尺か一尺五寸に切り、二つなり四つなりに割ると、あとで人々は焼いた鏡餅とともに持ち帰るのである。竹は屋根へ投げ上げる。火災除けであるという。餅を持ち帰って神様を拝み、ぞんざいなどにして家内で食して正月の名残りを味わう。無病息災、家内繁昌を祈るのである。
 このように催される子供組の火祭りがトンドであるが、凡そ次のような組織によっている。大島の五部落、上ノ町、中ノ町、月ノ町、西ノ町、宮ノ谷の海岸の道路に、それぞれ一間半四方で高さ四〇尺ほどのトンドを子供組が中心となって組み立てる。これに扇形に幟を立て、横には大幟(部落の幟)を立てる。部落の男の子の幟である。大幟は「年月日 宝来山左義長中ノ町○○○○(男子氏名)」と書いてある。そして「トウドや さぎちょうや 餅のかげや 今日ばかり 今日ばかり」と唱えながら燃やすのである。さて新居大島の子供組の階梯組織は、14歳=新入り、15歳=水汲み・元服、16歳=大将・指図・企画、17歳=食いぬけで食い逃げのもてなしを受けるとなっていた。したがって少年組といった方が適切かも知れない。子供組を賄う経済は男子出生の家が米一升、女子は米一合の負担となっていたが、現在は子供会の一環として各自治会ごとに予算を立て統率して行っている。加入年齢も現在は六・三制教育に合わせて小学校六年生から始まり、新入り・水汲み・大将・食いぬけとなってゆくのである。

 九島の亥の子組

 本九島部落では子供組は亥の子組と呼ばれる。男子は一四歳で若者に加入するが、それ以前の年齢の男子は亥の子組に属する。加入の年齢は明らかではないが、六~七歳、つまり小学校入学前の時期からだろうという。加入・退出の儀礼もないし、体格などによる差別もなく、当該年はすべてこれを大将と呼んでいた。行事の実際上の指揮者には、大将のうちの実力者がなっていた。このために各組とも部落に宿を借りてその準備をする。しかし亥の子の実施にあたっては、年齢による仕事の分担はみられない。なお、祭礼の牛鬼も子供組の役割分担であるが、これらのほかには集団としての活動はみられない。