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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

1 人のタタリ

 七人ミサキ

 戦死・水難等で非業死した霊を祭ったものを七人ミサキとよぶ。七人が横死しているところに特徴があるが、たんにミサキとよび、はげしいタタリをなすこともある。西条市木曳野にあるオタチキサンとよぶ小祠は、七人ミサキともよばれる。戦国の昔に石川源太夫とその部下六人が、伏兵にあい、討ち死にした。その後、夜、死んだはずの主従七人が馬にのって、ひそひそと話して通ってゆくのに村人が出合うようになったので、七人の霊を祀った。源太夫らの死は五月五日のことであったため、木曳野の人たちは鯉のぼりをたてない。
 越智郡関前村岡村では、水死人をみたら、七人ミサキといって、七人取りあげなければならない。見すてるとよくないこと(タタリ)が起る。同郡魚島村の沖で大正年間七人が乗った船が嵐にあって遭難したことがあった。七人はしきりに助けを求めたが、島の人は危険であるため助けに行かなかった。その三〇年後、港で夜船の番をしていた一八歳の青年が、右足にイカリを、左足には石をくくりつけて海の中で死んでいた。その後も同様なことが起ったので、これは七人ミサキのタタリであるといわれるようになった。
 温泉郡重信町西の岡に鷹狩りの鷹を食べた一家七人が山之内の里人に訴えられ斬首された伝承がある。その後、山之内の者が、斬首の場所を通りかかると、必ず何か災害を受けた。これは、一家の怨霊のしわざ(タタリ)とみられ、七社権現としてまつった。これも七人ミサキの一種である。同郡中島町では海難事故等で死んだ人の霊をミサキ(神)といい、人を一人トル(殺す)と成仏できるといって恐れられていた。ミサキに行きあって災を受けるのをイキアイとよび恐れた。幼児が夜間、外出するとき必ずカマド神の荒神サンの煤を額につけてインノコと唱えてイキアイをふせいだ。ミサキには天ミサキ、海ミサキ、七人ミサキがあって、人にミサキがつくと島の祈祷師に拝んでもらい、火をつけた七本の線香でとりつかれた人の頭から足の先きに向かってなでおろして払い、その後この線香を海岸にたてて「のいてくれ」と祈りつづける。祈祷師が拝む時には、ミサキ神がのりうつる女性がそばにおり、彼女の口を借りてミサキがシキビの葉何枚くれとか、七本の線香をたててくれとか要求する。シキビの葉は、あの世で金銭の役割を果たすものといわれる。
 喜多郡内子町池田長者ん窪に、昔、長者一家七人が何者かに殺された。それから奇怪なことが起ったので、坊さんに頼み、部落の川の中にある大きな岩に七人の霊を封じこめた。毎年の盆の施餓鬼には、この七人ミサキに必ず念仏をあげたあとで、各新仏に念仏をあげることにした。この念仏をやめようとするとタタリがおこるといわれる。
 また大洲市蔵川の盆には、非業の死をとげた者は成仏できずにいるので、ミサキとよばれ、各戸軒下に小さい棚をつくり、芭蕉の葉を敷き、ショウリョウダナと同じ物を供える。
 西宇和郡三崎町釜木の七人ミサキは、夕方暗くなって人が山道を歩いている間に無意識のうち海へさそい込む。犬のなき声で気づき、七人ミサキにかからないですむという。東宇和郡野村町惣川の下池ができる以前、干ばつの年、農民の間に水争いが起り、農民七人が殺されて人にタタリをなした。これを七人ミサキという。
 以上のほか、北条市下難波、松山市和気、同日浦、重信町牛淵、川内町弥助成、内子町村前、肱川町、一本松町小山本村などにも七人ミサキの伝承がある。

 聖職者のタタリ

 今治市蔵敷の正徳寺某和尚は、政治向きの儀を誹謗したため今治藩家老たちに簀巻にされて海中に沈められ殺害された。のち天明の頃に藩主へタタリをなしたので、八幡社左側へ小社を設け、怨霊神ととなえた。北宇和郡津島町弓立の円通寺恵林和尚は、大の金満家であったが金に未練をのこして病死した。その金をねらった人に崇るようになったため、小祠をたて桜木明神としてまつり、旧七月八日に施餓鬼をした。高野聖が村にきて、殺害されたためタタリをなした結果、聖神之宮(北宇和郡吉田町)や七聖塔(同郡広見町沢松)が建てられタタリを鎮めた例もある。
 神子が村にきて、宿を借りようとしたが断られ、あまつさえ何者かに殺害された。のちにその時、宿をこばんだ家にタタリをなしたので、小社若宮を建立した。これが『吉田古記』にでる吉田町立間尻の若宮である。

 その他のタタリ

 『西条誌』によると新居浜市沢津の八本松の由来は、隣村宇高にすむ放蕩息子が京から八人の芸妓をつれ帰ったところ、息子の親族がその奢侈放逸を憤り八人の女を海に沈めて殺したため、死者の怨霊がタタリをなし、よって松を植えてその魂を憑らしめ、またその宅地に小祠を設け、祀ったというのである。
 越智郡玉川町小鴨部の桂徳寺にある「流れ七兵衛墓」があり、毎年正月一六日に供養する。昔、ドゾの谷にいた七兵衛は洪水で家もろとも流されて死亡、その後、部落では不作がつづき病気がはやったので、村人たちは「これは七兵衛さんのタタリ」と言ってその墓を作り祭るようになった。
 温泉郡重信町上林の瞽女石は昔、一人の瞽女が道に迷って村にきたのを、村人が親切にこれを遇さなかったためその石のちかくで餓死したことから名付けられた。瞽女は死後、大いに崇ったので、村人は修験者に頼み、これを鎮めた。
 その他、松山市祝谷の三木城主犬坊のタタリ、南宇和郡一本松町のハナトリオドリの由来とされる花賀という凶賊のタタリ、宇和島市下波の平家の落人のタタリ、喜多郡長浜町青島の若宮様として知られている自害した庄屋の女中お花と殺害された恋仲の肥後から来た武士のタタリ、南宇和郡内海村平碆にはその前を白いものをもってとおると崇られるというシクサマ(シュクサン)のタタリなどがあげられる。