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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

2 妖 怪

 憑きものが、主として鳥獣などの動物のしわざと想像されているのに対して、人間の亡霊・霊魂が出現して人を脅かしたり、また動物と人間とも見分けのつかない、えたいの知れない怪物が横行するという伝承がある。これらの亡霊や怪異を宇和地帯では一般にボウコ(亡魂か)とよんでいる。桜井徳太郎は、このボウコを妖怪と称して、ヤマンバ(山姥)・ヤマジョロウ・小豆洗い・ヌレオナゴ(濡れ女子)・海坊主・小坊主・ノツゴ・ノガマ・天狗などをあげている。これらについて県下の伝承をみていくことにする。

 ヤマンバ

 越智郡生名村のウシロのオオバタケに昔、ヤマンバの一族が住んでいて、瓶を背負って大松峠を越して人里に来ては二つ三つの子供を背中の瓶に入れては家にもち帰り、一族にお前は足をやろう、お前は手を食えと与えていたという。
 北条市高山の山中にもヤマンバがいて、村人は、婚礼など何か事があると食器や膳を借りに行った。返す時は、食物の残りがないようにきれいに洗って返すと、ひどく怒った。ある年の大水でヤマンバの家が流されたあと、村人は小祠を建てて祀っていた。
 上浮穴郡面河村大谷の近くの山に山女郎といって、とても美しい女がいた。その女は、媚を含んだ笑みを投げかけてくるのだが、ついそれに合わせて笑い返すとその男は死んでしまうといわれている。同郡小田町臼杵には正月に餅を搗く習慣であったが、その時になると毎年必ず、山から汚い老婆がやって来て餅を拾うので、村人は餅つきの日を変えた。すると、それから村の中には次々と不幸が続いた。村人たちは「あれは山姥にちがいない」と話し合ったという。
 宇和地帯ではヤマジョロウともよび、奥山に住み、人の子をさらって歩く恐ろしい老婆である一方、山人や百姓に豊作・幸運をもたらす存在ともなっている。一本松町小山では、一二月のヤマンバの洗濯日に里人が洗濯していたら、どんなに晴れていてもにわかに暴風雨となる。その日に洗濯した家から子どもをさらっていったという。冬期吹雪に山里を訪れたヤマンバは雪オンバ・ユキンバとも呼ばれ、吉田町では雪の夜に外へ出たがる子に「ユキンバが来てさらって行く」とおどかす。
 ヤマンバが実は、山の神で豊作をもたらすという伝承は、高知県にも分布している。三間町音地に、一ヵ所だけ、よく稗の穫れる畑があった。ある年、あまり草が生えるので畑に火を入れたところ、畑の中に焼石が残った。それからというものは、目に見えて家運が衰え、ついに廃絶した。焼石は山姥を祀った山の神だったのであるという。桜井徳太郎は、これらのヤマンバ=山の神伝承を「山の神が山民の狩猟神や作神として祀られていた段階からしだいに零落し、ついに山姥にまでなりさがった経過」を示す資料と考えている。

 ヌレオナゴ

 夜、赤ん坊を抱いて、髪を乱した女が、出合った男に赤ん坊を抱かせる伝承は、吉田町白浦峠のウブメの話のほか、南予に多いヌレオナゴの話に共通する。東宇和郡野村町冨野川の駄場川にヌレオナゴがいた。千眼寺の修験徳善院が夜、駄場川の飛石を渡ろうとすると、そこでヌレオナゴが洗濯をしており、赤子をしばらく抱いてくれという。徳善院が赤子を抱いてみると、石のように重い。洗濯を終えた女は、お礼として徳善院に大力を与えたので、徳善院は松竹を握りくだくほどになったという。
 大洲市菅田の天貢から蔵川へ出る途中の踊庭という駄場にも、夜、ヌレオナゴが現われて踊りをしたという。色青ざめた顔に眼光するどく、木の葉をまとった全身はびしょ濡れであった。
 北宇和郡の広見町や三間町では、道を通る男に、にたりと笑いかける女のことをヌレオナゴという。ヌレオナゴに出合ったときは、笑顔を示すことは禁物で、もしそうすると一生執念深くつきまとうといわれる。「やかましい」と一口大声でどなると、消えてしまうともいう。
 南宇和郡御荘町長洲の越の尻の山沿いの道で、昔、長洲村庄屋佐藤家へ行く飛脚がヌレオナゴに出合い、やがて重い石と変じる赤ん坊を抱かされたがその石を投げ捨てて逃げたために追いかけられた。オナゴの髪の毛の先はすべて釣針のようになっており、飛脚が飛び込んだ佐藤家の板戸には、その髪の毛でひっかいた跡がついていたという。同郡城辺町桜岡にもヌレオナゴが出て若い男を苦しめた。ある夜、山出部落の青年がひとりで桜岡を通ったとき、美しい娘に出合ってその美貌につりこまれ、つい笑い返したところ長い髪をふり乱して襲いかかった。青年は一目散にわが家へ逃げ帰り、板戸の大戸を閉ざし、やっと難をまぬがれた。障子戸なら髪の先で引っかかれて開けられてしまうので、ヌレオナゴに追われたときは必らず、板の大戸を閉めることになっているという。

 小豆洗い・小坊主

 小豆洗いは、砂洗いまた小豆とぎともいわれる。北宇和郡広見町富岡・内深田などで小豆洗いの話をきく。家を留守にして家族中で野良仕事に出かけ、晩方遅くなって帰ってきたとき、カマヤでしやっしやっと小豆を洗う音がする。「誰か」と問うと音がしなくなるが、しばらくするとまたじゃこじゃこと小豆をとぐような音がはじまる。大声でどなるとやんだ。周桑郡丹原町カルト川(兼久公民館付近)・掛井手などにも小豆洗いの話があった。いずれも雨のしょぼしょぼ降る晩にそこらを通ると、人の気配もないのに小豆を洗うような音がシャリシャリと聞こえてきて、背筋がゾーンとするという。
 小豆洗い伝承に近いものに小坊主とアカシャグマという小童の話がある。東北地方に広く分布するザシキワラシと同じ性質の妖怪であろうといわれるが、その小童が家の盛衰と関係があるという伝承は県内にはない。広見町内深田・三間町音地などで、山仕事から帰ってきた家人が家の中を見ると、薄暗いのでよくわからないが、ユルイ(囲炉裏)のところで四~五人の子供が手を火にかざしてあたっているらしく、不思議に思って家の中にはいって行くと、こそこそと床の下へもぐって見えなくなってしまったという伝承がある。
 西条市付近では、かつてザシキワラシと似た家の怪をアカシャグマといった。頭の赤い子供のようなものといわれた。徳島県の赤シャグマは、仏壇の下から出て、ねている人をくすぐるが、愛媛県ではその伝承はない。

 海坊主

 海坊主は河童と類似しているとか、河童(エンコ)のことであるとかいわれる。大島の鵜島の入道鼻の海坊主(入道)は、相撲をいどんだり、夜遅くそこを通る船に「つけてくれ」といったりする。ある力自慢の人が、舟をつけると、格闘になったが、そのうち鶏がなくと、海坊主は姿を消した。その身体にも毛がたくさんついており、その後、三日ほどしてその人は死んだが、海坊主も出なくなった。
 中島町二神の沖に昭和初期、海坊主が出たことがある。頭が坊主で赤銅色で手足があり、目が丸い。七、八寸の尾があり泳ぎ方は人間より少し遅い。これを見た者は長寿するという。宇和海の沿岸には海坊主の伝承が豊富にある。漁に出ていたら舟に何か上がったので槍でつくと逃げてしまったが、その奥さんがあんまに化けた海坊主に殺された。宇和島市下波に伝わる話である。
 船の艪をいくらこいでも少しも前進しないときがある。それは海坊主がついたためだという。海坊主は火の玉となって海上を飛び走ったり、また女の姿をとって現われたりもする。エナガ(杓子)を貸せといって現われた時、底を抜いたエナガを渡さないと、海水をつぎこまれて水舟にされてしまうという。この伝承は闇の夜や流れの早いところを舟で通るとき、舟底から「杓くれ、杓くれ」と悲しく訴える「杓くれ」という妖怪(北条市北条など)伝承につながる。
 海坊主の船は、帆柱のセミ(滑車)がついていないので、すぐわかる。その船と競漕しても勝目がないので競漕してはいけないと御荘町猿鳴や宇和島市戸島ではいっている。また赤火(出産の穢れ)・黒火(死の穢れ)の者が船に乗組んでいると、必ず海坊主に憑かれる。憑かれたら、金毘羅様を念じ申すと海坊主は退散するという(宇和島市戸島)。鰯をくすべたり、マッチの火を投げつけても退散するという。

 船幽霊

 明かりも見えず、船の姿もないのに、櫓声が聞こえる現象を、船幽霊とよぶのは、越智郡魚島村や喜多郡長浜町である。松山市の興居島にも大正年間、船幽霊がでたといわれる。中島の宮野の芳坊という青年が太刀魚釣りにいった夜、興居島の方に数千点の火が横列をなし、次第に自分の船にちかづきながら怪火は合して一団の大火となり千石船のヘサキにとまり、その船が大怪火とともに漁舟に接近したその瞬間、大船は消失して大怪火ももとのように数千点の横列の怪火となってしりぞいたというのである。
 中島町二神では、船幽霊の姿は、真暗闇でもよくみえる。船幽霊は、普通の船の舷灯とちがって右舷に赤、左舷に青のランプをつけている。
 八幡浜市大島では、水死人などの霊が宙に迷っているのが船幽霊になるという。夜ひとりで釣をしていると、船の下に白いものが見え、船をどんなに漕いでもそこを脱れることができない。この船幽霊が船の下に見えた時にはタデミサワ(船タデに用いる竿)で船の下をなでると幽霊が消えてしまうという。また船幽霊の火を、正月一一日のタタキゾメに綯うユグチ(縄を輪にした船具)の輪の中からのぞいてみると、その幽霊の正体が男か女かわかる。正体さえわかれば、幽霊の害はないという。
 日振島出身の下女お万が、出替り(藪入り)の時、日振島から迎えにきた若者たちの船にのって帰る途中、蒋渕と戸島の間で船幽霊の陰火が出た。若者たちは、面白半分に「バカヨーバカヨー」と叫んだ(こんなとき、バケヨーとはいわないことになっている)。するとその火は、船の上を飛びまわり、船はいくら押してもくるくる回るばかりで前進しないので、マッチに火をつけて投げると船は進み出した。先の海坊主と同じようにマッチの火で船幽霊を退散させたのである。宇和海では、船幽霊をよけるために、船の進路を変えてはならないといわれ、あわてて、向きを変えると自分の船が岩にぶつかったりして難破する。予定どおり、進んでゆくと幽霊の方がパッと消えてしまうというのである。
 こうした船幽霊伝承の背景を考えるとき、難破船などと結びつけて、語られる伝承が多いことに気づく。北宇和郡津島町松笠半島の稲ケ窪の海岸ちかくに船幽霊が大正の終わり頃出たが、かつて大きな難破船がうちあげられたことがあった。その乗組員の亡霊が迷い出て、船幽霊となったといわれている。越智郡吉海町津島では天保年間、神吉丸の船頭が蔵米の横流しをやり、その不正隠蔽のために故意に船を沈没させ、口封じのため船子も海底に沈めた。それ以来船幽霊が津島の浜をめがけてあらわれるようになったという。
 海坊主・船幽霊や何かの亡霊の出現に伴う怪火・陰火をオホラビ(宮窪町)・ホホロビ(忽那諸島)・シケビ(伊予郡・長浜町、この火があらわれると大じけになる)・バカビ(青島)と各地でそれぞれ異なった名で呼んでいる。
 海の怪異にシラミというのがある。宇和島市宇和海地区では水難者の亡霊をさす。遭難の命日、お盆、雨の夜に、その現場付近を航行すると、海中を人体のような白いものが船に取りすがって吃水が深くなったり船足が遅くなることがある。これがシラミである。漁師はシラミを馬鹿とも呼ぶが、もしそれがシラミに聞こえると、櫓にすがりついて離れない。大般若経を唱えたり、金毘羅様を念ずれば助かるという。

 ノビアガリ・タカタカ坊主

 カワウソがノビアガリやタカタカ坊主に化けるという伝承がある。北条市横谷のタカタカ坊主は、人が見上げれば見上げるほど高くなり、じっと上から見つめて順々に見下げると小さくなって逃げたという。丹原町の高坊主は雨がボロボロに降る晩とか、淋しい夜にかぎって出たという。
 魚島村や重信町の高坊主はカワウソでなく小坊主である。夜、重信町の飛梅天神社の北を走る竹藪の中の小道を通っていると白い着物を着た小坊主が出てきた。それを見ているとみるみるうちに高く大きくなり、どうなることかとみていたらそのまますうっと消えてしまうという。伊予郡広田村では、ヌビアガリといっている。喜多郡内子町大瀬の成留屋橋付近にもノビアガリが出るといわれた。
 東宇和郡城川町土居のアカハゲ付近に出たノビアガリは、顔がつるつるで、はじめは奇妙な丸い大石のようなものだが、これをじっと見つめるとだんだん大きく細長くなり、見上げれば見上げるほど伸びてゆくというのである。同郡野村町成穂にも小坊主がひげむじゃらの大男のノビアガリになる話がある。このようにノビアガリ・高坊主にあったとき南予では「見越した。見越したぞ」と呪文を唱えたり、地上一尺の所を蹴ったりするとよいといわれる。

 ノツゴ

 夜、山道を歩いていると、足がもつれて歩けなくなる。その状態を「ノツゴに憑かれた」という。内海村油袋では、ノツゴが「草履をくれ」といって追っかけてくると、急に足が重くなって歩けない。草鞋のチ(乳)か草履の鼻緒を切ってやると、ようやく足が動くようになる。同村平碆では、ノツゴが人に憑くと頭がぼうっとなって、手足がしびれ艪をこぐことができなくなる。大年の晩に煎った豆を撒くとよいといって、ノツゴ落としの呪いに漁師はその豆をオキバコに入れて船にそなえておく。
 桜井徳太郎によれば、ノツゴがワァワァとかオギァオギァという赤子の泣き声を立てたり、母乳が出ないために栄養失調で死んだ乳呑児をノツゴと考えているという諸事象から、ノツゴとは野の子、つまり行先きを失ってあたりをさ迷い回る子どもの亡霊とみてもよい。
 ところで松山地方(松山市中村・同市森松・砥部町高尾田)で五月五日に牛を休め、牛神を祭るのをノツゴ祭といった。土地神や牛馬・家畜の守護神を野神とかノツゴとよぶのはその他香川・徳島のいわば東四国地方にひろがっているが、宇和地帯から高知県幡多郡にかけてのノツゴは人々を襲う妖怪である。
 四国西南部は、戦国時代に非業の死をとげたものが数多く実在し、ひときわ御霊信仰が濃厚な地域となった。元来、田野の神として土地の守護にあたった「野神」が、耕作に牛馬の役割がますにつれ牛馬守護の神へと分化した。しかし、その信仰の衰退にともなって牛馬の息災を祈ることよりも、この地域では牛馬の死霊が崇るという要素が強くなり、さらにその御霊信仰的要素が強調され、間引きや堕胎によって横死した嬰児の亡霊が重なり合った結果、妖怪としてのノツゴ伝承が成立したのである。つまり、農業の神としての野神が、信仰的零落の果てに、ノツゴという妖怪と化したといわれるのである。

 ノガマ

 ノガマは四国一円に伝承されている妖怪の一種である。野山で転倒して刃物で切ったような大怪我をすると「ノガマに切られた」「ノガマに食われた」「ノガマに憑かれた」「カマイタチにやられた」などという。
 松山地方では、石垣や大石の影にノガマがいるので、近寄るものでないという。ノガマにやられると、スーと冷気をおびた風が吹き、本人が少し冷たいと感じ、しばらくして足元が急に痛くなり鋭利な刃物で一直線に切られて血がドッと吹き出すという。
 上浮穴郡久万町露峰から伊予郡砥部町にかけても、ふと転んで四、五寸ほどある大傷をつけることをノガマがきるという。
 宇和地帯ではノガマにやられても出血を伴なわない。宇和島市戸島や御荘町猿鳴ではノガマは風にのってやってきて人間の生血を吸って行く魔物であるからだという。また、野山に捨てた鎌がノガマになって人間にとり憑くのだと考えられてきたのは、三間町音地である。

 天 狗

 越智郡伯方町伊方に天狗座敷・天狗松・天狗宮があって、天狗が出るといわれる。
 上浮穴郡面河村の柴天狗は、鼻高天狗より小さくて身の丈三尺で大変な相撲好きだった。人が通りかかると、カーンカーンと斧で木を切る音、ドサッと木が倒れる音が聞こえてくる。これは柴天狗の悪ふざけであるという。
 同郡小田町にも天狗伝承は多い。深山にすむ天狗は、山で荒い修行をして人間離れした仙人のようなものである。だから、もし悪い性質を持った人間が深山に入ってくると、投げ飛ばしてしまうという。また不浄を非常にきらい、汚れのある人間をころばせるともいう。もし深山でころんだら、自分の身体に不浄なところがあるとみなされた。
 『大洲旧記第三』の中山村(現伊予郡中山町)の項には「神主鳥居を通る度々、天狗鳥居の上に居て頭を足にてなでる。刀を抜て脚を切。其足塚とて御殿の上に石寄せ有。」とみえる。また、松山城主蒲生家断絶にまつわる天狗のはなしもある。松本忠四郎なる家来が久万山で天狗に笛を吹いてきかせたお礼に天狗から、あけてはならないといって文箱をもらった。ところが蒲生の殿様が文箱をひらけてみたら、「蒲生家断絶」とかいた紙切れが出た。はたして蒲生家は絶えてしまったというのである。