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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

一 石鎚信仰と民俗

 1 石鎚山の信仰

 石鎚信仰の三山

 石鎚山のことが見える最初の文献は平安時代初期に成立した『日本霊異記』である。「伊与の国神野の郡の部内に山有り。名を石鎚山と号く。是れ即ち彼の山に石槌の神ありての名なり。其の山高くさかしくして、凡夫は登り到ることを得ず。但浄行の人のみ登り到りて居住す」とある。浄行の人とは、心身を潔めて修行する者のことである。すなわち、修験道の山伏のことである。
 石鎚山を修験道場として開いたのは、修験道の開祖役小角であると伝えられているが、これは大和の金峯山などにもある伝承である。『日本霊異記』は「寂仙」の名を挙げている。寂仙は、灼然・石仙とも書かれているが、恐らく同一人物と考えられ、浄行の禅師、菩薩と仰がれた聖人であった。彼は死後二八年を経て桓武天皇の皇子神野親王に生まれ変わったとの転生説話をもつ聖僧でもある。恐らくこの寂仙あたりが石鎚山の開山者であろうと考えられるのであるが確証はない。また石鎚山と深い関係をもつ横峰寺や前神寺もこの寂仙が開基であると伝えている。
 弘法大師空海も、若い頃に石鎚山で修行したと、その著『三教指帰』に記しているが、この石鎚山が行場として、宗教的体験の聖所として開かれたのは、奈良・平安の頃からであろう。
 石鎚連峰は、石鎚山を主峰に、東に連なる瓶ケ森(一八九六m)、笹ケ峰・子持権現などの山々からなる。一般に石鎚信仰といえば、主峰の石鎚山を対象とする石鎚神社、前神寺、成就(常住)、弥山(頂上)の考えが常識になっているけれども、瓶ヶ森・笹ヶ峰の東側の峰もじつは信仰対象になっていたのである。すなわち、現在の石鎚神社でいえば、山麓の西条市西田に鎮座する石鎚神社が本社で、成就社が中宮、頂上社を奥宮とする三位一体の信仰形態をとっているが、しかしこれは明治三年の神仏分離以後の構成である。それ以前は現石鎚本社の位置に前神寺があり、常住は奥前神寺と称し、山頂を弥山とする信仰形態であった。この前神寺が石鎚信仰の支配権を掌握したのは鎌倉時代以降であろうと推測されている。前神寺が支配した西の石鎚山に対し、東の笹ヶ峰や瓶ヶ森を霊域として主張したのはその山麓にあった天河寺、法安寺などである。
 天河寺は瓶ケ森の石鎚権現(蔵王権現)の別当を主張し、瓶ヶ森の常住には坂中寺があり、山頂の瓶ヶ森のそばには弥山が設けられていた。これに対し、西側では法安寺から横峰寺・山頂・天柱石(お塔石)などが、一連の霊地をなしていたと推測される。つまり、石鎚には東西二つの霊域があるのである。
 伝説の語るところによれば、石鎚権現はもと瓶ヶ森(笹ヶ峰ともいう)に祀られていたのを、西条市西之川の庄屋高須賀氏の先祖が、今の石鎚山に背負って遷したのだといわれる。それで石鎚山祭礼のときは、庄屋は裃をつけ、帯刀して人の背に負われて上席に着く慣例になったと
いう(西条誌)。また「石鎚山は瓶ヶ森より、扇子の要だけ高い」ともいう。さらに西条市の伊曽乃神社祭神との神婚説話があって、「石鎚神の投げ石」の伝説的記念物がある。いずれも石鎚山の信仰上の優位性を顕示する意図から発生した伝承である。すなわち、石鎚山に信仰が集約されて行く過程において発生してきた伝承ではないかと思うのであるが、西園寺源透も言っているように、この三山は鼎立して殆ど同時に開け、同様に信仰の標的となったものであるが、中世末期か江戸初期に笹ヶ峰が衰微し、次に瓶ヶ森が衰微したものと思われる。

 山開き

 霊峰石鎚山の山開き―夏季大祭は七月一日から一〇日間である。もとは旧六月一日から三日間であって、この間は信仰登山者(信者)で格別に賑わうところから、俗に「お山市」と呼ばれた。
 石鎚登拝の歴史は古いと思うけれども、特に一般庶民たちが信者として登拝するようになったのは、若干の近世史料や記録などから考察して江戸中期からと考えられる。すなわち「石鎚講」の成立を見てからと思われるのであるが、これは後で述べることにする。
 石鎚の山開きには期日の変遷があったようである。江戸初期には旧六月一日から三日間であったのが、江戸末期には五月二五日より六月三日になり、さらに現在の新暦七月一日より一〇日までになるのである。以下、この間の事情を諸文献によって考察してみよう。
 『四国遍礼霊場記』(元禄二年―一六八九) 「春冬は雪堆氷柱にて、路通せず。六月朔日より三日まで登る。富士山にのぼるに異ならず。夜中続松を燃し、二里の間に真言或は弥陀の名号を唱ふ(以下略)。」
 『花橘』(正徳三年―一七一三) 伊予宇摩郡の俳人、坂上羨鳥の俳書に「伊予の高根の雪の夕くれとなむ読し石鉄山蔵王権現本寺弥陀尊役優婆塞開起金峯山同躰の密場。山高ふして日近し。秋冬残雪深く、年毎水無月朔日三日参詣の定日也。(以下略)」
 『西条誌』(天保一三年―一八四二) 「石鉄山門明の祭礼と云は、奥は三月朔日より三日まで、里は三月朔日より十五日まで祭礼也。右門明には三月朔日より前神寺井に先達実相院登山、常住山神殿に於て祭式執行。六月祭礼は、五月二十五日より六月三日まで也。五月二十四日より別当并諸先達登山。」
 上記史料によって近世以降の石鎚山の山開きは、旧六月一日から三日間であったことが知られるし、明和五年(一七六八)の「道後先達通告状」(前神寺蔵)にも「石鉄参詣ハ古来ヨリ六月朔日三日ト定リ居ルコト」とあるように変わっていないのであるが、その後『西条誌』に見るがごとき祭礼日に変更になったのである。すなわち、始期を早めて祭礼期間を延長したのである。祭礼日がこのように延長されたのはいつからか、その辺の事情は不明であるが、理由は講中の発達による登拝者の増加に対処してであろうと考えられる。
 『小松藩会所日記』安政四年(一八五七)六月三日の条に、「石鉄祭礼出役(中略)参詣人夥敷、先は廿ケ年参詣と相唱候由。五月廿五日四千五十人、其前後千人或は千五百人位、朔日二百人計、大凡一万二千五十人もこれあり。廿三日前にも少し登候趣、横峯寺も別条なく珍敷参詣人の趣、委細承之。」とあるごとく、その雑踏ぶりが推測されるのである。また西条藩でも祭礼の際には藩士を派遣して取締まりと保安に当たらせている。

 祭礼行事

 石鎚山山開きの祭礼は、現在は五月三〇日に口宮の石鎚神社本社から御神像を頂上社に奉遷する神幸祭で始まる。智・仁・勇をあらわす金銅製の御神像三体を神輿に遷し、山麓の青年たちの奉仕によって、中宮の成就社まで運ばれる。翌朝、信者の背に負われて御神像は頂上社に奉遷されるのであるが、これが石鎚祭礼の白眉である。「お上り」の神事である。ついで頂上社から一〇日には本社に還御するが、これが「お下り」神事である。
 さて、石鎚神社は明治三年の神仏分離によって石鎚蔵王権現が廃止されて神社となったものであるが、それまでは石鉄山別当前神寺の主管下にあった。したがって祭礼行事も前神寺によって管理運営されたものである。現石鎚神社の境内は、元の前神寺の寺域である。それで、前神寺にあっては、旧五月晦日に仏像三躰を唐櫃に納め、信者の奉仕で常住舎に遷し、翌朔日の朝弥山に奉安する。このお上り行事の仏像奉遷は道中奉行の差配によるのであるが、それは土佐の信者が供奉して行うのが古式の慣例だという。また道中奉行は石鉄山御用会符一号を所持する伊藤家(天徳院)の世襲である。お下り行事は、仏像を弥山から本寺に遷す行事である。仏像が山門に到着すると、長い参道に信者たちは土下座して「走り込み」を待つのである。仏像を納めた唐櫃が信者の頭上を通過するとき、信者は一様に合掌念仏を申し、随喜の涙を流すのである。この祭礼行事は神社成立後に別の方法でもって神社側に今日のごとき祭礼行事として継承されたのである。
 頂上では、石鎚信仰を特色づける御神像の争奪絵巻が展開される。信者たちは御神像を身体にこすりつけるようにして拝戴し、ひたすら神護を祈るのである。
 さて、石鎚信仰にはあとで述べる「会符制度」がある。信者の階級制度であり、免許証であるが、この会符番号の若いほど権威があるのであって、御神像争奪時でも「若番で来い」と古会符を提示されれば、先客たりとも直ちにその信徒講中に御神像拝戴の権利を譲らなければならぬ不文律があるのである。
 そのとき「権衆来たぞよ」と言いながら拝戴する風が以前にはあったというが、今は見られない。「権衆」とは石鎚大権現信徒衆の意で、同信者的意識の発露より出たことばである。またこの言葉は、黒河の宿などで馴染みの講中が到着して宿主と再会した場合にも発せられた。先達と宿主が互いに取りすがり、久闊を謝するのであって、「権衆来たぞよ」「権衆来たかや」と相互に健在と再会を祝福し合うのである。また信者は登拝の道中においては、相互に「お上りさん」、「お下りさん」と挨拶を交わし、道を譲り合って往来する。また「六根清浄、ナンマイダンボ」を唱えつつ登る。とくにこの詞は鎖禅定の場合に唱える。

 石鎚道者

 石鎚登拝者は「道者」という。「お道者さん」「お道者」とも呼ぶ。富士信仰でも道者というが、道者の服装は、白衣(お山襦袢)・脚絆・手甲・白鉢巻のいでたちで、錫杖を持ち、鈴鐸・綱・草鞋を腰に吊す。現在は思い思いの服装だが、お山市中の道者の服装はやはり昔からの出立ちが多いようである。
 登拝者は七日間の精進潔斎をする。海、川などで垢離を取り、魚肉を断ち、蚤、蚊の殺生も慎ん。海岸から遠い所の者でも最後には潮垢離を取りに行く風があり、そのとき海藻を持ち帰ったり、登拝の賽銭を浄めてもどったりする。日本霊異記に「凡夫は登り到ることを得ず、ただ浄行の人のみ登りて居住す」と記されているが、道者は精進潔斎して登拝したのであり、不浄者は山の天狗に放られると信ぜられていた。
 石鎚登拝の様子を古い文献によって再現してみると、前掲『花橘』の著者坂上羨鳥は、次のごとく記している。

  一七日の精進清水の前行を修め奥前神寺に通夜。晦日は塔の禅定方百町斗南の嵩に行、高さ十六丈余の岩窟の塔、大師暫時祈玉ふて湧出となり。頂に苔むす諸木露にしやれ魔風昼夜をはかず。此外密所数多を詣る。
   極楽を汲か岩洩る苔清水  羨鳥
  朔日前宵丑の刻、別当先達貴賤ともに白衣を着し、かけまくも縄の襷、続松手毎に燈、一同高音に御名を唱。空天に響、気も魂もそぞろくるはしく、木の根菅の根取付くなど所々の王子に読経。弥山間近き小笹原、夜明しとこそ云る岩戸原明を待って、ものいはじと躋る数十丈の鉄の鎖、掌に冷て南無南無南無を観念せしは何にたとへん。やんごとなく頂上に禅定宝殿御尊像を拝し、空澄渡る朝気色所々の山海雲下にみゆ。つみもむくいもただ消然たる心の底如意満足しかならむ。
   此涼し現末新に無垢世界  羨鳥

 かく石鎚登拝者は精進潔斎したのであるが、いま少し県下の民俗にそれを見ることにしよう。八幡浜市川上地区では、氏神の社殿に籠って別火生活をしながら七日間の垢離を取った。夜半に出発して途中婦女子に会わぬように心掛けた。登拝中は家族の者も共に精進潔斎して家業の漁業も休業し、虫一匹も殺さず、もし万一組内や親類に不幸があってもお山参りがもどるまでは弔問もしなかった。温泉郡重信町などでも水垢離を取り、賽銭も浄めた。家の門口に門注連を立て、家人もお山行きがもどるまでは殺生不浄を禁じた。重信町から海までは約二十キロほど距てているが、最後には海に出向いて潮垢離を取っていたという。そのとき海藻を持ち帰り、門注連につける風であった。この風は伊予郡松前町や砥部町などでもしていたことである。
 越智郡波方町小部地区の漁村地帯は、昔から石鎚信仰の篤い地域である。十五歳で初山を踏む風習があり、二一日間の行をした。座敷口の土間に白砂を敷き、門注連を立てて座敷に籠り、そこに竃を構えて別火し、かつ食事毎に一日三回の潮垢離をとった。また当地では登拝のとき米粉製の焼餅を作って携行する慣わしであったが、それも潮で浄めていた。留守中も家族の誰かが代って精進潔斎を続行し、昼寝もせずにひたすら無事の帰参を念ずるのである。
 温泉郡中島町では、満潮時の潮で藁を浄めて注連縄にない、これを先達の家に張ったり、ある家に張ってそこでお籠りした。登拝中は家族の者が潮汲みをし、頂上に到着する頃を見計らって行をする風であった。登拝者の家には門注連を張ることは各地共通である。この門注連を登拝中の頃合いを見て、少し抜きかけにする風があった。これを越智郡玉川町ではアシヤスメ(足休め)と称した。こうすると当人の足が軽くなるというのである。
 東予市河原津などでは、お山参りがもどると直ちに注連縄を除く。そうすれば足の疲れがとれるというのである。また登拝中の豆炒りはタブーになっていた。足に豆ができるというので忌みたのである。その他、髪をすくこと、殺生すること、不浄に触れること、生理女を近づけることなどの禁忌があった。これは高知県などでもいわれている俗信である。なお玉川町木地では、糸針や臼の使用も禁じていた。すなわち、石鎚登拝には、本人はもとよりだが、家族みんなに精進を求める強い連帯性が要求されていたのである。

 女人禁制

 石鎚の聖域は古来七里四方といわれた。成就社から頂上に至る間はとくに浄域と見られ、この間には八丁坂、禅定が森があり、夜明峠を越すと一の鎖に出る。八丁坂は「走り込み八丁」といわれ、禅定が森下は無言の禅定と言われて無言通過が要求された。
 一の鎖元では新草鞋に履き替えた。これより頂上は特別神聖区域であったからである。それで鎖元には古草鞋の山ができていた。最近はそれほどでもなくなったが、同じ民俗は加賀の白山の大汝峯、飯豊山の頂上附近、乗越の鞍部などにも見られ、それを草履塚と呼び、東北の月山では草鞋脱場といった。いずれも霊山に対する信仰観から守られて来た民俗であった。
 なお石鎚山にはオハライ銭の風習があった。登拝者が潮垢離を取ることは前に述べたが、その時賽銭も浄めるのである。昔は行者堂から上で便意を催した際は、紙を敷いてその上に用便し、終わればさらに白紙を被せて銭一文を供える慣習になっていたのである。霊山の神聖性を穢した一種の贖罪行為であったのである。
 霊山には女人禁制がつきものである。石鎚山の場合はそれが昭和二二年から解禁された。当初は山開き中の六日目からであったが、以後緩められて三日になり、さらに昭和五七年より一日のみに短縮された。
 石鎚の女性登拝は、黒川道は「女人還の行者堂」まで、今宮道は「矢倉の女人返し」までであった。石鎚道者が女人を避ける習俗は別火や月経の禁忌に認められる。月経のタブーは民衆の間に広く行われていたことなので別に取り立てて言う必要もないが、それだけに石鎚信仰ではタブーも顕著であった。たとえば、西宇和郡三崎町では、主人が石鎚登拝中に妻が月経になると、妻は実家に帰って起居し、昼間の農作業だけ実家から通って来て従事した。その間は婚家へも近寄らなかった。もし止むを得ない所用で立寄る場合は、裏口から声を掛けて用足ししたという。松山市三津浜や温泉郡の怒和島でも月経女は他家に預ける風であった。とにかく石鎚登拝については月経女は強くタブー視されたことであったのである。
 月経女が籠る月経小屋をヒマヤ・ベツヤなどというが、以前にはそのヒマヤが各地に存したのである。石鎚山村には大正時代まで各家にヒマヤがあったが、しかしお山市のときは石鎚道者の民宿(季節宿)になるため、黒河部落の場合は、隣の有永部落にあったヒマヤ岩屋(共同ヒマヤ)に籠る風であった。

 石鎚登拝と一人前

 ある霊山に登拝すれば一人前だとする民俗が各地にある。もと村には若者組があって、村祭りや芸能、公共事業などに奉仕してきた。彼等は力石・俵持ちなどをして日頃から体力を錬り、一方職業的技倆の錬磨に励んだのであるが、いずれも一人前の社会的承認を得るためであった。しかし、一人前の規準は土地によって区々であるけれども、一般的には一定の作業能力と技倆と忍耐力で決まった。
 しかし、また一方では伝統芸能の継承習得や宗教的体験が要求されたのである。県下では石鎚登拝と四国遍路の体験が男一人前の前提条件になっていた。勿論これは県下全域に亘る民俗とは言えないのであるが、少なくとも道後平野地域一帯ではそのように言われていた。
 「石鎚は一度は来ても二度は来な」とか「神の多いのに石鎚参り。魚の多いのに河豚を食う」という諺がある。石鎚は一度は登ってみるべき山、体験すべき「山」と目されていたのである。石鎚登拝は普通一五歳が初山であった。これより早く初山をやる者もあったけれども、大体一五、六歳であった。それも親が事前に願掛けしていて、一五歳で願解きするので登拝するケースが多かったようである。
 頂上に「のぞき」の岩場がある。初山にはこの覗の試練が課され、誓約をさされたのである。「山の張り出たる端に大石横たはる。その石の傍より見下せば千尋の谷なり。目眩きて身危うく魂飛びて股慄う。攀べき枝なく、とるべき蔦蔓もなし。見たき情と恐しき意と相半ばして一進一退躊躇頻りなり。故に此処業場となりて遠国より来りたる道者の内、度数なりて先達と称ふる頭のもの、初登の若き道者を苧縄にて縛り、此の谷に釣さげ、是までの隠悪を懺悔せしめ、心を改め、行いを新にせんと誓はしめ、しかして後引上げて縛を解くといふ。野人等の為には手近き戒めなり。」と『西条誌』の著者は記している。若者は石鎚の聖地を踏み、この冒険的体験をもつことによって一人前の男への花道を誇らしく意識さされたのである。これに対し、四国遍路の体験は、世間を知って見聞を広めるという自己拡大に大きな意義があったのである。

 2 石 鎚 講

 石鎚講の成立

 石鎚講は「お山講」と一般に言われる。またそれぞれの地域の固有名詞をつけて呼ぶ講中もある。
 石鎚講の成立年代は不詳である。しかし、他の霊山の講や金毘羅講同様に江戸初期には成立していたと思われる。石鎚講開講を指導したのは石鉄山別当前神寺であったが、明治三年の神仏分離によって前神寺は一時廃寺となり、石鎚神社が設立されたので一時期混乱があり、以来次第に衰微するに至った。石鎚神社は、その後神社復興維持の目的から「大神嶽講」を結成、大正二年「崇敬講」、同四年「崇敬組合及び遙拝所設置」を重点とする布教活動に切替えたため、従来の講社は崇敬組合に統合され、しからざる講は放任状態にされた。したがって、従前の石鎚講は民間信仰的な村落共同体の講中に衰退してしまうのである。
 石鎚講は江戸初期に成立したとよく言われるが、筆者の管見では、講の存在を確認できる史料は宝暦年間(一七五一~六三)の金石文しかないようである。
 成就社境内の燈籠銘に「宝暦九年(一七五九)新居郡講中」とある。
 石鎚神社石鳥居銘には次のようにある。

           施主 野間郡菊間講中
  奉寄進石鉄山神社花表一基
           人夫 氷見組中
    宝暦十二歳壬午六月穀旦
           同郡浜村住 網元 太郎兵衛
           石工 今治町 中村久右衛門
    別当前神寺住持兼御宝前所釈迦牟尼院法院独一識
                     (以下略)

 つぎは安永九年(一七八〇)再造の石鎚山弥山の鎖銘である。『石鎚山弥山大鎖・小鎖之銘写 別当 前神寺』(前神寺蔵)なる文書によれば、この鎖は「予州松山城下并道後七郡及諸国当山信心講中」より寄進されたもので、次のような寄進講中名が連記してある。唐人町講中、予州松山城下講中、松山三津浜講中、温泉郡講中、伊予郡講中、和気郡講中、久米郡・浮穴郡・風早郡・越智郡講中、久万山講中、芸州広島領講中、備後尾道講中、福山講中、松永講中、諸国講中などで、右史料によって安永九年当時成立していた石鎚講とその分布が知られるのである。
 さて、最近次のような史料が見つかっている。安永五年(一七七六)の「講頭補任状」である。

  当山講頭ニ此度相定もの也 弥抽篤信御世話有之度薦候 仍許容之状如件
   安永五申十二月
     石鉄山別当 前神寺
     福角村 勇八殿
     太山寺村 彦助殿
           取次

 前神寺が福角村(現松山市)の勇八を講頭(先達)に任じた補任状である。なおこのような補任状は各地の講中の講頭に出していたもので、時代は新しいが安政三年(一八巽)のものがある。安芸(広島県)の東二窓の講中に出されたものである。

  当山講頭之事令許容詑弥可有抽篤信誘引 有信之輩もの也 仍如件
   安政三年辰五月
     石鉄山別当 前神寺印
     芸州東二窓 九郎兵衛殿

 先達制度

 石鎚講が宝暦年中にすでに成立していたこと、それには講頭がいて講中結成に活躍していたこと、その講頭は前神寺が任命していたことが、以上の諸史料から証明されてくるのであるが、この石鎚講及び石鎚信仰を普及させるべく計画したのもやはり前神寺の「先達制度」であった。前神寺は「先達所」を指定し、先達に委嘱して布教の徹底を図るのである。
 前神寺に『先達所惣名帳 金色院』というのが蔵されている。延宝四年(一六七六)辰五月廿九日のもので、明和六年(一七六九)丑正月に法院仁岳が書写した文書である(奥書)。表紙に「従延宝四年丙辰至明和五年戊子、凡九十三年ト附紙アリ」、「本紙ハ公儀江茂差出し袋ニ入有(レ)之」と註記があるので、原本は延宝四年のもので、公儀へ提出した公文書であったことが窺われる。
 本史料は、道前道後の寺院、堂庵六四ケ寺院、村名、先達名を記したものである。しかし明確に先達所であった寺院は三九寺院である。他は確実に先達所であったか否か先達名を欠いでいるため不明である。またこれら寺院中には現在は廃寺になっているものも見られる。ともかく、前神寺はこれら先達所を拠点にして地域の結講促進を図ったわけである。その先達所分布をみると、〈図・5-7〉のように先達は伊予の国に限られ、道後が四〇、道前が二四と道後の方が多くなっているのである。
 またこの先達所の分布は、安永九年の鎖奉納の先達や講中とも符号する点が多い。これは石鎚講が道後平野を主要拠点にして先行的に組織されたことを暗示している。なお、東・中予の町や村の各所で「金・石」と刻した常夜燈、あるいは氏神名を併記した素朴な常夜燈が散見される。「金」は金毘羅大権現、「石」は石鉄山の略記である。筆者の管見によれば県内現存の紀年銘を有する金石常夜燈では寛政四年(一七九二)のものが最古であるが、常夜燈の流行を見たのは文化年中と思われ、この紀年名のものが多いという特徴が認められる。もちろん、これは精査しての統計ではないから一概には言えないのであるが、道後平野部では目立つ特色である。このことは、石鎚信仰も金毘羅信仰や伊勢信仰とともにこの頃が信仰上のピークになっていたことを推測させるのである。
 以上、これまで見てきたような事情から、石鎚講が成立したのは、前神寺が先達所を決め、そこを拠点にして促進したことによるものであると見られる。すなわち、歴史的には延宝四年頃からで、以後具体的かつ漸進的に展開されて、安永年中に各地に講中が普及し、村々に定着していったものと推察されるのである。安永四年(一七七五)に三津ケ浜(松山市)の木地屋市左衛門が石鎚講先達会符第一号の交付を受けたり、福角村の勇八が安永五年に講頭に任ぜられたりしているのはその辺の事情を物語っていると思うのである。

 講中の行事

 石鎚講は、(一)毎月開講して月並祭を行う所、(二)正・五・九月の三回行う所、(三)年一回お山開きに合わせて行う所とかがある。しかし、本来は毎月行事であったとする例が多い。講日には宿元に講中が集会し、オツトメ(勤行)をなし、会食する。松山市東野では、昭和初年まで十戸位で講をつくり、正・五・九月に各自が米、野菜、食器を持ち寄って宿元で会食していた。当日は必ず入浴して集まることになっていた。宿元の床の間に不動権現の軸物を掛け、供物を供え、大数珠繰りをした。先達が「六根清浄」と言えば、講員が「ナンマイダンボ」と唱和する。始めは左廻しに数珠を繰り(これは石鎚に登る意という)、終わると反対に右廻しに繰る(下山の意)のである。数珠廻しが終わるとこの数珠で先達が加持祈祷をする。次いで会食し、解散する。これが松山地方における石鎚講勤行の一般的パターンである。
 温泉郡重信町などでは、元は毎月していたが、後には正・五・九月の三回、講員が常夜燈の場所に集まり、石鎚山を遙拝ののち、組中を巡回してから当元で勤行していた。各戸から米を集めて廻り、それで会食した。この会食を常夜燈の所で行いオツヤをする所もあった。
 伊予郡松前町中川原や砥部町原町などでは毎月実施している。中川原では一二月に代参者と宿元を決める。宿元は神床に注連縄を張り、海藻をつける。石鎚不動明王の軸物を掲げ、供物をする。その日講員は入浴し、潔斎してから宿元に集合するのであるが、宿元の家の入口で口を漱いでから家に入る。まず会食があって、終わってから再び外に出て口を漱ぎ、改めて勤行をする。その要領は先達に従って行う。①懺悔文 ②礼文 ③登り念仏 ④詠歌 ⑤不動寄せ ⑥般若心経 ⑦不動真言 を唱える。この間、法螺貝を吹き鳴らしたりする。
 なお、石鎚講員は登拝者の家の水田の草取り作業を奉仕した。それを「講草取り」というのである。この習俗は大洲市三善地区や越智郡菊間町などでも行われていた。なお越智郡大西町には「宮嶋講」の講草取りがあった。
 次に県外の石鎚講についても見ておきたい。広島県竹原市福本講中は石鎚講の古態を伝えていると思う。
 西海賢二の報告によれば、福本講中では、大祭中の石鎚登拝に先立ち、講員は講元宅に参集して「幟起し」の行事を行う。幟は一本で講元宅の庭に立てる。終わって直会がある。なお、福本講中には宝暦一四年(一七六四)の石鎚大権現の幟が現存している。講中で石鎚登拝をするのを「マイリ講」といい、毎月の月並祭は「コウマワシ」と呼ぶということであるが、出発にあたっては精進料理で直会をする。この直会の席で、船のコースや潮流について講元・先達・元老格の三者で協議してコースの決定と舵取りを行う者を決めるのだという。また出立に先立ち、講元宅で力餅を搗く。祭壇に蔵王権現、弘法大師、不動明王の三幅の掛軸をかけ、その前に供物や奉納品が供えられる。ついでこの祭壇前で講員一同でハナガタメ(直会)をする。それは(石)印付きの箱膳にご馳走を並べた大盤振舞の直会である。

 坂迎え

 伊勢参宮や四国遍路など遠方の社寺参詣の旅をした者が帰参するときは、家族らが、これを村境まで出迎える風があった。これをサカムカエというのであるが、別の言い方があって、西日本ではドウブルイ、東日本ではハバキヌギ、スナタタキといった。この風はとくに伊勢参りに見られた。
 本県の社寺参詣の坂迎えの習俗で、とくに興味深いのはマチギモノ(待ち着物)の民俗である。留守中は家庭で炒り豆をしない。その代わり他人から豆見舞いをもらうなどの風習もあるが、親は留守中にこの待ち着物を縫って用意し、これを持って帰参当日に出迎えることになっていたのである。待ち着物は「下向着物」という所もあったが、出迎えた場所で酒宴をやり、この待ち着物に着替えて帰宅することになっていたのである。それでこの酒宴を南宇和郡では「下向酒」とか「下り酒」といったのである。
 坂迎えの習俗は石鎚登拝の場合にもあって「お山迎え」といったのである。以下その事例を少し挙げることにする。
 一般に社寺参詣の旅に出立するときは、氏神、末社等に参り、帰村すればまた氏神や末社に報賽のための参拝をするのが通例となっている。今治市北新町などでは、石鎚登拝からもどると、その足でまず大浜八幡神社か吹揚神社に参拝し、浅川海岸で家族たちの出迎えを受け、そこで坂迎えの酒盛りをして解散していた。越智郡菊間町では、氏神加茂神社の秋祭りのお供馬の鞍を付けた飾り馬を曳いて今治市まで出迎えていた。帰村を報ずる法螺貝が鳴ると村人が出迎えに出て来る。そして一行からお加持(祈祷)を受けたり、土産をもらった。同郡朝倉村では周桑郡小松町大頭まで馬を曳いて坂迎えをし、そこの神社で共食してから帰村していた。
 この坂迎えの酒盛を「精進落し」と呼ぶ所もある。波方町小部では、家族らが氏神にご馳走を持ち寄り、そこで一同が酒盛をし、そのとき諸入用の算用祝いも兼ねた。上浮穴郡久万町では、帰村すると氏神に参り、宿元に餅や酒を運んで坂迎えをした。伊予郡砥部町川井では、先達の家で酒盛をした。それを「お別れ講」といった。
 伊予郡松前町中川原でも坂迎えをしていたが、途中一行は温泉郡川内町(川上宿)の旅人宿「米田屋」で休憩し、そこで小宴をする風であったという。これをナレコウといったのである。いわゆる精進落としであって、これでもって登拝の掟が緩和され、先達と平山の厳格な階梯差が解除されてみな平俗にもどるとされていたのである。一種の無礼講風な酒宴になったという。それから帰村し、氏神参拝ののち宿元で祝宴をする。これをドウグレマイといったのである。なお、川上宿は松山市や伊予郡方面からの金毘羅道にあったので、お山市の頃は石鎚登拝者の宿泊で賑おったのである。
 以上、愛媛県下の石鎚登拝の坂迎えの民俗を見てきたのであるが、特定の場所に食物を用意して出迎え、そこで共同飲食をすることである。場所が確実に村境という観念はやや後退しているけれども、その意味合いは残っており、またそれをする意味は登拝集団の解散であったのである。中川原のドウグレマイはそのことを最もよく示していると思うが、他に下向祝い(愛媛・高知)、精進落とし、行もどし(上浮穴郡)、止め行、止め垢離(温泉郡元怒和・上浮穴郡小田町)などと呼ぶ例にも見ることができる。

 ドウグレマイ

 ドウグレマイが無礼講的意味のものであることは前述のとおりであるが、なおこの語についてはいま少し検討の要があるようである。
 この語は西日本で伊勢参りの坂迎えをドウブルイというそれと関連ある語で、近藤喜博は、ドウブルイと坂迎えの饗宴のフレマイが結合して方言化した語だと言うのである。恐らくそうであろうと考えられる。坂迎えを意味するドウブルイの語は、中世の記録にも見えている。例えば『康富記』享徳四年(一四五五)三月の条に「八日癸丑、晴陰、依招引向藤沢許、朝飯在之、伊勢詣道振也」とある「道振」がそれである。
 このドウブルイについて近藤は次のごとく述べている。「ドウブルイは旅の道中でからだに憑いている精霊-護法-を、からだから振り動かさせて落としてしまう、といった感覚がこのことばにはこめられているように思う。そして、中川原のドウグレマイをドウブレマイと見る場合、護法送り、護法返しの意味がこめられていたなごりをいまだに伝えている。さらに、サカムカエは、部落の境、峠や道路の界から、気ままで気まぐれな護法が部落生活や家庭生活にはいってきて、憑いたりするのをここに留めておこうとしたのである。そのため酒さかなを、その境に置いて、護法に与えると代参者はドウブルイ、カミバナレして、その間に村に帰ってきたのに、おそらくサカムカエの原義があったのだと思っている」と述べている。
 桜井徳太郎は「坂迎えは神と同格の地位におかれた代参者が、ふたたび人間に立ち返る行事であり、場所であった。またそこで神と同席しながら共食し、それから改めて普通の人間の状態に返るという祭りの重要儀式の一つとみなさるべきものであろう」と言っている。
 両者はやや見解を異にするけれども、カミバナレして普通の俗体にもどる重要儀礼という点では一致している。たしかに、石鎚登拝の場合の坂迎えにもそのような性格が認められる。すなわち、村人たちは石鎚登拝者―とくに先達には聖なる呪力が宿るとしており、お山がけした一行を畏敬の念をもって迎えるのである。登拝者一行は、先達を先頭に村内の祈祷をして廻ったり、草鞋履きのまま家の座敷口から上がって裏口に通り抜けたり―こうすると家が浄められ悪事災難が除かれる―道路に土下座して先達に跨いでもらったり、踏んでもらったりするのである。大数珠や会符を戴かせてもらうか、それで叩いてもらって疾病を除く呪術を受けたりもする。そうしてしかる後に精進落としの酒盛りをするのである。つまり坂迎えの原義に適っていると考えるのである。先達に跨いでもらう習俗は温泉郡中島町や越智郡生名村などに現在も行われている。同習俗は、徳島県の剣山参りにも見られ、こうすると夏病みしないのだという。

 3 石鎚信仰と芸能・俗信

 お山踊り

 石鎚大権現の霊験をたたえる芸能が「お山踊り」である。この芸能は南予、とくに東宇和郡とその周辺に分布するのを特色とする。
 東宇和郡野村町惣川では、旧二月一五日に、お山講員が、地区四会場を当番廻しでこのお山踊りを踊って廻る。
 各自が手に御幣を持ち、大太鼓、小太鼓を打ちながら不動経を唱えつつ踊る。一二回繰り返すもので、先達が歌詞を誦すると、ナンマイダンボと連中が唱和する。同町予子林では、旧七月一日にする。部落一同が出て、太鼓を中央に置き、その音頭出しに合わせて、各人が榊の枝を持って唄う。六回ずつ二回に分けて奉唱する。時々法螺貝を吹いたりする。
 肱川町柳郷や城川町下相でも旧一月二〇日に、お山講連中が集まってお山踊りをしていた。また七月二一日にも行っており、民家や神社にて石鎚の神号軸をまつり、各人榊を手に持って、太鼓の拍子に合わせて歌い、かつ踊る。八幡浜市向灘ではこれを「お山御祈祷」と称している。盆の一五日に浜辺に注連竹を立てて踊り場とし、手に御幣を持って踊る。このほか南予の各地にこのお山踊りがあるが、大同小異であるので略する。踊りの音頭というのは、石鎚参詣不動経というものである。

   四方固め (最初と終わりにする)
  東が御在所で悪魔を払う  ナンマイダンボ
  そこで運命を護らせなさる  ナンマイダンボ
  南に軍砂利明王の剣  ナンマイダンボ
  祈り願うて幸となる  ナンマイダンボ
  西に大黒 眼の光  ナンマイダンボ
  悪事悪魔を払わせなさる  ナンマイダンボ
  北に金剛 剣を持ちて  ナンマイダンボ
  四方より来る悪魔を払う  ナンマイダンボ
  中で不動が御縄を持ちて  ナンマイダンボ
  悪事悪魔を戒めなさる  ナンマイダンボ
   お山踊り
  一に権現(石鎚ともいう) 二に秋葉様 ナンマイダンボ(以下略) 三に讃岐の金毘羅様よ 嬉しめでたの権現踊り 国も栄える 悪事もよける村も栄える 五穀も恵む踊り太鼓の聞こえるとこは 悪事災難除けさせなさる 心正直 身を清浄に お山参りをする人々は 子孫繁盛と守らせなさる 当る災難除けさせなさる すでにお山の御詠歌聞けば 砕く石鎚参りの罪を 心が誠で運びをなせば じきに御利生を現せなさる 親に第一孝行せいと 我慢邪慢の心を直せ 昔胞輩睦まじゅうせいと 前の悪事は懺悔のもんよ 清く流れてお払いなさる五尺清浄で身を懺悔する お山参りで心の玉を 磨きゃ光の出てくるものを、なぜに悪事の汚れた玉を 後へ残してまた何とする 直しゃ御利生でよい玉となる 玉を直さにゃその身に当る 鈴と数珠とを手に持ちながら 般若心経や観音経や ノウマクサンダでみな拝みます ナンマイダンボ

 文句は伝承過程で変化したらしく、各地とも少しずつ違っている。また歌詞の「四方固め」がついているのは野村町惣川だけである。また同町鎌田では「お山踊り」歌詞の最後に「お山は三十六王子 ナンマイダンボ」の文句がついている。そこで石鎚山三十六王子が問題になってくるのであるが、これについては部門史「学問・宗教」-修験道で触れることになっている。
 なお、「お山経」というのがある。講中が開講日に唱和していたものである。

 盆踊歌

 石鎚山を称えた「盆踊歌」が西条市荒川にある。「石鎚」という題名である。

  伊予の高嶺の石鎚様は まことにあらたな神さまよ。五月しもじょう(下旬の意)から六月三日まで 白い着物に白脚絆 右の手には杖をつき 左の手には数珠を持ち 腰にはトンチンカラリの鈴をつけチャーノチャンチャン 一の鎖にかかりた時には 何処のどなたでも ノウマクサンマンダ バザラダンセンダンマカロシヤダソワタヤウンカラタカマン

 歌詞中「五月しもじょうから六月三日まで」と、石鎚市のことを言っていることから判断して、江戸末期の盆踊歌と思われる。とにかく他では聞かぬ盆踊歌である。

 お山さんの呪力

 石鎚道者をオヤマサンと呼んでいる。呪法禁厭、加持祈祷をする行者として畏敬される。千里眼のような透視術や予言をしたりする者もあり「お山さんに拝んでもらう」者が多い。
 里人がお山がけをした登拝者~道者を聖者として出迎え、これに跨いでもらったり、加持祈祷や家の清被をしてもらうことはすでに見たとおりであるが、お山がけをした草鞋に呪力を認める俗信もある。その草鞋のままで田の畦を踏んでもらうと作物がよくできる、オゴロ(もぐら)除けになる。種蒔きするとよいなどの伝承もある。また草鞋で身体患部を撫でたり、出入口に吊して悪病災難除けの呪物とする所もある。さらにこれを履けば水虫が治るという事例もある。
 石鎚道者は「会符」を所持しているが、この会符で身体を叩いてもらうと治病に効くという。松山市三津の木地屋市左衛門が拝戴した一番会符はとくに効験があるといわれ、疾病者および原因不明の心理的疾病者があったりすると、この会符を戴かせるか、一時借用して家に奉斎していると霊験を得るというので、地元の信仰物になっている。

 石鎚土産と呪物

 石鎚シャクナゲを「お山柴」という。登拝者は必ずこれを土産に持ち帰る。神札とともに竹に挾んで田畑に立てて虫除けにしたり、家の出入口に吊して呪物とするのである。
 いま一つ縫いぐるみの小猿で「助け猿」がある。幼児の衣服の背につけたり、家の出入口に吊して災難除けの呪物にしている。松前町中川原では、男児が出生すると一五歳になれば必ず登拝すると願掛けし、この猿を石鎚山より請けて帰り、願解きのときに二倍にして返すことになっていた。現在は土産品売場で販売している。「上り猿」で縁起がよい。病気を猿にたくして山に預けてもどるのだと言ってもいる。
 石鎚土産といえばニッケである。樹木の根の部分で、噛めば辛味のするものであるが、石鎚参りの土産物の第一であった。つぎに「陀羅尼助」がある。俗にオヤマダラスケとかダラスケといい、胃腸薬、強壮剤、痛み止めの漢方薬として用いられている。キハダの樹皮にアオキの葉を加えて煮つめた黒っぽい塊で、修行僧が長ったらしい陀羅尼経文を読むとき、口に含んで睡魔を追い払ったところから言われだした名称だという。

 人間規範の山

 石鎚信仰を民俗の面から見てきた。石鎚山が山岳信仰の修験道場として開山された歴史は極めて古いことであるが、一般庶民が自由に登拝するようになったのは江戸時代に入ってからである。石鎚講がそれであるが、この石鎚講が成立したのは、現存史料から考察して延宝年中からであると考えられる。前神寺が別当寺として発展策を考え、その対策として石鎚講を指導したのである。
 前神寺が「先達所」を決定し、また村落の指導者層を俗先達に任命してそれに「講頭補任状」や「院号、袈裟補任状」を発行した事実は、いずれも石鎚講の組織化を図るためであったといえる。すなわち、前神寺は石鎚信仰による石鎚講を組織して極めて広域にわたる布教策を図っていたことが知られるのである。
 現在の石鎚山は、信仰と娯楽、錬行とレクレーションの共存する山になっているけれども、これまで述べてきたように、かつては村落の男子たる者が、一度は体験すべき人間規範の山であったのである。
 また「石鎚の雪鍬の柄と見ゆるとき、苗代時と知れよ三四郎」という俚諺があるように、道後平野や道前平野では農耕上の目安になる自然暦を提示する山であったのである。
 石鎚信仰はまた村落や家の守護神、あるいは民間信仰的に庶民生活に浸透している事実も見てきたが、いずれもこれは石鎚講を通してであったし、先達の宗教活動によるものと考えるのである。

図5-7 石鎚山先達所の分布 (石鉄山先達忽名帳より作成)

図5-7 石鎚山先達所の分布 (石鉄山先達忽名帳より作成)