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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

二 地域霊山とその信仰

 1 愛媛の修験道

 山伏寺の分布

 近世以降の資料で知りうる山伏及び山伏持ち寺院の分布を概観すると次のとおりである。
〈東予地方〉 旧西条藩内の山伏寺の状況は、明治四年の廃藩置県直後の調査結果(表5-15)でわかる。これによると本山派(天台宗系)の寺がほとんどで、当山派(真言宗系)はわずか二か寺を数えるにすぎない。
〈中予地方〉 旧松山藩内の修験については、『六藩寺院録』に詳しい。これには藩内の修験(山伏)名をあげた史料が含まれている。宝暦二年(一七五二)~享和三年(一八〇三)の間になったとみられる原本を明治三九年に書写したもので、これによると、当山派が九〇院であるのに対して、本山派は、わずか六院にすぎない。西条藩とは全く逆の分布をみる。
〈南予地方〉 旧宇和島藩内の山伏の数の推移については安澤秀一の研究に詳しい(表5-17・5-18)。表5-17で元禄期以降、町方山伏は著しく減少し宝暦~幕末期まで横ばい状態となり、在浦方の方は、幕末期にかけてゆるやかに減少していることがわかる。また表5-18をみると、山伏の実数では、御荘組(南宇和郡)が多く、城下組が人口比とともに低い。人口比で高いのは、多田組(東宇和郡宇和町)である。宇和町の明石寺は現在、四国霊場四三番札所であるが、旧藩時代には、旧宇和島藩内の本山派及び熊野信仰の拠点の一つで、天明四年(一七八四)に、その「上之坊」は年行司(事)になっている。この寺は表5-19にみるとおり、南宇和郡御荘町菊川の明覚院はじめ多くの本山派山伏を支配下においた。

 熊野信仰

 和歌山県の本宮(熊野本宮大社)、新宮(熊野速玉大社)、那智山(熊野那智大社)のいわゆる熊野三山(三所権現あるいは三宮にそれぞれ一二社を祭るので一二社権現とも)は古来、修験者(天台系)の拠点ともなり、一方では一般人による「蟻の熊野詣」がみられた。熊野牛玉宝印という護符の配布とともに、その熊野信仰は全国的に伝播したのである。
 今日、熊野から勧請されたとされる熊野信仰系の神社は、表5-20・5-21でわかるとおり、ほぼ全県下に分布している。徳島県八二社(寛保神社帳)や高知県六九社(長宗我部地検帳)に比べると、その数は少ないが、寺内鎮守の小祠を含めるとその数はなお増えるものとみられる。愛媛県の熊野神社は内陸部とか山間部に多く、宇和町に集中している点が注目される程度である。
 県下でふるい勧請事例は、新宮村の熊野神社であり、熊野信仰は、吉野川沿いに伝えられ(徳島県下の熊野修験寺院はほとんど吉野川流域に分布するといわれる)、愛媛県内に及んだとみられている。

 2 地域霊山の信仰

 東予・中予の塑戸内海地方の霊山は、水神・竜神、あるいは広く農業神を祀る信仰がかさなった山岳信仰の拠点となる場合が多い。もちろん笹ケ峯・瓶ケ森をはじめ全体としては石鎚信仰の影響を免れることはできない(「石鎚信仰」の項を参照)。これに対して南予地域の宇和海側は、漁場から目印(アテという)となるべき山々に山伏を介して熊野系あるいは石鎚系などの権現サマを祀っていることが注目される。

 東予地域の霊山

 法皇山脈・赤石山脈の山々のうち、豊受山、翠波峰や赤星山と東・西の赤石山などがそびえたち、これらは古くから宇摩郡内の人たちの信仰対象となってきたのである。
 豊受山(一二四七m)は、オトイコサンと親しく呼ばれ、もと豊岡山と号していた。豊受神(伊勢の外宮に祀る五穀の神)を祀っている。旧暦六月と九月の一三日の夏祭と秋祭の両度には、径寸ほどの素朴な丸団子(春は小麦団子、秋は米団子)を供えて、いずれも豊作を祝う。また豊受神社の西側に、長さ六五mにも及ぶ風穴があって、やまじ風はここから吹き出すものといわれ、そこに団子を投げ入れて、風が吹き出ないように祈願する。団子の数は、一年の日数にあたる三六五個とする。これをホカイに納めて一荷とする。以前は九州、中国地方からも参拝者があった。宇摩郡内では西は土居町中村から、東は伊予三島市東寒川、南は同市富郷の広範囲にわたって、多数の氏子があり、参拝者も多く、七荷半もの供物があがった。ちかごろの供物は、豊岡町岡銅から一荷、大町から一荷半、富郷町岩原瀬から一荷となっている。
 赤星山では、明星の神を祀る祭礼が旧六月一日に行われる。また、別子山村瓜生野の南方にそびえる権現山には大滝権現が祀られている。社祠らしいものはないが、山頂に洞窟がある。権現サンに、膳椀等を貸してもらうように祈ると、翌朝その祈願の霊地に用意されていたという。これは、昔、権現サンが敵に追われていたとき、村民に助けられたことがあった、そのお礼だといわれている。
 高縄山地のなかにも熊野信仰の影響を受けたとみられる黒滝神社がある。東三方ケ森(一二三三m)の峰つづき、東面する丹原町田滝の権現山にある黒滝神社は、戦争の弾丸除けとか徴兵除けの神として道前地方の人たちの信仰を集めた。雨乞踊りとしての御簾踊りも著名である。またこの社に宿すれば夜半かならず、笛、太鼓の音(カミカグラ)を間近に聞くという。この黒滝サンと石鎚サンが石の投げ比べをした話は有名である。黒滝サンの投げた石は、石鎚山の頂上にまで届いたが、石鎚サンの投げた石は田滝まで(あるいは田野の綾延神社の馬場まで)しか達しなかったというのである。また、黒滝神社の氏子である田滝の人は、石鎚山には一切登拝しない風がある。石鎚信仰と熊野信仰の対抗関係が反映した伝承といえる。
 重信町山之内の雨滝龍神社は、もと明神ケ森の山上に鎮座し雨乞の神として知られていたが、文明四年(一四七二)に現在地に遷った。近隣の俵飛山福見寺とともに熊野修験道の行場であった。
 玉川町の楢原(奈良原)山(一〇四二m)は、修験道場となり、また牛馬の守護神の居所として知られる。山頂の奈良原神社はもと古権現と呼ぶあたりに奈良原権現として鎮座していた。『愛媛面影』によれば、「嶺上に蔵王権現を祀り牛馬を護らす神也とて農民信仰して詣人多し」とある。その神像は「人間が牛に後向きに乗った姿」・「衣冠束帯を着けアベ牛の背に跨らせ給ふ」姿で、縁日は旧暦八月の丑と午の日である。川之江市金田とならんで長慶天星の潜行伝説が楢原山にもある。南朝の長慶天皇(後村上天皇の第一皇子)が、北朝軍に追われたとき、牛(黄牛)や馬に乗りついで千疋峠を越えて無事、楢原山に着いたという
。この長慶天皇に係わる伝説は、山麓に住む木地師のもち伝え、広めた伝承であったと思われる。また松山市の石手川流域の伝説には、落人が追手の目を欺くため牛の背に後向きで乗り、牛を後さがりに歩かせて、水ヶ峠方面から、楢原山へ逃げたという。
 蒼社川の水源にふさわしく、山頂の手前に水分神社がある。これは奈良県の古野水分神社を勧請してきたもので、水源の神とみられる。いずれにしても、農業、牛馬、水源の神として地元の信仰をあつめ雨乞い祈祷も山頂で行われてきた。また一方では、別当をつとめた同町畑寺の光林寺の記録によると、楢原山は鎌倉時代から修験者の行場としてなっており、文保年間(一三一七~一九)には、奈良原神社及びその傍らの蓮華寺(光林寺末寺・現在廃寺)には三八人の行者が常住しており、厳しい山岳修験道の霊山であった。

 中予地域の霊山

 久万町上畑野川の皿ヶ嶺山頂には湧水池があり、竜神の池として雨乞いの浄地である。松山市窪野町から皿ヶ嶺・井内峠を経て石鎚山に至る行者道もあり、そこには三六王子の石像が配祀され、山岳信仰のあとをとどめている。上畑野川の宝作にある大岳・中岳・小岳・権現岳も霊山で、大岳には行者のこもったという洞穴、権現岳には石鎚権現を祀っている。面河村には石墨山がある。
 広田村の豊峰権現山(四四〇m)は「西の石鎚」とも呼ばれ、石鎚山を模して「一の鎖」「二の鎖」「三の鎖」があり、山頂に豊峰神社(蔵王権現)が祀られている。旧六月一日にお山開きの祭礼が行われている。近くの白糸の滝は寒中の「寒垢離」の行場となっている。同村に三所権現を祀る「滝山」もある。双海町と内子町の境にある壷神山は喜多郡・伊予郡地方の霊山で、祠の中に壷を埋めており、祈願者はこの中に酒を注ぐ。

 南予地域の霊山

 長浜町の南にそびえる出石山(金山-八二〇m)について、『伊予温故録』は「世人は此出石寺山を矢野々神山なりといふ説多し 元と此山も矢野郷の内にして往古は此山に神を祭りたる故に矢野々神山とは稱せしなるへし後ちには神祭も衰へ社殿も朽ち果てたる折柄 佛法の盛んなる世となり遂ひに此寺を建立するに」至ったという。もとは霊山であったために、出石寺が建立されたと考えることも可能である。しかし今日では、『宇和旧記』所収の「出石寺縁起」等で説くように、養老年間に磯崎浦(現保内町)のひとりの漁師(翁)が、突然大地からわきでた千手観音、地蔵菩薩の像を見つけて、出石寺を創建したとされている。また弘法大師修行の地ともいわれて、いよいよ出石寺は信仰の霊域となった。先の漁師の子孫は道休という家で、正月三日のお開帳初めには鏡餅・塩・海藻等を持参して寺に奉納していた。道休家には、その分家七軒のうち輪番で二軒の人を伴に連れ、計三人で参詣したのである。
 観音様の縁日は四月と八月の一八日で、出石寺の望める地の人たちは、出石講をおこして多数代参した(上巻「講集団」の項を参照)。大洲地方の民謡に「おすなや つくなや おいづし詣りのべんとがしゃげらや 梅ぼしはだかで 飛び出さや」というのがある。大洲市上須戒の打越部落の人は、これら参拝客に湯茶・杖・草履の接待をした。また、出石寺は宇和島藩、大洲藩の加護を受けた寺であるが、とりわけ宇和島藩内にはたびたび勧化に回っており(寛政七・天保一二年など)、出石寺から宇和島城下へ年頭御礼にゆき綿二把を頂くことになっていた(『村候公御代記録書抜』)。
 大洲市の神南山は古来、神南備山ともいい、文字どおり神の鎮座する霊山であった。同市森山に祀る拝竜権現は、毎年三月三日に人身御供をしなければ、村にタタリをなすといわれている。
 南予の山の名で多いのは、権現山である。五十崎町御祓地区の権現サンは七月一〇日に神事がある。八幡浜市向灘地区の権現山(三六四m)には、天明六年(一七八六)石鎚権現を勧請してはじまった西石鎚神社があり、そこでよく雨乞いが行われる。また、瀬戸町三机の丸山にある権現山(三六〇m)には蔵王権現の分霊を祀る石鎚神社がある。
 宇和町田之筋の大判山にも石鎚権現を祀る。七月一日山麓にある窪部落の人々は、酒一升と煮豆を持って山頂に登り、石鎚権現を拝んでおこもりする。この大判山には、天狗が住み、月の一・一五・二八日に登ると難にあうといわれる。城川町の三滝山(六四二m)は、蔵王権現を祀る山である。
 宇和島市の薬師谷奥の権現山に山高神社(大山積命、須之男命など合祀)があり、かつて麓の薬師谷の岩戸滝あたりで禊をして登った。同市には大浦の権現山や三浦半島の権現山がある。三浦半島の権現山(四八九m)は、嶽山とか嶽権現といい、その山頂に嶽神社を祀る。昔、明星寺ともいった。貞和二年(一三四六)、英彦山から一宮が電光のように飛来し、梨浦保福寺に入ったと寛永一一年(一六三四)の棟札の裏に記されている。九州随一の修験道場英彦山の信仰との関係があったことがわかる。一方、また、平家の落人伝説としてのオタケジョロの伝承もある。
 嶽山の祭りは廃れたが、「嶽相撲」が残っている。ふもとにある三浦大内、下波結出、津島町北灘国永の三地区が毎年、会場を廻り持ちで準備し、旧正月ごろ開く。近世には漁事祈祷などを嶽山で盛んに行った。
 西海半島にも権現山がそびえている。この山には大蛇とか角のない山牛という怪獣が棲むといわれている。
 さて四国西南地域で、山岳信仰のメッカは篠山権現(お篠権現)である。一〇六五mの篠山にある。この山にある篠山神社・観世音寺(現在廃寺)ゆかりの鰐口鐘の銘によれば正長~応仁の年号があって、中世以前から篠山信仰が存在したことがわかる。伽藍開基記には「山上設(二)熊野三所権現廟(一)」とあり、また麓の正木御在所の登山口にある石燈籠に「篠山三所大権現」と刻まれていることから、熊野信仰系の山岳信仰であったことが知れる。明治初年に廃止された観世音寺は、こうした態野系山伏の手によって守られ、山頂の篠山権現には、正木村(現一本松町)庄屋の蕨岡家が神職として伊予、土佐間の篠山に関する境目争いのあった明暦・万治年間(一六五五~六一)まで奉仕した。篠山権現は、別当寺の観世音寺が明治二年に廃寺となったあと、篠山神社(祭神は伊弉冉命・事解之男命・速玉之男命等)と称して存続した。
 篠山権現の創始伝承として有名なものは、熊野権現の神火が飛来し、蕨岡家の庭の老樟に輝いたので、その神を篠山にお祀りしたという伝承である。その老樟に篠山に棲む天狗がきて、蕨岡家の当主助之丞をからかったことから、助之丞がおこり天狗の翼を射落として、隠した。こまった天狗は、翼と引き換えに永代庄屋の家を盗難から守るという約束をして山にかえったという。これから当家には盗賊が入らず。「戸たてず庄屋」と呼ばれるにいたった。この伝承については別の話もある。
弘法大師が蕨岡家に滞留し篠山権現を開発して以来、大師のたびたびまたいだ敷居には大師の霊が宿ったため、この敷居をまたいで盗みに入るものはいないということになって「戸たてず」となったというのである。
 前者の伝承は、天狗にみたてた篠山の修験者(山伏)と蕨岡家の交流の深さを、また後者のそれは、四国遍路道のコースに入った篠山にも弘法大師一尊化の波が及んだことをそれぞれ物語るといえる。
 篠山は南予及び高知県幡多郡の人には、オササゴンゲンとして知られ、火災除、盗難除、農作病除、漁業・海上の守護神として信仰が厚く、三・六・一〇月の各一八日のオササマツリには登拝者が多かった。三月は正木村の蕨岡氏と土佐の山北村庄屋が集会して観世音寺を開帳した(安政五年の田原明章の篠山紀行)。六月は、火縄で神火を持って帰り虫送りにつかった。ふもとの正木地区では六月一日から二か月間、輪番で二人ずつが篠山日参をし五穀豊穣を祈願する風があった。一〇月は、花取り踊りを奉納する。年末には蕨岡家から三升一臼の鏡餅とお神酒が神社に献上される。なお、現在の例祭は一一月二四日となっている。
 宇和島藩の庇護も厚く、槙川村(現津島町)では若太夫と呼ぶ「篠権現の太夫」が米麦取納めのとき、宇和郡内を二度にわけて勧進して廻っていた。ところが『宇和旧記』によると、寛文年間(一六六一~七三)から代官請合になり、銀で上納してくるようになったという。
 篠山山麓では、石鎚山と同様に産の忌みが厳しく守られ、お産後一二日間火を別にし一般家人の立入りを禁止したりした。先の花取り踊りの関係者も九日間、別火、水垢離をやかましく励行した。修験の行場ともなり、霊山としての性格をもつ篠山には、こうした忌みやタブー(禁忌)の伝承が濃くまといついているのである。

 3 山伏と民俗

 本来、厳しい山岳修行を積み、呪術師、祈祷師として活躍してきた山伏は、近世期に入ると、山岳修行としての入峯を果たすものが多少いたものの、その多くはもっぱら村にとどまり、村人の民間信仰生活をリードしてきたのである。
 また、山伏は、呪術や予言などの宗教活動を通してのみ民衆に受けいれられてきたのではなく、東北地方でいう山伏神楽とか法印神楽のような、日本の芸能あるいは広く文化の担い手、あるいはその伝播者として、歴史的にみて重要な役割を果たしてきた点も見逃すことはできない。その他、時の権力者と深い関係をもつ山伏もいた。吉田藩の佐々木山門坊は、毎年正月三日の「お野始め」には法螺貝を吹いて先導をつとめた。さらに『清良記』には、熊野三山の参詣を表向きの理由に、その実、諸国を巡って情報を集める牒者(スパイ)の役を果たした山伏がいたことが出ている。

 加持祈祷

 山伏の祈祷や呪術の霊的能力は「法がきく」と評価される。法のきいた山伏の活躍についてみておく。別子山村瓜生野では五月・九月に山伏(土居町長津の常川院)が各戸を訪れ、家内安全の屋(家)祈祷を行った。
 神木を誤って伐ったときには山伏に祈ってもらう。別子山村では「山の神」の林の木を伐るときは山伏をやとい、オミクジを入れてお神酒・御幣を捧げて祈願した。
 明治時代に、城川町上影の佐川天照院という山伏は、ツキモノオトシの祈祷をした。同町嘉喜尾の山伏龍光院(四代目)は祈祷念力にすぐれた人で、大干魃の時に火食を断ち祈祷を行い、安政の大干魃には代官所から張幕を寄贈された。弓矢槍を使ってのサワリ落としの名人といわれた。サワリは、医薬の効果的作用を妨げている何らかの超自然的原因を想定した言葉であるという。
 宇和町明石寺に山伏の「法」関係の史料が若干残っている。明治中頃の明石晃澄が記録した「止風雨法」「請雨法」「印相」「日月礼拝作法」のほか享保一八年(一七三三)に記されたとみられる史料がある。それには弓矢をつかう法がまとめられている。そのうち「狐之付タル生ヲ見ル次第」には「正月弓始ニ鳴弦ヲシテ其後ニテ射始ル 又毎月朔日ノ卯ノ刻ニ水コリ鳴弦ヲタレハ 必其日ノ災難ヲノガルゝ也」とある。「魔生渡リ之次第」には「屋敷エ魔出化ヲナシ悪キ時ハ長敷ノ生ノ屋シキニワウ々々ノコトク四方ニ幕ヲ打 屋鋪生ノ歳ノ方ニ棚ヲ三尺三寸ニスワセ弓一張 矢一手上ニ置テ八幡ヲ念シ奉 洗米御酒ヲ供シ両脇ニ刀脇指ヲ立 是ヲ日月トカウスル心也 夫婦ノキル物ヲカケ弓ニ向テ咒文ヲ唱躰得ニテ鳴弦ヲナラシテ 順ニ十二方ニ向テスヘシ 其後呪文ヲ唱 蟇目ノ躰得ヲ以テ表ヨリ家ノ上ヲ裏エ射越 裏エマハリ石ノコトク咒文ヲ唱 表エ射越スヘシ 是ヲ矢越ノ蟇目ト云也 屋鋪又ハ家内エ悪神魔成ハ狐入タル時口々ニ右ノ札ヲ押ヘシ家ノ真中ニテ咒文ヲ唱歌ニ曰 チハヤフル神ノスマイノ家ナレハ ハヤタチノケヤ木ノヤシロエ……」とある。これらの呪術に使用される蟇目の矢は写真5-73中の図のとおりである。
 旧千足山村(現小松町)で犬神がとり憑いたとき、山伏が祈祷すると、とり憑いた人や家から逃げ出すという。
 雨乞いの時は、必ずといってよいほどに山伏による祈祷がつきものであった。寛政一一年(一七九九)七月朔日の吉田藩の記録に「於遠見山雨乞修験中祈念御郡所掛り」とあって、藩当局が修験者と連携して雨乞いを行っている。同じく吉田藩で、「元治元年(一八六四)十一ケ浦申合 白浦浜ニおゐて一夜両日社人中、修験中都合三十八人召寄修行為致候処 御願之節大際ニ相成 社人江五升 修験へ酒五升差遣候」と、この種の史料にはこと欠かない(伊予吉田郷土史料集第三輯、立間尻庄屋赤松家文書「永代控」など)。
 大洲城下の山伏三光院は弘化年間(一八四四~四八)に、領内の牛馬の安全祈祷札を配るにあたって、各村ごとの山伏に請けおわせて配ることにしたと『内ノ子永久録』にあって、牛馬の安全にかかる祈祷も山伏がしきりと行ったのである。

 占い

 大洲市蔵川の剣ノ権現の由来は次のとおりである。嘉永元年に、ある山伏が占った結果、横田山城跡の中腹から横田城の宝物や一振の剣がでた。その跡に剣ノ権現を祀ったという。
 窪野村(現城川町)での慶長一九年の出来事が『宇和旧記』に記録されている。窪野庄屋の家に京より張物師がきて、にわかに病気になり目をまわした。太夫や山伏などに祈祷(占い)させたところ、張物師は、自分は三瀧城主紀親安で、討死したとき、金の笄と金の銚子を本丸の後ろに埋たので、掘り起せといったという。
 美川村栄重上の玉井家では伊多神様を祀る。これを祀るにいたったのも、不幸が続くので、山伏にみてもらうと先祖からのお告げがあったからである。このように、祭祀(マツリガミサマの場合が多い)の契機を山伏が与える場合が結構、多かったとみるべきであろう。
 病人を占う山伏は、ある人の崇りであると判断する場合が多かった。吉田町の鳥首谷東源寺の傍らに住む普道院(山伏)は、ある人の病気の原因を、深田村(現広見町)の某の崇りによるものと占ったため、名指しされた人は、これに憤怒してついにくだんの山伏を殺害するにいたったという。

 虫送り

 城川町下遊子では田植えが終わると、各戸から一人ずつ茶堂に集まって山伏を中心に、三つの鉦と一つの太鼓で『ナンマイダナンマイダ』と半日くらい念仏を唱え、山伏の書いた一尋くらいの長さの紙の幡を一本立てて村境まで念仏を唱えながら歩く。これが虫送りである。
 津島町大道の虫送りは大師堂でする。山伏を中心として村中が各戸一人ずつ出、交代で食事をし終日、鉦と太鼓をたたいて「ナンマイダナンマイダ」と唱える。夜には松明にお燈明の火で点火し、各自の田のまわりの虫を焼いて廻り、再び大師堂に集まり、今度は村境の初蔵石まで行列してゆき、そこでみんなの持つ松明を集めて燃やした。松明は一尋くらいの長さで竹の割ったのや肥え松の割ったのを縄でしばって作った。

 お日待ほか

 内子町では一月~二月ころ各家でお日待ちをする。家の中にある神を祭る行事で御幣、注連縄・祈祷札を作り神職・山伏等により家内安全・農作物の豊作を祈った。
 正月と夏の土用には大般若経をくって家々を廻り、家内安全などを祈祷する。城川町下遊子のお日待は正月二日で、山伏を家々に招いて祈祷をしてもらい、荒神・大黒・水神・かわや神、家庭の星祭り(個人の生まれ年にあたる本命星をまもるために供養する)の各お札をいただいて、所定の場所に貼る。野村町中筋のお日待も正月中に近所の四、五戸が山伏を招き、一年間の無病息災のため星祭りをする習いがあった。大洲市新谷でもお日待といって、旧正月の上・中旬ころ喜多山のめくら金サンという山伏が、連添いの婆さんと一緒に家々を廻り、祈祷して歩いた。
 玉川町桂では、正月一四日に井戸神をお祭りするとき、オヤマサン(山伏)を呼ぶことにする。北宇和郡内では、四月八日に山伏が大般若経を町内に入れる(各戸ごとに読経して祈祷する)。
 一本松町増田内尾串の叶院寿海法印は六月二六日の夏越祓に図5-8のような護符を発行していた。

 俗信

 山伏は、元禄期の別子山村に来た南光院快盛法印のように病人に薬草を施して治癒させることもあった。南予の一本松町では、歯の痛みに楊枝守といって「楊枝守」と朱印した護符内に木製の楊枝を入れてあり、歯が痛むとき、この楊枝で痛い歯をつつくと歯痛が止まるという。
 また、種々の呪いに山伏がよく口にする呪文「アビラウンケンソワカ」を用いることが多い。久万町直瀬で虫歯のまじないに「秋風は冬の初めに吹くものよ、秋すぎて、冬の初めの下枯れの霜枯れ竹には虫の子もなしアビラウンケンソワカ」とか、マムシが咬まない呪いに「この山に錦まだらの虫おらば、奥山の乙姫に言い聞かすぞよ アビラウンケンソワカ」というのがある。

 芸能ほか

 南予に多いハナトリ踊りは、高知の豊作祈願の踊りとしての太刀踊りと通じるが、供養のための踊りといわれている。このハナトリ踊り系の踊りはそこに山伏が入って悪魔払いのようなことをしたりするので、修験道との関連がうかがえる芸能である。
 一本松町正木のハナトリ踊りは、旧一〇月一八日にある。早朝一番鶏がないたら篠川で行をし、篠山に登拝、天狗堂前で踊り、中店屋のお堂・オドリ駄場・御在所クラモト(もと山伏の山本新一)宅庭・蕨岡旧庄屋前の五か所で踊った。もとは篠山の山伏山本家の者を中心に二人の修験者によるサヤハライ行事を行っていた。その行事のあとのハナトリの歌-

 いれば ここ開けよ、やあまん(山伏)おとうり。さぞや開けずば、上り踏ねこす。
 念仏  いんよう なむおいどう なむおみどんよ なむおい
 ぜんごぜ ぜんごぜは万のてききよ さぞや松より 前に之を書く (下略)

と続く。ぜんごぜは城辺町中大堂智恵光寺旧跡大堂にあるゼンゴゼ松と関係があり、先の歌は、山伏と瞽女の問答であるといわれている。
 同町増田のハナトリ踊りは旧七月一一日に高山尊神の祭礼に行われる。もとは増田内尾串の叶院授戒(山伏)が読経した。現在氏子の青年が行うサヤハライ(祭りハライとも)は、もと必ず修験者が行っていたもので、次のとおりである。

 善久坊 紺の袷の着流し、白布の鉢巻、襟、草履ばき、腰に太刀と鎌をさし、六尺の青竹を手にしている。
 南光坊 同じいで立ち、ただし鎌をさしていない。まず南光坊が突っ立ち、行きかける。善久坊をやっとにらんで声をかける。
 南光坊 おおいそもそもそこへ罷り出でたるは何者なるぞ。
 善久坊 おう罷り出でたるは大峰の善久坊に候、今日高山尊神の祭礼に参った者。

 こうして南光坊と善久坊が問答するうち、両者が青竹を持って渡り合う。鉦・太鼓の囃子で竹がくだける。これを捨て南光坊は太刀、善久坊は鎌で立ち廻る。善久坊も刀を抜いて切り結ぶ。勝敗なく向かい合って太刀を合掌にして、サヤハライは終わる。そのあとハナトリ踊りにうつる。
 石鎚山系の手箱山(高知県)から東黒森山・寒風山などの山麓の伊予の一部と土佐の山中で、本川神楽が一一月中旬から一二月初めにかけて行われる。演者は石鎚信仰の先達で、山伏ともいえる。彼らはふだんは農業や林業に従事しているが、夏の登山期は信者を伴って石鎚山に登り、秋から冬にかけては、仲間とともに村の神社の祭りに神楽を演じて廻る。頼まれれば病人の祈祷や家祈祷もするのである。
 八幡浜市五反田の柱祭りの起源譚にも同地鯨谷に住む金剛院円海法印という山伏が登場する。一説には、ある年の正月、円海法印は、同地元井にあった元城々主の親安公に年始の礼のため白馬に乗って登城中、白馬に乗って進攻すると、かねてからうわさされていた長宗我部氏の進攻と見間違われて、弓で射殺されてしまった。その後、悪疫の流行は円海法印の崇りとみなされたため、その御霊を鎮めるため柱祭りが起ったといわれる。
 城辺町増都の伊勢踊り(山王様祭りの旧九月二八日)は、山王宮の別当加古那山当山寺の瑞照法印が入峯のさい、伊勢参宮して習い受け村民に伝えたという。また、西条藩の中奥山村細野(現西条市)にいた不動坊という山伏は、宇治に行って製茶の法を伝え、山中にひろめ、この地域から出る茶を「不動坊」と呼ぶようになったと、『西条誌』巻十二は記している。さらに、川之江市川滝出身の山伏石川助吉(天保四年~一八三三~生まれ)は、恵比須・大黒や荒神などのナタ彫り木像を数多く製作し、四国遍路と結びつき、その作品は庶民信仰のなかに生きつづけている。
 以上のように、山伏は、民俗芸能ばかりでなく、さまざまな民俗文化の伝播者でもあったのである。

表5-15 旧西条藩内山伏寺院一覧

表5-15 旧西条藩内山伏寺院一覧


表5-16 旧松山藩内山伏寺院一覧

表5-16 旧松山藩内山伏寺院一覧


表5-17 宇和島藩の山伏人口の推移

表5-17 宇和島藩の山伏人口の推移


表5-18 宇和島藩十組別山伏人口

表5-18 宇和島藩十組別山伏人口


表5-19 明石寺カスミ内の修験一覧 (抄)

表5-19 明石寺カスミ内の修験一覧 (抄)


表5-20 熊野信仰系神社一覧 (1) (境内社等は除く)

表5-20 熊野信仰系神社一覧 (1) (境内社等は除く)


表5-21 熊野信仰系神社一覧 (2)

表5-21 熊野信仰系神社一覧 (2)


図5-8 夏越祓の護符 (一本松) (宇和地帯の民俗より)

図5-8 夏越祓の護符 (一本松) (宇和地帯の民俗より)