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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

二 遍路の民俗

 遍路の装束

 〈服装〉 遍路に出る動機は人によりさまざまであるが、巡拝のための身支度には一つのスタイルがある。一般に整えるものとしては、金剛杖、菅笠、袈裟、白衣、手甲、脚絆、白地下足袋、さんや袋、鈴、数珠、経本、納札、納札入、納経帖、案内書などである。
 〈菅笠〉 晴雨兼用に必要なものである。笠には「同行二人」と住所氏名を書く。そして「迷が故に三界は城なり」「悟が故に十方は空なり」「本来東西無く」「何処南北有らん」と記す。このほか種子(梵字)を書く場合もある。
 〈金剛杖〉 弘法大師の分身として大切に護持し、宿に到着すれば直ちに杖の先を洗い、床の聞に奉安する。これを弘法大師の御足を洗うという。また遍路は橋上では杖をつかないことになっている。橋の下で弘法大師が休まれているからという信仰によるものであるが、本県には大洲市徳森に「十夜ヶ橋」の伝説がある。大師が札所開きの途中、このあたりの橋の下で一夜を明かされたが、夜風が身にしみて寝つかれなくて(蚊に刺されてともいう)、「行きなやむ浮世の人を渡さずば一夜も十夜の橋とおもほゆ」という歌を詠んで去ったという。
 〈白衣〉 白衣の背中には「南無大師遍照金剛」と書き、その右に年月日、同行二人、左に住所氏名を書く。以前はこの上に袖なしの羽織様の笈摺を着た。いずれも白木綿で作るが、両親健在の者は後三幅のうち左右を赤布に、片親の者は中央を赤布にし、両親ともない者はすべてを白にするという言い伝えもある。しかし、これは実際には守られていない。この白衣に札所の納経印を押してもらう者もいる。
 〈袈裟〉 僧の衣服である袈裟を簡略化した輪袈裟を首に掛けて胸に垂らす。
 〈納札〉 札所に納める短冊型の小札で、現在使われているものには「奉納四国八十八か所順拝、同行二人」などの字句や弘法大師の姿が印刷され、左右に巡拝者の住所氏名・巡拝年月日を書込むものが多い。納札の色は巡拝回数によって区別があるといわれ、諸説あるが一説によれば、一〇回未満は白、一〇回以上二〇回未満が赤、二〇回以上が銀、三〇回以上が金だという。
 現在は既製の印刷札であるが、昔は板札であってこれに記名した。これを各札所に巡拝のしるしに打ち付けて廻ったところから参拝することを「札を打つ」というようになったのである。現在この板製の納札はあまり残っておらぬが、松山市の太山寺(五二番札所)に寛永一七年(一六四〇)の納札と七か所辺路ではあるが、承応(一六五二~五五)年号の納札がある。また一方、銅板製の納札も使用されたらしく、松山市円明寺(五三番札所)に残されていることはすでに触れた通りである。この納札は札挾に挾み、道中は首に掛けて歩いたのである。
 ちなみに、巡拝には札所の順番通りめぐる「順打ち」、もとの道をもどる「打ち戻り」、同じ道を歩かず次の札所へ行く「打ち抜け」、順番を逆に巡拝する「逆打ち」などがある。たとえば四四番大宝寺を参拝し、久万町河合を通って四五番岩屋寺を参拝するときはいわゆる打ち戻りになる。
 〈納経帳〉 お経を書写して札所ごとに納めていく遍路は、現在ではごく稀であるが、札所ごとに帳面に寺号・本尊名を墨書し、朱印を押してもらうことを「納経」と言い習わしている。そのための帳面が納経帳である。現在では別に軸物を用意する者もある。つぎにこの納経帳を挾む納経帳挾を用意する者もあった。
 このほか、古い慣習では、「大師の御用」と称して、首から小さな足半と藁芭(藁製の包み)を下げたりすることもあった。
 以上、遍路の服装について見てきた。しかし、これとても人によってさまざまであり、時代の影響もあった。たとえば白衣や笈摺を正式とはするものの松山地方から出る遍路は伊予絣を着用した。濃紺の着物でその色が黒っぽいため「伊予のカラスヘンド」と呼ばれたりしたのである。このうえにドンザ(防寒着)を羽織ることもあった。
 また、倒死遍路のことは後述するつもりであるが、この倒死遍路があった場合は付近の村人がそれぞれ処理したものである。江戸時代の村の記録中に遍路の所持品を記録したものがある。旧浮穴郡窪野村(松山市窪野町)の記録によれば、享保八年(一七二三)七月、備後国の遍路・安兵衛が死亡したときの役所へ提出した文書に、往来手形二通、杖一本、菅笠一ッ、荷台一ッ、木櫛、木綿袋二ッ、紙袋二ッ、渋紙一ッ、めご一ッ、天目一ッ、小刀一本に銭一五文持ち、単物を着て木綿帯を締めていたとある。その他の記録も大同小異である。
 巡礼の装束は、西国三十三か所の場合は既に室町時代にできあがっていたようであるが、四国遍路の方もその影響を受けたと思われる。また白装束や金剛杖などは修験者(山伏)の装束と似ているので、それとの関連性を考える研究者もいる。さらにこれを死装束だという者もある。確かに死者を納棺する際は遍路の旅姿で行う風習は日本各地に広く行われている。この死装束のことをオイズル(笈摺)と呼ぶ地方もあるし、遍路した時の白衣や笈摺をしまっておき、これを死装束にすると早く浄土へ行けるといって着せる風習もある。それに納経帳をつけて納棺する風もある。

 往来手形

 江戸時代には宗門改めが厳重だったから、他領を通過するには旅行手形=往来手形が絶対必須のものであった。道中どこで行き倒れになっても、その土地の作法によって処理し、本国へ通報に及ばぬという内容であったことから「捨て往来」と称したりする。この往来手形は各地の庄屋文書の中などにしばしば散見される。次に二・三の事例を挙げることにする。(図表「通り手形の事」参照)

                      予州大津領蔵川村庄屋
                             助太夫
  元禄一六癸未(一七〇三)正月一六日
    国々御番所様
    村々御庄屋中
                       伊達遠江守殿領分
                    与州宇和島宇和郡魚成村
                            源兵衛
                       (同村他八名略)
右九人之者共依願四国順拝ニ罷出候 宗旨之義者代々禅曹洞宗拙寺檀那ニ紛無御座候間、国々 所々御関所無相違御通可被下候 乍然行暮候節者止宿御申付可被下候 万一病死等仕候ヘハ其所 御作法ニ御取埋可被下候 全国元江御届不及候 為後日往来手形一札以而如件
   嘉永元戊申七月
                    同国同村庄屋 矢野次兵衛
                       同禅宗 願 手 院
 国々御関所 村々御役人衆中
   往来手形一札之事
 予州松山

久米郡星岡村雲門寺禅曹洞宗拙寺旦那同郡今在家村領分左衛門、染治、右衛門と申者此度志願に付四国順拝に罷出候間、国々御関所無滞御通可被下候 若又行暮候節は一宿御付可被下、若萬一病死等仕候節者其所之御作法通りに御取計可被下、尤国本江附届に及不申候 為後日依而往来一札如件
     安政六未年二月                        雲門寺 (印)
     国々 御関所衆中
     村々町々 御役人衆中

 札所の儀礼

 遍路は札所に到着すると、手水を使って身を浄め、本堂ならびに大師堂に参る。これ以外にもいろいろ仏堂があるので参拝して廻る者もあるが、欠かせないのは本堂と大師堂である。まず納経を依頼し、そして納札を納め、お燈明・線香をあげ、御本尊や弘法大師を念じ、合掌して読経の勤行を行うのである。
 勤行の次第は一例を示すと、真言・祈願文・懺悔文・三帰文・十善戒・発菩提心真言・三摩耶戒真言・十三仏真言・光明真言・大師宝号・祈願・御詠歌・回向文などである。ことに大師宝号「南無大師遍照金剛」の誦え言は必ず言う。
 近年の四国遍路は様変わりして、昔のように全行程を徒歩でやる者はなく、多くは団体バス、タクシー、列車などの交通機関を利用する。ことに団体バスの場合は、添乗員が全員の納経帳を預かり、札所へ着くとまっ先に納経所へ駆け込むありさまである。一人一人が個々に納経をする敬虔な宗教的光景は希薄になってきたと言える。

 納経帳

 納経帳は四国遍路に必須の携行品である。遍路に行った人はこれを大切に保存している。またこれにある呪力を認めたりもしている。たとえば病人に戴かせると病気が回復するとか、死者を納棺したとき一緒に入れればよい処へ行けるという。納経帳が残らないのはこんな理由にもよるのである。
 本県で現在判明している最古の納経帳は宝暦一一年(一七六一、温泉郡川内町の渡部武美蔵)、ついで安永四年(一七七五、松山市湯渡町の山内家蔵)である。
 納経帳には参拝日時が記してあり、札所八十八か所、全行程一、四四〇㎞(三六五里)をすべて徒歩で歩いた時代の遍路の日程や行動の様子などを知ることができる。一般に四国遍路の巡拝日程は、男子健脚で四〇泊四一日、遅い人で五〇~六〇日とされる。上野村(伊予市上野)の旧庄屋玉井元之進は家族・お供など同行五人で、寛政七年(一七九五)に四国巡拝に出ているが、二月一七日に出発して四月一八日浄瑠璃寺で打ち止めをしており、この間六二日を要している(同人「四国中諸日記」)。また徳島の上山村の旧庄屋粟飯原庄太夫は、天保一五年(一八四四)に妻子と下男など一行一二人で六〇日かけて四国巡拝をしている(四国順拝日記)。
 この二例は家族同伴の遍路の場合で、自然日程もゆったりしたものであったから六〇日を要したのである。しかし、単身による遍路の場合は普通四〇日前後で終わっているのである。これに対し、あとで述べる若者遍路たちは三〇~三五日くらいで四国巡拝を済ませていた。こうしたことが納経帳をよむことによって知られるのである。
 また松山地方における幕末から明治初年の納経帳を見ると、その頃は土佐国一六か寺と伊予国南部の四か寺の巡拝を省略する者もあったのである。
 文久三年(一八六四)に遍路に出た鷹ノ子村(松山市鷹子町)の安永米次、明治三年(一八七〇)市坪村(松山市市坪町)の米蔵、同八年鷹ノ子村の安永某の納経帳などを見ると、どのような理由からかいずれも土佐一国を省略しているのである。遍路順打ちの行程からみて土佐を略せば順序として本県の南予四か寺を略さざるを得なくなるわけである。土佐藩の場合、遍路その他の入国を強くチェックしたから、それで避けたのかもしれないが、その辺のことは不詳である。ともかく、そのようなことも知られるので、納経帳を多く集めて読むことは興趣あることである。

 遍路のお修行

 道中における遍路の義務の一つに「お修行」がある。これは行乞・托鉢というものである。遍路は一日三回、あるいは七回は他人の家の門に立って托鉢をしなくてはならないとされていた。その家の先祖を供養するのだとか、相手に善根を積む機会を与える法施であるとか、自らの身を乞食におとし、他人に物を乞う辛さや恥ずかしさを味あわせる行だとかいう説明が仏者によってなされることもあるが、一般の遍路の多くは、むしろ、「お大師さんがやったことだから」と意味づけている。

 下向祝い

 遍路の同伴者を同行という。同行の連帯は身内同様のもので、以後は親密に何かれとなく交誼を尽し合う。同行が決定するとキマリ酒を飲んだ。松山市馬木町あたり一帯の地域は若者遍路が盛んで、最も遅くまで行われた地域であるが、先輩から後輩へと順送りで遍路に出た。だれか年長者が先達になって同行を募り、四国遍路に行くのが慣習になっていたのである。そのときキマリ酒を飲めば約束は変更できないことになっていて、親も止めることができなかったほどである。出発当日、近所の人などを招いて、お客をしてから出発をした。そのとき、餞別をもらった。松山市市坪町でも若者遍路の風習があって、出発が決まると、親戚の者が紅白餅を搗いて祝って来、その餅を近所や部落内の親戚などに配って披露していたということである。上浮穴郡美川村では、「四国座敷」とか「お座敷」と称して、お祝いをする風であったといい、出発を家族親族みんなが見送った。これをオミタテといったのである。また「お大師さんを見送る」ともいっていた。それから帰村のときは部落入口まで出迎えた。これをサカムカエといったという。また、無事の帰着を祝って「精進落ち」をしたということである。

 待ち着物

 遠方の社寺参詣などで旅に出た者の帰りを親族や村人たちが村境まで出迎えて、飲食をともにして祝う風習をサカムカエ(坂迎え)という。伊勢参宮、金毘羅参り、石鎚登拝はもとより四国遍路にも坂迎えがあった。
 四国遍路の場合は、村境ではなくて、打ち止めの札所であるのが特色である。遍路に出ると、家族の者がマチギモノ(待ち着物)といって、帰るまでに着物を新調して待つのである。この着物を待ち着物といったのであるが、エコギモノ(回向着物)、ゲコギモノ(下向着物)といった所もある。
 松山市興居島や大洲地方では下向着物といっていた。松山地方から出て行く遍路はたいてい伊予絣の着物を着て出たが、いよいよ打ち止めの石手寺にもどると、家族らが角籠に回向着物・帯・食物などを入れて出迎えるのである。そしてその場でみんなで共同飲食をし、そこで回向着物に着替えて家にもどるのである。
 温泉郡中島町睦月では、結婚までに若者は四国遍路と伊勢参りをして来ぬと恥のように言い、娘連中は一三歳くらいから出かける者もあった。もちろん島のことゆえ特船を仕立てて行ったのである。船主が三味・太鼓で囃子たてて伊勢参りを募集するような時代もあったそうであり、それで「伊予の百人づれ」といわれたりしたということである。
 中島町大浦の旧庄屋堀内家文書の中に、伊勢参宮の往来手形「覚」がある。元治二年(一八六五)三月のものであるが、二通あって併せて三七人の男女名(内女一六人)が記してある。参詣者の留守宅では炒り豆をせぬことになっているが、これは足に豆ができるというタブーからである。それで他家の者が豆を炒って留守見舞いとして贈る。見舞いをもらった家へはあとで参詣土産を返礼に配ったのである。
 いよいよ船がもどってくると親たちがいっちょうらいの着物-待ち着物を持って浜に出迎えるのである。浜で待ち着物に着替え、氏神に参り、村中を練り歩いてから家に入る風習であったという。また翌日、娘たちは村の青年の家に留守中は世話になったと挨拶廻りをしていた。三日目には船頭の家で大客をしたという。
 松山地方では帰参の翌日か二、三日してからこの待ち着物を着て氏神や札所へお礼参りに行っていた。同市勝岡町ではこれをコヘンドと呼んだそうである。所によっては七か寺参りをした。
 それから結願式・納めの祝い・下向祝いには、家に親戚を呼んだり、若衆宿や会堂、あるいは氏神に集まったりして盛大に精進落としをする風もあった。待ち着物を岡山県でマチゴという所がある。盆や祭りに着る晴れ着をボンゴ・マツリゴというのと同様で、遍路に着せる待ち着物のことである。衣装ぞろえという言い方をする所もあるが、とにかくこのマチゴを着て遍路祝いもしたのである。
 待ち着物の風習は、遍路装束を脱いで、待ち着物に着替えるのであって、いわば「変身」することである。四国をめぐって死の世界から蘇生し、脱出して聖なる人間に再生復活することを意味する。遍路装束は死装束をあらわすといわれるが、そうだと見なせばまさに待ち着物は死よりの蘇生を意味することになろう。

図-通り手形の事

図-通り手形の事


図5-9 土佐国を省いた巡拝経路 (松山地方の場合)

図5-9 土佐国を省いた巡拝経路 (松山地方の場合)