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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

二 同族の祭り

 同族神

 同族は世代を超えてつながる父系家族を一つの単位とする「家」同士の間に出自伝承など共通の系譜関係を認める血縁集団であることが一般的であるが、時には本家との間に主従関係を結んだ諸家の一部が社会的に浮上したものを含む本分家集団でもある。この同族団が、その始祖を祖先神として崇拝祭祀する一族氏神を同族神と呼んでおくことにする。ただこれが本家の単独祭祀であれば、それはすでに触れた本家屋敷神であるが、同族の構成員が相寄って共同祭祀を行う場合には、一族の紐帯を持続強化させる機能を有してきた。すなわち同族神祭祀は本家の存在とともにその結合の象徴的存在となっているのである。
 事例1 周桑郡丹原町田野地区ではオーヤといわれた本家の屋敷地に祀るワカミヤサンを同族(イッカ・イットウ)相寄って祭祀するところが数家ある。一般にワカミヤさんと称するが、稲荷・奈良原・若宮・出雲などの具体的神名も有している。それぞれのイッカは七、八戸で、祭祀の準備や供物は輪番頭屋制で行う。正・五・九月の重月のうちの適当な日に神職や住職を招いて年一回の祭祀を行うが、春秋二回のところもある。このうち黒川家のみは先祖を祀っているという。崇り伝承はないがいずれも祀らなければならないということで祭祀を継承している。また、東予市玉之江の旧庄屋日野氏一統は中将社を、小松町南川の鴨氏一統は藤枝霊社をそれぞれ輪番の頭屋制で祭祀してきた。
 事例2 温泉郡重信町下林地区には、天羅注連社・野上社・青井社・御先社・野中社などの同族で祀る小祠がある。それぞれ丹生谷氏、野上氏、青井氏、八木氏、野中氏一族のまつり神で、田地や山林などの財産を所有して株組織をもっていた。天羅注連社は若宮八幡宮とも称し、一二月二〇日が祭日で、同族が寄って宿を決め会食していた。他の小社と組合で神輿を所有し、渡御をしたこともあった。現在二〇軒余の者が一〇月一〇日に集まって所有林の下刈りをし、神職を招いて神事を行って飲食している。また八木家の御先社は現在は氏神社の境内に移しているが、一二月一三日の祭祀を継続している。九戸加入で当番制の宿が世話役となり、神職を頼んで祭りをし一族相寄ってお通夜をする。火防神としての信仰もあるらしく、八木家以外の者の加入もあり山林の株を所有している。その他、同町西岡の大西一族は大西社を祀り、旧八月一五日に岡八幡神社の鳥居近くの塚でお通夜をしていたし、同樋口の岩伽羅城主和田氏ゆかりの者たちは「和田講」を結成して和田霊社を祭祀している。
 事例3 中山町月の海の泉一族は「権現さん」を祀っている。一番古い小祠は信濃国から来た一三人の平家の落人の墓であり、泉家の先祖であるという。神体として川石を積み重ねている。他にも新しい祠が二つあるが、これらを総称して権現さんと称し、家の守護神であるとされる。祭り日は盆で、本家を中心に同族相寄ってオコモリとなし、盛景寺の住職に経をあげてもらう。オコモリに際しては本家が上座に着し、あとは年長者順であった。戦前には、このあと供養の相撲を取ったりもしていた。
 事例4 上浮穴郡美川村栄重上のI家一族も共同で先祖祭祀を行っている。先祖はこの土地に初めて来て開拓にあたった人であるといわれ、「孤山意春居士」の戒名が贈られている。天明三年二月五日に没したので、旧暦二月五日を祭り日とし、一族が集まる。米、神酒、花しばなどを供えて祭祀するが、経費は分担する。栄重上はほとんどがI姓であるが、本分家の系譜関係は明瞭ではない。
 事例5 南宇和郡御荘町平城の馬場部落の尾崎T家は、戦国末期の武将である尾崎藤兵衛尉政儀の子孫であると伝え、一族で藤兵衛様を祀っている。四、五代前からの祭祀で、例年旧九月二五日に同族相寄って行われる。法印(山伏)を迎えて供養していたが、法印の没後は神式で祭りをする。祠は法華寺境内にあった山王社と並んで祀られ、白王様と呼ばれていたが、現在は寺の裏山に移転している。また、同所の尾崎K家でも法華寺裏山の墓碑を一族が祭祀している。もとは住宅の傍にあったものであるが、一族の中に不吉なことが絶えないのでミコに拝んでもらったところ、もっと気高いところへ移転せよということなので現在地へ移転祭祀した。

 忽那諸島の株祭り

 中島町大浦や睦月には、同姓者が互いの先祖を共同で祭祀する風習が続いている。これを「株祭り」と称している。株内の各戸が回り持ちで、年一回、同じ株仲間を招待して先祖をまつり、共食をするのである。株は本家を中心とする同族連合で、その共同の先祖を若宮様と呼んでいる。それで若宮祭りともいう。屋敷近くの畑の隅々山際などに自然石を積んだり、小祠や瓦宮を設けており、祭日にはその前に注連縄を張って神職に拝んでもらうのである。
 事例1 中島町大浦の俊成株はこの地区最大の五〇戸ほどで構成される。浜小路の俊成長宅の裏に五坪ばかりの株屋敷があり、小祠と俊成大明神の石柱が立っている。祭日は旧暦九月二七日であったが、現在は新暦一〇月二九日となっており、当日は二本の幟が立ち注連縄が張られて祭壇が設けられて、神職が拝む。このあと株内の各戸が持ち回りで共食していたが、現在は女も参加して公民館を利用している。
 事例2 同じく大本株は七戸で構成し、山狩谷の大本作一宅の屋敷近くに株の若宮さんがある。同家の分家は三戸、同族二戸で一戸は他姓であるが、家屋敷を買ったときに株もあわせて買ったものだという。春の都合のよいときに七軒の当番制で祭祀している。昔、寺に祈祷師がいて、若宮さんを祀れと広めたのだという。また当家では別に屋敷内に若宮さんを祭祀しており、五輪塔の残けつと五つの瓦宮が祀られている。こうした若宮は古い家でなければないという。
 このように株は一般に同姓の仲間のこととして用いられ、五戸ないし一五戸くらいの単位で冠婚葬祭などの互助をなしている。また、株仲間が大きくなった場合には株を分割したり、一戸一株とか異姓の者も参加する株もある。株の仲間のことはカブイッケともいった。小浜では株祭りを行うところはほとんどなくなったが、カマチと称している。
 さて、この株祭りは近世幕藩制下における歩役負担の単位である「百姓株」に由来するものと考えられている。五人組とは異なり、この地域の村々の内部的な組織であって、寛政一〇年(一七九八)の旧小浜村文書には「御役目株」と記されている。すなわち、村に課せられた領主に対する一定の歩役負担(御役目)を果たすための組織でもあったようである。『中島町誌』は小浜村の資料を分析して、当時一六二軒の農家がそれぞれ数戸より成り立つ二一株に単位分けされ〈表5-27〉のような株構成になるとしている。「かぶうち」を代表して株名に冠せられるのは本家名であるが、例外的に株名と本家名が異なる場合もある。また一株一役の負担が原則であるが、一役半とか半役負担の株もあって一様ではない。小浜村として都合二一役半の負担であり、一役につき米一升の代納であった。
 さて、各株の内部構成は多様で、構成人員も二人から二〇人と多岐にわたる。また株構成員一人当たりの負担率も株によって異なり、均等割もあれば負担率の差が著しい株もある。そして、それぞれの持高と負担額には相関性もみられず、株を代表する本家よりも一般構成員の持高が多い場合(久右衛門株)や一人で二株の構成員となっている例(吉郎右衛門株の源蔵)などもある。株の本家はまた本門とも記され、その数は江戸時代を通じて一定している。小浜村は二二戸、大浦村ならば五八戸であった。近世初頭以来の各村の草分け的長民の本家としての権利が株という形をもって継承されてきたものと考えられる。一方、本門に対するのが家子門であるが、村落における戸口の増加はもっぱらこれの増大であった。しかし、家子門はたとえ本門を上回るような経済的地位の上昇があったとしても、社会的には本門となり得なかったようである。これは、株組織の擬集力が強力であったことを示すものでもあり、株祭りはその象徴的存在としての株の結節原理であったと考えられる。もっとも、江戸時代中期以降の村落社会においてはすでに同族結合は弛み、株にそれほどの親族集団的性格をみとめることはできないと指摘する史家もおり、株は村人の実生活の場におけるいろいろの協業の単位であったのではなかろうかという。しかし、こと株祭りに関してはなお同族神祭祀の典型とすべき民俗事象であるといわねばならない。

表5-26 中島町大浦の株祭り

表5-26 中島町大浦の株祭り


表5-27 小浜村の株構成

表5-27 小浜村の株構成