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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

第二節 民謡

 民俗芸能にも関連をもっものとして、民謡について付記する。
 土地ごとの生活の一部をなす労働や祭りに伴う歌謡がすなわち民謡である。それじたいを一つの芸術品として切り離して演奏することも可能であるが、本来土地の生活に密着した性格のものであったことに着目すると、民俗の一端につながる事象となるのである。
 大きく分けて、労働に伴う労作歌の類、神仏の祭りに伴う祭り歌や踊り歌の類、その他座興に用いるもの、わらべ歌などとなる。このうち祭り歌や踊り歌の類は民俗芸能の項ですでにいくらか述べたが、他の種類についていうと、労作歌の類は労働の実態が大きく変化したため、わらべ歌の類は子どもの生活の態様が同様に大きく変化したために、本来の歌われる機会を失って凋落・廃絶していく姿を見せている。以下、現在およそ知られていよそ知られている状況を略述する。
 愛媛県(伊予)の地元で作られたと考えられる歌謡で現在知りうる最古のものは、『體源抄』(一五一二 成る、豊原統秋著)に載せられた「伊与湯 雑芸催馬楽(地方の民謡のうち古風なもの、の意であろう)」四首である。

伊予の湯の 湯桁はいくつ いさ知らずや 数へずよまず やれ そよや なよや 君ぞ知るらうや
伊予の湯の 下 下よりわく〈「湧く」と「枠」との掛けことば〉の 白糸のや くる〈「繰る」と「来る」との掛けことば〉人絶えぬ やれ そよや なや ものにぞありけるや
伊予越えの なごえ〈場所不明。ただし温泉郡川内町に「名越」の地名がある〉のつづら わが引かば やうやう寄り来 やれ そよや なや 忍び忍びにや
伊予の湯の さらは〈「いさには」であろう〉に立ちて 見わたせばや たけ〈和気〉の郡は 手にとりて見ゆや

 第一首は『源氏物語』空蝉・夕顔の巻に引用されていることが『奥入』(『源氏物語』の注釈書、藤原定家著)に指摘されており、『源氏物語』は山田孝雄『源氏物語之音楽』が考証するとおり一〇世紀に舞台を定めた時代ものであるから、この歌は一〇世紀にはあったことになり、第二首は一〇世紀中に、第三首は一〇世紀初頭にそれぞれできていた歌の、地名をとりかえたものであることが知られるから、早ければ一〇世紀末以前の成立、第四首もそのころのものとして差し支えなく思われる。本来の曲節は不明であるが、平安朝の民謡歌曲「風俗」は、その曲で替え歌を歌うことができたこと、『平仲物語』にも例があり、『體源抄』にその指摘がある。そして「風俗」の楽譜は文治二年(一一八六)のものの写本『風俗古譜』が山井基清によって五線譜化されている。「伊予の湯」はこの「風俗」の曲で歌われた可能性があるのであって、中小路駿逸が「風俗」の「筑波山」の曲がもっともよく合うと考え、これによって一つの旋律を編み、さらにそれを短くした旋律をも編んだ。一〇世紀のおもかげを伝える伊予の民謡の旋律を、いま聞くことが可能となったのである。平安末期には『梁塵秘抄』巻第二に〝石のつち〟(石鎚)〝四国のへち〟(海岸ぞいの道)の語が見えるが、地元で作られた歌とは言いがたい。
 近世に入ると

土居殿の御茶の水には 金の花が八重に咲(『清良記』巻十七清良威光付り田歌の事)
かけ(て)よい(の)は伊予簾 かけてもろいはうすなさけ(梅玉本阿国歌舞伎草紙)
おれが往の時ゃ 伊予へ往の 伊予の道後の 湯の町へ(『新謡曲百番』「歌舞伎」)
生れ来りしいにしへとヘバ なにもおもはぬこの心(盤桂禅師『うすひき歌』)
仏になりたか仏になりやれ 生れ付ひな〈た〉る活き仏(同『麦搗歌』)

などの例があり、『山家鳥虫歌』(一七七一年刊。最初の全国歌謡集)に

月は重なる腹の子は太る 生木筏でき〈「木」と「気」の掛けことば〉が浮かぬ
十九二十で夫無ひならば 一人丸寝が久しかろ
わしは浜松寝入ろとすれば 磯の小浪が揺起す
親も兄弟も無き身の果は 共に情のかけどころ                        
闇の丸木橋様となら渡ろ 落ちて流れて先の世共に

の五首が見え、江戸末期には天保一四年(一八四三)九月と嘉永三年(一八五〇)春とに『伊世節大輯』(内題「伊予ぶし」)か出版されており、冒頭に

山はやまゝやまおふけれど合いよのまつやまたばこやま合あいの山にハ。おすぎおたまにまん金たんハあさま〈朝熊〉やま。こぶやかんばんふじのやま。妹山せやまハよしのやま。いなりやまおやまはなやま。ちやりでおくやま大ぜきハ秀の山〈江戸相撲、天保一二年大関〉引

の歌詞が見える。その歌詞が冒頭にあることからこの節を「伊予節」といったのではないかというのが和田茂樹の説である。現在も伊勢の宇治山田で「伊勢で名所は」の歌詞が「伊予節」の名で歌われていることが南海放送によって確認されて昭和四九年三月三日の同局「サンデー9」で放映され、「伊予節」と伊勢との関係はもはや動かぬものといってよい。伊勢で生み出され、伊勢参りの下向の遊びを通じて全国に流れていったのであろう。すなわち「伊予節」は本来、伊予の民謡ではないことになる。
 近代以後の愛媛の民謡の収集状況については巻末の文献目録に詳しいが、現在参考にできる総集としておもなものは、『愛媛民謡集』(愛媛県発行、昭和三七年)と『愛媛県民謡保存調査報告書』(愛媛県教育委員会文化課編、昭和五六年)の二つ、楽譜をもしるしたものでは『日本民謡大観 四国編』(日本放送協会編、昭和四八年)である。個々の、あるいは特定の種類のものについての記述、考証には秋田忠俊、黒河健一、岩井正浩らの業績があり、巻末目録にあげられている。
 以下、主として『愛媛県民謡保存調査報告書』にもとづき、民謡の種別ごとに要点を略記する。
 この調査で存在の確認されたもの、すなわち伝承されている場所、歌唱者、由来についての伝承などがカードに記録され、歌唱そのものが録音されたものは、全県にわたって一、二三四件(うち録音されたもの七三九件)であるが、一件に通例として複数の歌が含まれているから、歌の総数はむろんこれよりはるかに多く、また存在しながら調査にもれているものもあり、かつては歌唱されたがいまは廃絶して歌詞のみ文献に残っているものもあるから、それらをも加えると、かなりの数になる。そのいちいちについて、歌詞の意味、民俗とのかかわり、曲節および歌詞の成立や伝播・流動のあとなどを総合的に考究し記述することは、今後に課題として残すべき部分も多くあり、ここに現状の全貌を詳細に示すことは、民俗芸能についてと同様、不可能である。そこで、ここには歌詞を中心としつつ、ほぼ全体にわたっての要点を略記することとする。
 労作歌、祭歌、祝い歌、踊り歌、座興歌、語り物・祝福芸の歌、子守歌、わらべ歌などにほぼ分類できる。
 分類法にはいくつかのものが研究者によって従来考えられているが、ここには昭和五四・五五年度の前記調査報告書に採用されたものを用いることとする。なお、文中の件数はこの調査で確認された件数である。

 労作歌

 農耕・漁撈、また交通・運搬など、さまざまの作業につれて歌われてきた歌が、作業じたいは時代の流れによって変容したり廃絶したりしても、なおいろいろな種類のものが記憶され伝存している。
 農耕作業の代表は伝統的に米作りで、これに伴う歌では田植歌の例が多く(二八件)、全県に分布している。歌詞の形式はほとんどが『田植草紙』所収のものと同類の、中世末期~近世初期風の形式のものである。歌詞の内容はさまざまであるが、中予地方と南予地方には、次の類の歌詞が、所により小異を見せながら、かなり多く認められる。数例ずつ掲げる。

おさんばいの神は あらたなる神じゃよ 馬からおりて 笠をとれとれとよ(伊予市上三谷)
おさんばいの神は あらたかな神様よ 駒から下りて 笠を取れ取れとよ(松山市窪野町)
おさんばいの神は 新玉の神様(中島町大浦)
おさんばい様は 高神様よ 駒から下りて 笠を取れ取れと(久万町西明神)
おさんばいさんは 笹のものよ さらりと笹で降ろせや まだ今朝は霧のもなかよ 静かに渡れ 石橋をおさんばいは あらたの神よ 馬から降りて 笹をとれ(久万町上畑野川)
山田の稲は あぜにもたれかかるよ 娘十七八は 殿御にもたれかかるよ(松山市南吉田町 昼唄)
山田ヤーのー稲は あぜにもたれかかるよ 十七八にや 恋し殿にもたれかかるよ(久万町酉明神)
山田の稲は あぜに寄りかかる 十七八は 恋し殿に寄りかかる(内子町大瀬)
山田の稲は あぜにもたれかかる 十七八は 殿にもたれかかる(肱川町名荷谷)
山田の稲は あぜにしょんだれかかるよ 十七八は 殿にしょんだれかかるよ(一本松町満倉)

付近の地名を歌い込んだ例には、次のようなものがある。

太山寺の早乙女 どこで見てもよくわかる 紺の前かけに 白手ぬぐいのほうかむり(松前町中川原)

まれに、近世俚謡調の歌詞も見られる。

腰の痛さよ この田の長さ 四月五月の 日の長さ(朝倉村上)
苗もとります きのぼりなえに 人が千とりや 二千とる(野村町高瀬)

田打歌と稲刈歌は例がなく、田かき歌に次の一例がある。

エーヤレエー おもじゃよー ヨートエー回れやーよ ハセマワレ ハセ ハセ ヤレーヨーエー おもじゃよー やるうゼー まきに団子を食わすぞよ ホラ ヤレ ハセマワレ(五十崎町平岡)

田の草取歌は一一件、いずれも近世俚謡調のもので、

沖の暗いのに 白帆が見える あれは紀の国 みかん船

の歌詞を含む例(松山市窪野、北条市高田)もある一方に、その土地ないし付近の地名を含む次のような例も見られる。

嫁入りさすなら 田野丹原へ 水は上水 米どころ(土居町上天満)
小田へおじゃるなら 八ッ松へおいで 小田の五千石 みな見える(小田町本川)

米搗歌、籾摺歌、粉挽歌の類では、粉挽歌・籾摺歌が七二件あって多い。歌詞は近世俚謡調で、囃し詞や繰り返しを含む例もある。歌詞の内容を見ると、

くるりくるりと 回るは淀の 淀の川瀬の 水ぐるま

の歌詞が東予地方(越智郡大三島町台など)から中予地方(双海町上灘など)にかけて見られ、松山平野部の諸所には

どんどどんどと すりあげてしもて あすは道後の 湯に行こか(伊予市上吾川)

の類の歌詞が見られ、また次の類の歌詞がほぼ中予地方と南予地方にわたって、異伝を含みながら分布しているのが見られる。

臼よ回れよ やり木をつれて 朝の日の出にゃ ひまをやる(双海町上灘)
臼よ回れよ 挽き木もともに 師走二十日にゃ 暇をやる(肱川町名荷谷)
臼よ回れよ 挽き木よともに 二十や五日にゃ ひまをやる(三崎町三崎)
臼よ回れよ 挽き木とともに 二十や五日にゃ ひまをやる(野村町平野)
うすや まえまえ ひき木とともに ゴー ゴー 晩の七つにゃ ひまをやる ヨイショ ヨイショ 七ににゃ晩の 晩の七つにゃ ひまをやる(南宇和郡西海町船越)

東予地方から南予地方にかけ、ほぼ全県にわたって分布する形をなしているのは、次の類の歌詞である。

粉を挽くときゃ 泣き泣き挽いて だんご食うときゃ 猿まなこ(土居町上野)
臼をひくときゃ 泣く泣くひくが 団子食うときゃ 猿まなこ(広田村高市)
こんこ挽くときゃ 眠うてならぬ さもや食べるときゃ 猿まなこ(肱川町名荷谷)
こんこ挽くときゃ ねぶり目で挽くがヨー だんご食うときゃ 猿まなこ ヤーレ オンジョー(城川町川津南・程野)
臼を挽くときゃ ねむり目で挽きゃる 団子食うときゃ 猿まなこ(三間町音地・黒川)

麦打ち歌は「麦たたき歌」「唐竿(カルサ・カルサワともいう)打歌」とも呼ばれる。やはり七七七五の近世俚謡調で、次の類の歌詞が多く含まれる。

くるりくるりと まわるは淀の 淀の川瀬の 水ぐるま(宇和町多田)

 臼挽歌とも共通する歌詞で、「まわる」ということばが臼にも麦打ちの道具「かるさ」にもふさわしいからかと思われる。
 他に夏から秋にかけて堆肥の原料、牛馬の飼料とする山草を刈るときの草刈歌がある。近世俚謡調の雑多な歌詞で、東・中予地方に六件報告されている。
 山樵に関するものには杣歌、木挽歌の類があるが、杣歌に属するものは枝打歌(土居町上野)、山行き歌(周桑郡丹原町明河)、刈開歌(上浮穴郡美川村日野浦。「下刈り歌」ともいう)など各一件で、歌詞は

高い山から 谷底見ればノー ソレ 瓜やなすびの 花ざかりノー アレハドンドンドン コイツァヨウデキタ(丹原町明河)

など雑多である。なお「木出し歌」に次の例がある。

アーエーどれもどなたもヤーエ 頼みますぞヨーイトセー
アーエー坊さん山道ヤーエー アー破れた衣 行けど戻れど き〈「木」と「気」の掛け詞〉にかかるヨーイトセー〈以下略〉(五十崎町平岡)

 例の多いのは木挽歌で、宇摩郡新宮村上山から南宇和郡城辺町にかけて二三件採録された。歌詞の形式はほとんどが近世俚謡調で、内容はおおむね木挽きにかかわるものであるが、共通する歌詞は少なく、次の類が中・南予地方にあるのが目立つ程度である。

大工さんより木挽きさんが憎い 仲のよい木を ひきわける(丹原町楠窪)
ヤーレ 大工さんより 木挽きが憎い 仲の良い木を ひきわける(久万町下畑野川)
ヤーレ 大久さんより 木挽きさんが憎い 仲の良い木を ひきわける(広田村高市)
大工さんより 木挽きが憎や 仲の良い木を ひきわける(肱川町宇和川)
大工さんより 木挽きは憎い 深い仲でも ひきわける(三間町)
大工さんよりゃ 木挽きさんが憎い 深い仲でも ひきわける(城辺町)
ヤーレ 木挽きさんとは 一夜もいやよ 深い仲でも ひきわける(津島町)

他には次のような例がある。

木挽きゃ挽け挽け お杣は削れ あとの仕上げは大工さまヨ(丹原町楠窪)
木挽きさんよりゃ 左官さんが憎い 忍び窓まで ぬりつぶす(小田町上川)
木挽き面にく 大飯食ろうて 牛がずんだよなババたれる(明浜町など)
大工面にくや 三升飯食ろて 木挽きゃかわいや 山奥で(三間町など)

漁撈に関する歌には、船卸歌、船歌、網おさし歌、浜子歌の類がある。おおむね近世俚謡調のものである。新造の船をおろすときに歌われる「船卸歌」は、祝言を内容とするものであって、次のような例がある。

ヤァーラーアーエ 先ずは正月の初夢に 白きよ ヨーイイ ネズミを七福神が三つつれて〈以下略〉(波方町小部)
一天地六十カイ五卜五ト中に 荷を入れ(積み)紀伊の国は 音無川の水上に立たせ給うは 船玉山に船霊主大明神〈以下略〉(吉海町椋名)
新造おろして 浮かべてみたら 沖のかもめの 浮き姿〈囃し詞略〉(大三島町宗方、中島町元怒和、長浜町仁久)

 出漁して船をこぐ時に歌われる「船歌」(「船漕歌」「櫓漕歌」「船頭歌」ともいう)には、当然、海を主題とした内容のものが多く、県内および瀬戸内の地名を歌い込んだものが見られる。数例を掲げる。

天満走り出て 仏崎見れば 島が見えます 金島が(新居浜市大島)
安芸の宮島 まわれば七里 浦は七浦 七えびす(双海町下灘)
四万十川の 流れよりも 阿波の鳴門は ものすごい(同 上灘)
わたしゃ伊予市の 中浜育ち 親の代からの 船をこぐよ(伊予市湊町)
御手洗港にゃ 瀬が二つある 思い切る瀬と 切らぬ瀬と(明浜町)
周木はよいとこ びり島うけて 須崎あらせが そよそよと(三瓶町周木)
船頭かわいや 音戸の瀬戸で 一丈五尺の 櫓がしわる(同 三崎町与移)

 『愛媛民謡集』には、次のような歌詞も記録されている。

ここは瀬じゃ瀬じゃ 瀬の先ゃ渦じゃ 錨おろして 汐だるみ〈注、潮流の変化を待つこと〉(大三島町肥海)
淡路島から大阪が見える 大阪四天王寺の 五重の塔が(同)

 たて網などをおこして曳きあげるときに歌われる「網おこし歌」(「網曳歌」ともいう)が少数例あるが、掛け声だけの例も含まれる。近世俚謡調のものには次のような例がある。

沖の瀬の瀬の瀬に打つ波は かわいお方の 度胸定め(伊方町中浦。大敷網渡上歌)
歌てはやして 潮乗る船は 女郎が招けば 陸による(同)
ヤーレ親のないヨー子とヤーヨー 磯辺の千鳥はヨー 瀬が満ちくりゃヨー ないて立つヨー(三崎町名取 網おこし歌〈網渡歌〉)

 舟を陸に引きあげるとき歌われる「おろく」が一例ある。

(音頭取)おろくでやろうよ (全員)ヨイヨイ (音頭取)おろかー 若いしのー えてじゃもの (全員)ヨイヨイ (音頭取)ヨイヤサノサー (全員)ソーリャー ソーリャー
カあわせて 真砂を踏めば 重い船でもノ 軽くなる
声を張りあげ おろくをやれば どーまの船玉さまも うかれだす(西海町福浦)

 塩田作業で、撒いた砂を「手引き」という道具で掻いてならすときに歌われる「浜子歌」(「浜引歌」ともいう)が少数例あり、次のような歌が含まれる。

浜子 浜引くよ ばかりと思や 夜は娘の 袖をひく(伯方町木浦)
浜子さんとは 知りつつ惚れた 夜釜たきとは 知らなんだ(大三島町口総)

 その他の諸職に関するものには、大工歌、茶摘み歌、酒屋歌、地搗歌、楮むぎ歌、紙漉歌、糸繰歌、機織歌、石切歌、ばら抜き歌、櫨取歌などの類がある。
 大工歌には、次の例が一件ある。二首のみ掲げる。

エー 嫁になりたいヨー ヨイト 大工さんならば もろていただく 棟の餅(松山市久米窪田町)
エー わたしゃ嫌ですヨー ヨイト 大工の嫁は 桧松の木 杉くさい(同)

 茶摘み歌、茶もみ歌の例は、西条市大保木西之川と、上浮穴郡とに少数例ある。

ヤーレ 男前でも 茶もみさんにゃ惚れな お茶がすんだら泣き別れ(美川村日野浦)
お茶を摘むなら藤社へおいで 藤社茶どころ 縁どころ(同 藤社)

 酒屋歌の類には、越智郡と東・西・南・北宇和郡に次のような例がある。

酒屋しもたら お帰り殿御 冬の寒さを 寝て忘りょ(吉海町仁江 もとすり歌)
かわい殿御の 洗い湯の時にゃ 水も湯となれ 風吹くなヨ 湯となれ水もヨ 水も湯となれ 風吹くなヨ(同 宮窪町友浦 米洗い歌)
何の因果で 杜氏を習うた 家で年とる 暇もない(宇和町卯之町 もとすり歌)
伊予へ伊予へと 皆若い衆が 伊予に酒屋が なけりゃよい(三間町 もとすり(仕込)歌)
わたしゃ酒屋の 酒くむ柄じゃく 昼は間がないが 夜来なれ(西海町福浦)

 地搗歌の類(「胴搗歌」「土搗歌」などとも呼ばれ、「亀の子音頭」「地形ならし」などの名もある)は例が多く(六一件)、歌詞も多様であるが、次のような広域に分布する歌詞も含まれている。

ここの屋敷は めでたい屋敷 鶴と亀とが 舞を舞う(小松町石根 胴突音頭(松前音頭) 他にも例がある。)
めでためでたの 若松様よ 枝も栄えりゃ 葉もしげる(明浜町 胴突歌 他にも例がある。)

 七五調、また七七調の歌詞のもある。一例のみ掲げる。

古き昔を思い出し 東西南北おだやかに 調子をそろえて取り上げて 〈囃し詞省略〉〈中略〉一には石手の 一には石手の大師様ぞな 二には日本 二には日本総鎮守 大山祗の尊称ぞなもし〈以下略〉(川内町松瀬川。土搗音頭・そぞり)

 製紙にかかわる楮むぎ歌の類には、次の例がある。

こうぞむげむげ むがんやつは去なせ 宿にゃめしがいる 損がいく(丹原町楠窪 こうぞむぎ歌)
楮は七折れヨー 八折れはきそくヨー 殿はすく楮 十折でもヨー コラサイトサイト(伊予三島市三島町 楮(くさ)打歌)
こやくさんじゃいうて 紙すきじゃいうてヨ 別に種まくヨー 親はない アー シャントヤレ シャントヤレ(喜多郡五十崎町平岡 こうぞ打ち〈梶たたき〉歌)
船が出ますよ 川之江港 積んだ荷物は 紙ばかり(川之江市金生町下分 紙漉歌)
何の因果で 紙すき習うた 朝も早よから 水仕事(大洲市平野町野田)

 まゆや綿などから糸をとり、より合わせる作業に歌われた糸繰歌の類には、次のような例がある。

糸よほそれよ 夜なべの糸よ 糸はほそらぬ 目がほそる ビーンビーン キッコラ(新宮村新宮 糸引歌)
木綿引きさん 夜は何刻ぞ 昴九つ 夜は七つ(双海町上灘 糸引歌)
糸取娘よ 糸目は出るか 糸目出んので 汗が出る(明浜町 糸繰(糸引)歌)

 機織歌には次のような例がある。

神か仏か 機織さんはヨー いつも鳥居の 前におるヨー トンカラリー トンカラリー(伊予市下三谷など)
機織り習うて 木綿びき習うて 仕立て習うたら 人の嫁(宇和町郷内・明間)
落ちる投げひも もつれる糸も 主の手前を 思てくれ トンカラリン トンカラリン(三間町)

 石切歌の類は次のような例がある。船歌と共通するものも含まれている。

ヤレ淡路島から 大阪が見えるヨー エー 大阪天王寺の 五重塔がヨー 見えるヨー ヤレヨホイー ヨーホイヨー(宮窪町余所国 石割歌)
土方さんには 何見て惚れた ツルのよかぶりや 見て惚れた(新宮村新宮 孔くり歌)
ハァーアアア 固いようでも 女はやおい やおいようでも 石ゃ固い アドッコイサー ドッコイサー

(別子山村元別子銅山 せっとう〈ビッチョコ〉節)
天井穴くろか 娘と寝るか 天井穴くってヨー 一人寝る(西条市加茂川来須 せっと節〈石切歌〉)
ヤーレ 明河鉱山には 一度はおいでよ ソリャ 暑い夏でも 肌寒いよ(丹原町明河 鉱山歌)

 土方歌の一例を掲げる。

土方土方と けなしちゃくれな 土方天朝の 道つくり(松野町)

 カツオ節製造のため、ゆでたカツオの骨(バラ)を抜く作業に歌われるバラ抜き歌には次のような例がある。

カツオしゃんと釣りゃ 船頭もよかろ 納屋で番する わしもよい(城辺町深浦)
一のバラ抜き 背骨から抜きゃれ 背骨抜かねば 金ゃとれぬ(同)
ハアー 船頭ひとりの かわいさゆえに ハアー ヨイヨイ 船も船子も 皆かわい(同 福浦)

 櫨の実を採る作業につれての櫨取歌には、次のような例がある。

山は石鎚 桜は三里 川は中山 海は瀬戸(丹原町田滝 囃し詞・繰り返し省略)
桜三里は 源太がしおき 花は咲くとも 実はなるな(同)
明日も天気か 石鎚山に 夕日輝く ぼたん雲(同)
高い山だよ お出石山よ 霧がかけます 朝霧が(八幡浜市日土町)
何の因果で はぜ取り習た 綱が切れたら 命がけ(五十崎町平岡、広田村高市、御荘町菊川などに例がある。)

 その他、次のような例がある。

蚕飼う人 そろばん枕 桑を売る人 かね枕(野村町高瀬 蚕飼歌)
笠をはりましょ 手によりかけて かけたたすきの まわるほど(長浜町櫛生 笠はり歌)
むしろ打ちさん お国はどこぞ 国は音地よ 黒川よ(三間町 むしろ打歌)

 交通・運搬に関するものには、木流し歌、馬子歌、牛追い歌がある。
 川上から原木を流す作業に伴う木流し歌、筏を操つる作業に伴う筏流し歌には、次のようなものがある。

おはなは どっちゃ行く はなこは こちゃ来い ヨーイトンコリャ(新宮村新宮 木流し歌)
下へ下へと 枯れ木を流す 流すいかだに 花が咲くヨー(五十崎町平岡 筏流し歌)

 馬子歌には、次のような例がある。

馬よ早う行け くつ買うてはかそ 二足五文の わらぐつを ハイ ハイ(新宮村馬立)
馬よ歩けよ くつ買うてはかす お前の好きな金くつを(広田村高市)
馬よ歩けよ くつ買うてはかそ 二足五文の安くつを(同)
駒よ歩けよ くつ買うてはかそ ホイホイ 二足四文の わらぐつを ホイホイ(松野町松丸)
三坂越えすりゃ 雪降りかかるヨ もどりゃ妻子が 泣きかかるヨ(久万町下畑野川 三坂馬子歌〈馬方節・駄賃もち歌〉)
むごいもんぞや 明神馬子はヨ 三坂夜出て 夜もどる(同)
遠い山道 鈴の音がするが あれは恵原の 謙さんかヨ(同)
わしが若いときゃ 城下まで通うたヨ 高井の河原で 夜が明けた(同)
わしが若いときゃ 小田まで通うた 小田の河原で 夜が明けた(久万町菅生 三坂馬子歌)
わしも若いときゃ 面河まで通うた 相名峠で 夜が明けた(丹原町明河保井野)

 牛追い歌にも、同類のものがある。

牛よ歩けや くつ買うてはかす ホイホイ 二足三文の 牛のくつ(保内町宮内)
牛よ歩けよ くつ買うてはかす 二足五文の わらぐつを(野村町白髭)

 祭り歌・祝い歌

 祭り・嫁入りなどの祝儀、正月などの年中行事に伴うものを含み、その例は多く、なかでも亥の子歌が最も例が多い。その内容を手短かに述べることは不可能であるが、各種の例の一部のみを掲げる。
 祭りに関するものには、次のような例がある。

げにや思うことの 世にかなわぬわざにては 君様の ささの一夜の手枕を いつか並べてかたらぬと 思うかいなきうき身かな〈以下略〉(伊予三島市寒川町江之元 石戸八幡神社秋祭りの「八幡丸船歌」のうち「みやじま」。この類の歌が東予地方には他にもある。)
ソーラエー 一では京都のヤー アラヤットコセー ヨーイヤナ 一では京都の 大日如来といったナーヨーイヤアララノラ ヨーイトコヨーイトコナー〈以下略〉(今治市大浜 櫂伝馬の歌)
伊予のナーエ 西条の 名物名所 アーラヨイヨイ 伊曽乃まつりに ヤンレー 武士桜 サーヤートコセー ヨイヤナ(西条市 西条祭りばやし〈伊勢音頭・だんじり歌〉)
とろりよとろりと ヨイヨイ 吹いたよまじが ヨイトセーハーリセー 様もエー乗るかよ ヤレヨーイヤナ 瀬戸内に トコヨーオ オイセーエ ヤレヨーイヤナー アレワイセ イヤコレワイサーノ サー
サー ナーンデーモセー(城辺町 とろりよ節〈うしょうにん(牛鬼)の歌〉)

 祝儀に関するものには、次のような例がある。

わしとお前は 斗樽の酒よ 仲の良いこと 人知らん ショーガエー(柳谷村西谷 嫁入歌)
御山の水は 恋の水 のまばやの 伊勢天目に 半中ば イヤー オーサチチュー ターエン アガシャントエーソレソレ(西条市大保木 御山の水。婚礼、祭礼、その他祝いごとに歌われる。)
半中までは 及ばない 山寺の おちごの硯の 水ほども 〈囃し詞省略〉(同)

 正月などの行事に関するものには、次のような例がある。

今の旦那さんよ 末代(はーリヤヨエヨエヨー)エーエー 末代御座りゃ(鉑にゃ ヨエーヨエヨエヨー)エーエー歩が増す(人が増す ヨエヨエヨー)歩が増すヨー歩が増す(はーリャヨエーヨエヨエヨー)エーエー 歩が増す鉑に(釣にゃヨエーヨエヨエヨー)エーエー 歩が増す(人が増す ヨエヨエヨー)〈以下略〉(新居浜市角野町中筋 別子銅山大鉑の歌。元日、大山積神社で大鉑を奉納して鉱山の繁栄と安全を祈るときに歌われた。)
とうどや 左義長や 餅のかげは 今日ばかり 今日ばかり(新居浜市大島 とうどさん〈左義長〉の歌)
ナンマイダ ナンマイダー 稲の虫が目むいだ(重信町西岡 虫送り歌〈ドンデンドン〉)

 亥の子歌は、「大黒さんという人は 一に俵を踏んまえて」の歌詞をはじめ、種々あって、ここに略記しがたい。

 踊り歌

 民俗芸能の歌詞がこれに当たる。その一部は民俗芸能の節に述べたので、ここには再記しない。ただ盆踊りの歌詞については盆踊りの項にはほとんど述べなかったので、ここにその要点を述べる。
 盆踊りの歌詞には、大別して、短い歌詞(七七七五の歌型が多い)を同じ曲節にのせて何首か連ねるものと、おもに七七調の長文の物語(口説)を合の手の囃し詞をはさみながら連ねているものとある。このうち口説の形式のものについていうと、全県にわたって多い例は「鈴木主水」「平井権八」「八百屋お七」「佐倉宗吾」など、他府県にも例のあるものであるが、なかに次のような例もある。

一つ非道を お裁きなさる 二つ不首尾は 天災ごとよ 三つ三間から騒動がおきて 四つ吉田をうらみに思い〈以下略〉(三間町)
伊予の松山兄弟心中 兄は二十一その名は秋男 妹十八その名はエミ子 兄の秋男が妹にほれて 恋し恋しが病となりて ある日妹が見舞にあがる これさ兄さま御病気いかが 医者を呼ぼうかお薬買おか〈以下略〉(城辺町)

 この「伊予の松山兄弟心中」には他にも多少異なる文句のものがあって、県内だけでなくかなり広汎にひろまった形跡があるが、その成立や伝播の状況については、はっきりしたことはわからない。一時忘れられたようになっていたが、昭和二十年ごろまでは旧制高校生の間などに歌いつがれており、小松左京が短編『悪霊』に書いて記紀の軽太子と衣通姫の話との関連を説いたりしたので、また関心を集めたものである。
 なお、秋祭りの練りに子供の相撲練りが伴う場合、これに甚句が歌われる例があるが、その歌詞も種々あって、一括して述べがたい。
 座興歌については、しいてこれに属させて述べるほどのものは報告されていないので、とくに述べない。ただ、二例のみ提示しておく。一つは宇和島市戸島本浦で祝儀に歌われるもので、伊予節の替え歌の一つである。

伊予の戸島の名物名所 音に名高き都の桜 大内ケ浦のしゃくの井戸や 島の小路にお庄屋のソテツに寒紅梅 つこものヒジキにめじろ海苔 小島の小貝に嘉島かき まもとの鯛に船イサミ チョイト遊ぼかな

 いま一つは、北宇和郡津島町御内で労作や酒宴の場で歌われる「よばい歌」である。

一ばんどりから二番どり 三ばんどりまでねさしたが もはや起こさにゃなるまいと 三十四枚の雨戸をば あけて見たらば雨がふる 親に知られた殿御なら 蓑笠不自由させまいに 親にかくれた殿御ゆえ蓑笠不自由さしまする あなたの手のごい笠として わたしの前掛け蓑として 帰るあなたもつらかろが帰すわたしもなおつらい アレワイセー コレワイセー サアサナンデモセー

 いずれも歌詞は比較的新しいものであるが、前者は伊予節の替え歌の一例として、後者は古くからの風俗史をふまえた歌詞の例として、ここに掲げておく。
 以上種々の歌詞を通観すると、いろいろな種類にわたって、「伊勢音頭」の影響が見られる。この点は歌詞だけでなく曲節の面からも、より広域にわたって、伊勢信仰の歴史ともかかわる現象として、より詳しくあとづけていくべきであろう。

 語り物・祝福芸の歌

 語りと歌謡とは、前者がストーリーを持った物語をなし、曲節のついた部分とつかない部分を持ち、曲節のついた部分でも、曲節と歌詞とが分離せず一体となっていて、替え歌ができないものをさし、後者はたいていストーリーを持たない抒情詩で、曲節と特定の歌詞とが一体化することはなくて、同じ曲節で他の歌詞も歌える(替え歌ができる)ものをさす。
 語り物にあたるものは浄瑠璃の類で、これには郷土文楽の例があるが、民俗芸能の項に述べたから再説しない。祝福芸のおもなものは「伊予万歳」であるが、これも同様すでに述べたのでとくに述べない。
 他には元来他の土地から家々を訪れていた門付芸が土着したものと思われる「大黒舞」「えびす舞」の例がある。一例ずつ歌詞を掲げる。

ござりたござりたござりたぞ 何がお家にござりた 何々とはおろかなれど お正月がござりた 正月のま御神様は御普請作りが大好きで 一月のま十一日に 手斧始めとなされた〈以下略〉(今治市 今治大黒舞歌)
まずはめでたい西の宮の恵比須三郎左衛門尉は 生まれ誕生はいつよと問えば 福徳元年正月三日 寅の一点まだ卯の刻にやすやすと 御誕生なされた〈以下略〉(松山市泉町 恵比須まわし歌)

 子守歌

 全県にいまなお伝存例はかなりあり、全体の細説は容易でない。概略をいうと歌詞に短いのと長いのとある。両者の例を二例ずつ掲げる。

ねんねんころりよ おころりよ 坊やはよい子だ ねんねしな 坊やのお守りは どこへ行った あの山越えて 里へ行った 里のみやげに 何もろた でんでん太鼓に 笙の笛 おきゃがりこぼしに 振り太鼓 ねんねんころりよ おころりよ(越智郡吉海町本庄。全県に分布し小異がある。)
むかえの山に 猿が三匹とまって さきの猿ももの知らず あとの猿ももの知らず いつちの中の子猿めがようもの知って もの知り川へ飛びこんで 鮎を一匹ふるまえて 手でとるのもかわいいし 足でとるのもかわいいし〈以下略〉(松山市東野町 他に手まり歌にも例がある。)

 わらべ歌

 わらべ歌については黒河健一、岩井正浩の調査・研究があるが、全県に鬼ごっこの歌、てまり歌、お手玉歌、絵かき歌、羽根つき歌、たこあげ歌、手あわせ歌、縄とび歌などがなお記憶され伝承されている。その全体を略記することはこれまた困難であるが、いくつかの歌詞を例として掲げておく。

鬼子にする者な 早よこい 疾うこい あかねの夜星で でんでこでん(吉海町田浦 鬼ごっこの歌)
中の中の 弘法大師 なぜ背が低いぞ 低けりゃ高うせい 高けりゃ低うせい うしろのものだあーれ(伊予郡広田村高市 鬼あそび歌)
あんたがたどこさ(手まり歌。全県に例が多く、異伝が多い。「一かけ二かけ」「一ばんはじめは一の宮」なども同様である。お手玉歌にもある。)
おもさんおもさんお嫁入りか お嫁入りなれば言って来なれ お嫁入り道具を言うてきかそ 絹の着物を百三十 紬の着物を百三十 木綿の着物を百三十 たんす長持はさみ箱 それほど仕立ててある中に 必ずもどると思うなよ〈以下略〉(一本松町 まりつき歌)
おさら おひとつおろしておさら(喜多郡五十崎町平岡 お手玉。この類の歌は例が多く異伝も多い。)
いってきな にてきな みていきな よっていきな いつやの むさし ななやの やくし ここのやでとうよ わたした(小田町寺村 羽根つき歌。この類の例は多い。「ひとめ ふため」も同様である。)
てんぐんさん風おくれ いわしのあたま三つやろ 三つがいやなら四つあろ てんぐんさん風おくれ たこたこあがれ たこたこあがれ(重信町西岡)
一でとったくしょで 二でかきつばたね 三でさがりふじ 四で獅子ぼたんね 五つむらさき 七つナンテン 八つ山吹 九つ小梅は色よく咲いたかね 十で殿様あおいの御紋ね 竹に雀は仙台さんの御紋ね(宮窪町宮窪 手合わせ歌〈せっせっせ〉)
大波 小波 でんぐり返して ほっぽいしょ(広田村高市 縄とび歌)
一がさした 二がさした 三がさした 四がさした〈以下略〉(温泉郡中島町長師)

 まじないの唱えごとの例を最後に掲げておく。

親に負けても うるしにゃ負けん〈うるしの下を通り終わるまでくり返す〉(吉海町本庄)
あずきが落ちたかと思ったら めいぼが落ちた(喜多郡五十崎町 目いぼ落とし)
身の行く先に錦もんの虫おらば とろだが滝のチカカ草 わらび菜の恩を忘れなよ アビラオンケンソワカ アビラオンケンソワカ アビラオンケンソワカ(南宇和郡内海村柏 マムシよけ)
すすめゴロゴロ(唱えながらつばを吐きこむ)(同郡一本松町。にごり水をすます時)
しんしんこぼれしんこぼれ しんしんこぼれしんこぼれ(人さし指を水中に入れてまわしながら)(広田村高市 濁り水をすます時)

 以上、県内の民俗芸能と民謡につき略記した。章のはじめに述べたように、この二つの事象の大体をとらえることができるようになったのは昭和五六年~昭和五八年のことであって、全体の詳細はこれら二つの本来持っている性格のためもあって、なお今後明らかにすべき点が多い。と同時に、略記したがために、すでによく知られている部分について、とくに記述せずにおいたものが多くある。
 別に掲げた県内の民俗芸能分布地図は、全体的な把握を助けるものである。また、より詳細に研究・調査の現況を知るためには、巻末に掲げた研究文献目録が手引きとなるであろう。
 将来、ビデオを主とする記録方法にも、同角度からのものと、角度を変え、要所をとらえるのとを併用する方法が確立され、グループによる総合的研究の方法も人を得て恒常的に確立され、それが全国にわたり、しだいに東アジアへ、さらには全地球的規模のものへと拡大していくことが当然予想される。その仕事の大部分は、本書を読みこの章を読むであろう若い人々のために開かれ、その意欲と行動を待っているのである。