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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

二 出産に関する習俗

 産 屋

 お産をする場所は近年、病院になってきたが、『愛媛県民俗地図』によると大正時代、県下のほとんどの地域では、婚家のオクノマ・オク・ヘヤ・ナンド・ネマなどと呼ばれる家の奥まった三畳ほどの、うす暗い部屋が産屋(産室)として、当てられていた。初子だけは里のそうした部屋で産むこともあった(南・北宇和郡ほか)。産後三週間して夫が産婦と生児を実家から、連れもどす。これをヨメモドシという(宮窪町)。明治末期頃、ネマのほかに便所が産屋になったというところもある(内子町大瀬ほか)。うす暗い部屋を産屋に選ぶのは、他人を遠ざけるため(宇和島市)とか、産は汚れているから日光に当たると罰があたると信じられていたためという(新居浜市)。魚島村では土間にムシロを敷いて産んだ。
 別棟の部屋・小屋をサンヤとかヒマヤとか呼び、そこを産屋としたところもある。宮窪町友浦のヒマヤ、上浦町瀬戸カンス山にあったといわれる部落共同の産屋、伯方町北浦の別棟の納屋あるいは同所吉田の奥のヒマイ小屋・西条市西之川にのこる高須賀家のヒマヤ・一本松町宮川の産屋(半間の入口、他は壁塗り)などがその例である。瀬戸町塩成では、部屋数の少ない家はナンド・ヨマに竹笹を立てて、一部屋を二つに仕切り産室にした。八幡浜市向灘勘定の宮島様の信者の家では、二畳くらいの仕切りを部屋にして数日前から床をとって安静にする。
 「コモの上から育てあげる」(新居浜市)という言葉があるように、産屋は、畳を一枚ほどあげ、コモ・ムシロ・油紙(カッパ)などを敷き、その上にボロ布や竹の敷物を敷くのが普通である(弓削町粟手ほか)。新居浜地方では、産気づくと畳を一枚あげ、床板または簀子の上に荒コモを敷いた。荒コモは、ナガザシといって米俵の内俵を切り開いたものである。藁を焼いた灰を綿のかわりに入れたワラブトン・ハイブトンを敷くところもあった(玉川町桂・伊予市上吾川・朝倉村白地ほか)。伯方町北浦では灰を敷き、藁をうず高く積んで出産した。ワラブトンをつかうのは水が溢れてはいけないからという(今治市中寺)。明治のころまで、天井から力綱を吊し、これにすがって座産をした(松前町東古泉・三崎町串・大西町別府ほか)。籾殼の大きな座ぶとん(小田町臼杵)や米俵・麦俵にもたれて出産した(小松町新屋敷・河辺村植松・北条市ほか)ところもあった。御荘町長月では、第一子の出産の時は、畳をあげてゴザを敷いたが、第二子以下は畳もあげず、そのままであったという。

 産の忌

 出産による穢れを赤火・ハナビ(柳谷村ほか)といい、また産のブクがあるともいって、産婦は一定期間、家族とは違った生活をした。一般に別火といって、食事を別に作ったり、とったりする。南予の漁村では「黒忌三日、赤七日」といって人が死んだときの忌より重いと考えられてきた。この忌の間、産婦は、台所へ入ってはいけない(松山市高浜)、生児を抱いて神棚のある室へは入らない(新居浜市東須賀)、産婦に精をつけるためモチ米を食べさせる(松前町大間)、炭焼きの人の家には「炭火を踏み分けた」といって行かない(吉海町仁江)、山仕事の家では厳重に別火を守る(一本松町)、漁には出ない(西海町小浦)、家内の神々を祭らない(今治市波止浜)、生児を外出させず、もしするときは子の頭からオシメを被せなければいけない(新宮村馬立柿ノ木)、川を渡らない(松山市西垣生)、赤火の家へ行くと、帰り道に山犬が跡をつける(津島町御槇)、魔がさすといって、外出せず(伯方町北浦)といった禁忌などの俗信がある。
 一定期間が過ぎるとアカビアケ・ヒアケ・イミアケなどといって、産婦は床上げし、産屋を出る(デソメ)。その時、塩祓いをし、水神を祭り、井戸を清めるカワデをするところもある(南・北宇和郡)。産の忌が明ける日数は表8―1に示すとおりである。

 産神と産飯
        
 産をさせてくれる神はウブガミ・オブノカミなどと呼ばれ、出産前後の産婦や生児を守護してくれる。山の神・ほうき神・かまど神・かわや神・ウスの神・ますの神・まくらの神・子安神・シオガマ・アワシマサマなどをさす。これらの神様が寄らないとお産ができないという(吉海町椋名・内子町)。広見町岩谷では小児の魂をウブと呼ぶ。ウブノカミは、安産のみならず、新しい生命を守護するのである。久万町槇谷の産神は子が一五歳までは、守護してくれるという。御荘町長月・菊川ではオブノカミを迎えるといって、川原に行き、小さな丸い石を二個拾ってきて祀る。久万町では出産が始まると最初に来るのが塩釜様で、皿に塩を山盛りにして床の間に供え「早く他の神様を呼んで下さい」という。新居浜地方では「この家にも生まれたから、産神さんは今度はどこそこへ回るだろう」と地区内の産の近い家を指してうわさした。
 産気づいたら便所とオクドサンをきれいに掃除すると産が軽いといったり(松山市上伊台)、クドを築いたら三つ口の子ができるという伝承は、カマドガミ・便所神が、産神であることと無関係ではないのである。
 産神は、出産と同時に家族が祭る場合が多い。ウブトコノメシ・ウブトコノママ(西条市西之川)・ウブヤメシ・エクボメシ・ウブメシを炊き、子の枕元に供える。飯は高く盛り、エクボができるといって両横をへこませる(城辺町大僧都)。箸で二度つつけば、二つのエクボができるという(大洲市)。ウブメシに小石二個(津島町御槇)とかイリコなどのお頭付きを添えて祈願する(伯方町北浦)。ウブメシは産婦・産婆に食べさせ、近所の子にも食べさせる(南・北宇和郡)。子供が丈夫に育つようにと、大勢の人に食べてもらうところもある(西海町)。新居浜市東須賀などでは、産飯を一升は炊いた。一升に足りないと知恵遅れになるといった。生児の首が早くすわるといって、小石をウブメシの皿に入れて添える。産湯を使ったあと、ウブメシを豆腐の煮たものや二合入りの徳利に入れた酒などと一緒に産湯に運ぶと、産婆は産神に礼を述べて、拍手して酒を少しその座へこぼして祀る。産婦に産飯を食べさせる。一升炊いた残りの飯は、手伝った人全員に強いて食べてもらう。子が丈夫に育つというのである。松山市では、出産後三日目に産神を祭る。アズキメシを炊いて産神に供える。産毛を剃り、ヘソノオと共に保存する家もあった。南予では、名付けがある三・五・七日目のいずれかにウブメシを産神に供えるところが多い。赤飯・酢の物・漬け物・カナンド(カナガシラ)など頭のかたい魚・拳大の雨だれ石とか川原石一~二個を必ず供える。石は生児の歯を強くするための呪いだといわれる。内海村平碆では、平碗に飯・浜石二個・白髪少々、鼠の糞少々がウブメシの膳部で、お七夜(七日)に供えられる。膳に添える小石を徳島県では力石というが宇和島市ではウブイシと呼ぶ。

 産 婆

 お産に手助けのいる場合、少し気の強い器用なムラの老女が産婆の役目をになった。トリアゲバア・トリアゲオバアとかトラゲバアサン(玉川町ほか)・ヒキアゲバア(中島町)・コトリオンバ(城川町)・ヘソバア・コトリバア・ハラトリバア(以上、南・北宇和郡)と呼ばれる。産婆はヘソノオを始末し、産湯を浴びせた。七日目の名つけ祝には必ず主客として招かれる(西海町福浦ほか)。中島町津和地では、ヒキアゲバアにオトビノモチを搗いて節季に贈る風習があった。三崎町大佐田ではトリアゲバアサンが死ぬまで生児との関係が続く。毎年、正月二日にお年玉といって餅を搗いて贈り、その葬式に必ず出席しなければならなかった。
 分娩を産婦一人ですませることもあった。新居浜地方に、産の軽い人が魚売りの帰りに林の中で産み落とし、腰巻きに包んでイバチ(魚を入れて頭上運搬する器)に入れて帰ったという話がある。美川村でも山仕事に出て、ヘバリ(陣痛)が起きて、山で一人で産み落として前掛けに包んで家に帰ってきた人も多くあったという。

 分 娩

 産婦は、その年のアキノホウに向かってとか、神棚・氏神の方向へ頭を向けて分娩する。宇和島地方では南枕・北枕を忌む。昭和の初めごろまで、分娩の主流は座産で、関前村などでタチウミといって体を起こして生んだ。また同村岡村島では大正年間以前の出産方法として、介添者が一~二人とか、産婦が一人で産むことがあった。二人の介添者の場合、産婦は少し膝を開いて跪き腰を浮かして、ヤマトゴタツの上に腰を掛けた前の介添人にすがるように抱きつく。後の介添者は膝の先端にのせた手を産婦の肛門部等にあてがい、陣痛に合わせて力いっぱい押さえ(後押しという)、三人が力を合わせてお産が行われた。
 新居浜地方では、畳をあげて敷いた荒薦の上に、前方にコタツヤグラを置き、サンボロ(古蒲団や衣類などの洗濯したもの)を敷いてすわり、ヤグラにつかまってツクナン(うずくまる)で産んだ。青竹を握り、それを割るほどに力をこめなければ産めないといった。内子町でも座産で後から人に支えてもらって生んだ。また難産のとき牛の鞍を産婦に被せたりした。宇和島地方では米俵に抱きつかせ後方から尻をたたいて分娩させるという極端な方法もあった。また南予の農山漁村の一部ではお産蚊帳といって、分娩の時、三隅吊りにした蚊帳の中で妊婦がお産する風習があった。蚊張の中だと子に魔がささないからだという。また中山町では、分娩後、直ちに塩水を布にしめして生児のロと耳を洗っていた。

 後 産

 後産は胎盤のことでエナ(胞衣)とも呼ばれ、胎内での子供の毒が集まっているといって、柳谷村中田ではこれを毒袋と呼ぶ。これが体外に出ることで分娩は終了する。後産が出にくいときは、鍋墨を飲ます(宇和島市)、チシャの葉を塩でもみ、その汁を飲ます(大洲市大川)、「あとの太夫に見参申そう」と三番叟を歌う(肱川町)などした。後産が出ないと命取りになるとかで随分気をつかったのである。また後産の始末は子の成長にかかわるといい、埋め方が悪いと夜泣きをする(伊方町河内)といって、その埋め方にとりわけ気をつかった。共同墓地の所定の場所に埋める方法が一般化する前には種々の処理方法があった。
 (1)人に踏まれない場所に埋める。―産場の床下に埋める例が多い。西条市西之川では大正年間まで、座板をはねあげてウブトコと呼ぶ床下の土地に穴をあげて、柄のない竹製のシャクに入れ、石を被せて埋める。ウブトコはその子のフルサトという。トリアゲバアサンが折り箱に入れイリコなどのヒレモノを添えて(松山市小野)、油紙に包んで(別子山村弟地)、主人が布に包んで箱に入れて(重信町上村)、漆器の椀に入れて(砥部町万年・新宮村ほか)、茶瓶に入れて(小田町寺村)、柄のない杓に入れて(南宇和郡)それぞれ床下に埋めた。あるいは、ニワの隅に埋めてあるワラを打つ丸い石のそば(内海村柏崎)や、ニワのワラウチイシの下に主人が埋めた(城辺町神越)。
 (2)人によく踏まれる所に埋める。―頭が硬くなるようにと家の入口に埋める(南宇和郡)。城辺町大僧都では主人が、雨だれ落ちまたは人の踏む所に埋め、そこを初めて通るものを子は恐れるようになるといって、ヘビやムシが通る前に父親が踏む。埋めた場所を父親が初めて踏打というのは、津島町御槇(オリバシ=上り端の下に埋める)、北宇和郡(屋敷内の木の根に埋める)などにも聞かれる。
 (3)海岸や川原に埋める。―トリアゲバアサンがボロに包んでコモに巻いて砂浜に埋めた(松山市高浜、伊予三島市寒川ほか)。夜、干潮時に沖合いに穴を掘って埋め、上にウメ石をのせる(吉海町)。産婆らが埋める時「じゅんごんさん(竜宮さん)、この場だけは貸して下さい」と唱える(宮窪町浜)。カメかビンに入れアキノホウの海岸に深く埋める。これを竜宮様にあずけるという(伯方町北浦)。南と東の間のアケホの方角にも埋めた(弓削町粟手)。
 (4)海・川に流す。―産室のムシロで巻いて明き方の海へ流す。万一、金神様に流れつくと悪いという(今治市波止浜)。近所の人が米一〇粒とイリコを一緒に紙に包んで紐で結び、それに石を一個つけて海に捨てる(関前村)。
 (5)家より南の方(伊予市北山崎)とか巽の方角に埋めた(久万町)。
 (6)その年のアキホウの山に埋めた(河辺村植松)。
 なお、埋める時刻は、一般的に朝方か夕方の人目に触れない時を選んだ。

 ヘソノオ

 根元から三寸くらいのところを麻緒でくくり、三、四日後に産婆が竹ベラで切る(重信町)。大洲市大川では雨だれの石を台として竹ベラで切った。機の縦糸でくくるところもあった(久万町下畑野川)。西条市西之川では二か所をイチモンソ(白い麻糸)で縛ってその中間を鋏で切る。関前村岡村島でも同様に二cmの間隔で二か所を白木綿糸で結び、その間を鋏で切った。残りのヘソノオは母親のモモにくくりつけておくと、一週間でもげるという。自然に乾いてとれたヘソノオは、産毛と共に保管し、死後、納棺するのが普通である。重信町では長男のヘソノオは、家を建てるとき、大黒柱の下に埋めるとよいという。西条市では桐の箱に入れ、女なら嫁入りに持参する。針箱に入れておいて知らないうちになくなる方がよいともいう。奉書に包み子の生年月日・出産時刻を記して水引きをかけて保管するのは松山・今治地方でみられる。難船して死体があがらないとき、ヘソノオを遺体の代わりに産毛とともに埋葬した(新居浜・宇和島市ほか)。ヘソノオを煎じて飲むと死病も一度は治るとか(新居浜市)、淋病・精神病の薬になるとか(今治市波止浜)、子の腹痛に飲ますと効く、カッソといってクイが立った時にはると自然に抜けるとか(大洲市)、テンカン・ヒキツケのときに飲ます(柳谷村中田)、勝負事に持参すると調子がよい(玉川町)など、いろいろな効用が伝承されている。しかし、ヘソノオをこうして使えば、本人の寿命は縮まる(今治市波止浜)、弱って病気になる(宮窪町余所国)ともいわれる。また、ヘソノオを短く切ったりすると、小便が近くなる(同所)という。

 産 湯

 産気づくと、直ちに用意するのが産湯である。産湯ののち三日目と七日目に湯に入れた(大洲市大川)。産湯に酒(今治市ほか)とか、産湯を漆器類に入れて用いる(宇和島市ほか)とかすれば皮膚病を患わない。ネズミの糞と酒を少々とクレナイ(薬草)と甘草を溶かして入れた(大洲市長谷)。新宮村馬立柿ノ木ではハゼの木で、産湯を沸した。産湯のとき、ホオを指で押しておけば、エクボができるという。また産湯の捨て場にも気をつかった。産室の床下に流して捨てるのが一般的で、便所へ捨てるところもある。新居浜市では、「産神さん避けてくださいませ」といって海へ捨てた。松山市では、一杓だけを汲んで捨て父親がその捨てた場所を踏む。残りはどこへでも捨てた。女児の産湯は屋外に、男児のは屋内に捨てた。三崎町大佐田では、産室の外側の土にしみ込ませ、そのまわりに竹を立てて一六日間は、陽が当たらないようにした。

 産見舞い

 出産後、親戚・近所から魚・うどん・米の粉・赤飯・餅・おはぎ・団子などが贈られる。これに対して名付けの日に押し寿司に名札をつけて配る(新居浜市東須賀など)。三日過ぎたころ、米五合(昭和二〇年頃からお金)をお重に入れて見舞いにくる。これを西条市西之川ではウブヤシナイという。松山地方の産見舞いは嫁の里からの白身の魚である。宇和島市日振島では、ミヤシナイといって、七夜までに赤飯・餅等を親戚、近所が届ける。そのほかアカビの慎みを厳しくいう南・北宇和郡では、お七夜まで近隣の人が産の家に行っても、お茶さえ飲まないで帰ったりする。お七夜になって、産見舞い・産祝いが届けられる。関前村岡村では産見舞いの品は、七日目の名披露までに届けられる。

 産婦の食物と禁忌

 産後は粥と梅干しか食べてはいけない(柳谷村)。チヌを三日以内に食べると悪い血をおろすので必ず食べる、里芋の茎も同様である。(川之江市金田ほか)。チヌのない時は、イモのずいき、ボラを代用する。三日を過ぎると、身体が元通りになる七五日までは食べない(新居浜市)。松山市では七夜までに黒鯛を食べると古血をのけることができるという。モチ米の粉団子や寒の水にたくわえた寒餅入りの味噌汁が腹をととのえる(新居浜市)。ズイキ(イモガラ)の味噌汁(野村町中筋ほか)、タイの味噌汁(久万町)、オコゼかチヌの味噌汁、里芋の茎の乾燥したものを入れた味噌汁やクズ(葛)等を溶いたものを飲むと乳のシンがよくとけ、乳がよく出るようになる。産後初めての食事に松葺の味噌汁を食べれば腹痛を起こさない(大洲市)。鯉の塩汁は産後七日までに飲むとよい(久万町畑野川)。
 産婦が食べてはいけないものも多い。豆腐は乳があがる。青身の魚とくに鯖は、乳児が下痢をおこす、血の道が狂う、乳児に湿しんができるとかで一〇〇日までは食べない。鶏肉は絛虫がわく、生餅はリュウマチになる、あずきやソバは産婦の血が冷えるとかで七五日までは食べない(久万町)。干柿も血が冷えるので一年間は食べない(北条市ほか)。コショウ・カラシなどの刺激物(北条市)や油っこいものを避ける(柳谷村)。血の出ない魚貝類―たこ・いか・えび・かに・かきは身にさわるので産後三三日あるいは七〇日までは食べない(川之江市金田ほか)。ヒラメ・カレイは八〇日ほどまでは、食べない(新居浜市)。大洲市大川では、産後七〇日間は、あずき・干柿(あまぼし)・黒砂糖・油揚げなどを食べると血の道にかかりやすいといって、避けた。
 次に生児の飲み物で、全県的にみられるのが、ゴコウ(五香)である。生後三日間は乳を飲ませるかわりに、生児の毒をおろし、カニババ(胎便)を出すために、五香を振り出したものを、紅絹で乳頭状にしたものにつけて、生児に吸わせる。ゴコウを吸わせることを毒ザラエといい、一生その子におできができないとか腹痛にならないという(柳谷村)。川之江市金田では、くれない・甘草・フキの根・ショウブの根・イタドリの根をゴコウと呼んでいる。北条市ではカンゾウ・フキの根、野村町中筋では紅花・甘草・フキの根をそれぞれゴコウと呼ぶ。大洲市大川では、初めて泣き声をあげるとゴコウを飲ませる。その代用として、ヤグラ(米つき器)の音の聞こえないあたりにはえるフキの根を掘り、甘草を粉末にし絹布を乳大にしたものに包み、湯に浸して吸わせる。胎毒下しという。

 出産に関する俗信

 必ず満潮時に生まれるとか(三間町ほか)、三合満ちが最もよいとかいう。潮の引いているときに生まれた子は出世しないとか(今治市)、早く死ぬというので、それをよけるため、生児の名に「満」の一字をつける(南・北宇和郡)。小松町大頭では、産み月の人に、塩を貸してはいけない、もし貸しておって産気づいた時は、直ちにもどしてもらうという。
 産気づくことをシオヤミといい、シオヤミがあると、生味噌を水に溶いて盃一杯くらい飲ませ、出産時に生卵を飲ませる。これは後産がこなくなるのを防ぐためという(久万町)。臨月が近づくと、近隣から「呼び出しうどん」をごちそうになる。産がうどんのようにスルスルといくようにという意味がある(宮窪町余所国)。その他に難産のときの安産呪法として主に、次のようなものがある。相撲の土俵の柱に巻く紅白の布を腹に巻く(魚島村)。
 「七ウネ、七タニ」の水を流れに添ってすくいあげて産婦に飲ます(城川町上影)。熊の足で妊婦の腹をさする(美川村)。ハヤメノゴフをくくる麻糸を解くとすぐ出産する(松山市)。角力の勝者がもらうボンデン(津島町)やほうき(三崎町)を立てる。「破れまぐれは、子はぞろぬけ」と書いた紙をコヨリにして、それを鋏で切って飲む(内子町知清)。犬のくそとほうきの先を切ったものを一緒に紙に包んで産婦の頭にのせる(久万町西明神)。「一のひもとく、二のひもとく、三のひもとく、アブラオンケンソワカ」と唱える(玉川町)。「みばんの丹波のあなうでかかるより、生まれろしみのあなうやと、思われ頼め十声一声」と唱える(中島町野忽那)。夫が臼を担うなど、妻と同じ苦しみをすると産は軽い(南・北宇和郡)。屋根に上って、笠や箕を振りながら、産婦の名を呼ぶとか(西海町ほか)、屋根の瓦二、三枚をはいで、名を呼び、次に井戸をのぞきながら、また名を呼ぶ(宇和島市日振島)。
 産室に石女(うまずめ)が入ると、産が遅れる(松山市)。また他の妊婦は、産室に立ち寄らせない。産婦と妊婦の間で、勝ち負けがおこるという(新居浜市)。夫がお産に立ち合うと、次子からも夫のいる時でないと生まれない。夫がいない時に産気づくと、夫の着物であおぐとよい(新居浜市、伊予市上吾川ほか)。南・北宇和郡の漁師は、妻がお産の時、沖に出かけておき、家に居あわせない。妊娠中、夫婦げんかをすると双生児が生まれるという(野村町)。双子芋を食べると双子を産むとか、双子のうち一人を粗末に扱うと、もう一人が「連れて行く」(死ぬ)ので、二人とも同様に育てねばならないという(柳谷村)。
 七月子は育つが、八月子は育たない(大洲市)。産前のカゼは分娩すれば治るが、産後のカゼは治りにくい(大洲市)。エナ(後産)を埋めた床土を鍬でたたくと、子が泣き味噌子になる(久万町)。産婦が自らのエナに腰掛けると、産後の肥立ちがよいという(今治市波止浜)。

 異常分娩

 死産が数人続くことをクルマゴという。クルマゴをなくすため、その死児を逆さまにして埋めた(新居浜市)。人形と共に葬ると次に出来る子は健康であるという(松山市)。死産嬰児の死体は床下に埋めるが、コノシロを添えて葬れば、直ちにまた妊娠するか、早く生まれ変わるという(宇和島市)。難産で妊婦が仮死状態にある時、鍋ぶたであおげば、息を吹き返す。産児が泣き声をあげない時も、鍋ぶたであおげば泣き出す。毛束を妊婦の口中に挿入し、グワッとむせんで下腹に力の入った時に、分娩させたりもした(宇和島地方)。

 妊産婦の死亡

 難産で死んだものは、血の池に逆さまに入れられ、頭髪が血の池にとどけば、逆さ吊りはやめられるというので、亡者の髪に長い苧をつないで棺に納める。難産で親子が死ぬと、背中合わせにして葬る(大洲市大川)。「川渡し」といって経文を書いたサラシを川に流した。また人通りの多い所に竹に白木綿を張ったものをおき、通行人に石をひとつずつ置いて水をかけてもらうと成仏するという(久万町など)。美川村長瀬では、産婦の死を「ウブヤで死ぬ」という。死後難儀するので、その家の人が七月七日に川原で芝を流してその供養をする。宇和島地方ではかつて、妊婦が死亡すれば、その霊魂は迷うと称して、身二つにして葬ったという。

 乳幼児の死亡

 妊娠四、五か月で流産した子をミズコといい、特に供養せず、墓に埋めた(内子町)。月が足りなくて死んだ子は「ウブヤ流し」といって墓に埋めた(久万町槇谷)。生後すぐに死んだ子は「四十九日流れ」といって、四十九日で法事をやめる(久万町下畑野川)。名付けまでに死んだ子は水子といって、昔は屋内の大黒柱の周囲か、ヤグラ(米つき器)の間に埋葬した(大洲市大川)。

図8-1 産部屋のある家(宇和地帯の民俗より)

図8-1 産部屋のある家(宇和地帯の民俗より)


表8-1 「産の忌」期間

表8-1 「産の忌」期間