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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

一 婚礼の習俗

 今日、ホテルや公民館等での結婚式においても、結納・仲人・三三九度などの要素はつきものとされる。経済的な簡素化は図られても、婚礼を構成する儀礼のいずれかを省略すると、何か前途によくないことが起こりそうな気持ちにとらわれがちである。こうしたこだわりの背景には、古くから伝承されてきた婚姻にかかわる習俗が存在してきたのである。ここでは、昭和初年以前の習俗を中心にみることとする。表8―3で明らかなように、家あるいは階層などによって、婚姻習俗はさまざまである。したがって以下の記述は、その地域の平均像とみてよい。

 通婚圏

 明治一〇年の戸籍調査によると、松前町東古泉字四ッ黒では二四%が村内婚、七六%が村外婚であった。久万町でも各地の商人がよく通る宿場町であることから、その紹介で、小田・美川・面河の町村との通婚がわりあい多かった。しかし概して村内婚が基本であった。よその村からもらうと、信用がないからとか、売れ残りとかいわれた(三崎町大佐田)。村内婚といっても、交際費を倹約するため(津島町大道)とか、財産を他人に分けたくないから(美川村大谷ほか)、親戚が増えないため(同村簑川)、とかを理由に、イトコ婚、フタイトコ婚が多かった。
 県境の市町村のうち、新宮村馬立、伊予三島市富郷・一本松町、美川村東川あたりは高知県と、また新宮村大窪は徳島県とそれぞれ通婚してきた。これらのうち、美川村東川では、高知県からは嫁入りしてくるが、逆に、高知県へは嫁入りはなかった。土佐は峻険な山畑が多く嫁がつとめにくいという理由からといわれる。西海町内泊は、その開発浦である同町麦ケ浦、大成川とは特に親しく通婚している。

 婚 期

 今日、青年が結婚を希望する年齢は、厚生省人口問題研究所が昭和五七年に実施した「独身青年層の結婚観と子供観に関する調査」によると、男二五~二八歳、女二三~二五歳であるという。以前は、男は二二~二三歳(忽那諸島)とか二二~二五歳(内子町)、二三~二四歳(中山町)、女は一八歳前後(中島町)、一八~二一歳(内子町)、一六~二三歳(三瓶町鴫山)、一四~一八歳(野村町渓筋)、一八~一九歳(中山町)などと地域によって異なるが、とくに女がこれらの年齢を過ぎても結婚しない場合、ソバタネ・イカズゴケ(玉川町ほか)、ウバ桜(三瓶町ほか)、ウレノコリ(内子町袋口ほか)、タカナグレ・オバマツ(中島町)と呼ばれ、評判が悪かった。宇和島市九島では「娘一七、八花ざかり、もはや一九のしおれ花」といって、一九歳になっても縁がない場合、娘のために「一九の祝い」をした。餅を搗き嫁入りの早からんことを祈ったのである。
 また、嫁となる女の条件は、年齢のほかに、よく働き親を大切にする(中山町ほか)、乳が出て仕事ができ、家をうまくまとめることができる(美川村)、機を織ることと鰹節を作ることができる(西海町内泊)ことなどがあげられる。こうした嫁の条件が嫁入り道具を規定したところもある。たとえば西海町内泊は、カツブシ作りの道具一式が常に、重要な嫁入り道具の一つであった。

 スキアイ

 結婚することを婿方では「ネエサンをやとう」、嫁方では「ヌシづく」という地方がある(柳谷村)。
 一般に結婚のきっかけは、スキアイ(恋愛)と見合いである。
 スキアイによる結婚は「わらびがひっついた」といって、いつまでも特別な目でみられること(菊間町)もあったが、若衆宿・泊り部屋があった時代には、盆踊り・村祭り・村芝居などをとおしてスキアイ関係へと発展した例も少なくなかった。この場合、スキアイ関係を成立させる上で重要な役割を果たした習俗がヨバイである。この言葉は「呼ぶ」に由来し、仮死状態の人の名を呼ぶ「魂ヨバイ」のヨバイに通底する言葉であるが、多く「夜這い」と誤った宛字が使われてきた。このヨバイを通して成立したスキアイ関係を別にオキセン(中島町西中島)とかシロモン(瀬戸町三机)と呼ぶところもある。「シロモンになる」といういい方をするのである。
 ヨバイは、若者宿に集まった若者が、娘の家や、娘宿に夜、遊びに行くことである。上浦町盛では、ヨバイとよばないで、「ヒヤツボヘ遊びに行く」といい、「夜の客でニワから入ったらオヤジの客、縁から上がったら娘の客」といった。ヨバイ提燈という懐に入る程度のものを持ち、「ヨバイするなら八月九月 風のころよし夜は長し」などと歌いながら出かけた(内子町)。娘たちは、その夜、男がヨバイに来ることを何らかの合図で知った。藁打ち石の上に小石をのせておくとか(津島町)、物干し竿をかるくたたく(久万町)とかした。一本松町ではヨバイに行った若者は、朝の一番鶏が鳴くと帰って行くのが習いであった。ヨバイの相手が他村にいる場合、その村の若者に「娘をかせや」と挨拶しないと、あとで事であった(柳谷村)。西海町内泊では、他村の者との恋愛がわかると、その娘の髪を若衆中が切り落した。これをオトスといった。また、男女の仲を仲介するフナワタシが存在した。フナワタシは、必ず自分の顔を立ててくれといって娘に申し入れをした。フナワタシはテマガエ(労働力交換)にし、多くは、親しい朋輩同士がお互いに世話しあった(津島町御槇)。またヨバイで男が同時に二人の女と関係した場合、第三者としか結婚できなかった。これをリョウギラシといった(柳谷村)。女に気に入ってもらうためには努力と忍耐を要し、辛抱強く通いつめることが大切といわれた(吉海町津島)。なじみの娘(シロモノとかベッピンと呼び、魚島村ではゲンサイといった)を多く持つ男は、ハキキといって幅がきいた。シロモノが一人もいない男は一人前の若い衆とは認められなかったところすらあった(南宇和郡)。こうしたヨバイの風習も、たとえば南予では、大正年間に娘たちが多く、大阪方面の紡績工場に出稼ぎに行くようになってから、下火になったという。
 ヨバイで子供ができるようになっても、その恋愛結婚(スキアイミョウト―東宇和郡)を親が認めないこともあった。その場合、子は男の方に引き取られ男の両親の子として入籍するとか(野村町)、テテナシゴと呼ばれ、男の方から毎月のチチ料を一年間ほど渡され女が育てた(内子町)。第三者の口ききでも親の許しが得られない場合、ハシリコミとかハシルとかいって、心安い知人などの家に二人して駆落ちをする。ハシリコミを三回してもなお親が許さない時は、あきらめた(中島町粟井)。久万町直瀬では、男が女を連れて駆落ちすることを「カタイデモンタ」といった。若い衆宿の多かっか南・北宇和郡では、トバシといって、適当なところに二人をかくまい、若い衆宿の宿頭が宿主率土地の有力者に働きかけて、親に対する説得に当たってもらった。宿頭今宿朋輩が、若い衆宿の成員の結婚成立に果たした役割は大きかった。

 仲人と見合い

 自由恋愛のほかは、仲人などの世話によって見合い結婚が行われてきた。仲人はナカドサン(久万町ほか)、ナカドニンサン(小田町・美川村)、ナコド・ナカド・ナコウドと呼ばれる。魚島村では、男の側の仲人をオヤブン、女の側の仲人をヨボシオヤといって、区別した。仲人には、婚礼までの一切を取り運ぶものから、頼まれ仲人・座り仲人といって結納・祝言の時だけの媒酌人としての仲人まで、いくつかのタイプがある。一般に、村の有力者か知人、若衆の宿の宿主が仲人となった。
 仲人は縁談を取りまとめるために「わらじ百足を踏みきる」(一本松町)とか、「七足半の草履を破る」(川之江市金田)とかいわれるとおり、東奔西走しなければならなかった。話を取りまとめるのに、仲人が世話する前段階で、シタギキ(上浦町瀬戸)・下内(関前村岡村)・根オコシ・下走り・橋カケ(一本松町)とよばれる紹介者がいて、両家のせぶみをしたり八、九分通り話しを決めたりした。彼らが、話の進展具合によっては、そのまま仲人になることもあった。
 「仲人は宵の口」「宵のもん」(重信町)「夜知って、朝に知らん」(久万町上直瀬)「仲人は玄関まで」の言葉があるように、仲人の責任は、結婚式までをその範囲としたところがあった。仲人に対して結納の一割程度をお礼するほか、「仲人三年」(吉海町椋名)といって、仲人に対して三年間は、盆・正月に、お茶・そうめん・履物(麻裏)などを贈った(宮窪町浜)。
 見合いをする準備として、お互いに家の釣合いや、資産状況、家族や本人について下聞きが行われる。「釣り合わぬは不縁のもと」で、スジメ(城川町)と呼ばれる家格の差が特に重視され、「木戸が合わん」(東宇和郡)かどうかを下見したのである。見合いは、農家同士だと一般に「牛見」の方法が採られた。「牛を見せてくれ」といって、牛を見に行くふりをして、娘や家族の様子を盗み見てくるのである(川之江市金田ほか東予・中予)。

 婚約と結納

 縁談がまとまると、仲人が嫁方へ物品を送り届け、酒を飲み交わしたりして婚約が成立した。物品そのもの、あるいはこの婚約成立の儀礼のことを、カタメ・ナゲイレ(川之江市金田)・ゾウモン・スミゾウモン(越智郡島嶼部)・タノメ・タノメザケ・スミザケ(上浦町・広田村高市ほか)シキリ(新宮村木颪)・ミヤゲ(別子山村)などという。
 贈る物品は、米(八木) 一升・酒一升~五升・鯛などである。八幡浜市大島ではタノメといって、男が女に帯を贈ることで婚約が成立した。宇和島市嘉島ではタノミの酒にソウメン二、三百匁を必ず添えた。関前村岡村では、仲人が酒一升・米一升・鯛二尾を嫁方へ届ける。スミノ酒という。嫁方は、その後、親戚を呼び「うちの子は○○家へすんだけん」といって披露する。中島町では本祝言の前に、双方が米・酒・魚を取り交わす。ミチアケという。ついで娘を婿方に連れ帰り、二人で米をかみ合う。コメトリ・コメクイ・スマスという。同町上怒和ではイキゾメという。同野忽那では婿方のオジの家で、娘を招いてスマスをする。そのとき、簡単な馳走のあと、カネツケをした。現在は口紅をつける。ついで、嫁を婿方に、婿を嫁方に相互に招いて馳走をする。これをアラワレといい、婚約が成立する。生米をかみあう習俗は西条市西之川にもあり、コメカミと呼んでいる。小田町野村では縁談が成立すると仲人は嫁になる人とその親とで酒を酌み交わす。これをスミザケという。
 縁談に親の意見がとおる時代に、タノミの酒を返さないかぎりは、娘は不本意でも、もうあとには引けないことが多く「娘いやがる頼みの酒を、飲んで喜ぶ父と母」とよくいわれた(南・北宇和郡)。
 「スミザケをすます」(三崎町大佐田)と、一か月ほどして結納となる。結納をタノメ(大洲市)とかタノミ(宇和島市九島)とか呼ぶことがある。婚約と結納の間が長すぎると「長びくと悪い水が入る」といって嫌った(柳谷村松木)。上浦町瀬戸ではスミシュ(済み酒)ののち、仲人は婿を連れ、結納を嫁方へ持っていく。その時、式の日取りを決める。南・北宇和郡では、戦前までは、タノミの酒と結納とが一緒に納められることも多かった。角樽一荷・生鯛二尾・末広一対・ノシ・トモシラガ・コンブ・スルメ・帯あるいは相当の金子そして白米一升・玄米一升が届けられる。婿養子の場合は、スルメにかわってカツオ、帯地にかわって袴地となる。吉海町仁江では、式の当日、帯地・下駄代といって結納金を嫁方に届ける。中島町野忽那も、式当日の早朝、満潮時を期して、親族内の両親のそろった子ども(男・女)五人に結納の品をもたせて届ける風習がある。一本松町正本・広見地区では式日が決まると結納を贈った。結納の品は、帯料(広見地区は実物の帯)・下駄・共白髪・子生婦(昆布)・寿留女(するめ)・足袋それにところによれば白米一升・玄米一升などである。近年は嫁入りの日にこれを行うようになった。
 先の婚約儀礼と結納が分離せず、婚約の確定がひとつの儀礼として行われるところもある。宮窪町浜では、仲人が持って行く結納のことをスミゾウモンまたはオビダイという。その内容は、結納金、米と酒各一升、鯛一対である。三崎町大佐円の結納は、スミザケのほかにカケノユオ(懸の魚)を持って行った。昭和三〇年頃にお金で納めるようになった。その当時で一万円であった。城川町の結納をタノメと呼び、仲人が樽の中に酒一升を入れて、スルメ・コンブ等を添えて持って行き、その時に式の日取りを決めた。
 結納を受け取った嫁方は、その金額なり贈物の一部を婿方へ袴料として返す。その半分を返すところが多く、「半返し」といった(久万町ほか)。宮窪町では、祝言の日の婿入りにタノメオビ(帯)を持って行き、嫁方からはタノメガヤシとして袴を返す。吉海町椋名の結納返しは七分三分、久万町高山では三分の一を返した。忽那諸島の結納は帯を贈る、嫁方からのユイノウガヤシに半分程度の袴料を返す。昔、下駄ぐらいを贈る時代にはユイノウガヤシはしなかった。一本松町の結納返しは、清酒二本のうち一本と、玄米・白米各一升のうち玄米だげを婚家へ持って行く。「生地のままの娘を白米のようについて、よろしく使っていただきたい」との親心を示すものといわれた。宮窪町浜では、結納金の一部(三、四割)、が袴代として婿方に返され、さらに婿方では、それを嫁の下駄代にと嫁方へもどすのである。
 物品の交換を伴わないで、婚約の確定する事例が中島町睦月にある。話がまとまると三日目に婿の親が先方へ挨拶に行く。嫁方はオハギを作って接待する。ついで、五日目にオヤマチといって娘の親が先方へ挨拶に行く。これまたオハギで接待する。このオヤマチののち、適当な日に祝言を挙げるのである。
 以上のように婚約の手続きが結納で完了することを「スメル」「スマス」とか「嫁の家へ道をあける」という。このあとは、婿が嫁方に泊まりかけて手伝いに行く(関前村)など、式を待たずに夫婦同様の生活にはいるところもあった。一方、破談のことを「水が入った」とか「話がやまった」といい、結納の前なら簡単に済んだが、その後では「倍返し」といって、結納金を二倍にして返さなければならなかった(久万町など)。

 婿入り

 婚礼・結婚式のことをシュウゲン(祝言)・カタメ(大洲市・北条市)・カネツケ(魚島村)などという。今日の結婚式と違って、かつての婚礼は夜に入ってから行われるのが習いであった。ところの者同士なら夜一二時ころから始まった(吉海町椋名)。婚礼当日、まずムコイリがある。これは嫁入りに先立って婿方が、嫁の家を訪問し、ご馳走になった上で引きあげる。その後で、同道している仲人は嫁を連れて婿方へ来るのが通例である。
 事例1 川之江市―婿の両親・親戚代表・仲人がムカエ下駄(草履)を持って嫁の家に行く。嫁入り道具を運ぶ迎え人足(加勢人足)が数人同道する。
 事例2 越智郡島嶼部―当日の夕刻、仲人・親戚・籠担いなど合わせて奇数人数で嫁の家に行き、酒をご馳走になって帰宅。その後、夜の一二時頃、嫁入りが行われた。
 事例3 忽那諸島―祝言の当日、婿、仲人、親戚の者が一升徳利にホゴ(魚)二尾を付けて嫁迎えに行く。先方でご馳走になって嫁を連れて帰る。
 事例4 美川村有枝―婿方から仲人・ムカエヨメ(少女)・タルニナイ(青年)が嫁の実家に行く。
 事例5 久万町父野川―ナカドサン・ヨメムカエ・オタルニナイ(タルカツギ)と親戚の主だった者が行く。ヨメムカエは嫁より年若いか同年輩の婿方の女子で、オタルニナイはノシの付いた赤樽二個を前後にかけて担っていった。
 事例6 大洲市―カタメの当日、仲人が婿・親族代表を伴って、婿のみやげに酒と鯛一対を持参して嫁方ヘムコイリし、酒食のもてなしを受ける。婿のみ早目に引き返して嫁入りを待つ。
 事例7 三間町・城辺町―仲人が婿・親戚代表・婿トギ・お樽持ちを連れてムコイリする。嫁方はカドイデという本膳を出して賄う。婿方が引き上げた後から、嫁入りが行われた。
 右の事例のうち1・2・4・5は、ムコイリに婿が加わらないので、むしろ嫁迎えの儀礼といってもよい。ムコイリにも早目に婿のみ帰宅する事例6とか、嫁と一緒に帰る事例3とかさまざまなタイプがある。ムコイリの際、事例3のようにミヤゲを持参することがある。鯛二枚と酒を持参し、嫁側は鯛一枚と酒半分を婿方に返すところ(長浜町櫛生)がある。八幡浜市中津川では嫁迎えの時、婿引出の袴一着を嫁方が贈る。ムコイリに、オヤコの盃事をするところもある。関前村岡村では、シャクトリの子供(一〇~一三歳)二人の案内で婿方が嫁の家に行き、お茶、次いでオカンシ(冷酒)を飲み、その後、オヤコの盃といって、仲人・双方の両親間、双方の兄弟の間、親戚の間で盃を交わす。シャクトリが酒をつぐ。この時、嫁は顔を出さない。この儀礼が済むと嫁入りである。

 嫁入り

 先に掲げたムコイリの諸事例のうち事例3のように、嫁迎えが婿方から出されたのも、日暮れとか深夜に及んで嫁入り行列が出発する。満潮時に家を出るところもあった(魚島村)。家紋入りの提燈を持つ先達が先頭になる。提燈の数が多いほど立派な嫁入りとみられた(玉川町ほか)。先達は「嫁見よ、嫁見よ」と道すがら人々に呼びかけ、嫁も自慢して歩いた(久万町)。嫁入りの様子をみて、衣裳の多寡・善し悪しなどを陰でうわさするヨメミ(嫁見)の習慣があった。「ヨメのもの言わず」といって、嫁入りのとき嫁は一切、口をきかなかった(三瓶町周木)。嫁入り行列の人数は婿入りの人数の倍返しといって多勢であった。「はんでいって、ちょうで帰る」(久万町)といって、婿方の嫁迎えが奇数人数で行き、嫁入りは偶数人数である。ちょうは縁起が悪い数字で葬式なみに二度ともどらない意味で「ちょう」で嫁入りするというのである。伯方町北浦では、仲人・親・親戚・ソウヨメ(添嫁)がついて行く。ソウヨメは一〇歳くらいの少女で、最高の晴着を着て嫁の傍に付く役で、式でも嫁の隣席に座る。三間町では、仲人が婿・嫁とともに出立し、ついで婿方・嫁方の順に出立する。一本松町正木では、嫁・嫁の両親・オジ・仲人夫婦・人足が重ね籠(蓋のない平籠)の中へ酒(角樽)・米・鯛を入れて持参する。内海村家串では仲人がタルモチ(小学生男子)を連れて酒一升を提げて迎えに行き、帰りには嫁の家の水一升を持ってくる。嫁にはマエヨメという女の子が一人ついてくる。城辺町長月ではヨメマガイといって同年くらいか少し若い娘が嫁について行く。中島町津和地では、一見して花嫁がどれかわからないほどに、嫁の友人数人がついて行った。ヨメマギラカシの風習である。三崎町大佐田では、仲人が嫁入り櫃ひとつ、鏡台ひとつを持って「イモ蒸しに来ました」といって、嫁を連れてきた時代があった。
 嫁入りを見物する人に対して、ナカドサンが「良い嫁さんが来たから、はやしてくれよ」というと、皆が「ヨーヨー」と囃した(久万町)。大洲市蔵川では「嫁入りぞ嫁入りぞ」と二、三丁も聞こえるように若者・子供が叫んだ。またすしの握り飯やボタ餅を見物人に配った。種籠をつけた竿を座敷の内へ突き出し、宿の人がボタモチを入れて出したところもあった(長浜町)。

 嫁入り衣装

 関前村では白装束で、頭から角隠しとしてヤッテンを被る。ヤッテンは絹製で、腰まである長い布のこと。以前は着物の片袖をかずいて来た。また、中島町津和地では花嫁とは名ばかりで、シンチョウとか束髪また庇髪などの平常の髪のままで、手織りの木綿か絹の袂袖に縮緬などの扱き帯を前結びにする程度であった。一本松町小山本村では花嫁は角隠しをしない丸まげで小袖・帯・白足袋に扇子を、花婿は羽織・袴・白足袋に扇子といったいでたちである。
 頭には綿帽子とか、幅五cmの白綸子もしくは羽二重で作ったメンタイボウシを巻き、その上に薄い透ける布で作った長いカズキを被り、三三九度の盃が済むとこれを取る(吉海町椋名)。髪型は、式は高島田、三日目の里帰りに丸まげにする(弓削町下弓削ほか)。

 嫁入り道具

 道具送りは嫁入りの時か、一週間ほど前に行われた。二回に分けて送るところもある。初めに蒲団・鏡台・針箱くらいを持って行き、子供が生まれたら箪笥・長持などを運ぶ(瀬戸町三机)。嫁入りの際に道具は一切持参せず、子供が二、三人できてからか、中には夫が死んだあとになるところがあった(中島町津和地ほか)。柳谷村では道具送りの人を、長持ちカタギ・フンドシカタギ・タンスカタギと呼び、櫃(道具を入れる箱)を担いで、両家の中間地点まで進むと、婿方の道具送りと交替した。中島町野忽那では、途中必ず四つ角を通過しなければならなかった。隣家へ嫁ぐ場合もわざわざ遠まわりして四つ角を通るのである。川之江市金田では、箪笥・長持などを運ぶ人足のほかに、カイゴブネ(畳一枚ほどの箱舟に祝物小道具を入れ、その前後に割竹で担い手をつけ、二人で担ぐ)や担い籠(酒樽等を入れ、一人で担う)など担う人足があった。これら人足の数は嫁迎え人足の倍くらいの一〇~一四、五人で、若くて酒に強い芸達者な人が選ばれた。嫁入り道具は、箪笥・長持・針箱・蒲団・鏡・蛇の目傘(一本松町ほか)などと決まっていた。中島町西中島では三つ揃いのタライ(ユトウ・シメシダライ・チョウズダライ)を嫁入り道具として最小限、持って行った。これらの道具を定紋入りのユタンで覆って運んだのは丹原町・久万町などである。伊予三島市はじめ東予地方に特有な習俗に、嫁入りにイリゴメやオイリ(豆)を持参する風がある。式の翌日、村の子供が、この嫁のミヤゲを貰いに婚家に押しかける。その量が多いほど、よい嫁入りだと見られた。また以上の表道具以外に持参すべき必須のものにヨノノフロシキと呼ぶ木綿の四枚はぎの大風呂敷二枚があった。これがないと嫁入りができないといわれた(久万町畑野川)。その他、背負い子とか負い縄(小田町)を持って行くところもある。柳谷村では、披露宴の席で、婿方の当主が負い縄二本を持ち出して嫁の前に置き。「これを嫁に渡しますのでよろしくお願いします」と挨拶をする。西条市加茂では、コギノと呼ぶ麻製の労働着を婚家が嫁のために用意して与える。こうした労働にかかわる品が婚礼に付きものとされた背景には、元来、婚姻が、貴重な労働力の交換(移動)という側面を持っていたことが考えられるのである。いずれにせよ、現実には嫁として、よく働いてもらうことが周囲の者の念願でもあったのである。
 宮窪町浜では、婚礼の前日に道具を運ぶ。その時、嫁方・婿方にそれぞれ扮して、次のような相撲節を掛け合いで歌った。

婿方「後へ帰ると思うなよ これほど支度をするからにゃ 後へ帰ると思うなよ」
嫁方「何を言うぞえ父さんよ 千石積んだ船でさえ 港出るときゃまともでも 風が悪うなりや後がえり まして私は嫁じゃもの 向きが悪うなりゃ後帰り」

 嫁入り道具は、結納の高に応じてその内容を整えるという要素をもつが、宇和島市来村の一部では、シタテドリといって、嫁の婚礼衣装から身の回りの荷物一切を婿側の負担によって準備し、嫁側に届けるしきたりがあった。このシタテドリの習俗は大分県国東地方にもみられた。

 行列の妨害

 嫁入り行列を若者たちが妨害する風が各地にあった。その妨害を「道つくり」(野村町小滝)・トウサンバア(柳谷村)と呼んだ。竹・木・石などで垣をつくり、これを「嫁さんの垣」と呼んだ(久万町上畑野川)。他村へ嫁入る時のみ、その道中に木材等で垣をして通行を邪魔した。この邪魔が多いほど名誉とされた(久万町)。中島町二神島では砂をぶっかけて祝った。嫁を「去なすな」の意味からであるという。伊予三島市富郷町寺野などでは、ひどい時にはコイタゴ(肥桶)をおいて嫁入りの妨害をした。宇和島吏戸島では松葉ツブテといって、行列に松葉を投げつけた。野村町では泥を塗った縄を道に張った。こうした妨害をする理由として、「行きにくければ、戻りにくい、決して戻るな」(野村町)「幼ななじみの花嫁との別れを惜しむ心情を表す行為」(宇和町)などの説明があげられている。石鎚山麓では、これらの妨害に対して仲人は、抜刀して、これを切り払って通行していった。
 魚島村では、若者が「祝いましょう」と言って嫁の顔に墨を付ける風があった。城辺町久良では古くは、橋を落としたり、嫁の家の果樹を伐ったり、嫁入り船の栓を抜いて船止めをしたほか、樽持ちの顔に墨を塗った。長浜町青島では、嫁入りの一行がくると、土地の者はそれを待ち受けて「祝いましょう」と言って、嫁の帯の上をたたいた。これをイワイコムといい、嫁入って辛抱するようにイワイコムのだという。皆がたたくので、途中で帯が解けたりしたこともあった。
 以上の妨害などをした若者や子供たちには酒肴が渡されるのが習いであった。また前述の「嫁入り」で触れたヨメマギラカシの風習は、この嫁入り行列の邪魔を避けるためにあると説明されたりする。忽那諸島では、嫁入りに嫁の友達数人が必ずついて行く。一見してどれが花嫁やら分からないようにするためといっている。

 出立ちと入家

 嫁が実家を出る出立ちと、婚家についての入家の儀礼も、地域によってさまざまな内容をもってきた。嫁が実家を出るとき、仏壇を拝んだり、お立ち酒を飲む(三瓶町鴫山)。嫁入りの朝、近親者だけでご馳走を食べて祝う。カドイデと呼ぶ(川之江市ほか)。一本松町では、嫁迎えに行った仲人、迎え女郎、樽持の四人が婿方を出る時と、嫁方について、そこを再び出る時の高膳のご馳走のことをカドイデという。嫁が実家を出る時に玄関先で茶椀を割る(松山市味酒町)とか、裏口をカケヤで三回、打つところもある(三間町成妙)。家を出る嫁の背に親類の年配者が炒った大豆を投げかけて「炒り豆に花が咲くともこの家にもどるなよ」(大洲・八幡浜市)「家を出たら、この豆に花が咲くまで帰って来るな」(久万町二名)と唱える。美川村では正月・節分に炒った大豆を少し残しておいて、それをつかう。同じ美川村で、嫁入りの合図として鉄砲を二発、撃つ風があった。悪い物がつかないための呪法である。表8―4は、出立ち・入家の際、どの場所を使うかをまとめたものである。嫁が実家の玄関を出て、婚家の玄関から入る形式(A)、玄関から出て、勝手口(台所・茶の間の出入口)から入る形式(B)、玄関から出て座敷ロとか縁側から入る形式(C)、座敷とか縁側から出て同じく座敷・縁側から入る形式(D)などがあげられる。嫁が実家を出るときは玄関を出て(A・B・C形式)、婚家では座敷口・縁側から入る例(C・D形式)が多い。「嫁は庭からとれ」という言葉があり、嫁は婚家の玄関から入れない(松山市久谷)。しかし勝手口から足を洗って入る(新宮村馬立)とか、他の客は座敷口から上がるが、嫁は戸口から入る(瀬戸町三机・大江)とか、また宮窪町浜のように、死者の出棺の時の出口と同じヨマグチ(図8―7)から入るとかは、一度嫁したからには、今度出るときは死んだときであるとか、嫁を一生、落ち着かせる意味をもつという。また、不縁になり実家に帰るときも勝手口から出るところがある(小田町上川)。
 嫁入り行列は、男女二人の子供が提燈を持って門先にて出迎える(北条市猪木)。婚家に入った嫁は、まず大黒様に供えた小豆飯を食べたり(久万町上畑野川)、近所の人が婿の家の鍋やカマドの墨を嫁の額に塗り、これによって組内の人間として認められたという(久万町上直瀬)。また婚家のお荒神様に頭を下げて「よろしくお願いします」といって拝み、それから縁側から家に入ったところもある(内子町西栄町)。八幡浜市中津川や三瓶町鴫山では、待女郎がまず挨拶し、嫁の付添いの婦人がこれに答えたあと、式三献にうつる。三瓶町長早では、嫁方から婚家におくられていた一〇~一五歳の女子が嫁を迎える。この女子をオツボネといい、三日目にもとの家に帰る。大洲・八幡浜市などでは婚家についた嫁は一休みすると、お茶うけに出されたオチツキモチ(ボタモチ)を食べる。それを食べないと皆が心配する。玉川町では、部屋に入って仲人(女)と嫁の二人だけで部屋盃を交わす。そのあと三三九度の盃事にうつる。

 中 宿

 タビ(村外)から嫁が来るときに、婚家の近くの親戚の家で一休みするところを設ける。そこをオチツキという(吉海町椋名)。道中着を花嫁衣装に着替えたり、化粧直しをするところである。この中宿をヌレワラジ(宮窪町)、コヤド(北条市)、お茶宿(南予)とも呼んでいる。大三島町肥海では方角によって中宿を設営した。別子山村では、仲人の家が中宿になることが多かった。一本松町あたりでは婚家が狭いときにのみ、その支度のために中宿をとる。

 夫婦盃と親子盃

 婚礼の中心は盃事で、重信町では儀式はザシキモチという司会のもとで行われる。三三九度の盃事の前に伊予三島市では次のような儀式がある。嫁の父が仲人に対して「娘をおあずけします」と言う。仲人は「娘をおあずかりします」と答え、婿の父に引き渡す。婿の父は「娘さんをおもらいいたします どうぞよろしく」と答える。ついで盃を取り交わすのである。一行が座に着くと、座付きの餅といって雑煮を出したり(重信町)、お茶・お菓子が出るところもある(伯方町北浦)。
 一本松町では、嫁→婿→嫁、婿→嫁→婿、嫁→婿→嫁の順に回して九度とする。このとき、子供(男・女)のオチョウ・メチョウが酌をする。宮窪町浜・伯方町では三三九度の盃を固めの盃といい、このあと親類兄弟で七合五勺の酒を飲む。これをウタイといい、ウタイがすむと高砂の謡になる。久万町大久保では、規子の盃は嫁の飲んだ盃を婿の親から親戚へ流し、婿の飲んだ方を嫁の親から親戚へと流した。中山町では親子の縁つなぎの盃をしたあと、仲人が「末広でおめでとうございます」と言って盃を納める。また婿が最後の盃を受けてオエベスサンに供えたりした。吉海町津島では三三九度の盃が済むと、フカボシと白無垢をとり、赤い襦袢姿になって、皆に見てもらう。この家に生まれかわったことを意味するのだという。重信町では、盃事が済むと、組内の者一同に対して名酒をする。ザシキモチ(司会者)が、花嫁の名前を紙に書いて一同に発表し、組内の一員になったことを披露する。嫁は全員に盃を持って挨拶に廻った。現在では、代表者がその盃を受ける。こうした式に両親は出席せず、オジガシラ(親戚の代表)が代わって列席するのは、宇和島市九島である。三間町成妙では、夫婦盃を床入りの盃と呼び、新夫婦の寝所でそれを取り交わす。仲人が立ち合い、二人を一度、床の中に入らせ、枕元の紙の入った墨塗の箱を三宝に載せて座敷に運び、紙をくしゃくしゃにして一同に示し、それから披露宴に入る風習であった。松山地方には、婚礼当日、新夫婦が庭先で麦藁火を焚く風があった。これは夫婦が灰になるまでとの縁起を祝うものといわれる。城辺町では式の途中、男女青年の代表が、鯔(いな)と川砂を盆で嫁婿の所まで運び、仲人がそれを快く受けとる。「どんなことがあっても花嫁をイナスナ=鯔砂」という意味である。

 石打ちと宝船

 式の模様は、集まった人たちに見せるように戸を開放した。戸が閉まっていると、大根(大三島町肥海)、トウモロコシのツブ(城川町下遊子)、蛙、石などが投げ込まれることがあった。これらの悪戯は半ば公認され、その度合が大きいほど、婚家からは喜ばれさえした。これは、かつて村の若者たちが、村内の結婚問題に強い干渉権を保持していた証左だとの解釈もある。
 事例1 宇和島市日振島。青年が夫婦石(一二~二〇貫)を婚家の角に置き、座りがよいようにとの縁起から石を三回打ちつけ「一つの石 のっけの石 御免の石 二つの石は御祝儀の石 三つの石は止めの石」と唱えた。青年は祝儀として酒二升を貰った。
 この事例は、広くみられる石打ちと呼ばれる風習である(内海村網代・魚神山ほか)。運びこまれる石のことをオチツキ石(南予)と呼ぶ。墓石(河辺村・柳谷村・広田村・小田町・双海町ほか)・川石(城川町・大洲市稲積ほか)・地蔵(保内町)がつかわれ、二個の夫婦石には注連縄が張られる例が多い(宇和町ほか)。この風習は「石になるまで=死ぬまでその家にいるように」・「ここで石碑になるように」(久万町)「どっしり落ちつくように」(大洲市)「この岩のようにいつまでも離れないように」(城川町)といった理由から行われる。この風は、式が終わったときにみられるが、柳谷村のように祝言の翌朝になるところもある。この石は、たいてい新夫婦が翌朝にかたづけるが、松山市北土居のように一、二か月とか二、三年の間、床の間に置くところもある。石は大きい方が喜ばれたので、青年たちは婚礼が近づくと、山へ行って大きい石を捜したのである(宇和町明石)。南予では、庭先にオチツキ石をいつまでも置き、嫁がつらくて泣くことがあるとき、このオチツキ石を見て気を取り直すことが多かった(城辺町日土)。また野村町中筋では、昔、婚礼は多く年末に行われ、翌年の旧正月一五日の夜に若者が石塔や木材を婚家の入口に並べて戸があかないようにしたり、大石を庭へ運び込んで落ち着きよしとしたりして、酒肴を振舞われた。これをホタルククルと呼んだのである。
 事例2 日吉村犬飼。若い衆が嫁の顔をめがけてキビや豆を投げつけた。嫁は扇子で顔を隠した。このあと若い衆は別宿で酒肴の振舞いを受けた。これをツブシウチという。嫁はこのキビなどを床の方へ高箒で掃き寄せたのである。
 このツブセウチ・ツブシウチは南予に多くみられる風習で、夫婦盃が終わりに近くなるとマツバツブセといって花嫁の髪に松葉を投げかけた(宇和島市ほか)。「御祝儀」と叫びながらカケヤでカマチを三回打つことをツブセウチというところもある(三間町成妙)。いつまでもマメで暮らすように(城川町)、色はさめでも二人連れ(マツバ)といった意味をもつ風習といわれる。
 事例1・2にみる石打ち等の習俗は江戸時代にも盛んであったとみえ、「婚姻之節石打候儀堅御停止之事」「正月砌水あぶせ堅御停止之事」(吉田藩延享四年=一七四七年以前の町会所の定)とあって、しばしば規制を受けたのである。美川村・双海町・大洲市・喜多郡から南予の津島町にかけて、ダイカラ(唐臼)などで船形の宝船をつくり、莚の帆をはり、婚家に運びこむ習俗がみられる。津島町御槇では「船は着いたぞ碇はおろそ……」といった家建ての地固めに歌われるヒョウゴ節に、また大洲市では追分節にあわせて船が進水する。喜多郡の宝船には大根と人参でつくった男女の象徴を組み合わせた人形が乗せてある。津島町御槇では、若者がこの船形を運ぶとともに一斗樽に五合ほどの酒を入れて差し出すと、婚家は、この樽に酒をつぎたし、肴を添えて返すのである。また藁束でつくった碇を嫁にひっかけたり、新夫婦を碇綱で縛ったりもした。
 石鎚山麓の村では、「酒を釣る」風習があった。祝宴のころあいを見計らって思いつきの歌や文句を書いて短冊を宴席に投げ入れる。そうすると婚家から角樽と肴が出され、それを若者たちは、近所の家で飲んだ。長浜町では種籠をくくりつけた竿を座敷につき出すと、婚家はボタモチを出した。瀬戸町三机では嫁見に来た青年たちが、手拭いで頬被りして長い竿をつき出し、酒やご馳走を吊してもらうように要求する。これをツリショウケといった。

 高盛り飯

 婚礼の席に飯を山盛りについで、嫁に食べさせる風習があった。ハナツキメシ(久万町上直瀬)といって姑や近所の者がつくった。これを三瓶町周木ではシュウキモリと呼んだ。松山地方の嫁の高盛り飯は、杉の箸を立て一尺くらいの高さに盛り上げた飯を嫁に出して食べさせる。嫁の手で婚家を立派に切り盛りし、杉の木のようにまっすぐな心でいてくれとの意味があるといわれる。重信町では、大黒さまに供え、翌朝それを下げて夫婦で分けて食べた。関前村の高盛り飯は、バラズシを三合桝に型抜きにしたものであるが、実際には箸をつけず、食べると恥になるといわれる。この高盛り飯が出たあとは、嫁は宴席から下がり奥で給仕をしたのである。

 披露宴

 現行の盛大な披露宴とは違って、会場の確保や諸準備ができないことなどから、数日間にわたって、披露宴がもたれるのが普通であった。披露宴をタルビラキ(関前村ほか)・カドイレ(長浜町青島ほか)・アラワレ(北宇和郡ほか)・カカヨビ(大三島町肥海)・オタルヒロメなどと呼ぶ。アラワレという語は、新夫婦が親戚まわりをすることを指す(北条市)とか、三日目に婿が運んだ土産餅を、嫁の里で親戚・近所に配ることを指すように、披露宴が結婚の事実について社会的承認を与えるための重大な営みであることがわかる。
 今治市馬島では、三日間にわたって祝宴がある。初日は嫁方に対する賄いを主とし、二日目は親戚など、三日目はウチアゲといい、手伝い人などの賄いをした。
 久万町では、初日は有名人・知人・有志などへの披露の日、二日目は部落・組内の者、三日目は親戚への披露の日である。同町上直瀬では翌日を若者ザシキといい、若者だけの披露をした。松野町では祝言は三日間あるといい、二日目は女客を招待、三日目は婚礼の日に板場を手伝ってくれた人たちを招待するマナイタアライがある。マナイタアライは南予に多く伝わる呼称であるが、少し離れて吉海町津島ではミタマブレマイという。広見町清水・一本松町正木などでは翌日の酒宴をマナイタアライという。中島町でも翌日、手伝い人を賄う樽開きがある。嫁方の樽開きには、婿方の両親が出席して、挨拶をする。
 婚礼自体、華美になる傾向は近世からあった。不漁不作のたびに、年賀・婚礼などが饗応がましくならないよう触が出された。具体的に婚礼の料理についても「一汁二菜、酒の肴三種切り」と天保一一年(一八四〇)に岩城村組頭・五人組が申し合わせたりしている。近年における宮窪町浜の宴の膳は、刺身・酢のもの・すまし汁・高野豆腐の煮しめ・イリツケ(煮付魚の頭付き)・揚げもの・三色豆・するめ・昆布・つまみもの(鯛の形をした菓子)。膳の他にトリザカナ一箱をつけて出す。婚礼の食事につきものがエンキラズ(おから)の料理で、中山町平村ではエンキラズのオニギリを婿と嫁が必ず食べなければならなかった。その他に梅干し(シワになるまで一緒の意)、松葉(死んでも二人)などが付けられた。漬物は二切れを切り離さないようにして出したり(美川村)、昆布茶を出す(伊予市)。
 酒宴が終わり、嫁方の客を見送る時や、翌日、嫁方一同が帰る時に、茶碗や大杯になみなみとついだ爛酒を客に立っままで飲みほしてもらう。これをタチガワラケと呼んでいる(別子山村・川之江市金田・津島町・日吉村・三間町ほか)。美川村では、祝言の晩、嫁と姑が一緒に御飯を食べ、添い嫁と一緒に寝、婿は別室で一人で寝る習わしがあった。久万町下直瀬では、若衆が祝い酒を贈ってくると、婿からも酒・肴・餅などが返礼に若衆組へ届けられた。これをマスヌケといった。県下では、概して結婚を境に若衆組から脱退するので、婿はその挨拶として酒一升を贈る習いであった。

 アルキゾメとミツメ

 婚礼の翌日・翌々日(別子山村ほか)あるいは三日目(内海村網代・関前村岡村・宮窪町浜ほか)になると、姑が嫁を連れて、組内とか近隣を挨拶廻りする。アルキゾメ(重信町)・ムラマワリ(別子山村)・ジゲマワリ(周桑郡)などという。近所づきあいをする範囲を廻るのであるが、婿入りの場合の挨拶廻りは、嫁のアルキゾメより少し広い範囲でムラアルキをする傾向がある。宮窪町浜では三日目に丸まげを結い、嫁入り衣装を着て嫁歩きをする。その時嫁の祝儀といって各戸からお金を貰った。これは嫁の自由になる最初のお金である。
 嫁のアルキゾメが済むと、本家へ挨拶に行く(トマリゾメ―伊予三島市富郷)とか、里帰りが行われる。里帰りはミツメといって三日目にすることが多い。五目目(内海村網代)、七日目(伊予三島市富郷)の場合もあって、それを五つ目・七つ目という。この里帰りを嫁のヒザナオシとか(吉海町・別子山村・美川村ほか)イロナオシ(宇摩郡)ともいう。一般に泊まらないで日帰りするが、どうしても泊まる場合は、いったん里の家を出るまねをして、再びもどってくるところが上浮穴郡にある。しかし同郡美川村などや東宇和郡では一晩だけは泊まって帰るという。里帰りは、新夫婦で行くのが一般的であるが、姑が同道し、タルモチ(荷持ち)を雇い、角樽に酒、平籠に魚・米・扇子などを入れて行ったり(東・北宇和郡)、少女一人を連れて、餅の土産を持って行くところもある(重信町ほか)。東・中予地方では、紅白の餅をイレコに入れて持参し、帰りに赤飯(中島町)や餅(伊予三島市富郷町ほか)を貰って帰り、それを隣り近所に配る習俗がみられる(伯方町・重信町・双海町ほか)。内子町立山では、四、五日目に里帰りする。餅・鯛二匹・酒二本を兄弟などを人足に使って持参し、帰りにはそれの半分を持って帰った。今治市馬島では、ミツメのほか、嫁が、盆の一五日や正月二日、三月の節供などにもヒナ餅など持って里帰りする。東予市では式の翌日、嫁の里から、部屋見舞いと称して餅などの贈り物がある。

 シュウトイリ

 嫁の里帰りの返礼として婿側か、嫁の両親を招待して饗応するところがあった。伊方町では、シュウトイリとかヒザナオシといった。中島町にも、式に来た親類が、数日たって嫁の母親を招待してご馳走をするヨメブレマイの風習が近年まであった。一本松町では五日目に、婿が両親とともに嫁の実家に招かれる。これを「シンキャクに行く」という。北・南宇和郡にこのシンキャクはみられる。また津島町では式の翌日に婿・嫁が両親に連られて嫁の里へ挨拶にいくことをシンキャクといい、親戚廻りをするのである。こうしたシュウトイリ・シンキャクは、婚礼によって親戚になったもの同士の初めてのツキアイ(交際)を意味するもので、これによって両家の親睦が深められ始めるのである。

 カカノリアゲ

 毎年正月三が日の間に嫁の里へ鏡餅が贈られたり(宇和島市九島)、酒一升と蒸飯が贈られたりすることを、カカノリアゲと呼んでいる(津島町下灘ほか)。津島町御槇では六月一日に酒一升が嫁の里へ婿の方から贈られる。大洲市では旧一二月八日、「嬶の利上げ」といって、妻の親に米一升・酒一升を贈る。その晩一族がだんらんし、田楽焼きを食べる。うそをつくものは、豆腐と共に焼き尽くすという。東宇和郡ではオヤヅトメといって大きな餅を持参する。カカノリアゲのお返しとして嫁の里からは、トウ入りの鏡餅が返される。これをココロミといって、嫁の里の両親が死ぬまで続けられるところがある(宇和島市九島)。こうしたカカノリアゲは、力力(嫁)をもらったことに伴う労働力の返済の意味をもつといわれている。
 津島町御槇では、旧暦の年末に、カケノウオといって、塩鮭・塩鯖に酒一升・足袋などを添えて、婿方から嫁の親もとへ届けられる。両親健在なら二尾腹合わせに結んで贈る。贈られてきたカケノウオは、正月の年木に掛けて飾り、サンバイオロシの祝い肴に使われる。このカケノウオは仲人へも歳暮として贈る。

 彼岸養い

 春・秋の彼岸に、婚家と嫁の里との贈答儀礼がみられる。彼岸養いという。中島町睦月では、春の彼岸に嫁の里から小豆飯や餅が贈られ、秋にはその反対に、オハギを作りイレコ(木箱)に入れ、それを嫁に持たせて里帰りさせる。土居町では、嫁が里へ持って行く団子・豆飯などの供えものをヒガンヤシナイという。小松町では、結婚して初めての彼岸に、嫁は実家へ春休み(彼岸休み)といって里帰りをする。その時の土産は、ウチアゲ(婚礼)の際にはなむけを貰った家に配る餅である。重信町下林でもヨモギ餅か紅白の餅をイレコに入れて嫁の里へ彼岸見舞いに持っていった。また婚家へもどる時にも、里から同様に餅を搗いてお返しをする習いであった。
 南予の八朔習俗は、東・中予の人形作りと違って、嫁が里方へ節供礼の贈答に行くところに特徴があり、これを野村町惣川ではオヤヅトメという。三瓶町ではこの日をオタノミ節供といい、餅を搗いて嫁の里や仲人の家に肴などとともに贈る。宇和島市祝森では、嫁の親や仲人に酒一升と乾物の贈り物をする。同市古味ノ川では嫁や養子が実家に帰る日で、これをリアゲと呼んだ。(第九章年中行事を参照)

 婚姻に関する諺・俗信

 (1)年回りほか 姉女房は金の箸でよってもない(久万町上直瀬)。姉女房は一つ年上がよい(同町東城)。川上の一つ年上の女と結婚すれば出世する(同町中野)。 一つアネガカは福が舞い込む(三間町成妙・内海村網代)。姉女房がすかれないところもある(南宇和郡)。四つちがいは夜も昼もよい(内海村網代)。自分より七つ目のエトの人がよい(内子町)。中山町では三つちがいは、何事も見て暮らすからよい(見ているうちに年をとる)、五つちがいはいつもよい、七つちがいは悪い事があっても泣くだけで済むからよいなどという。女一九と男二五歳は結婚しない方がよい(久万町・伯方町・伊予市)。女一九・男二四歳の時の結婚は忌まれる(長浜町青島)。男二五歳は年回りが悪いので結婚しない方がよい(内子町・中山町佐礼谷)。男も女も厄年の時の婚礼は悪い(吉海町仁江)。女一九歳をクロボシといい、この年の結婚はよくないので正月をずらして行い、一つ年齢をたがえて式を挙げた(中山町栗田)。巳・午・申・酉の四厄はお互いに結婚を忌む(吉海町仁江)。四悪十厄といって四つちかいと十ちがいの夫婦はよくない(美川村など)。四悪十悪といって、エトのミとウマ・サル・トリの組み合わせを避けた(南宇和郡)。これを伊予市では四厄十厄という。土性の人と金性の人の夫婦の相性は悪い。水性の妻と火の性の夫は相性が悪いが、水性の夫と火の性の妻は相性がよい。午年生まれの妻と卯年生まれの夫は相性がよい(美川村)。丙午・寅の年の女は縁遠い(伊予市ほか)。
 (2)婚礼の時候 結婚と火事は寒い時がよい。結婚とドロボウが入るのは節季が多い(中山町)。庚申月の婚姻は子が育たないといって嫌う(内海町網代)。三隣亡・仏滅・赤口などを避け、大安の日に結婚式を挙げる(松山市久谷ほか)が、大安吉日でもイヌ・サル・ミ・ウマ・ヤブル・アヤブの日には式を挙げない(河辺村など)。巳・午・亥・酉の日が好まれた(柳谷村大窪谷)。三月は花盛りのあと散る月で嫌われた(久万町二名・魚島村)。四月死ぬ、五月はごねるといって両月を嫌う(内子町)。旧暦七月は仏月、九月は苦月、一〇月は神無月といって嫌った(魚島村)。正月が多かったり(宮窪町浜)、四、一二月が多かったり(伊予三島市中之川)、婚礼の時期は、所や家によってさまざまであるといった方がよい。ヤマメジク(野村町)・ヤモメジク(丹原町田野・東予市周布)・ヤモメジャク(伊予市)は大安の日でも、これを避けた。ヤマメになるとか(野村町渓筋)、夫婦わかれが早いとか(東予市周布)といった。旧暦一月一日を寅月寅日、二月一日を卯月卯日、三月一日を辰月辰日……として、これを基準に日を繰って、巳・午・酉・亥・子にあたる日をヤマメジクとか呼ぶのである(伊予市ほか)。式の日に雨が降るとフリコムといって、縁起がよいとされる(中山・内子町)。式が始まってからの雨はよいが、始まる前の雨は悪い(柳谷村)ともいう。
 (3)禁忌 カエル・モドス・ハナス・ヤメルという言葉は式で使わない(久万町・伊予市ほか)。デルという意味がふくまれているからオメデトウと式で言ってはいけない(中山町)。杓子をなめると離縁される(久万町下直瀬)。
 (4)呪い 神社の鳥居に小石を投げ上げてそれが止まれば縁が結ばれるという(大洲市ほか)。昔、吉田町医王寺下に鯛の形をした石があって、その眼に当たる所がくぼんでいた。下からその凹所に小石を投げ入れると、良縁が結ばれるといわれた。

 オハグロ

 結婚をすると女性は、オハグロ (カネ)をつけ、また子供が生まれると眉毛を落とした。関前村岡村では昭和の初めころまで、嫁入りした晩にオハグロをつけた。カネは五倍子(フシ)を臼でひき、平釘を焼いたものや米のこうじを炒ったものを入れる。酒を少し入れる人もいた。カネジタをつけてからカネをつけるが、カネジタをつけると歯が弱くなるといって、あまりつけなかった。子を身ごもると眉を落とした。宇和町田野中ではフシの木の実をユキヒラなどで沸して、その汁を筆のようなものにつけて歯に塗った。吉海町椋名では、明治の終わり頃までカネをつけて嫁入りした。船釘を瓶に入れ、少し水を入れて錆びさせる。五倍子を干して臼でひいて粉にしたものを、さきの錆び水と合わせて火にかけて沸すとオハグロができる。鳥の羽をまとめたもので歯につけると一〇日くらいはもった。伊方町河内では、子供が生まれてくると、眉をみてツノと思って驚くので眉を剃るのだといっている。

 離 縁

 メオトワカレ・エンモドリ(久万町二名ほか)などといわれる離婚もまれにあった。八幡浜市大島では、嫁入り後三年以内に離縁すれば、婚約のときもらったタノメの帯を女から男に返すのが普通であった。三間町成妙では、妻と別れて後妻を迎えた場合、前妻は後妻に対して一度だけは意地悪をする。たとえば洗濯物を竿から打ち落としたりした。これをウチワオトシといい、明治の初期まであり、これは中世のウワナリウチ(後妻打ち)の系統の習俗であるとみられる。再婚は「焼き直しができた」(久万町)といい、後妻をアトイリサンという。配偶者を亡くしたり離婚した男をヤモメとかヤマメ(宇和島市九島)・配偶者を亡くした女をゴケ・離婚した女をデモドリとそれぞれいう。また、離婚と再婚をくり返す女を城川町では牛にたとえてツナクイといった。

表8-3 結婚に関する状況調べ(「北伊予村農業基本調査」大正5年)

表8-3 結婚に関する状況調べ(「北伊予村農業基本調査」大正5年)


図8-4 嫁迎えの行列

図8-4 嫁迎えの行列


図8-5 婿入り(上)と嫁入り(下)の行列順(関前村岡村)

図8-5 婿入り(上)と嫁入り(下)の行列順(関前村岡村)


図8-6 嫁は婚家のヨマグチから入る(宮窪町)

図8-6 嫁は婚家のヨマグチから入る(宮窪町)


表8-4 出立つ・入家の場所

表8-4 出立つ・入家の場所


図8-7 夫婦盃の配席

図8-7 夫婦盃の配席