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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

二 死と食物

 耳塞ぎ

 葬儀や死者供養の折々にアラとかアレルあるいはアタラシイという言葉が使われている。宇和島市では、葬儀屋のことをアタラシ屋という。これは、アタラ若い命を散らせたとか弔問に行って「このたびはアタラシイことでございます」と挨拶するのと同様の意であったらしいことが井之口章次によって指摘されている。東予地方では人が亡くなることをさしてアレルということがあった。越智郡波方町小部では会葬者への御礼を半紙に書いて辻々のよく見えるところに貼り出しており、アレル年には御礼の半紙の貼り場所もないくらいであると言ったりする。アレル年とはむらうちに死者がたくさん出た一年であったという意であった。新居浜市立川地区では盆の挨拶に「本年はアレズ結構な盆です」と皆で喜びの言葉を交わしていた。ことに同齢者の死の報を聞くことは気落ちのすることであったらしく、越智郡吉海町ではオナイドシ(同齢者)の者が亡くなると、はりがないので葬式には行かないことにしているということである。伊予三島市富郷町では同齢者が亡くなるとオカンス(茶釜)の蓋を耳に当てて「悪いこと聞くな、ええこと聞け」といっていた。東宇和郡城川町下相でも鍋蓋で耳を塞ぎ「ええこと聞け、ええこと聞け」といい、温泉郡中島町野忽那では、しゃもじとやかんの蓋をかち合わせて音をたて「他所のことは聞かんように、アビラウンケンソワカ」と唱えたと報告されている。これを耳塞ぎといい積極的に同齢者の死の忌みを断ち切ろうとする呪法であったらしい。西条市黒瀬では、耳団子という団子を作ってみんなに配ったということである。また『大洲妖怪録』には、「耳塞の由来を尋るに同年の朋友死たる時耳塞とて焼立随分熱き餅を以て同年なる人の耳を知らぬように後より塞ぐ事なり。是は此の死亡の人を同年の人に関す事を忌むの俗礼にて専ら物忌む婦人信用なり」とある。

 枕飯と枕団子

 枕飯は人の死が確認されるとすぐに死者の枕元に供える飯のことをいう。マクラメシ・マクライ・イチゼンメシ・シニベントー・ノメシ・ノウノメシ・シタクメシ・オヒル・ヒルメシ・ヤキメシ・コウラメシ・オマルメ・オモリコ・オモリモノなどと呼ばれ、枕団子と重複することの多かったことを示しており、県下でも枕飯と枕団子を同時に供えている地域と、枕飯だけを供えるところとがある。
 事例1 北宇和郡の山間部では、死人が出ると直ちにかかりの無い人が二合半すりきりの飯を炊いてくれる。平常の桝は枕を残すと称して最後の桝は必ず斗概を中途で留める風であるが、この場合のみはすり切ってしまう。この飯は枕飯とか一杯飯とか地方地方かなり名称が多いが、宇和地方では一名をシニベントーという。死者が善光寺へ参りに行く弁当だとはこの地方でも言っている。しかしこの名は枕飯がまた野辺送りに運ばれるからの名であろう。二合半炊いた飯の一部分は死者生前常用の飯茶碗に盛って、それを御膳の中央に置き、残りで握り飯四個作って膳の四隅に置いて死者に供える。日常の握り飯は二方をくぼませるが、この場合のものだけは球型にする。葬列におけるヤクヅキは此地方では血縁親疎によってなかなか難しいらしいが、シニベントーは相続人の妻の役と定まっているらしい。墓地では、茶碗盛りの飯は棺の上にあけ、その茶碗は以後水を供える器として墓前に置き、四個の握飯は餓鬼仏にやるといって、四方に投げつけるのである。
 この事例は大間知篤三が『民間伝承』第二巻三号の四国特輯に報告したもので、大間知はまた北宇和郡津島町御楯地区の資料のなかで、「ノメシとも称し、葬送にムショ(墓)へ持って行って埋めるのである。これを炊くのと同時に団子もつくるが、それだけはオマルメと呼んでいるのである。」と枕団子についても触れている。この報告をもとに、県下の枕飯の民俗をながめてゆくことにしよう。
 〈調製法〉 枕飯、枕団子の調製には独特な作法やしきたりがあったが、枕飯については次のようである。
 事例2 石鎚山麓では、枕飯はきょうぎ茶碗で量って炊く。膳の四隅に丸めた飯を置き、中央に弁当飯を盛る。これに使った道具類は、あとで洗ってから塩で浄めるが、鍋などは一週間は使わない。
 事例3 越智郡宮窪町では、コーラメシ(焙熔飯)といい、コーラに少しばかりの米を入れてちょっとこがすくらいに炊き、コハラキ(土器)に盛って供える。
 事例4 温泉郡重信町では、マクライは組の者が米二合半をあまり研がずに急ぎ鍋で炊く。軒下か庭の一隅に石を二個左右に置いて簡単なクドを築き、軒から縄で鍋の口を北向きにして吊し、藁火で炊いた。
 事例5 上浮穴郡では、マクライは目分量で二合半の米を炊き、一杓子で茶碗に盛った。だからふだんに二合半飯は炊かず、一杓子で飯をつぐものではないといわれた。
 事例6 大洲市蔵川では当日に限り釜に先ず米を入れ、後から水を注いで炊き、幾回ふきこぼれたかを記して墓石の下に敷く。
 事例7 西宇和郡瀬戸町三机では枕飯をできるだけ急いで炊くが、米を先に入れてから水を入れ蓋をしないで炊きあげ、一粒も残さぬように全部ついでしまう。
 事例8 南予では、死者がでると近所の人がかけつけ、まず女性のする仕事がマクライノメシ炊きであった。庭先きに馬鍬のカナコ(歯)を三本立てて飯を炊いた。
 事例9 東宇和郡宇和町ではヒルメシと称し、白米二合半をすりきりに量って炊いた。
 事例10 同郡野村町小松の枕飯の炊き方は、ウマダワのコ(歯)を四方土間に立てて臨時のクドを作り、日常のかまどは使わない。同町植木では枕飯はシタクメシと言い、土間で他人に炊いてもらった。
 また、団子についても次のような伝承がある。
 事例11 東・中予ではオモリモノと呼んでいる団子は、口を北向きにした箕の上に石臼を置いて粉をひき、この粉を水で練って作った。
 事例12 越智郡宮窪町では米の粉を水で練り生のままコハラキに盛りドンジという大きな団子を供えた。
 事例13 同郡吉海町では信濃に行く弁当だといって米のアライの生と、少し煎った米とを混ぜて粉にした団子を三つ供えた。団子はその粉を残さないように作った。
 事例14 南宇和郡一本松町正木では、玄米の粉で団子を作り、これに黄粉をつけて皿に盛った。また同町広見では団子の上に別のお盆に米の籾を炒って皿にのせることがあった。
 〈善光寺参り〉 枕飯・枕団子は、死者の霊が善光寺参りに行く折の弁当だから急いで炊かなければならないという俗説があった。
 事例15 越智郡吉海町仁江では枕団子を信濃に行く弁当じゃといい、同郡上浦町瀬戸では人が死ぬと魂は身体を洗われる前に善光寺へ参って帰ってくるといわれていた。同宮窪町でも死者はただちに善光寺に行くものだから、その弁当としてコーラメシは早く作るほどよいといっている。
 事例16 温泉郡重信町でも死者が善光寺へ参る弁当だから早いのがよいということで急いで炊いた。
 事例17 西宇和郡瀬戸町三机では枕飯は善光寺へお手判をもらいに行く弁当だから人が亡くなるとすぐに炊いた。また南宇和郡内海村火打でも、ヤキメシ(握り飯)は死者が善光寺ヘオテハン(札所でもらう印)をついてもらいに行く弁当だといった。また、大洲市蔵川では生前に善光寺参りをしていない者は、葬式までに亡霊が善光寺までお手判取りに行って戻るといった。
 人の死後その霊魂が信濃の善光寺に参詣するという伝承は四国では広く語られており、香川県西部にみられる弥谷参りの伝承を考えあわせれば善光寺という特定の寺院にこだわる必要はなく、井之口章次などがいうように「死者の霊魂の溜り場」として理解することができる。
 事例18 越智郡伯方町伊方ではオベントウを善光寺参りの弁当といい、死後一週間内に善光寺に参詣すると死人に会えるという。
 事例19 大洲市蔵川では血の濃い者が霊魂を菩提寺へ連れて行くといって、溝を渡る時は溝があると告げ、橋を渡る時は橋を通るのだと知らせて、寺に着けば持参の六道銭か一文ずつ六地蔵尊に供えて礼拝する。亡霊は本尊の壇下に円い穴があり、ここより裏面の位牌堂へ飛び越すとのことである。
 〈高盛飯と握り飯〉 死者の枕元に、茶碗一杯に飯を盛り上げ箸を突き立てて供えた。いわゆる一膳飯である。また、高盛飯の残飯を握り飯にして膳の四隅に供えた。
 事例20 宇摩郡別子山村では枕飯のことを一釜一膳の飯を供えるといっている。
 事例21 東宇和郡城川町では、死者が使っていた茶碗に飯を盛り上げて箸をまっすぐに立て、膳の真中に供えた。南予一帯に、善人ほどこの盛り上げた飯の量が多いといわれていたので、できるだけ高く盛りあげたという。
 事例22 同郡野村町惣川では、枕飯は茶碗に盛り、箸をまっすぐに立て半紙を通して被せた。立てた箸は墓に持って行って埋葬した。惣川の天神では、枕飯はガンというおけに盛った。
 ところで高盛飯に立てる箸についてみると『宇和地帯の民俗』にも「茶碗に高盛して一本箸、ところによっては二本箸を立てて膳の中央にし、四隅には四つの握飯、これに死花(一本花)・水・お茶を添えて枕元に供える。」とあるように、必ず一本でなければならないとするところとそうでないところがあったことが分かる。
 事例23 西条市西之川では枕飯は丸く盛り、箸を十字において死者の枕元に供えた。
 事例24 玉川町では盛り飯に一本箸を立てて死者の枕元に置き、これをマクラノゴハンといった。
 事例25 野村町植木のシタクメシは二合半桝に一杯の米を炊き、まず茶碗に山盛りにして箸を二本立てたものをお膳の真中に置き、残りの飯で握り飯を四つ作ってお膳の四隅にそれぞれ一つずつ置いた。
 事例26 一本松町では四隅のお握りは器に入れないでそのまま御膳にのせて供えた。
 今までみてきた一釜一膳の枕飯は、器に盛りつけた高盛飯と、その残った飯の握り飯の二つを揃えてひとつ膳に供えているのだが、高盛飯を供えず初めから握り飯だけを供える地域もあった。南宇和郡内海村火打では、枕飯はベントーと呼び二合半飯を五つに握り、お膳の真中と四隅とに置いた。三瓶町和泉では五個の握りをオヒルといった。また宇和町でも五つの握り飯にして膳の真中と四隅に置き、真中の握り飯には箸を一本立てて枕元に供えた。
 〈団子〉 オマルメ・オモリコ・オモリモノと呼ばれる米の粉で作った団子を供えた。
 事例27 越智郡吉海町仁江では団子を三つ供え信濃に行く弁当じゃといったが、宮窪町浜では枕団子は大きいのを一つ、小さいのを三つ作った。同町余所国では死者のお弁当といい、米の粉の団子六個を盆に入れて枕元においた。この団子は喪家の人が作った。吉海町椋名ではお盆に盛った六個の団子をオモリモノといい、納棺の時、死者のさげるサンエン袋の中に入れた。ふだん人に物をあげるときには六個を忌んでいる。
 事例28 上浮穴郡では四隅の握り飯のかたわらに枕団子を一つずつ供えた。
 事例29 伊予郡中山町では団子を茶碗一杯に入れて供え、一本松町では玄米の粉で作った団子に黄粉をつけ皿に盛った。
 事例30 喜多郡内子町では枕団子をオダンゴと呼び、米の粉を水で練って丸い団子を作る。内子町長崎や影浦ではオダンゴを七個作って茶碗に盛る。上大久保では四個作って枕飯を置いた膳の四隅に置き、五穀の品(小豆・大豆・あわ・麦・小麦)を枕団子にまぶしている。
 〈野飯・野団子〉 枕飯はシニベントウ・ノウノメシ・ノメシ・オヒル・ノダンゴと呼ばれ喪主の妻が野辺送りにこれを持って参列した。野辺送りに野飯を運ぶ役目を膳据・膳付・膳・お膳持ちと呼び、ところによっては、野飯・野団子・枕飯・昼飯・飯持ち・お弁当と呼んだ。愛媛県下ではこの役目は喪主の妻がすることとされ位牌持ちに次ぐ重要な役目とされた。
 事例31 越智郡伯方町伊方では、茶碗にご飯を入れて膳の上に逆さに伏せて茶碗を取り除いたものをオベントウといい、葬列では位牌持ちの後に続いた。
事例32 北宇和郡津島町大道地区では飯といい、死者が使っていた茶碗にお握りを五個入れたものを膳にのせて持ち、参列した。
 ところで中島町では跡取りが位牌を持ち、その妻がトキノメシを持ったといい、また佐田岬半島では、葬列の中で大切な役をカキヤク、位牌、糧事持としており、糧事とは死者の食事で長男の妻の役であるという。ところが東予市・新居浜市などではロウジは婦人の出入者又は召使、下女などの役であった。越智郡大三島町肥海ではロウジをイリワンとかトドケといい、これを姪にあたる者が頭に載せて参列した。ロウジのなかにはメイクノメシ・団子・米・線香・花などが入っていたという。これが南・北宇和郡に行ってトドケといった場合どうであろうか。葬列の役目からいってみれば、位牌持ちが相続人、お膳持ちがその妻、そしてトドケは位牌持ちについでの死者にゆかりの深い身うちの者がなるということである。このようにリョウジ・トドケの習俗と野飯の膳の習俗は、お互いに入り交って伝えられている。
 〈あの世の弁当・餓鬼の飯〉 枕飯は死者とともに墓穴に埋めたり、墓前に供えたり、餓鬼に投げ与えた。
 事例33 越智郡上浦町瀬戸では埋葬されるとその上にビャドウという四角の板の上へ竹を組み、ビワの葉六枚を飾ったものへ握り飯七個を供えた。カラスに食べてもらうと縁起が良いといった。
 事例34 今治市山路では枕団子をオモリコと呼び、皿に盛ったり、半紙に包んで墓前に供えた。このとき、墓地にいるカラスは頭が良いから、オモリコの数まで覚えているなどといい、鳥に食べられると仏さんも喜んでいると信じられていた。皿はそのまま墓地に残しておき、あとで墓参する折りに供物を盛る器として用いた。
 事例35 大洲市蔵川では、墓場で再び棺を開き、昼飯の握り飯、団子などをサンヤ袋に入れ埋葬した。
 事例36 宇和町では、枕飯は野辺送りのとき野飯といい、近親者に持たせて墓穴に入れた。大洲市ではノウノメシはあの世へ旅するための弁当だという。
 事例37 北宇和郡松野町では、埋葬時に膳の飯を四方に投げて餓鬼の供養をしてから埋める。
 以上、枕飯の習俗からその構成要素を抽出してきたのだが、次にその構成要素の相互関係とそのしくみについて整理しておきたい。例えば『日本民俗事典』の「善光寺参り」の項には「愛媛県の宇摩郡、北宇和郡などでは、マクラメシとは別にシニベントウと言う早飯を炊いて、亡者が善光寺に持って行く弁当だなどと言っている」とあり、あたかも枕飯とシニベントウが別に調製されているかのような印象を与えている。しかし、すでにみてきたように、枕飯とシニベントウは同時に調製され、枕飯を盛りきった残り飯で弁当を握るというのが実態である。すでに柳田国男は、「生と死と食物」のなかで「大体に人が目を落とすや否や、出来るだけ早く〝枕飯〟の支度をするやうである。私たちに重要と思われるのは、その飯の残りをどうするかで、丁度一釜のものを皆盛ってしまへばよいが、少しでも残りがあれば誰かが食べなければならぬ。それが決して簡単な事実では無かったのである。」と指摘している。ただここで注意しなければならないのは、いわゆる枕飯と弁当(握り飯)との違いを認めておくべきであるということである。死者が日常使っていた茶碗に盛られた枕飯は、誕生のときの産飯、婚礼のときの高盛飯と、人の一生には三度必ず供せられるものの一つと理解されてきた。箸を立てるのが他と違うところだが、これについては、他の人々には分配しない趣旨であるとか招霊の依り代であるとか解釈が分かれる。この枕飯に対して弁当(握り飯)は明らかに別の意図があったようである。興味深いことは、この弁当が喪家にあるとき、野辺送りのとき、墓にあるときとそれぞれ空間的な移動、さらには各儀礼過程の時間的な推移のなかにあって、実に多様な変容がみられるということである。すなわち喪家にあっては、死者の善光寺参りの弁当であり、野辺送りではノメシ・ヒルメシである。墓地ではアノヨヘ旅するための弁当であったり、餓鬼の飯であったりした。このような枕飯に対して枕団子の伝承は別の系統にあったのだが、今では弁当(握り飯)の伝承と重なっている。さらに枕飯や枕団子を入れた容器を墓に置き、後に墓参りするとき供えものを盛る器にするという習俗の展開は、あるいは新たに食物を要求するホトケの誕生を意味しているのかもしれない。この習俗に関連して、出棺に際して茶碗を割る儀礼があり、ふつうは死者が生前使っていた茶碗を割るのだが、城川町下遊子では、死者の使った茶碗は墓に供え、出棺のとき割るのは揃いの茶碗でも皿でも大切なものの中の一つを割るといい、北宇和郡津島町御槇地区では、出棺に際して茶碗を割るが、どの茶碗と決まっているわけではないという伝えがあった。つまり茶碗を割るということは、要求や願いを断つということであったから、死者がホトケになってからの要求や願いまで断ってしまわないで、墓地に供える茶碗は別に残しておこうとする心意を伝えている。

 ツボホリ酒

 墓穴掘りは葬式組の者が行い、ツボホリ、ツボトリ(上浮穴郡・喜多郡)、ツボウチ、マチホリ(西条市黒瀬)、コウヤボリ(越智郡伯方町)、ウガチギョウ(周桑郡小松町)という。吉海町仁江では墓穴掘り役にあたる者は年二回は掘らないとしていたり、重信町では穴掘りはいやな役割なので順番を決めて当たっていた。また家に妊婦のある者は穴掘りを変わってもらうところがあることをみても、死の忌穢を受けやすい仕事と考えられていた。丹原町明河には墓穴は親類が掘り、念仏講の人は掘らない規約があった。城川町高川地区では墓場を買うといって、ごく少額の銭と鎌、枕笠を立てかけた。上浮穴郡では地神さんから土地を買うといい一文銭一枚を土の上に置いてから掘った。野村町惣川の天神では、墓穴には魔よけとして穴の周囲に糸を張り、金物を置いた。同町小松では穴のまわりでお伊勢踊りをしたり、石鎚参りをした人が踏むと化け猫のような妖怪カシヤとか山犬が近寄らないといった。今治市馬島では墓穴に魔が入らぬまじないとして、鍬の柄を墓穴の上に横に渡して置いた。小松町ではこれをオソレをするといい、木や鍬などを渡して苫で覆うていた。玉川町では、古い人骨がでたときには陽に当てないように覆をして埋葬のとき棺の上に置いて葬った。また城川町高川地区では野火とか迎え火といって、葬列を迎えるために墓場でツボウチをした人たちが大火を焚いて待つことがあった。こうした墓穴掘りには、昼飯を用意していた。宇和町ではツボホリ酒に豆腐をつけて墓地に持ってゆき、全部飲んで食べてしまわないと精進落ちができないといった。重信町では穴掘り酒といい、南予の漁村地域ではアナホリオミキといった。
 事例1 宇摩郡別子山村瓜生野や新宮村では墓つぼ掘りは近親者が先にたって掘りはじめ、近隣の人がこれを手伝った。墓穴を掘り終わると、穴の一番底の土を一握りか一かけら掘りあげておいた。これをアゲッチと呼び、ハシリがおきたときに煎じて飲ませたり、食べさすと不思議に治るものだという伝えがあった。昔からこのあたりでは死者のミウチや親類の者が葬式前後に熱病を患うことがあり、この病いをハシリと呼んだ。
 事例2 周桑郡小松町では野辺の弁当と酒を茶瓶に入れて墓地で食べた。これをオチャ(お茶)と呼んだ。
 事例3 越智郡宮窪町余所国では、穴掘りは二人が葬式の前日に掘った。穴場へは酒を持って行った。穴掘りに使った鍬やシャベルは塩を振って浄めた。穴掘りが終わると喪家に帰って風呂に入り弁当を食べた。
 事例4 同郡吉海町仁江では墓穴を掘るとき、箕の中の一つかみの米を、口の方から食べる風習がある。
 事例5 同伯方町北浦では墓掘りをコウヤボリといい、講中のものがする。コウヤにはお酒を出すが残してはいけないという。
 事例6 北宇和郡日吉村犬飼では棺はほとんど寝棺であって、墓穴を掘るのに三~四人が当たる。これをツボウチといい、墓所をノ(野)という。ツボウチはノで昼飯を食べる。ノヘは酒一升と簡単な肴と飯を運ぶ。

 別れ飯

 出棺に際して食事をとるのを別れ飯とか出立ちの膳といった。越智郡の島嶼部や伊予三島市富郷町ではワカレメシといった。越智郡の大島では、出棺直前に会衆に立ったまま酒を飲ますことがあり、これをタチワの酒と呼んで、葬列の出発と起立のタチの二重の意味にとっている。生名島では出棺のとき知人近所の人が多勢参列し、それらの人々に煮しめを出してもてなした。別子山村瓜生野ではデダチといい、一汁三菜の本膳で会葬者全員を賄ったといい、一本松町正木でもデタチといって簡単な酒宴をして会葬者をもてなした。このように近年では別れ飯を食べる範囲がずいぶん拡大されているが、南・北宇和郡では位牌持ち、お膳持ち、トドケ(添え持ち)に限られていたところもあった。一膳飯で、箸は竹を割ったままのものを使って食べた。竹の割箸の伝承は広田村にもあった。北宇和郡三間町では膳を横向けに据え、飯・汁ともに一碗限りのものであった。
 事例1 伊予三島市富郷町では、棺かきは一本箸でワカレメシを食べ、終わると箸をうしろへ投げ飛ばした。
 事例2 宇和町では棺の前に近親者が集まって会食するのを出立ちの膳といい、食べ別れの儀式であった。
 事例3 津島町御棋地区では出棺時の食事をデタチといい、位牌持ち、飯持ち、天蓋持ち、棺を運ぶ役の者らが食べた。これらの者は皆スマボシ(額の部分が三角形で他は細く頭の鉢を巻くようにした白紙の帽子)を被った。

 トキノメシ

 葬式が終わって食べる食事をトキ、トキノメシ、トキノゼン(中島町・野村町)、精進落ち(東宇和郡・北宇和郡・越智郡)、ブクバライ(東予市)といっている。北条市小川谷では野辺送りがすむと親類、組内の者が仏前に輪になって集まり、部落に伝わる大数珠を持って「南無阿弥陀仏」と鉦に合わせて唱え、数珠を繰り死者の冥福を祈った。東予市では百万遍念仏を修し、美川村では歌念仏の「ナムアミダブツ」を前半分と後半分の二組に分かれて二十分くらい唱えた。伊予郡広田村高市では野辺から戻って唱える念仏を「釘念仏」という。宇和町や吉田町では神職や修験者に頼んでアトバライをした。上浮穴郡柳谷村では、後法事に座中の者が一合五勺の酒を飲み、箸は白箸を削って作った。同郡小田町ではこの箸を四十九人分作り、翌日の墓参りに束ねて持参し、四十九日間墓地に置いてから焼いた。トキノメシを炊いた鍋は四十九日間使用しなかった。東宇和郡野村町惣川や上浮穴郡美川村などでは、トキノメシを炊いたときに生ずる小さな穴(蟹の穴)の形から、死者が生まれ変わるときの干支の足跡がつくといっている。近年では葬儀終了後、親類や組内の労をねぎらう酒宴となっているが、このトキノメシを喪家で食べる者と精進宿や集会所で食べる者と各々違いがあった。越智郡玉川町では、喪家で精進落ちをし、組内の者は別の近くの家で行ったという。喪家では混雑するし、伝染病などの悪い病気で亡くなった場合、組内の者がそこで飲食するのをいやがるから別にしていると解釈しているのだが、これもやはり忌の問題として考えるべきであろう。いわゆる「村香奠」が「忌のかからぬ飯を食はねばならぬ為に、其材料を別にする趣旨があった」と柳田国男が指摘するように、トキノメシも精進宿の食事は組内の者が持ち寄っていた。ただし、組内の者といえども穴掘り役は喪家の忌がかかっていたらしい。
 事例1 上浮穴郡美川村中津地区では、昭和一〇年ころまで参列者はトウキビ一升と金一銭を受付に渡しておき、墓から帰るとトキといって粥の振舞いを受けて帰った。
 事例2 大洲市蔵川では、喪家で鉦を叩き「南ア無阿弥陀アアアー、南ア無阿弥陀アアア仏、南ア無阿弥陀アア仏、南ア無阿弥陀アアアー」を一七度ずつ三回、異口同音に節をつけて念仏を唱え、集会所で夜食を共にし、余った米は喪家へ贈与して引き揚げた。
 事例3 南・北宇和郡では夜には僧が来て念仏を唱え、念仏講、講組の手伝い寄りを接待する。穴掘りは風呂をもらって上座に着く。親戚も加わって精進落としをこの晩にすることが多い。この馳走をオミタテという。
 事例4 野村町小松では、親族の者は喪家でトキノメシを食べるが部落の人たちは精進宿で食事をした。喪家で食べた者は穢れているといって、三日間は神社へ出入りをしなかった。
 事例5 吉田町のアトバライは出棺ののち厄祓いのため行われ、神職は榊の葉に「内外清浄」と書き塩水に浸し、文字の墨を溶かした水で家内の穢を祓い浄め、古くは隣家で沸かした茶を喪家の人々が飲んだというが、今では神職が持参した茶の葉になっている。

 四十九の小餅

 忌明けのことをブクアケ・ブクバラシ・キアキ・キアケ・ヒアキ・アゲ・精進落ちといい、大洲市などでは一升五合の一臼餅を搗き四十九の小餅にして仏前に供え、親類やヒキアイからの見舞客と小餅を分けあって死者の罪滅ぼしとしていた。かつては喪家にこもって忌の食事をしていたことが伝えられている。例えば、南・北宇和郡では七日目を忌明け、精進落としといい講中・講組・親戚を招いているのだが、葬式の晩に泊まった者はこの日まで帰れず、臨終に立ち会った者などはもし用があり喪家を離れることがあっても六日の晩から来て七日の供養をしなければならなかった。吉海町仁江ではキアキが済むまでは親類の者は仕事をやめていたといい、城川町では初七日までは謹慎して田畑の仕事にも出なかったので、田の草取りや畑仕事を親戚や近所の人が手伝っていたという。津島町の御撰地区では四十九日間死者の魂が屋根棟にとどまっているといい、川之江市金田町ではできるだけ家を留守にしないよう心がけ、やむを得ず外出するときには入口の戸を少し開け、霊魂の出入口を設けておかねばならないといった。それぞれに厳しい忌ごもりの生活があったことを伝えており、忌明けとはこうした生活から解放される機会であった。
 〈初七日〉 事例1 新居浜市では初七日のブクアケのとき精進落としをしている。招かれた人々は精進酢、小豆飯、蒸飯、乾物、野菜、菓子などを供物として持参した。
 事例2 大洲市では死後七日目に仏前ヘオリョウグとタンゴを供え、墓参りをした。
 事例3 津島町御槇地区では葬式から三日目あるいは七日目に初めて肴を食べるのを精進落ちという。また六日目に餅を揚き、七日目をヒアケと称して丸餅を一本箸で剌して食べる風があり、平常は一本箸を嫌った。
 事例4 一本松町では四十九日まで七日目ごとに団子を作って仏に供えた。また毎朝オチャトウを供え、麦飯の釜の底には米が多いからそうしたところを仏に供えて追善した。
 〈四十九日〉 事例5 伊予三島市富郷町では仏様にタンゴを四十九個作り供えた。
 事例6 越智郡伯方町北浦では、小餅四十九個と一重ねの餅を搗き、いったん寺に持参したものを持ち帰ってから餅を切り、親類中に配った。
 事例7 中島町では四十九の法事に塩餡餅を配る。以前は高盛飯、三角豆腐、切昆布を添えて組内に配った。
 事例8 上浮穴郡久万町下直瀬では一臼で大餅と四十九の小餅を搗いて仏をまつり、大餅は喪家で食べ小餅は袋に入れて来客に持ち帰らせた。
 事例9 喜多郡肱川町では仏前に四つの大餅を供え、葬列で持ち方、火手、位牌持ちの四人が貰うことになっている。上浮穴郡美川村では持ち方はこの餅を貰わぬと肩の代がもどらぬといっていた。

 巳正月の餅

 新年をひかえた一二月初巳の夜、新仏のために正月を祝う儀礼がある。これを巳正月・巳午・辰巳・カンニチ(坎日)・新亡の正月といい、県下にはさまざまな言い伝えが残っている。すでに昭和前期、杉山正世は『周桑郡郷土研究彙報』第一六号で巳正月に関連した伝承を収集したり、この日に客と取り交わす挨拶のしかたなどについて報告しており、秋山英一は『東予史談』三九号のなかで「これは秀吉の四国征伐の時から初(ママ)ったもので、東予独特の行事だ等、物知り顔に云ふ人があるが、土佐幡多郡地方に於ても同様のことが行はれるのであって、決して西条地方の専売特許ではないのである。」といい、民間解釈を排し、調査の可能性を示唆している。もっと古くは西園寺源透か大正一〇年に「年ノ暮ニ巳午ト云テ魂祭ヲスル也。是ハ河野氏ノ時分、巳ノ日ニ馬ヲ多ク殺シタル故ノ法事ナリ。其序ニ年ノ暮ノ魂祭ヲシタリト云フ。」(『松山俚人談』)の記事について、「余おもへらく、是は中山子(俚人談著者・宝暦年間の人)が廣く調査せずして、只一地方の事のみと思ひし偏見なるべし。巳午祭のことは廣く各地に行はれたものと思考す。」と、俚人談の著者を批判しながら科学的認識の必要性を説いている。さらに西園寺はこのなかで宇和島地方の事例を報告している。
 事例1 新亡者のありたる家では、その午陰暦十一月巳午日を卜し、一臼限りの餅を搗き、親類縁故を招きて共に墓参をなし、餅を墓前に供へ、尋で藁を以てこれを炙り、亡者に血縁近きもの二人背を向け合ひ後手に握り、梢々引っ張るようにし、それを他の一人が庖刀(鎌)を以て真中より切り放ち、それをまた小切にして墓参者一同に分与す。一同は一時にこれを食うて巳午祭の式を了るなり。
 この事例では、十一月巳午の行事とされているが、県下では圧倒的に十二月に行われることが多い。それでも北宇和郡日吉村、喜多郡長浜町上老松、同郡肱川町予子林などでは十一月に行っている。ところで西園寺の報告事例で注目されることは、巳正月の行事は実に多様な習俗が伝えられているにもかかわらず、そうしたなかから、巳正月の餅に焦点をあて、この儀礼を理解しようとしたことである。これは重要な意味をもってくることになるのだが、いましばらく他の事例を検証してみたい。
 事例2 宇摩郡新宮村では、十二月辰巳に当たる日に親戚が集まって故人の追憶をし、翌朝未明に起きて全員墓参りをする。餅をなべぶたの上で鎌を逆手に持って切り、藁を焚いて餅をあぶり、皆で食べる。
 事例3 新居浜市泉川地区では辰の日の夕方に注連縄にだいだいをつけ仏壇を飾り、豆腐一丁と餅を供え、供物の豆腐には箸を突きさした。
 事例4 石鎚山北麓では十二月初巳の日、その年に死者のあった家で死者のための正月行事をした。墓地に注連飾りをし、夜中に墓参りをした。墓前に餅を供え、藁火で焼いてこれを持ち帰り、皆で炉辺に集まり餅を炉の茶釜の弦をくぐらせ「大きな餅、大きな餅」と唱えながらこれを食べた。
 事例5 東予市や周桑郡では巳正月、坎日といい、新仏の正月を十二月初めの辰の晩に一臼餅を搗いて、片重ねの祝餅を墓所で藁火を焚いてあぶり、双方から引っ張り合い刃物で切って食べる。これを新仏が見ておかしいので笑うと言い伝えている。墓地への道すがら他の参詣者や知人に出合っても決して言葉を交わしてはならないとされ、今に守られている。またこの地方では、墓から帰ると餅一つと里芋一つの一杯限りの雑煮を食べた。
 事例6 越智郡菊間町では十二月最初の巳の日を亡者の正月といい、夜中の十二時過ぎて墓に詣り、藁を焚いて生餅をあぶり、一同で引っ張り合って食べた。ミウマモチは一臼餅である。墓詣りのとき人に会っても言葉を交わさず、家に着くと餡入りの餅で雑煮を食べた。
 事例7 上浮穴郡久万町では、辰巳の餅をカンニチの餅とも呼ぶ。下畑野川地区では、辰の前日親類から米一升あてお供えがあり、新仏のあった家ではその米で餅を搗き、そばの粉をとり粉にした。辰の日に餅を親類中に配った。また一臼で搗いた角の平餅を持って墓に行き、これを藁火で焼いて庖丁で切り、その先にさして肩越しに後に突き出した。この餅を皆で食べた。同町東明神では、新仏の正月は巳午の日で朝ガラスが鳴くまでに墓参りをしなければならず、墓参りから帰ると餅を藁の熱灰で焼き、庖丁の先で突きさして皆で食べた。
 事例8 同郡美川村では、野辺送りのとき持ち方であった者が巳正月の餅を墓へ持って行くことになっていた。
 事例9 内子町では、十二月の巳午に新仏のあった家では、早朝カラスの鳴かないうちに墓前で火を焚いて餅をあぶり、親類に分配する。餅を庖丁の先に突きさし、肩越しに後の者に取らせた。
 事例10 大洲市では、死者が初めて迎える十二月の巳の日を新亡の正月とか、巳午の法事といった。その日に搗いた餅を供え、墓参りを済ませると、しめ縄や藁を焼き、おさがりの餅をあぶって葬儀の折持ち方をした人が後ろ手に持ち、身近な人が二つに切ったものをさらに小さく切り墓参りの人々にその場で分け合う。だから、ふだんは搗いた日にすぐ餅を焼いて食べるものではないと言われている。
 事例11 瀬戸町三机では塩餡の大きな餅を搗き、重箱に入れ、房つきの風呂敷をかけて死者の見舞いや葬式に来てくれた人の家へ配る。同町大江では餅をむら中に配り、オモヤは十個、インキョは八個、カンキョは六個の餅を配った。三机の新墓に供えるお鏡餅は一つで、墓前で兄弟が引っ張って鎌で切り分ける。帰りの道々でその切った餅やアナイチモチという小さい餅とともに、墓参りの帰り道出会った人々にお接待した。この餅を食べると夏病みしないといって喜んだという。
 事例12 南・北宇和郡では、巳の日の正月に搗く餅は洗いがけの一臼餅であった。洗いがけとは、その日に洗ってその日に搗くことをいった。この餅を膳いっぱいに薄くのばして供え、これを切って刃物の先に突きさして墓までついて来た子供達に配り、親戚の人々はちょっと火にあぶってからこの餅を食べた。
 事例13 城川町では、十二月巳と午の日に餅を搗くのはその年中に死者のあった家に限られていた。そこでは一升餅を搗き、近親者が集まって餅を膳に入れ、藁一束を持って墓に行き、墓の前で藁を燃やし、兄弟とか子供といった近親者二人が背合わせになって餅を持ち、藁の火にくすべながら二人が餅を引っ張り合って二つに切る。この二つになった餅を出刃で小さく切り、一つを仏様に供え残りを出刃の先に突きさして、参会者全員に差し出した。
 事例14 津島町御槇地区では、ミノヒノショウガツと呼んで、新仏のある家では師走の初巳の日に親類からトシマイと称して一升ずつ供えてくれた糯米で、その日の早朝鶏の鳴かぬ先に餅を搗いた。この餅を巳の日の餅といい、一般の家々ではその日に餅を搗かなかった。巳の日の餅は夜の明けぬさきに墓地へ持ってゆき、ちょっと火で焼いて、兄弟など二人で引っぱり合って食べた。
 事例15 東予市では巳正月の翌日午の日には、死者もなく無事に一年を過ごした家々が餅を搗き、新仏が出た家に午の餅を贈る風習があり、これをオウマサン(お午さん)といっている。同様に石鎚山麓ではウスナオシといって、午団子を搗いて巳正月の家へ贈り「来年から午をおいわい下さい」と言った。
 以上、県下の事例を整理することで次のようなことが分かってくる。一つは餅の調製に関して特別の作法があり、その材料となる糯米は死者の忌のかかっている親類の供え物を当てていることである。お午さんやウスナオシのように忌のかかっていない清浄な家々から贈られてくる餅と好対称を示していることになる。二つは、この餅が墓前で分配されることである。このことは死者との食い別れの儀式でありブクバラシでもあった。その方法と分配の範囲については一定ではないのだが、この餅を野辺送りの持ち方(棺をかつぐ役)が墓に持って行ったり、兄弟が引っ張り合うという伝えがあることから本来は死者に身近な人々の儀礼であったに違いない。例えば越智郡では巳正月には案内をしないものとされており、ここでの人々の振る舞いは死者とのかかわり、思いの寄せかたによって決まっていたということができるであろう。それがだんだん瀬戸町の事例のように、会葬者やむらうちの家々にまで拡大していったのは他の忌の飯と同様の傾向を示していて興味深い。巳正月の餅を食べると夏病みをしないというのは大洲・喜多郡あたりで信じられている。
 巳正月の餅に関して柳田国男は、「中陰明けの日」と「巳正月」という二つの異なった民俗事象のなかから「墓前の餅分割の式」という儀礼要素の類似を指摘し、通過儀礼における忌の食物の相饗について明らかにした。忌の食物に関してみれば、西園寺の報告以来蓄積されてきた県下各地の習俗の比較を通して得られた結論とも一致しており、柳田の生死観をめぐる仮説の有効性を証明している。ところが柳田は巳正月についてもうひとつ別の推察をしていた。それはこの巳正月の儀礼と年中行事における正月の行事との関係についての推察であり、はじめは「是も本式の正月を迎える前に、亡者と共に最後の食事をして清く人竝になって初春に入って行かうとする絶縁の方法であったと思われる」と実に控え目に語っている。それが『先祖の話』になると年中行事の二期性とその性格の違いを強調するなかで、先の推察がきわめて有力な説明の根拠として使われはじめている。すなわち、巳正月の習俗といわゆる仏の正月とが柳田によって後に一括化されてしまうのである。「正月と盆とは春秋の彼岸と同様に、古くは一年に二度の時祭で儀式も其趣旨も、雙方異なる所が無かった」それが「全體に暮の魂祭だけを何とかして他の一般の正月行事から引離そうとする意圖は窺ひ知ることが出来るが」「盆を佛法の支配の下に置いて後まで、なほ田舎には年の魂祭といふものが残って居た」という。このような柳田の認識論をもとに「四國では徳島愛媛の二縣などは、十二月の最後の巳午の日に、墓で祭をして正月は墓に近づかぬ様にするが、それは一年の間に死者のあった家だけの行事で、久しく不幸の無い平和な一門は、やはり正月十六日に佛正月の墓参りをする」という解説が加わることになるのである。
 ここで注意をしなければならないことは、柳田の学問を継承する過程でこの巳正月の伝承をいわゆる「仏の正月」という文脈のなかでしか理解できないとすれば、実態とかけ離れた姿で伝えられかねないということである。ひとまずここでは、盆の仏まつりに対して正月の神まつりが対応しており、それぞれに年内に亡くなった死者を供養する新盆と巳正月(新亡の正月)のまつりが別々に配置されていたらしいということを指摘するにとどめておきたい。

図8-10 枕飯と枕団子の伝承

図8-10 枕飯と枕団子の伝承