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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

四 愛惜と忌避

 生から死へ

 人は死によって人生に訣別する。葬儀は社会からの分離・離脱の儀礼であった。生者が死者に対し抱く態度には恐怖と憧憬の念が交錯しており、儀礼や呪的行為にもまた、死者を愛惜しその関係を招迎しようとしたり、逆に死者との関係を排除しようとしたり矛盾した態度がみられるのである。葬送儀礼や死者供養は所定の手続きを経て行くことによって死者の霊を当該社会が理想とする死後の世界に送り出すことにあった。つまり、生から死への移行はいくつかの儀礼の経過によって確定されており、古い時代ほどその期間が長かったものといわれている。普通は、三十三回忌で弔い切りにすることが多く、松山地方ではアゲホウジといい、かなり盛大な法事をした。中島町では親戚も大勢集まってくるので「オオゴトの三十三回忌」といった。石鎚山村ではアゲホウジという。弔い切りで一応死霊が浄化され祖霊になり、人生儀礼が終了することになる。死者の霊の祖霊化過程にみられる儀礼は不可逆的時間の概念に基づいている。ちょうど生者がいつまでも若者でいられないように、死者の霊の成長もまた再び戻ることのない時間の経過を示している。戻りたくとも戻れないのである。
 〈藁箒〉 重信町では、出棺するとすぐ藁箒で掃く。また箒で掃き出したあと、さっと戸を閉め霊が帰ってくるのを遮断することもあった。伊予三島市富郷町では淋しさをまぎらすために徳利を転がした。中島町津和地では死者の寝ていた部屋に臼と手斧を置いた。
 〈仮門〉 小田町野村では、死者は明き方より出棺していたので、もし壁があればこれを破った。広田村でも方角をやかましくいい、壁を破ってその方位に出棺して埋葬した。ここでは、そうした風習を改めカリトグチといって竹を門型に折り曲げたものを作って出すようになったといっている。仮門をくぐらせる伝承は、南予地方一帯に残されており、カリモン・カリキド・カリトグチ・竹の鳥居などと呼ばれ、野村町惣川では、雌竹を二人が持ちアーチ型に曲げて門先にいた。一本松町では「小竹の門」といい、二本のにが竹で作った。
 〈左回り〉 城辺町緑では臼を庭の中央にすえ、この周囲を三回まわる。野村町惣川では悪魔祓いといって、オオバタ・コバタを持った者が先頭に立って左回りに三回まわる。天神地区では炒り豆を撒いて「この豆が生えてくるまで帰るな」と言った。

 〈辻・橋〉 中島町では、葬列がむらうちを通過するとき、沿道の家は雨戸を閉める。葬列は途中必ず四か所の辻を通らなければならないといわれた。松山市では葬列の途中に橋がある度に僧侶がドラを鳴らす。これは悪鬼が死者を襲うのを駆逐するためのおどしだという。生名村では葬列が四辻に来ると導師がチンと鉦を鳴らすと法鼓がドーン、銅鑼をヂャンと鳴らす。野村町惣川では行列の途中でワタリセンといって、紙を小さく切って川・溝などに撒き墓地まで行った。一本松町正木では葬列が橋を渡るとき六文銭といって小銭を川へ投げ入れ、三途の川の渡し賃の前払いとした。
 〈笹〉 葬送儀礼を通して竹や笹の伝承を聞くことができる。八幡浜市中津川では、出棺後畳を改めて室内を掃き清め、竹の枝を撤き散した。南・北宇和郡では棺が庭に出ると、座敷を掃いた藁束をカリキドの竹に挾んで屋根にする。吉海町仁江では葬式から六日目の晩に、生前の部屋に竹を曲げて笹藪をつくる。そうすることでもし死者が戻って来たとしても、自分のところが笹藪になっているからあの世に帰って行くという。一本松町正木では、六日目の晩には死者の霊が帰ってくると言われ、死者の寝ていた部屋に生前使った蒲団を敷き、竹の枝をヘヤの四隅に立てておくことがあった。そうすると霊が帰ってきても、室はもう藪になっているとあきらめて立ち去るという。

 問い分け

 死穢からのがれ、死霊の崇りを断ち、できればその庇護を得たいというのはごく自然な心情である。しかし、それはあくまで生者に都合のよい一方的な「まつりあげ」の論理に根ざしている。これにたいして、死者の声を聞き生者の利己的願望を抑制することで諸種の不幸の原因を解消しようとしたのが問い分けの習俗であった。これがまた死者の供養にもなっていたのである。ここでの時間は死霊と交媒する巫女の手にゆだねられ、異次元の世界が現出する。問い分けは民間の巫女に依頼して行う口寄せの一種で、死後四十九日までに死者の霊を呼び戻してもらうのである。死者の霊を呼び寄せ、いろいろなことを語らせることのできる特殊な能力を持った人がいた。八幡浜市日土町ではトイワケといい、心残りなことはないか、よいところへ行っているか語らせた。瀬戸町大江ではウチカケと呼び、仏をあの世から呼び出したという。同町塩成では、トイワケ、ウチカケといい死者の霊と話のできるときが一時だけあり、このときにトイワケをしてもらうと死者は安心して仏になれるという。また三崎町名取では隣部落にウチカケをしてくれる老婆があり、そこを訪ねて故人の話を聞いたという。伯方町北浦では、弓の御祈祷というのがあった。頼むと山伏のような人が家にやって来て死者の霊を呼び寄せた。なかには、そんなことをするとそこらの餓鬼仏も寄ってくると嫌う人もいる。吉海町椋名では海で亡くなったり、急死して遺言もなかった場合、カワワタセといって、葬式後にオガミヤサンを頼んで霊をこの世に呼びもどしてもらっていた。また大西町宮脇では、死者が夢枕にたち、胸がしめつけられるようなことがあるとオガミヤサンを訪ね、死者の思いのほどを聞くことがあったという。

 水のしるし

 招迎の儀礼や呪的行為のなかに水の伝承を見い出すことができる。柳田国男も「先祖の祭に水を侑めるのも、是があなたの産湯の日から、生涯飲んでいられた水でござるといふことが大きな款待の一つになっていたらしいのである」と早くから注目していた。
 〈ウブよもどれ〉 小田町では人が死にかかると、身内の者四、五人が水を口に含み「ウブよもどれよう」と言いながら顔に水を吹きかけた。吉海町仁江では水フクといって死にそうな時に水を口に含ませる。しかし、長い間病気の者にはしなかった。
 〈末期の水〉 死者と特別の間柄にある者が末期の水といって、樒の葉を水につけ、死者の唇を湿した。越智郡宮窪町浜では、末期の水はその家の跡取りが汲んできて、枕元に立ち合う人が樒の葉で末期の水をとらせた。東宇和郡城川町の高川地区では、末六十五日の死に水は長男がとるべきであるといい、長男が一番先に綿か筆を水に浸し死者の口を潤した。よく世間では「親の死に水もとらないような不孝者」とか臨終にも立ち会えなかったことを「死に水も間に合わなかった」といった。病人はまた「だれそれに死に水を取ってもらいたい」と信頼すべき者に生前から言い渡していることもあった。上浮穴地方では、末期の水の中に男なら一文銭を、女なら針一本を入れた。
 〈湯灌〉 死者の身体を洗い身づくろいをすることをユカン・ユカケ・トリオキという。新居浜市では畳を一枚裏返しにするか荒むしろを敷き、その上に盥を置き、水を先に入れ湯をつぎ足しながら湯加減をみた。男にはヒゲを剃り、女には薄化粧をした。生名村では畳を敷き替え、荒むしろを裏返しにして木の杓で湯をかけながら洗った。杓は底を抜いて海に流した。そうしないと餓鬼仏が杓を使って通りかかる舟に水を入れて沈めようとしたといっている。宮窪町余所国では湯は蓋をしないで沸かし、樒を一本入れ、死者を盥のなかに座らせて杓子三本で湯をかけた。洗い終わった湯は床下に捨てる。玉川町桂では湯灌に使った湯は、床下か日陰に捨て盥は川で洗い、これを裸足で持ち帰り湯で洗ってそれを蹴ってひっくり返した。同町中村では、夕方日が沈んでからクマオウを避けて捨てた。中島町では、杓を逆手にして湯をかける。杓の代わりに故人常用の茶碗を用いる土地もある。宇和町では、寺から借りた盥を使い、湯灌をするとき畳を川流れに敷き、出棺後敷きもどす。このとき畳の下へ竹の葉を敷く家もあった。南・北宇和郡では、畳をあげて床板敷に荒莚を敷き、一本線香をたくさん焚き「ええとこへ行きなされや」といって死者を起こした。湯は釜の蓋をとって沸かし、水を盥に入れてから湯をさした。むかしは男女とも眉毛をおとし、顔にソリをあてたが、産で死んだ女には身の丈よりも長くツケカモジをした。湯は床板をあげ土を掘って流すか、日のささぬ物陰に捨てる。
 〈オチャト〉 死者をまつる仏壇や墓地に水やお茶を供えることを越智郡あたりでは、オチャトといっており、このことがそのまま死者供養の意につかわれている。喪に服している人と挨拶する場合「まあお茶でもお飲みなさいませ」といったりした。長浜町では四十九日まで毎日墓参りをして天茶天水を代えた。
 〈水かけ〉 今治市では墓参りに行くとき水や茶を入れた容器の蓋をしないでヤマに行き、墓前に茶を供え花立てに水を注ぎ、墓石にたっぷりと水を掛けている。

 クロビ

 死者に対する儀礼は他から隔離されて行われていた。隔離の最大の要件は火を分かつことであったらしい。南予地方では産の忌を赤火といい、死の忌を黒火といった。日吉村犬飼では黒火は縁起が悪いといって忌み嫌った。宇和島市九島では、「黒忌三日、赤七日」といわれ、クロイミの場合死者の家に縁者がミマイと称してアズキメシを炊き一番キリダメに入れて持参した。城川町では喪家で親類縁者が食事をし、これをクロビといい精進宿では不幸組の人が集まって葬儀の準備をした。親類と他人とのたてわけをして飲食を共にしなかった。上浮穴地方では喪家の食事をキリビといい、大洲市蔵川では、親類縁者は元火を食うといって喪家で飯を食べ、講仲間はたいてい喪家の隣家を借りてナカショウジンと称して火を別にした。死者や身近な近親者はケガレているということをよくいわれる。ケガレとは桜井徳太郎によれば、ケが枯れた状態を示していると説明されている。死者はよく乾きを訴えた。
 〈オソレ〉 死にともなう忌みをブクという。ブクのある間は、死のケガレから逃れるため喪家の神棚に白紙を垂らす。これをオソレと呼ぶ。紙封じ(新居浜市)・顔かくし(東宇和郡・北宇和郡)・カミヨケ(南宇和郡)などともいった。重信町では初めに喪家に来た者が、無言で門口や神棚にオソレをした。半紙一枚か五cm位の幅に切ったものを水で貼った。宮窪町浜では初めに来た人が悔やみをいう前に「神の戸を締める」といって藁を十文字に結んだものを神棚に置いた。同町余所国では、藁すべを十文字にして神棚三か所に立て葬式が済むと外した。瀬戸町川之浜では神棚の前に張った紙は四十九日まで置き、済むと神職を招いて後祓いをした。
 〈ブク〉 ブクがかかるということがある。川之江市などでは、当屋に当たっていた当主の親類に不幸があったときにはブクがかかるといわれ、家族の誰かが代行した。もし当屋予定の家に不幸があった場合には急きょ他の家に変わったという。大三島町肥海では、葬儀に参加すると「ブク食った」といった。ブクは喪家の茶を飲んでもかかるとされ、上浮穴地方では葬式料理を食べると三日か一週間のブクがかりになるといった。八幡浜市向灘では、ブクのある家は氏神の祭礼がくると前日から家族中が舟で沖合いに出た。これをデビトといっている。ブクがかかっていると祭礼の役者や神輿かきを遠慮することが多かった。ところによっては、四十九日のヒアケでブクがなくなるというところもあった。

 火のしるし

 葬儀は喪家から墓地への死体の移動とともに忌火の移動をみることができる。野辺送りは、死者の霊が逸脱しないようにできるかぎり慎重に運ぼうとしていた。また、墓見舞いとか夜伽の焚火にみられるようにモに籠る遺族の居場所もまた喪家から墓地に移っている。
 〈門火〉 出棺時に屋敷内で藁火を焚く。重信町ではモンビという。宇摩郡別子山村ではカドビといっている。吉海町では門火は松の束を門口で燃やしていたが、今は竹を削った棒の上にロウソクを立てる。
 〈迎え火〉 南・北宇和郡では葬列がカドを出ると橋のたもとか墓のとりつきで、先発した講中の者が松明を二本焚き、これを迎え火といった。松明は物干竿でつくるというしきたりもある。城川町では野火とか迎え火といい墓場でツボウチをした者らが大火を焚いて待っていた。
 〈ノボテ〉 城川町のノボテは藁の巻いた先へ赤い紙をつけて火のようにしてある。野村町植木では親戚の高齢者がヤマでそれに火をつけて穴を廻る。またノボテを持った人は葬列に会わないように帰るともいう。三間町成妙地区のノボテは藁で蛇形を作ったもので、火を点してゆく魔払いである。普通は親類のなかの最年長者が持ち、棺を納めるその周囲をぐるぐる廻った。
 〈藁火〉 埋葬が終わると藁火をつけて墓所の周囲をぐるぐる回したり、墓の周囲を持って回り魔除けの呪法をした。伊予三島市富郷では藁を燃やすと山犬が墓穴を掘り返さないといい、翌日焼いた灰の掃除に行く。これをノソウジという。
 〈墓見舞い〉 吉海町仁江では、お見舞いに行くといって皆が墓から帰ってくると、例えば夫が亡くなったのであれば妻が提燈をつけて墓に行く。誰か連れて二人で行くことになっており、嫁はその場合葬列には出なかった。宮窪町では提燈をつけ草履・杖・笠などを持って行く。
 〈夜伽の焚火〉 南・北宇和郡では、埋葬後に昔は墓のかたわらで焚火をしながら、身うちの者ニ~三人で夜伽をした。大層な家では四十九日までも夜伽をし、一年間は新墓へ燈籠を点しに参った。今ではその夜中三回位、墓を見回りに行くくらいで、これを足音に行くといっている。
 〈火とぼし〉 広田村高市では墓前に火縄に火をつけて一週間以上点す。四十九日点すのが正しいとしている。これは魔除け、けもの除けのためであった。
 〈燈籠〉 施餓鬼旗と燈籠は三年間盆の月一か月間行うのがふつうで、東予市や肱川町では点し始めの日には、親類の者が燈籠見舞いにきた。三年目が終わると瀬戸町川之浜では燈籠上げといって墓へ持って行き、墓前で点し、これが破れるまで毎晩燈をつけに行ったという。宮窪町では燈籠は三年点したら流しており、海に持って行くまで人に見られてはならず、帰るときには後を見てはいけないという。

 棺

 昔はほとんど土葬であった。古くは丸い桶であった。屈葬の場合、棺をスワリガンといい、伸展葬の場合はネガンといった。一本松町では葬式組の人が作り、葬列のときには講の人たち四人で棺に結びつけたひもに二本の棒を差しこんで担いだ。
 〈道具ゆすぎ〉 上浮穴郡では棺ができあがると喪主に見せ、塩祓いの酒を飲む。これを道具ゆすぎという。東予市では明治時代には早桶といって、粗製の円桶を棺としていた。新宮村では棺桶は手作りで座棺であった。大洲市蔵川では、棺を作るものは高さ二尺四寸四分、幅一尺四寸四分、寝棺は長さ五尺三寸の箱で、センダンの木が最もよく、棺の内側を赤色の念仏紙で張り、外側を半紙で張った。宇和島市戸島では棺桶代は部落の共同負担で、旧盆の十六日に決済した。
 〈入棺〉 伊予三島市富郷町では座棺が多かった。男なら棺の高さが二尺七寸、女は二尺三寸位で棺の中へは蒲団を敷き座らせた。このとき硬直した死体をほぐすには、石鎚山の頂上で汲んできた霊水を掛けると柔らかくなったという。雨だれの砂を取ってきてかけるところもある。
 〈カンオコシ〉 南・北宇和郡では、カンオコシのお経がカドで唱えられると末期の水を今一度して棺に釘を打ち、縄をかけ、棺担ぎは草履を履いたまま座敷から担ぎ出した。棺の蓋に釘を打つのは、西条市西之川では孫から打つといい、宮窪町浜では跡取りから打ち始めるという。棺打ちは金槌を使わず雨だれの石で打つところが多く、笹やヨモギを添えて打ち、床下に投げ込むところもある。北条市小川谷では秤のおもりで釘打ちをした。生名村では棺を左ないの荒縄で縛って飾りたてた。
 〈棺かき〉 棺かきは持方ともいい、今治市馬島では故人の甥か孫が当たり、幼少であれば誰か手を添えて助けてやった。瀬戸町川之浜では、かき手は親類で相談して決めた。北条市小川谷では、棺は駕籠にのせ身近いものが左肩と右肩で担いだ。南・北宇和郡では二人担ぎは一間余りのトチネン棒で担ぎ、四人担ぎは合掌屋根の輿が多い。
 〈鍬初め〉 棺を墓穴におろして初めて土をかけるのを「鍬初め」、「送り鍬」と呼び、宇和町では喪主が後ろ向きに土かけをした。ついで身うちがそれぞれにうちかけ、後は葬式組の人が埋めて盛り土をする。

 墓じるし

 いまでは七回忌ころまでに墓碑に夫婦の名を刻んで石塔を建てるが、これは近世以後の流行であった。県下の石塔の変遷は、元禄墓、拝み石(角柱型石塔)、板碑型石塔、石殿などがあった。墓地も共同墓地が多くなったが、住居に隣接した屋敷内にあるなど個人墓地もみることができる。墓地をヤマとかハカと呼び、そこはひとつの聖地として意識されていた。
 〈イタダキ石〉 美川村や柳谷村では、埋葬の土かけが終わるとその上にイタダキ石を置く。石は組の者が川から運んだ。その上に位牌を置き、前に小さなオガミ石を据えた。柳谷村ではこれをエンノ石、エン石という。野村町では、盛り土の上に六個の石を置き中央を笠石とし、野位牌を置いた。南・北宇和郡でも六つの石を置き、中央を笠石とし、前を枕石とかブク石といって水を供えた。重信町ではトアゲの日に墓地を整地する。拝み石のまわりに河原から取ってきた白石や砂を敷いた。弓削町では、新仏の墓に三日以内に浜のマサゴ石を洗って供えた。
 〈オシノダケ〉 野村町では四隅に竹を立て、竹には魔よけの白紙を巻きつけた。南・北宇和郡では四隅にオシメあるいは竹に白紙を巻いて立てた。これに魔除けの糸を張り渡した。津島町御槇地区ではこれを四方ガタメといった。宇和島市九島ではオシノダケを立て、カケソの糸を張る。西条市西之川では埋葬のときの花立てには笹を入れ、翌日の墓なおしにシキビを立てた。今治市馬島では墓の周囲に四本の竹を立てて、それに白糸を張り巡らし、正面に傘を一本垂らし魔が死体をとってゆくのを防いだ。
 〈ヤナギ〉 越智郡魚島村や温泉郡中島町では、七十歳以上の老人が亡くなった場合、ヤナギとかナッパドウと呼ばれるものを葬列の最後尾について持ち歩き、これを墓に立てておく。ヤナギは青竹で作られ、細かく割った部分に五色紙の小切を貼りつけたものである。
 〈ミョウドウ〉 新居浜市では、位牌をおさめる小屋を冥堂といい、死者が天日にさらされるのを避けた。今治市馬島では土を盛った上に石を置き、屋根をかけた。吉海町ではこれをミョウドウと呼ぶ。伯方町北浦では、棺を埋めた上に藁で編んだ屋根を作り、コヤという。七夜が済むと大工に板で屋根を作ってもらった。重信町では藁で屋根をふき、これをオソレと呼んだ。このオソレは四十九日までおき法事には焼いた。

 静かなる人里へ

 柳田国男は「広島へ煙草買ひに行くといふのは、伊予の内海側では死ぬといふ代りに、折々使はれる気の利いた忌詞になっている」といった。「広島に茶を買いに」、「広島に牛蒡を掘り(売り)に」とか単に「広島に行く」ともいい、そこでいうヒロシマとは広い静かな人里を意味し、シマは古くは人の住むところという意味があったという。今日、高齢化社会の波はひたひたと押し寄せており、人々はいやおうなく死の問題に直面しなければならない。医療福祉の現場には死にきれない老人達の悩みが日々寄せられ、「愛媛」という地域社会に生きる人々が今後とも、広い静かな人里という快適な環境を思い描きつづけられるかどうかが、今まさに問われているのである。