データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

二 大正月の行事

 若水迎え

 新年を迎えた朝、最初に汲む清水をワカミズという。この若水を汲みとることを「若水汲み」「若水迎え」というのである。若水迎えは、家々による仕来りがあったが、井戸のなかった時代には川水や谷川の水、泉などの水を汲んでいた。また、井戸ができて後もこの若水だけは旧習を守って前代の場所から迎えてかえることになっていた家があった。
 神社でも若水迎えをして、それを神前に供えることにしているが、古い湧泉があってそこの水を汲んでいた。例えば松山市居相の伊予豆比古命神社の若水は、神社付近の鞘淵の水を汲むのである。新居浜市一宮町の一宮神社の若水汲みは七日になっているが、若水町の葛淵の霊水を汲んで神前に供え、神饌を調理することになっている。伊予市下三谷の埜中神社でも若水は野中の清水と呼ぶ湧清水を献上する古伝である。
 若水汲みは戸主の役目である。ワカミズダイとかワカミズボテと称する松明をつけ、桝か盆に鏡餅・米・田作りなどを入れて水場に行き、これを水神に供えて明き方を拝み、次のような文句を三回唱えてから汲んだ。

  福汲む 徳汲む 幸い汲む よろずの宝を汲みとった

 この唱え言は、前半は各地とも共通であるが、後半の文句は家により所によってさまざまである。

  黄金の杓で水を汲む  (菊間町)
  黄金三ばい汲みこんだ・今朝の清水を汲みわける  (一本松町)
  中で祝いの水を汲む (伊予市下三谷)
  くるりとかやれ金釣瓶  (松前町横田)

などはその一例である。また変わった例では「千釣瓶 万釣瓶 汲ましてください(魚島)」といったりもする。
 若水は若水桶に汲む。手提げ桶にお飾りをつけて汲んで帰ったのである。現在ではバケツを用いるが、必ず新調のものを用いる。なお、若水汲みに必ず松明を用意するものであったのは、この行事が浄闇の中の行事であったからであるが、それについてこんな伝説がある。
 西海町福浦では、松明で一度井戸の中を照らしてから若水を汲むが、昔、そうして中を覗いたら福の神を見つけたので、今もそのようにするのだと伝えている。また使用済みの若水松明には呪力があるとされ、そのまま保存しておいて、牛馬が放れて行方不明になったとき、これで探すと容易に見つかると北宇和郡や温泉郡などではいわれている。あるいは落雷で火災が起きたとき、これに火を点して屋根の上を投げ越せば火が消えるともいう。また若水汲みに行くときは、途中で人に会わないように心がけるが、会っても一切無言である。
 このように若水は、正月神に供え、雑煮炊きや湯茶用に使用するが、洗顔に使った水もそこに用意してある盥に溜めておいてすぐに流し棄てたりしなかった。これは洗顔する場所の関係もあったといえるが、一方には棄てることへの禁忌があったからである。

 正月神の呼称

 正月に迎える神をトシトクジン(歳徳神)と呼ぶ。トシトコサマ、オトシトコサマ、オショウガツサンともいう。正月神は、人里離れた彼方(恵方・明き方)からくさぐさの土産を携えて人の世の村落に降臨し、家々に来訪して来るものと考えられていた。すなわち正月神は来訪神であったのである。
 正月が近づくと「正月迎え歌」が歌われた。各地のものを幾つか挙げてみよう。

Oお正月さんどこまでござった キリキリ山の下までござった
おみやげに何もって 小豆俵に米俵  (伊予郡)
Oお正月の神さんどこまでおいでだ 谷々越えてそこまでおいでだ 弓の矢をかるて お豆腐の下駄で
お土産に何もって 小豆俵に米俵  (同郡双海町下灘)
○お正月まはどこまでござっだ 山草を蓑に着て つるの葉を笠に着て 門松を杖について
お寺の下の 柿の木に止まった  (喜多郡)
○お正月さんがござった つるの葉をくわえて 山草を羽根に  (東宇和郡城川町)
○ござったござった 正月の神が山草を蓑にして つるの葉を笠にして
ごっとりごっとりござった   (同郡野村町)
○お正月の神さまどこまでござった 願成寺の前まで 山草を蓑に着て 譲り葉を笠に着て
金の杖ついてごっとりごっとりござった。  (宇和島市)
○お正月の神様はどこまでござった 鶴の羽を笠にし、山草を蓑にし おしめ(注連縄)を帯にし
鉄の杖ついて 鉄の下駄はいて カント山の裾までゴットリゴットリござった  (北宇和郡日吉村)
○お正月さんがおいでた 天王山までおいでだ 羽子板を橋にかけて 袂に手毬を入れて  (越智郡菊間町)

 各地それぞれに歌われていたこれら一連の正月待ち歌は、正月に寄せる童心を歌ったものであるが、一方では正月神の性格を象徴しているといえる。すなわち、正月神は訪れる神であり、よろずの福寿を人の世にもたらす神であると理解されてきたのである。

 歳徳棚

 正月にはオタナサンと称する臨時の棚を家の座敷など清浄な居間に設けて祭った。これは現在も続けられている習俗であるが、別に「箕棚様」と称して、農具の箕を天井から吊して祭る風習のところも多い。棚を設けて祭るところから正月神はまた、オタナサンとも言うのである。
 正月棚には注連飾りをし、それに稲穂・大根・牛旁・蜜柑・串柿・橙・懸鯛・昆布など海山の幸を吊す。もちろん地域によって飾り方にも伝統的な習慣があり、上記のように各種の物を取り掛ける方法から単に注連飾りをする程度のものもある。次にその特徴的な事例を少し挙げておく。
 事例1 南宇和郡一本松町ではトシトコ棚という。地区により、家により多少の差異が見られるが、正木のS家では一升桝を置き、その中へ糯米を蒸した力飯を入れる。その上に三宝を載せて、餅一重ね、稲穂・干柿・勝栗・かき餅などを供える。稲穂はモチとシャクの穂で、注連飾りの両端に打ち違いにして掛けており、これをシメノホと称している。なお、棚の両端に餅花を飾る例もある。
 事例2 北宇和郡地方で行われている歳徳棚は、三宝または膳に米を盛り、その周囲に干柿・栗を並べ、昆布を置く。盛り米の上には松の小枝とユズリハ三本を立て、橙を載せる。三宝の両側にはシダを敷いて鏡餅を置く。また稲穂を三宝の上に交叉させて飾る。歳徳神の上方には一・五・三の注連を張り、扇子(メデタゼンス)を逆さに吊る。南宇和郡でもそうであるが、棚形式を略して床の間や違い棚に三宝などで歳徳神を祭る方法が現代では多くなっている。
 事例3 越智郡菊間町や大西町などでも、棚形式と床の間形式があるが、いずれも飾り方に特色が見られる。三宝に白米を盛り、その上に鏡餅を置き、白昆布で巻いた橙を載せる。その上部天井に注連飾りをする。中央に橙二個と懸鯛、串柿を吊し、串柿に白昆布を垂らすのである。さらに注連飾りの両側に穂種、鰯二尾、藁苞二つ、大根、牛蒡、福州などを結び付けて吊す。
 事例4 温泉郡重信町付近では、一斗桝に白米、鏡餅五重ね、橙、串柿などを入れて棚に飾る。斗桝は年桶の代用である。
 事例5 重信町上村、松山市久米、生石、北条市小川、松前町横田などでは農具の箕を天井から吊し、これを箕棚様と称して歳徳神を祭る。上村では御飯、雑煮二膳に栗箸を添えて箕に載せている。生石では注連飾りに樫の切炭と両端に穂種を垂らす。神酒、鏡餅、串柿、蜜柑、田作り、魚(ほごの魚か鯛)などを供える。なお、ホウソウ神を併せて祭る。中央を高くもみ上げた餅を作って供え、ホウソウ除けを祈るのである。歳徳棚でホウソウ神を祀る風は越智郡地方でも行っており、一二膳の雑煮をつぎつぎと供えて祀るという。また松前町横田では、箕の中央に二合半の米を炊いて丸く固め、それを茶碗に入れて供える。さらに鏡餅一対、神酒、串柿、蜜柑などを供え、箕の口を明き方に向けて祭るのである。
 以上、五事例を挙げて歳徳棚の形式を概観したのであるが、これを細かく見てゆけば繁簡さまざまであり、説明に苦しむほどである。しかし、飾り方、祭り方を通じて看取されることは正月神(歳徳神)が、稲をはじめ海山の幸をもたらす福神であり、生産神的な性格を保持していることである。正月神に供えた供物が苗代ごしらえのときの水口祭りや田植えのサンバイオロシの供物に用いられ、農神に必須の供物になっていることなど、正月神と農神の重複が顕著に見られるのである。また、田植えにかかる朝は田植飯を炊いて農神に供え豊作を祈ることになっているが、その田植飯の米は正月の歳徳神に供えた米(オサンボウサンの米)であり、それを炊く薪木は正月の幸木を用いる風が広く行われている。かく正月神には、農神的性格が濃厚にみられるのである。なお、収穫祝いである亥の子との関連性があるが、これはその項で詳述することになっている。

 いただきさん

 元旦には年取りの儀式の家例がある。すでに行わなくなった家が多いようだが、鏡餅を頭上にいただいて年を取るのである。木地製の容器か三宝に鏡餅・小餅一二重ね(閏年一三重ね)・蜜柑・干柿などを盛って歳徳神に供えているものを戸主が下げてきて、家族めいめいの頭上に拝戴させる儀礼である。この餅をイタダキモチ・オトシダマというのであるが、それをいただいたのち干柿を一つ取って食べると年を取ったことになるのである。イタダキモチを載せる木地鉢を伊予三島市中ノ川ではイタダキバチと称している。
 周桑郡や松山地方では、イタダキサンを戸主が頭上にいただかすとき、「私は○○歳になりました。どうか今年も息災でございますように」と言う。南宇和郡一本松町では床の間の大歳神の前にみんなが集まる。三宝の中央に長さ二〇cmくらいの炭が二、三本立てられ、その上に干柿や栗などが並べてある。主人から順々に大歳神を拝み、供え物を一つずつ取るとそれで一つ年を取ったことになり、それから家族で雑煮を祝うのである。
 なお、このとき福茶を飲む風も広く行われている。宇摩郡新宮村では初茶・福茶と称し、若水を沸かして四月八日に摘んだ茶を入れる。そのお茶受けに干柿を食べるとしているところもある。とにかく、年取りの膳に干柿は重要な儀礼食品になっているのである。津島町岩淵や大洲地方でもトシトコサマの供物をいただいて年を取ったといい、柿を食べる。このとき柿の種が多いと豊作だといって喜んだ。種一つを米一俵にたとえ、その数によって豊作を占ったのである。

 門明け

 年始礼をカドアケという。本分家関係、親戚知己、主従関係によって年始の挨拶をするのであるが、来訪を受けた家ではオカンシュをする。煮〆・煮豆・数の子を肴に簡単な酒席を構えるのであるが、雑煮を出す習慣の土地もある。大三島町肥海ではジンギハジメといっている。元日に寺および主な親類へトビといって米一升を持って正月礼に行くのである。なお肥海では、その親疎の関係によって一升仁義・二升仁義ということをいう。また上浦町盛は、昔から仁義を重んずる村柄であるので、親子分家の礼は正月儀礼の重要事とされている。本家を重んずる義理が固く、六代も七代も前の分家も本分家関係を絶やさない。分家や嫁いだ娘は夫婦揃って年賀に赴くのであるが、米五合とオヒラ二組(牛蒡・大根・人参その他の野菜・焼豆腐など七種あるいは九種を二皿に盛ったもの)、それにトビ米一升を持参する。トビ米は、親(本家)が必ず五日までの間に返礼に廻る、そのときに持参することになっている。
 東宇和郡城川町のオカドアケは二日であったが、現在は元日にするようである。本来は組内ヒキアイの儀礼で、組中が揃って各家を訪ね、カンシュをするのをいった。しかし、子供らが来訪するのもカドアケと呼んでいる。後者は、大人が行うカドアケの本義が廃れて形式化し、子供行事に移行したものと考えられる。近隣の子供らが「おめでとう」と挨拶に来るので、お年玉を出した。このお年玉を、野村町や日吉村ではホービキセン(宝引銭)といった。
 喜多郡では元旦に隣近所の子供が各家へ「おめでとう」といって訪問して廻ると、蜜柑や菓子、祝儀を出した。餅を出すところもある。河辺村のカドアケの祝儀は、初めの三人くらいまでに出していた。また、カドアケの語はすでに失われていたが、この民俗は重信町上村や下林、川内町吉久あたりにも昭和二〇年代まで残っていた。家々では、童らの来訪に備えてお年玉を用意していたものである。
 さてカドアケは、本分家関係で行うのが古風であった。分家の者が本家筋へ年賀に行くのが本来の姿であったと考えられているが、本県では銅山川流域の山村にその古態を見ることができる。
 川之江市金田町切山は、その昔、源氏に追われた平氏が安徳天皇を奉じて一時潜匿した隠れ里の伝説地である。安徳の平と呼ぶ地名伝説があったりするが、切山の門明けは、大晦日に本家へ分家一同が正装で集まり、囲炉裏を囲んで酒盛りをやりながら新年を迎える。一番鶏を合図に一同解散してめいめい自家にもどり、各自家の正月を祝う。続いて分家から男女一組の子供が三宝に正月の供物を載せて本家へ年始礼に赴く。本家ではこれを座敷に招じて接待をするのである。この門明けは、徳島県の祖谷地方のものと共通している。
 宇摩郡新宮村馬瀬の門明けは、元旦の朝、本家筋のオモから分家に当たるヘヤ(部屋)へ年始に行く。当日は当主かこれに準ずる男性が往来するもので、座敷で酒宴がある。これがカドアケであり、ヘヤでは答礼としてオモヘ行く。一般にはヘヤ筋からまず本家筋ヘカドアケに行き、次に本家が部屋を訪れるのが多いが、竹の峰地区では逆だという。不幸ごとのある時は逆に分家が先に行くということである。また、別子山村瓜生野では、元朝に荒神社に参拝し、終わってその年の当屋に集まって酒宴をするのである。
 伊予三島市富郷町の門明けも古風といえる。折宇という小集落が高知県境にあり、戸数四戸の同族集落である。本家の屋号が中西、分家が西、その分家に南と小南がある。同族をミョウ(苗)と呼び、このミョウの分家順位が門明けの順位になっているのである。まず西が主家の中西へ門明けに行き、小南は分家の南へ行き、小南と南がそろって総本家(主家)の中西へ行く。ついで本家の西へ年始礼に行く。このあとでその答礼が行われる。
 本来門明けは切山の例のようなのが古風である。すなわち分家は本家に参集し、生きている親に祝辞を述べ、祖霊を祀って厳かに新春を迎えたものである。それをあとで本家が分家へ門礼(答礼)に行くのは後世の変化であるといわれる。
 次に、ついでながら村落社会の庄屋・親方筋(地主・網主)、藩主への年始について触れておきたい。『宇和島吉田両藩誌』によれば、村落の年始は「村民一同庄屋所へ行きて土間に敷きたる莚の上に坐し、横目・役人は落座と称する板の間に控へ、庄屋上り口に出づれば一同祝詞を述べ、庄屋は、一同お目出たう、と唯一言の答詞を述べ、之れにて式を終る。夫れより思ひ思ひに組内、親族へ廻礼をなす。女子供の晴着着て、羽子遊、手毬突、凧揚けは却々盛なり」とある。なお、二日には武家町方の賀礼があるがこれは略する。
 次に庄屋の年始について記している。各庄屋の藩主への「御目見得」である。宇和島藩では正月五日で、定めの礼装をして定席に着き、月番の家老郡奉行等上席に控えると、やがて藩主の臨場を告げる「しーつ」と重々しい声が発せられるともに一同恭しく低頭平身する。すると襖が開くと共に微かに足音がして、家老が「御領内の庄屋一同年頭御祝詞のため参上」の旨を言上すれば、又かすかに足音を聞くとともに襖が閉じられる。おもむろに頭をあげるとあたりは依然として元の如くであったという。

 初詣で

 元旦の初詣では現在では大晦日の午前零時を期して行う風が一般化してきているが、これは現代的時の観念に基づく変化である。古風な初詣では、さきに大晦日の民俗である「年寵り」で述べたように鶏鳴を合図にするか、神社で打ち鳴らされる初太鼓を合図に行うものであった。この初太鼓をドウノクチ(堂の口)と呼ぶのである。「堂の口開け」の略語であろうが、堂の口が開いてから参拝するのが古習であった。
 堂の口開けは神社によって古伝もあったりするが一般には寅の刻限を期して打ったものであった。すなわち午前四時頃である。正月は寅月であるので、時間も寅の刻に定めたのであろうが、旧暦の正月なれば午前四時には東方の空が明らみ鶏鳴を聞く時刻になる。

 この堂の口開けを「開門祭」と称して、今治市神宮の野間神社には「担い餅神事」を伝えている。担い餅とは紅白の餅を萩の木に突き刺して肩に担うようにしているので呼ばれたものであるが、明治維新までは氏子の井原家から六六荷用意して神前に供える慣例であったという。担い餅は元旦から七日間祈祷をしてから氏子に分配するのである。
 時計のなかった時代は、鶏鳴で時を知った。そのためにわざわざ鶏を飼うことも行われたのであり、東宇和郡城川町などでは、家の入口の軒下に鶏舎が設けてあり、時報を知る仕組みをしている家々があったりした。
 東宇和郡明浜町高山の賀茂神社の氏子の者は、神社下の二宮善兵衛家の鶏のトキを合図に、初詣でをすることになっている。それで人びとは善兵衛家に集まって来て鶏鳴を待つのである。しかしある年、肝心の鶏が時を告げなかった。それで無理矢理鳴かせてめでたく今年の初詣でを済ませたというエピソードが残っているほどであり、神職もこの「善兵衛鶏」の初鳴きを聞いて初太鼓を打ち、「年の夜の御祈祷」を斎行することになっている。

 初太鼓の禁忌

 この年頭の初太鼓を打つのをタブーとする神社がある。松山市高岡町の生石八幡神社、新居浜市角野の内宮神社、北条市小山田の三島神社、温泉郡川内町則之内の三島神社などである。
 生石八幡神社は「年頭無鼓の神事」と称し、一月一日より六日迄はすべて祭事に太鼓を用いない。またこの期間中、日没より日の出までの間は一般に参拝しない慣例だというのである。それで一二月三一日に太鼓打ち止め神事を行い、一月七日に打ち初めの神事を執行するのであると。これについては、妖怪出現の伝承が付随している。角野の内宮神社でも元旦に太鼓を打てば氏子内に凶事が生ずるということで打たず、七日未明にツゲの新木のばちで初太鼓を打つことになっている。また、小山田の三島神社では、火災が起こるというタブーを伝えている。この伝承は当社の祭事始めが七日であることに由来した伝承であるが、タブーを付して禁じているのはこの祭事の重要性を意味しているといえる。
 なお、七日に祭事始めをする例は西宇和郡保内町宮内の三島神社にもあり、「奉幣始め」を行っている。
 歳時習俗から言えば、七日は「なずな節供」であり、その前夜を「六日歳」とかトシノヨと称し忌籠する風が南予地方にあり、七日の早朝、厄病神を追い出すのだということで青松葉をふすべたり、敷居に灸をすえたりする風が県下各地に見られるように、この日は特別な節日になっていたのである。なお七日正月については別項で述べることになっている。

図9-1 折宇の門明け順位

図9-1 折宇の門明け順位