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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

三 正月と餅の民俗

 正月餅

 年中行事に餅はつき物である。わけても正月と餅は特別な関わりがある。正月の年玉も本来は餅であった。ずっと昔からであったかどうか分からないが、昭和一〇年代までは各農家では正月の餅を普通一俵ぐらい搗いていた。多い家だと二俵も搗いていた。餅搗きは暮の二七、八日ころに朝暗いうちから夕方まで一日がかりで搗いた。二、三軒が出合いで搗く所もあった。瀬戸町大久では、米二俵にタカキビその他の雑穀を混合するので計三、四俵もの餅を搗いた。もちろん正月用だけではないので、乾燥してカキモチやアラレにつくる餅もあれば、水に浸けて水餅にして保存する餅も搗いたのである。
 久万町上直瀬では、たいてい一俵半(六斗)ぐらい搗いた。ほかに粟餅一斗、きび餅二~三斗を搗く。朝一時ころから翌朝七、八時ころまでかかって、イイ(結)で搗いていた。
 餅搗きには作法があって、まず日の吉凶をいった。ウシの日に搗くと火事が多い。潮が満ち潮になってから搗くという所もある。正月餅を蒸すときは、豆、茄子、菊の茎を最初に焚くとか、新しい薪木を用いて焼け残りの薪木を使用しない。蒸籠やクドの上に浄めの盛塩をする。
 餅搗き場には周囲に注連縄を張り、臼下に山草を敷いたり新藁を敷く風がある。数条の藁を井型に臼の周囲に置くのである。これは「笑うように」との意だと説明されていた。また必ず明き方に向いて搗く。いずれにしても清浄な状態で正月餅は搗く風習である。
 従って一臼餅や空臼は忌みてきた。一臼餅はミンマ(巳午=仏の正月)の餅というので忌みるのであり、空臼は臼に米を入れないで搗くことである。まず初臼では供物用の餅を搗く。これをオイワイ、オカサネ、オソナエなどと称している。一升餅とか二升餅の大鏡餅をとったり、大小の鏡餅を用意する。それから雑煮用の餅や雑穀を混入した餅―きび餅、粟餅、こきび餅、小米餅、福餅などをとる。福餅はただ米を混ぜて搗いた餅をいい、アトモチ(南宇和郡)と呼んでいる所もある。本県は丸餅が主体であり、別に箱型などに入れたノシモチ(オシモチ)をつくる。これはやや堅くなりかけた頃にアラレやカキモチ(ヘキモチ)に切って乾燥し保存用にした。水餅は水瓶に入れて置き、ときどき水を取り替えて保存し、田植頃まで置いていた。
 餅のことを一般にバッポというが、これは「初穂」から来たのではないかと思う。なお正月餅を搗く際に併せていろいろな餅がつくられる。南予ではオヤノココロミモチと呼ぶ餡入り餅を搗く。年の夜の夕飯に食べるぐらい搗く。これは嫁の里に両親が揃っている場合には二つ、片親の場合には一つ、別にオカサネ(二升餅)一重ね、カケノユオ(塩魚)・オツツミ(金)を一緒にして大晦日にカカノリアゲと称して聟が持って行く風があった。それをコイワイノモチと日振島ではいっている。大洲地方ではオセイボと称した。餡入り餅に対して、餡なし餅をスヤ餅・単にスヤといっている。
 また周桑郡あたりではキネコスリとトリツケをつくる。キネコスリは「木に餅が生るように」と念じて作るのだという。鏡餅の中に二本の松の木を十字型に組んではめ込んだ餅であるが、越智郡朝倉村ではノドクノイワイと称し、一一日の下肥の汲み出し初めの日にそれを食べる風習であった。トリツケというのはその場で食べるために作る餅で、トリソエ(重信町)ともいう。トリソエは正月餅以外でも祝い餅を搗いた場合に必ず作るものとされている。一つの直会と解される。
 またヤナギモチ、モチバナ、マユダマなどと呼ぶ餅がある。柳に餅をちぎって取り付け、これを歳徳棚や恵比須棚に供えるのである。稲の花を象徴したもので稲作の予祝儀礼として作ったものである。後には餅でなくカルヤキに変わったり、手まるになったり、大判、小判の模型の吊り飾りに変形するのであるが、現在も正月の風物詩となっている。

 雑 煮

 正月には餅がつきものでまた雑煮で祝うのが一般習俗である。本県の雑煮は、すまし汁に丸餅を炊き込み、大根の薄切りを具にした簡素な雑煮が普通である。しかし、最近は食生活の向上によっていろいろな具を加味した豪華な雑煮がつくられるようになり、地域性や家々の仕来りにも変容が生じてきた。
 昭和四〇年の東雲短期大学「食生活を楽しくする会」による調査報告によると、丸餅を煮て醤油で味付けし、田芋と人参を入れて炊いた雑煮を東予の特徴として挙げている。例えば伊予三島市では、餅を煮て塩ゆでにした里芋を入れる。家によっては豆腐を入れる程度で他の野菜を用いない。味付は醤油味である。周桑郡小松町ではノハゼの干物でだし取りしたすまし汁に餅・里芋・大根を入れて炊く。上盛りに切昆布と鰹節をおく家もある。
 しかし、香川・徳島などの県境地域の場合は、総論でも触れたように異なっている。すなわち、川之江市では煮干でだしを取るが、白味噌と赤味噌を半々の割合で味つけし、線切り大根と里芋の薄切りを入れる。また宇摩郡別子山村では粟餅と米粉団子、豆腐、里芋などを入れる。米粉団子は正月丁銀と呼び、小判型のものを二つ重ねたものだという。これに対し、中予・南予地方には里芋を入れる風はなく、専ら丸餅・大根・青葉程度である。焼豆腐を入れるところもあるが、ともかくこれが中・南予の一般的雑煮である。

 餅なし正月の伝承

 正月の雑煮に餅を入れない食習伝承をもつ家や地域がある。全国的に分布する伝承であるが、本県はその事例の多い方である。伝承内容は区々で、かつ現在では伝承の糸が切れて確認のしようのない状態の伝承もあるが、繁簡とり混ぜて一応地域別に列挙することにする。
 事例1 宇摩郡新宮村宮地名のK家一族は正月餅を搗かず、団子雑煮を炊く。昔、餅搗きをしていたら蒸籠の上にフクロドリが止まったので、以後餅を搗かなくなった。
 事例2 同村新瀬川のI家一族も正月餅を搗かない。雑煮は米粉団子に里芋を入れてつくる。なお一五日のしめはやしが終わってから餅を搗く風習である。
 事例3 同田之内のW家も正月餅は搗かない。借金返済を迫った女を主人が風呂で蒸し殺した崇りからか、餅搗きをしていると蒸籠にフクロウが止まり動かないため餅が搗けなくなったというのである。いつもそのようなことが続いたので、遂に正月一一日の蔵開きが済むまで餅を搗かないことにした。また同郡内のY家・F家の両家も正月餅は搗かないで、親戚から貰う慣習である。また、大窪部落の某家でも餅を搗かない。ある年の大晦日に某家で大喧嘩があって部落中に迷惑をかけた事件があった。それで部落申し合わせにより、正月一五日まで餅を搗いてはならぬ、また酒を正月中用いてはならぬことを申し渡された。それを慣習として現在も厳守しているのだという。
 事例4 同郡土居町北野のM家一族、上野のS家、K家一族も田芋雑煮で餅なし正月である。北野のM家は新居浜市にも出ているが現在もこの慣例を守っている(口絵写真参照)。
 事例5 新居浜市大浜のT家一族は、餅搗き最中に豊臣秀吉の四国征伐の乱入に遇い、餅掲きが目茶苦茶になったことから以後は正月餅を搗くのを止めたと伝えている。それで他部落からお見舞いの餅を貰って正月を祝う風になり、そして初午に初めてよもぎ餅を搗き、貰った家へも返礼をする慣例となった。
 事例6 西条市藤之石や荒川では、杵が飛ぶとかコシキ(蒸籠)が飛ぶといって餅搗きを忌みる。それで雑煮は団子を入れる。
 事例7 西条市飯岡のS家、同市黒瀬の居合、山崎などでも正月餅を搗かない。居合では百合城の巫女を殺害した崇りからか、餅を搗いても餅がながれて餅にならぬからと伝えており、山崎の某家は西条市荒川からの転住家である。同じく黒瀬のK家でも理由は違うが居合と同じく餅がながれるからという理由で搗かないで、年が明けて一五日に初めて若餅を搗く。
 事例8 越智郡朝倉村のT家一族は、先祖が昔上杉謙信と戦って敗れ、餅を搗いて正月祝いができなかったので里芋を代用して以来、これが習慣として残ったと伝えている。
 事例9 越智郡岩城島のH家一族は正月餅のみならず餅搗きを禁忌として来た。平家の落人と伝えており、氏神に祈誓して臼を神社に奉納してしまい、餅搗きを禁忌とした。もしこの禁を破れば火事・病気などの大災難があると伝えられていた。この禁忌は昭和初年まで厳守されていたが、昭和七・八年頃になって正月餅を搗くことを始めた者が出、以来こともなかったことから一般化したそうである。
 事例10 越智郡大西町のB家では、暮に正月餅を掲いていると六部が訪ねてきた。その六部が大金を所持しているのを知り、殺して金を奪った。ところがその崇りによるものか、翌年正月餅を蒸すのに蒸さらぬため餅にならなかったという。そして以後は餅搗きをやめた。それでB家は近所から餅を貰って正月を祝い、その代わり正月一五日に餅搗きをして返礼した。
 事例11 周桑郡丹原町田瀧では、昔、正月餅を搗いていたら一人の乞食が某家にやって来て餅を所望した。欲深の婆さんがいて「これは餅ではない白石じゃ」と言って断った。以来、不思議なことに餅を搗いてもみな白石に化してしまうので、以後当地方の人びとは餅を措かなくなった。
 事例12 北条市九川の某家では、昔、正月餅を措いている最中に子供がくじをくりだし、親があつかんで「くじをくりよったらガガモにやるぞ」と脅した。するとほんとうにガガモが現れて「その子もらおう」と言うのである。たまげた父親がとっさに搗いていた餅を投げ与えたので難を逃れることができた。しかし、それからは節季の餅搗きをするとガガモがやって来るので餅搗きを廃止した。
 事例13 北条市庄府のW家でも正月餅を搗かない。来訪して来たお茶売りを殺害して大金を奪った崇りから、餅を搗くと中に血が混じるので以後は中止になった。
 事例14 松山市小屋のO家は、昔、正月餅を搗いていたらオーン(鬼)が自在を伝って降りて来て餅をさらえて帰ったので餅搗きをしなくなった。以来、自在にオソレをつけることにした。また一説では、当地に来たのが大晦日で正月餅を搗く間がなかったのによると伝えている。それで、他家から餅を貰って正月を祝っていたということである。
 事例15 上浮穴郡美川村高山(戸数七軒)へ、山姥が毎年決まって正月の餅搗きを手伝いに来ていた。山姥の餅は無病息災、家業繁盛の福餅であったが、しかしその身なりが汚かったので、村人は山姥の手伝いを嫌ってある年餅搗きの日を変更した。それを知らずに今年も山姥は村里へ餅搗きの手伝いに来たが、済んだ後であったので山に帰って行くが、途中、姥が懐あたりで死んだのである。それ以来、村には天災や悪疫が続発するようになった。村人は山姥の崇りであろうというようになり、祠を創建して「姥大明神」として祀り、正月三日間は餅断ちをすることにした。
 山姥の餅搗きを断った伝承は東宇和郡野村町惣川地区にもあり、また北宇和郡津島町岩松のK家でも理由は不明であるが正月三日間は雑煮を食べぬ慣習であった。

 餅なし正月と芋雑煮

 最近の研究によれば、餅なし正月には次の四類型あることが指摘されている。
(一)正月の餅を全く搗かない。
(二)餅を措いておくが、元日からある期間は食べない。
(三)正月の餅を新年に入ってある期間たってから搗く。
 (四)元日や三が日の祝膳に、あるいはさらに幾日かの期間餅を食べない。
 餅なし正月の事例は、北は青森県から南は鹿児島県に至るまで全国的に百か所以上も知られているが、ここで問題になるのは餅の代わりに何を食べているかが重要な点である。特に多用されているのは里芋と山芋になっているのであるが、本県では里芋であるのが注目される。里芋は九州、四国から関東に及んでいて、東北地方にはその事例がないのである。これに対して山芋は全国的に分布するが、九州・四国では認められないのである。ただし本県でも今治地方に特徴的に行われている〈御頭〉と呼ぶ祭祀の神饌に山芋が必須の供物になっている例があるが、これは雑煮とは関係のないことであるのでこれ以上触れないでおく。
 本県における餅なし正月を右四類型に当てはめると、そのほとんどが第一類に属し、第三類型は〈事例3・5・7・10・14〉である。また第四類型には〈事例15〉が該当すると思われる。
 これによって考察すると、本県の餅なし正月は逆に言えば里芋および団子の雑煮を祝う習俗ということになるのである。新居浜市のM家は宇摩郡土居町北野の出身であって、当家の雑煮の主体は里芋であり、正月神の神前にも里芋を供えており餅を用いないのである。すなわち餅なし正月とは芋正月、芋雑煮の民俗ということになるのである。なお、この民俗の文化史的背景を推察すると、水稲栽培以前の日本に芋という畑作栽培とその儀礼があったことを考えさせるのである。

図9-2 愛媛県下の餅なし正月分布

図9-2 愛媛県下の餅なし正月分布