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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

四 しぞめ―新春の儀礼

 年が改まって最初の仕事始めの諸儀礼をシゾメという。実際には仕事をやらないで、神を祀り、供物をして儀礼的にほんのちょっとしぐさをしてあとで直会をする程度であるが、それぞれ生業に応じた儀礼がある。農家では鍬の使いぞめ、縄のないぞめ、牛馬のひき出しぞめをする。漁業者は、乗りぞめ、釣りぞめをし、山林業者は、山の口明け、樵りぞめをする。猟師は撃ちぞめをする。商家なれば売りぞめ、帳祝いの儀式がある。主婦には、縫いぞめとはたきぞめがある。これらしぞめは、二日、四日、七日、一一日などに行われるが、地域や家によって異なる場合がある。以下、これらについて概述することにする。

 鍬初め

 本県の場合、中予と南予は二日に「鍬初め」をするのであるが、宇摩郡地区を除く東予では一一日にしていて「地祝い」と呼んでいる。鍬初めは、鍬の打ちぞめ、打ちぞめなどとともいう。鍬初めについては、地域性のあることを総論で述べておいたが、同じ二日の鍬初めにも地域差があるのである。松山地方のそれは、二日朝早く家の近くの里に行き、シデをつけた笹か萱を立て、その前を鍬で二、三鍬打ち返して山草を敷き、餅・蜜柑・吊し柿・田作りなどの供物を供えて豊作を祈っている。そのときその場で供えた蜜柑などを食べて、直会をしてもどるのである。
 シデをつけた笹は、もちろん神迎えのための依り代である。これを明き方に向けて立てるのであるが、その依り代に萱の穂や松の小枝を立てる所がある。宇摩郡地方のようにその両者を束ねて立てる所もある。
 ところが、同じ二日でも伊予市の山間部から伊予郡広田村・双海町・上浮穴郡以南のいわゆる南予民俗文化圏では、「掘り初め」と称し、埋めてある供物を近隣の子供らが探し出して持ち帰り食べるのである。このことはすでに民俗の地域性のところで述べているので重ねて言わないが、なお少し事例を挙げて鍬初めの民俗を見ておきたい。
 温泉郡川内町では、二日(地区によって三日にする所もある)の鍬初めは農家の大切な行事とされ、早朝まず土公神(土の守護神)に湯茶を供える。庭の土に湯茶をまいて吸わせるのである。ついで、自家の田畑に行き、山草を敷いてその上に餅・柿・蜜柑・田作りを供え、恵方に向いて拝み、鍬初めをする。またこの日、牛馬をつれて奈良原神社(牛馬の守護神で氏神の境内小社)に参る。
 松山市久谷地区では、土に鍬を三鍬打ち込み、輪飾りを少し出して埋め、御幣と田作り・吊し柿・蜜柑などを供えて豊作と農事の安全を祈る。松前町では、主人が早朝麦田に行き、畝を一m幅くらいに鍬で少し掘り、御幣をつけた笹二本を立て、米・麦・吊し柿など供え、土寄せして豊作を祈る。
 広田村では、明き方の田畑に萩に御幣をつけて立て、杓子飾り三つ組を三脚につくって、土中に埋める。この中に餅・蜜柑・柿・田作りなどの供物を紙に包んで埋めて置き、隣近所の男児に掘らせるのである。
 広田村のような鍬初めは伊予市の山間部から伊予郡双海町や上浮穴郡を始め南予民俗文化圏一帯に普遍的に行われる鍬初めであって、一つの地域性を形成していることは既に総論において述べた。
 この二日の鍬初めに対し、北条市、越智郡、周桑郡、新居浜市などでは、一一日に行っていて一般に「地祝い」と称している。例えば、新居浜市付近では、シゾメといい、明き方の地を選び、一一日の未明にこれを行う。シゾメガヤを一二本(閏年には一三本)作って田に立て、その周囲に御幣をつけた松・萱・樫などをとり混ぜて立て並べる。家族一同で豊作を祈り、供物をみんなで食べる。このシゾメガヤは籾播きまで保存しておき、苗代の水口に立ててサンバイオロシに使う。このシゾメガヤを周桑郡地方ではホナガサンと呼んでいる。ホナガは穂長で、稲穂のよく稔るようにとの気持ちからである。
 今治市や越智郡地方では「地祝い松」を立てる。雌雄二本の松の枝に山草をつけて、早暁に所有田の全部に立てて廻るのである。途中人に会うことを忌み、会わぬように心掛ける。もし会っても物を言ってはならぬといわれている。この地祝い松をトビ(松)とかシメロという所もある。次に地祝いの変わった例を紹介しておきたい。今治市馬島では、松のトビ(枝先)に裏白をつける。これを各持畑に立てるのであるが、そのとき「ガラガラ(戸を開く所作をやりながらこう言う)ごめんなさいませ。おめでとうございます。ええお正月でございます。○○(田畑の呼称)の地神さん、地祝いをいたします。」という。そして明き方に向けて松のトビを立て供物をする。途中で人に会っても無言である。このトビ松を隣の小島や来島ではシメコという。松の枝に幣をつけたものである。
 大三島町肥海では、この日までは畑への踏み入れは禁足である。当日早朝、新草履を履き、洗い浄めた鍬を担いで主人が野菜畑に行く。恵方を向いて右へ三鍬、左へ三鍬「新玉の年の初めに鍬を立つ 亭主もろとも五穀繁昌」と歌いながら畑を打つ。打ち開いた土に萱三本にシデをつけたのを立てる。そしてその周辺にハタ(紙片を萱の茎で挾んだもの)と呼ぶものと、裏白を萱で挾んだものを交互に、月数ほど立てる(平年は一二本、閏年は一三本)。そこへ供物をし豊作を祈る。
 玉川町では、雌雄二本の枝松(地祝い松)を田の水口に立て、供物をして豊作を祈る。所有田の全部に立てることになっていたので、この地祝い松と餅、米などの供物と扇子を担い籠に入れて出かける状態であった。地祝い餅は正月餅を搗くときに特別に用意することになっていて、大きいほどよいといわれた。この餅は地祝いに家へ持ち帰り食べる。この日は田に入らない。しかし、この地祝い松に松の枝を用いる家例の家もある。なお、地祝いはすでに述べたように各田毎で行うものであったが、ノシロ(苗代田)で一括して行うようにした家もある。なお東予ではあるが、小松町石鎚では二日をオシゾメサンと称し、二日の朝農具を座敷にまつり、供物と燈明をあげて豊作を祈り、終わってナバラに出向き土を打ち耕して供物を埋める。若葉に御幣をつけて立てておく。終わって家に帰り、農具を再び床にまつり雑煮を供えた。これを同町土居では七日にしている。
 要するに中・南予地方の鍬初めは二日の行事になっているが、宇摩地区を除く東予(北条市を含む)地域は一一日で「地祝い」と称しているのである。行事内容としては両者同じであるのに日に異同を生じたのはなぜか。これについては、本来シゾメは一一日であったが、大正月に重点が置かれるようになって、二日に引きつけられたのであろうとの解釈がなされている。すなわち、本県の場合、二日の鍬ぞめ地域でも鍬ぞめ以外のシゾメは一一日に行っている事例が多いのである。
 鍬初め・地祝いは農事始めの予祝儀礼で、一種の年占であったが、農家ではなおこの日「牛の追い出しぞめ」をする。牛馬を駄屋から出して、道草を喰ませたり、部落の奈良原神社(牛馬神)に参拝したりした。あるいはミズナワ(水縄)をなったりした。

 ないぞめ

 四日のナイゾメにゼニサシ(銭刺し)をなう風がある。二日にする家もある。ゼニサシは稲藁を半分に折って縄になう。それに昔は一文銭を通して恵比須神や大黒様に供えたのである。伊予郡広田村では「四日のおかざり」と称したりする。喜多郡肱川町予子林では、四日は銭刺しを縄のないぞめということでなって恵比須様に供え、また五月に使役する牛の鞍などの用具を作っていた。重信町上林では、一一日のハタキゾメ(粉のひきぞめ)の粉の上にこの銭刺しと柴の葉一枚を置いて神に供えていた。
 上浮穴郡久万町畑野川では、鋤につけるクワノオ・ミズナワ・馬のニナワのないぞめをする。なお自在の縄をなう。またカイツリサシをつくる。
 また北条市や周桑郡地方では、平年には一二本、閏年には一三本の銭刺しをなった。宇和島市、北宇和郡ではゼニツナ(銭綱)という。それを宇和島市下遊子ではサシと称し、三本作ってこれに銭を通し、大黒様に供えるという。西宇和郡の山村では、この銭刺しを子供らがもって各家々を訪問し、餅と交換して廻ったという。この民俗をカイツリというのであるが、これについては別項で述べる。

 帳祝い

 一一日に床の間に供えた鏡餅をさげ、割って食べるのである。「鏡開き」ともいう。またこれを周桑郡丹原町高松ではナラシゾメといっている。地神様に供えた鏡餅を短冊型に切り、親里・産婆・近隣者に配っていたのである。商家では帳祝いをする。大福帳・算盤を神前にまつり、得意先や親類などを招待して酒盛りをするのである。西宇和郡では帳始めといい、大福帳を作り、雑煮と銭刺しを恵比須様に供えた。肱川町では「帳よごし」といい、ぜんざいを作って祝った。
 また、女が今年始めて針を持って袋などを縫う風があった。それでヌイゾメというのであるが、たいてい形式的に針仕事をするもので、袋やもみ袋を縫ったりしていた。一一日は蔵開きも行う。蔵の戸を開いて中に酒肴を持ち込み簡単な祝いごとを行う。伊予市市場では蔵のほか籾倉に入って「蔵開き 蔵開き」と言って拝んだという。各地とも大同小異であった。

 はたきぞめ

 年末に諸道具にも年を取らせるということで道具休めする。引臼、立臼、ほうろくなどの使いぞめも一一日である。これをハタキゾメというのである。臼を使うのでウスオコシ、この日粉のひきぞめをして神に供えるので「粉のヒキゾメ」ともいう。ほうろくで豆炒りをするのでイリゾメともいう。周桑郡地方では米、豆などを粉にし、地祝い餅を短冊型に切ってその上に粉を振り掛けて神前に供え、また家内一同でその粉をはねる(食べる)のでハタキゾメという。

 たたきぞめ

 農家のナイゾメに対し、漁業者はタタキゾメをする。八幡浜市の大島では、一一日の朝コグチという輪になった縄の船具をなうのをタタキゾメといっている。このコグチには呪力があり、船幽霊に出会ったときこれで覗くとその正体が分かるといわれている。
 越智郡魚島でも若衆らが親方の家のニワで、櫓押しの掛け声に合わせて藁を打ち、これを網主が三つぐりにない、大玉様の紐にした。このときツグネという大握り飯を作って家族や子供らに分配していた。

 大玉祝い

 西宇和郡瀬戸町三机では、網元が曳き子を寄せて行う年頭の祝宴をいう。曳き子は網一帖に三〇人がついた。オオダマは網霊の意で、瀬戸内海や宇和海の浦々にひろく分布する網漁の守護神である。しかし、その神体は区々である。中島町二神・怒和などの島々では網に用いる大樽(ウケ)のことで、ふだんは網元の家に祀っている。松前町では一一日に網主が餅を搗いてアゴ(網子)を呼ぶことをオオダマイワイと呼んでいる。越智郡宮窪町浜でもオオダマサンといい、舟乗りは仕事を休み舟玉様を祭る。
 大玉祝いのついでに大玉様について若干述べておきたい。喜多郡長浜町の沖合いにある青島でも一一日に大玉祝いをしている。青島は一一日が正月のしめはやしをするトウドの日になっているので、このトウドの終わったあとで鰯網や鯛網連中が集まって酒盛りをする。それをオーダマイワイといい、そのとき太鼓をたたき恵比須舞いの歌を歌ったり仮装して恵比須舞いをしたりしていた。大玉様は漁を授けてくれる神霊ということで日頃から信心し、船たでや網を曳くとき、釣りのときなど漁に携わるときには必ず大玉と掛け声をかける風であった。また以前は月の一日と一五日に恵比須様に御飯を炊いてあげていたので、そのときも「大玉もて来い」といって御飯を供える風であった。
 また越智郡魚島では大林家に祀る大玉様が霊験あらたかで知られている。昔、当主の大林金次郎が武士の漂流死体(エビス)を拾い上げたことがあった。それ以来、金次郎が網を曳けば必ず漁があるという幸運が続き、大林家はやがて島一番の分限者となった。大林家は現在は廃業しているが大玉様は大切に祀っている。それで各方面から譲渡方を申し込む者があった。大玉様は漁神様で網を入れるとき、釣をするときも、オーダマ オーダマと声をかける。網の縁についている浮き代わりのもので桐木製である。旧一二月一三日の煤掃きに男が海で洗うことになっていて、女には絶対に触らせない。鯛と餅を供えて祀ることになっていた。同様に、八幡浜市向灘の某家でも大玉様は大事に祀っている。

 釣りぞめ

 越智郡宮窪町では七日に供えたヒラモチを三つ四つに切り分け、これに米一升、干柿二つを重箱に入れて船玉様に供える。「十二船玉さん、今日釣りぞめに出ますけえ」と頼んで沖に出る。沖で船を左廻りに一度または三度廻して明き方で漁のまねをする。この場合トリカジを除いてジュゴさんに米と神酒を海に落とす。また浜では初漁の分け前だといって切り餅や蜜柑などを子供らに与えた。

 乗りぞめ
      
 船主や漁師は今年の大漁を祝って年頭にノリゾメの行事をする。二日の朝、船玉様に供物をし、神酒の披露をしてから、銭や蜜柑を撒く、それでこれをナゲゾメともいう。
 この乗りぞめには次のような祝言がいわれる。瀬戸町三机では、船主・船頭・オモテシュ (船員)が船に乗り、船玉様にお供えをする。終わって船上で、

オモテシュ「今日は日もよし 風もよし 福島や 福々道へ宝を積んで 上ろじゃないか」
船頭 「それよかろう それよかろう 若い衆 いかりを巻け」
全員 「エンガヤア」

とほめ詞を唱和して発船の儀式を終わる。船は旗で満船色に飾る。このあと船主の家で船員及び家族を招いての大盤振舞いがある。
 吉海町椋名では、漁船の場合は船頭と梶子が乗り、トモに船頭・オモテにオヤジ(船主)が乗り、次のように唱え言を言った。

オモテ「トモに申し トモに申し 仕度はようござるか」
トモ 「今日は天気日柄もよし かた舟がたも帆を巻くそうにござる みどもも巻こう」
トモ 「オットようござる」
乗組員総員「エンダラエー エンダラエー」(いかり綱を引く)
オモテ「向こうに見えるは宝の島、あれを目かけて走ろうではないか」
トモ 「オット ようござる」
オモテ「ちょっと悪い トリカジー」
トモ 「オット トリカジー」(舵束をひねる)

 なお吉海町椋名には、以前におわん船と呼ぶ行商仲間があったが、その人たちは、身を浄め、羽織袴姿で売り子とともに船に乗り、梶・いかり・中央・帆の所にそれぞれが位置につく。そして、三つ盃、煮豆、数の子、鏡餅を船に飾って乗り初めをする。

今日も日柄草木もよし みどもが船を漕ごうじゃないか
ヤンザーエ ヤンザーエ ヤンザー(こう言いながらいかりを取る)
ともに申し ともに申し さらばいかりを抜こうじゃないか(囃子詞略)

 このあと伝馬船に乗り移ってオカに帰り、伝馬船から銭を投げる。それから酒席を設け、新年の挨拶をする。

 歌いぞめ

 正月は若衆が村の若連中へ加入する機会にもなっていた。若連中加入時期は、盆、秋祭り、節供など地域によって機会が決まっていたが、正月加入の場合はウタイゾメといっていた。温泉郡中島町では一五歳の正月に父兄に伴われ、酒一升を出しよろしく頼むと挨拶して加入した。以後は「泊まり宿」で寝起きすることになるのである。また、瀬戸町三机や塩成では二日がウタイゾメで、若連中が宿々に集まって歌いぞめをする慣習であった。

 山の口明け

 四日は山の口明けである。四日朝、明き方の山に行くか、山の神の祠に行って供物をし、山仕事の無事安全を祈願し、少しばかり木を伐って帰るので、山の行きぞめ・ヤマハジメ・コリゾメ・サキヤマなどという。
 東宇和郡ではヤマハジメ、サキヤマ、西宇和郡ではヤマビラキ、喜多郡河辺村や伊予郡の山村ではコリゾメといっている。広田村ではコリゾメをして来た薪に雑煮を供えたりする。この薪は初田植の朝の田植飯を炊くときに用いることになっている。石鎚山村でも山の神を祀り、斧で伐りぞめをする。越智郡伯方町伊方では、それをタテゾメといって山から薪一束をしてもどっていた。ずっと昔は小餅を搗いて供えた。
 しかし、四日は山の口明けの供物を山の神様が炊いているので、その匂いを臭いだり、様子を見たりすると病気になるか怪我をするといって山行きを禁じていた所もある。伊予市本郡では山の神(山姥)に餅をあげるというので供える風があった。ただし昼からは禁じていた。

 福わかし

 四日には正月三が日に供えた雑煮やオセチのお下がりを雑炊に炊く。これをフクワカシというのである。また、早朝烏の鳴かぬうちに注連飾り、門松などを除くが、これをヤスメルという。門松を除いた跡には松の芯を立てておく所があちこちにあった。年徳棚の供物も下げ、棚を少し傾けるなど状況を変えて小正月まで置く。それで、大三島町肥海では「棚下し」といった。オタナヤスメと呼んでいる所もある。
 四日に伊予市下三谷ではお荒神さんを祭る。玄関に小さな注連縄を張って盗人除けをした。

 六日歳

 六日をムイカドシ、トシノヨ(年の夜)などと南予ではいい、東・中予ではヨイゼック(宵節供)という。このことは六日から七日にかけてが大切な夜であったことを意味している。宇和島地方では和霊神社に参籠をする風がある。宇和島市日振島の漁師たちは(四日に部落の網代の順番を決めるクジヌキがあり)、六日に和霊神社へエベスアバを持参して大漁祈願のトシゴモリをする。三瓶町では、六日の晩のトシノヨには麦飯を炊いて恵比須・大黒に供えた。伯方町伊方でも、六日の麦飯、七日の菜雑炊といって雑炊を食べる食習がある。また六日の夜は夜半過ぎての外出を忌みていた。もし出るときには顔を洗って出ないと風邪の神に崇られるといわれた。また大西町宮脇の橘神社の氏子の青年たちは、拝殿に設備された囲炉裏で餅を焼いて食べながら一夜を明かす風であったという。魚島ではトシノヨイといい、荒神さんの前で七草たたきをした。
 津島町岩淵では、六日の晩のトシノヨには家の入ロにとうし(ケンド)を吊しておく。大きな目のあるものが覗きに来るのでそうするのだという。いずれにしても、忌むべき夜になっていたことが知られるのである。

 七草節供

 六日には七草を摘んで来て、それを七日の朝に庖丁、杓子、火箸、連木、火炊き竹などの台所用具で叩く「七草たたき」をする。これは鳥害を除く呪法であるが、そのとき次のような呪歌を唱えた。もちろん、これは、地により家によって多少の相異があるが、一般には「唐土の鳥と日本の鳥が飛び渡らぬうちになずな七草、とうかちかち」と唱えた。
 これよりさき、七日早朝には悪神(鬼)や貧乏神を追放する呪術を行う風習があった。すなわち、青松葉を焚いて家中を煙でふすべるフスベマツの風習である。なお入口の敷居の上にヤイトをすえたり、味噌を焼いて匂いを立てたりする所もあった。味噌焼きは福神招来の呪法ということであったが、この風習は今治市、越智郡、周桑郡、北条市、松山地方など広く行っていた。東予市の周布、吉田あたりでは、顔に墨を塗って頬被りして味噌またはイワシ(鰯)を焼いて戸外に放り出したということである。この呪法は、以前は県下一帯に広く行われていたもので、それで七日の朝は早起きしないと閻魔大王(また厄病神)が帳面につけるといって子供らも特に早起きをする習わしであった。また、吉海町仁江では、七日朝に鬼が来るというので、戸口にフルイ(篩)を吊してから雨戸を開けた。そのとき「山は満つ、谷はここのつ、わかゆく里はひいらぎの里」と唱えて戸を開けたという。石鎚山麓の村では、この焼味噌を食べると病魔にやられぬといっていた。なお、この松葉ふすべを肱川町や野村町予子林、宇和島市下遊子などでは二十日正月にしていた。
 次に七日は、「なずな湯」に浴すると無病息災だといわれた。また、なずな爪を磨く風習もあった。そうすれば、いつ爪を切っても構わぬというのである。一般に夜間の爪切りは忌むのであるが、なずな湯を使った晩は爪切りをしてもよかったのである。またこの湯を屋敷内に撒いておくと害虫除けになるとの俗信もあった。