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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

第四節 秋から冬の行事

 たのもさん

 釈超空・折口信夫の歌に「旅を来て 心つつまし 秋の雛 買へと乞ふ子の 顔を見にけり」というのがある。超空が昭和二年九月松山を訪れたときの作品である。歌中の「秋の雛」はいわゆる八朔人形のタノモサンを言ったものである。
 八朔とは、旧暦八月一日のことで、この日松山地方ではタノモサンと呼ぶ人形(デコ)をつくり、神棚や床の間に供えて祭ることになっていた。それでタノモサンと言うのである。タノモサンは、タカキビ殼を材料にして、これに五色の色紙を人形に切った着物を着せて板上に並べ立て、さらにボンデンや旗を立て添えたもので、人形が船に乗った形態のものである。
 八朔にこれを神棚か床の間にて、米を盛った盆や三宝の上に載せてまつるのである。なお家庭では、ぼた餅や柏餅のようなものをつくって供え、家族で祝った。素朴な行事で、近年忘れられてしまった行事の一つといえるが、今でも農村地帯でわずかに行われている。
 タノモサンをタノモデコ、タノメサン、オドリコなどといっている。本県では中予と東予に見られる民俗である。しかし、東予のそれは人形のつくり方が異っている。すなわち、中予では前述の紙人形であるが、東予では米粉によるしん粉細工である。
 これについては、正岡子規の「病床六尺」に次のような記述がある。「此頃病床の慰みにと人々より贈られたるものの中に(中略)義郎が贈ったといふよりも実際目の前でこしらへて見せた田面の人形といふのがある。これは義郎の故郷でする田面の儀式をして見せたのである。それはしん粉で二~三寸余りの粗末な人形を沢山作って盆のぐるりに並べる。其中央には矢張りしん粉の作り物を何でも思ひ思ひにこしらへて置くのぢゃそうな。余の幼き時に僅かに記憶して居るのは、これと少し違って黎穀に赤紙の着物などを着せて人形として、それを板の上に沢山並べるのであった。この田面祭りといふのは百姓が五穀を祭る意味であるが、国々の田舎に依って多少の違ふた儀式が残って居るのであらふと思ふ。併し人形の行列を作ったのは何の意味であるのかよくわからぬ。」
 文中の義郎は森田義郎のことで、彼は周桑郡小松の人であったから、その生地の田面人形(しん粉人形)を子規に作って見せたのである。すなわち、子規が見て来た松山地方の紙人形と異るところから奇異に感じたことを記しているのである。
 さて、このしん粉人形を作る地域は、越智郡、周桑郡、新居浜市と温泉郡の島嶼部である。越智郡地方はタノモサンという。玉川町高野では、米粉を蒸してよくこね、それでオドリコ・犬・鳥などの動物模型をつくり、着色する。餅・果物などを供えてまつるので、一般にタノメゼックという。この日、五色に彩った餅人形(米粉人形)を作って祭れば心願がかなうと同郡菊間町などでは言うのであるが、今治市などでは五穀の豊作を感謝する日だといっている。
 周桑郡丹原町付近でも「たのも節供」という。節供の前日の夕方、白赤の粉をゆでて、色とりどりにこね合せ、ツマミタノモ・ツマミダルマと呼ぶ簡単な踊り子を象どった人形を作り、盆あるいは膳の周りに並べ、その輪の中に、長寿を祈る鶴亀や身近かな動植物や器物等の象形を、家族の者が思い思いに、色とり混ぜて作って並べる。不器用な出来具合を見て笑ったり、はしゃいだりして作製をみんなで楽しむのである。そして、翌日の節供当日、このタノモサンを子供らが次から次へと家を訪ねて見てまわるのである。
 しかし、もとは子供らがそれを貰って歩いたものと思われる。『新居郡誌』によれば、それを「タンゴをカタグ」と言ったとある。これとよく似た風は、岡山県にも行われていて、やはり米粉(オドリコ)を近所の子供らが貰いに来ていた。また、温泉郡中島町の二神や怒和では、子供らが頭に手拭いを巻き、赤幟をさして、このタノモデコを親類に配った。同町小浜では、嫁の親を招待することになっており、それで里親は娘をよろしくと頼みに行くところよりオタノミ節供という。別名をヤブイリとも言っている。
 八朔は、上述の資料からも観取できるように二つの性格がある。一つは稲の実りを祈願する作頼みの意味の「たのみ」の日であり、いま一つは日頃世話になった人などに頼む意味である。つまり、中島町の民俗にも見られるように、人との結合をさらに強化するために挨拶に行き、贈り物をすることである。本県の場合、前者における民俗は中・東予に見られ、後者は南予地域での一般民俗となっている。
 すなわち、西宇和郡三瓶町和泉では、赤飯を炊いて嫁の里へ持って行く風である。この日は農作業を休み、嫁が贈り物を持って里へ節供礼に行くのである。宇和島市祝森では、嫁の里だけでなく、仲人にも酒や乾物などを贈る風であり、東宇和郡野村町や城川町などではそれを「親づとめ」といっている。
 南宇和郡でもこの日たのも団子を作って神仏に供える。そして嫁は酒一升を親里に贈る。しかし、同郡一本松町の弓張のようにコタノミの節供といって里親の方から子の方へ祝儀を持って行く例もある。
 このように嫁や養子に行った者が八朔に里帰りするのは南予の八朔民俗の大きな特色であるが、これを宇和島市古味ノ川ではリアゲといっている。リアゲ(利上げ)は労働力の返済的意味をもっている語であるが、北宇和郡ではカカノリアゲという。同郡津島町の北灘や下灘では嫁の里帰りをいうのであるが、下灘では夫婦同伴で酒一升と蒸飯を妻の実家に贈るのである。
 なお、南予地方では、八朔はまた「奉公人の出替り日」になっていた。奉公人たちが、主人から休日をもらって親元に帰り休養をとる日であった。それで出替り日には何かご馳走をつくって食べさせ、帰省させていた。しかし、所によっては八朔は下女のみで、下男については一二月二五日だという土地もある。
 なお、八朔人形を松山地方ではあとで川や海に流した。その年一年祭って、翌年新しいのをつくったときに古いのを処分する家もあるが、これに似た民俗は、三重県桑名市や広島県の宮島などにある。宮島では「人形船」と呼ぶようだが、松山地方では別に呼称はないけれども船である点は同様である。形は異るかもしれぬが、やはり船に人形を乗せて流すことに意味があるのであろう。
 八朔のいわれにつき、松山市湯山では、「昔、洪水があって、五人の人の働きで作物が救われた」ので、それで五人を人形に象って祭るのだと伝えているし、喜多郡長浜町青島では、子供の身代りに流すのだといっており、雛節供同様の信仰思想を伝えている。
 なお、八朔には「風祭り」(風鎮祭)や「鳥追い」を行う地域がある。風祭りのことは後述するが、鳥追いの資料は極めて少ない。鳥取県にもあるようであるが、本県の北宇和郡三間町上家地では、八朔の早朝、戸を開けて「干石穂はこっちとったぞ、ボーイ、ボーイ」といって鳥追いをしたということである。
 以上のように八朔習俗には、作神に豊作を頼む作頼みがひろく行われていて、それに風害除けや鳥追いの呪術行事がみられる。またそれとともに、主従関係―奉公人の出替り、婚家と実家の関係を密にする贈答儀礼、及び近隣の結い固めなどの機会であった。それから「穂かけ行事」としてヤキゴメ(焼米)を供えることもあったようである。宇和島藩士、桜田某の随筆によれば、

八朔―田実朔 田の里の朔といふ事に就て農人の家々に稲の溝苅をして其籾を煎りて平米にしてお伊勢様へ備へる(ママ)と申す事昔も今も替る事なし。此の起りを聞くに此の備へ物をして次に御物成を計ると農家の老人の申せし事を考へて見れば、測新嘗会の心なるべくいと貴とき心地す。

右文中「籾を煎りて平米にして」というのがいわゆる焼米である。なお八朔の文献資料は『今治夜話』にも見えている。

 風祭り

 八朔に風祭りをする所がある。風鎮め、風鎮祭などともいうが、ちょうど二百十日や二百二十日の台風時期に当るので、風害除けを祈願するお籠りやお通夜をするのである。
 上浮穴郡久万町直瀬では、城山と呼ぶ山上にて、組の者が集って風祭りをした。同郡美川村二箆では氏神でお籠りをする。日野浦には風鎮神社(宮桂神社境内社)がある。同郡柳谷村には「八朝地蔵」が祀られており、粥を炊いて供え、作祭りをする。当番があって世話をしており、当夜は村中の者が当番の家で粥を食べて祝う。
 久万町畑野川では、旧七月一日に部落の寺や辻堂で大数珠を繰り、百万遍念仏を唱えている。旧七月中に風除けを祈願する風は、越智郡大三島町の大山祗神社をはじめ三島系の神社にしばしば見られるのである。
 大山祗神社文書「記禄」(ママ)(貞治三年―一三六四)に「七月七日風鎮祭御神事御供奉幣二ヶ度也」とあるのがそれである。上浮穴郡面河村中村の三社神社でも七月七日に風鎮祭を執行する。しかし、風鎮祭はこのほか旧六月、旧三月などそれぞれ地域によって風害をおこすことがあるので、それに対応して行われるのが実情である。従ってここでは八朔ならびに旧八月中に行われる風祭りについて述べることにする。
 松山市窪野では、八朔に氏神の正八幡神社と同社の別当寺であった「宮坊」とで現在も風鎮祭を執行している。当祭事は神仏混淆時代の遺制で、ちょっと注目されるのであるが、神社と寺で同時刻に祈祷を開始するのである。また、温泉郡重信町下林の定力組でも八朔に風祭りのオツヤがある。
 越智郡菊間町種の真名井神社は、風の神として近郷近在からの信仰を集めていた。二百十日の七日前から作祈祷と風祈祷を開始する。中日をナカエコウと称し、特に盛大な祭典を行う。宮相撲があって賑わう。この相撲は東西に分かれ、西方は松山、温泉郡側力士、東方は今治、越智郡側の力士が登場し、両郡で勝負を競うもので、本祭事は享保年中からの開始と伝えられる。松山領の和気、風早、野間郷民の信仰によって始まった祭事で、そのため松山市伊台あたりからも風祈祷に行く者があったという。

 八朔相撲

 八朔には相撲の奉納があった。それで八朔相撲というのであるが、必ずしも八朔ではなく、旧八月中に行う相撲なれば八朔相撲と呼ぶ場合が多い。本県では南予地方に特徴的に見られるのである。
 喜多郡内子町内子の三島神社及び八幡神社、同郡五十崎町平岡の岡森神社、東宇和郡宇和町の王子神社、同郡野村町栗木の三所神社、八幡浜市大平の萩森八王神社、北宇和郡広見町沢松の三島神社などである。相撲のほかに「お伊勢踊り」を奉納する所もあるが、このように八朔に風祭りが行われるのは、当地方が秋の台風の通過経路になっている事実に照らしても明らかである。
 つぎにこれは八朔相撲とは言っていないが、越智郡宮窪町では、八朔には仕事を休み、恵比須神社の祭りを行い、相撲の奉納をする。総代二名が勧進元になって世話をするのである。力士には力飯と呼ぶ握飯を出す。

 月見

 八月十五夜の月を「芋名月」という。芒の穂や萩などの秋草をとってきて花瓶に挿し、団子や里芋などを供え、名月を観賞しながら団子を食べる。そのとき、「芋かとおもたら団子じゃった。団子かとおもたら芋じゃった。」と唱えながら食べた。また供えている団子を子供らが盗みに行く習俗や、名月に供える里芋は他人の畑から盗んで来てもかまわないとか、他家の柿などの果物を盗ってもかまわないなど、なかば公的に盗みが認められていた。
 それで、この十五夜の民俗は、稲の収穫儀礼と芋の収穫儀礼とが結合したものであると解されている。また、公に盗みを許容する行為から「年占」の民俗が、その背景にはあるものと見られている。以下、本県の芋名月の習俗につき、各地の事例を挙げて考察をしてみたい。
 東宇和郡城川町下相では、とうきびと柿は盗んでもよいとされていた。西宇和郡三瓶町や北宇和郡三間町などでも、若連中が里芋の野荒しをしていた。南宇和郡内海村魚神山では、月見の芋はどこの家の畑から掘り取ってきてもよいといわれていた。同郡一本松町小山でもこの晩だけは子供らに他家のナリジモノ(果物)を盗ってもよいと許していたし、越智郡大三島町肥海では、里芋三株までなら盗ってよいといわれていた。
 野荒しの対象は右のように成り木・畑物(主として芋)であるが、これを若連中のメゲンチと温泉郡中島町津和地ではいっている。メゲンチを見付けられたときは、「どっこい倒れた」と言えばよかった。すなわち、倒れるの言葉が家が倒れる―家運が傾く意と受けとって忌みたのである。
 ともかく、公認の盗みが認められていたのである。それを咎めたり、惜しんだりすると不作になるともいわれていた。いずれにしても収穫の秋にちなんだ民俗ということができる。
 つぎに月見には団子が付き物である。この団子を北宇和郡津島町岩淵では、平年には一二個、閏年には一三個供えた。子芋と団子を混ぜた団子汁を炊き、「芋かとおもたら団子じゃった。団子かとおもたら芋じゃった」と言いながら食べた。この唱え言は、喜多郡内子町、伊予郡松前町徳丸、同郡広田村などでも唱えていた。上浮穴郡小田町では「芋か団子か、芋か団子か」と唱えながら食べたという。
 また団子を盗った習俗もあった。周桑郡小松町黒川では当屋へ組中の者が集まって月見をしたのであるが、子供らが各家を廻って供えてある団子などを盗って食うていた。なお月見には、月光に自分の影を映して身の吉凶を占ったりする風もあった。

 栗節供

 九月九日の重陽の節供を「栗節供」という。家々では栗飯を炊いて祝い、野菊をさした神酒を神に供える。これを菊酒というのであるが、延命長寿の酒といわれていた。栗飯は、栗のように稲が稔れとの意という土地もある。

 豆名月

 九月十三夜の月を「豆名月」という。あぜ豆(大豆)を供えて祝うのでそう言うのであるが、芋名月同様このあぜ豆も他家の畑の物を盗ってよいという公認の悪戯が認められていた。袂にいっぱいとか前垂にいっぱいとか量目を規制していた伝えもある。

 神無月

 陰暦一〇月はカンナヅキと呼ぶ。八百萬の神々が出雲に集結するので、諸国では神々が不在となるところから神無月と言うのだとの俗説である。これに対し出雲では「神在月」というと一般にいわれている。
 神々が出雲へ行くのだという伝承は各地で聞かれることで、喜多郡、東宇和郡では、氏神様が一五日(一四日という土地もある)には縁組を終えて帰ってくるので、氏子中が氏神様で「お待ち神楽」を挙げて通夜をしていた。東宇和郡城川町魚成の一宮神社では、このお待ち神楽を朝までした。また喜多郡肱川町予子林では一五日にお待ち神楽とお待ち籠りをするのである。
 周桑郡小松町では、一〇月の初めによく大風が吹いて寒い日があるのを「神渡し日和」といった。これは九月中に祭りを済ませた神々が出雲へ休みに行くので吹く風だという。また一〇月末にも寒い風の吹く日があるが、それは出雲からもどられるからだという。しかし、金毘羅神は一〇日が大祭であることから出雲行きには参加しないのだと伝えられている。
 神々の出雲行きについては、次のような文献がある。北条市夏目の「池内文書」の「能野谷権現社役之事」に、「(前文略)七月七日あらひよね、御すい。同八月一日御すい、御こく。同九月九日、せきはん、御すい。十月一日出雲へ御出立、御すい、御こく。(以下略)」とあるのである。本文書は明応九年(一五〇〇)の文書であるからこの伝承は中世以来の伝承であることが知られる。
 なお、出雲行きは柴神と呼ばれる路傍神にまで及んでいたらしく、小松町の旧石鎚山村では、シバガミサンは片目でびっこなので出雲からの帰りが遅いため、それを急がすために一〇月一〇日に柴神様に供えていた柴を集めて焼き、家が焼けているように見せるのだと伝えている。ちなみに柴神とは、山村における路傍神で、峠の上り口や坂道などに祀られている神で、その前を通過するときにはその辺の柴の枝を折り取って供え、拝んでから通行することになっている。
 神渡し日和の伝承は、何かの前兆と見られていて、松山市福見川では、この風を「雲さだめ」、温泉郡の怒和島では「風さだめ」という。すなわち、この日の風がその年にはよく吹くものだというのである。

 亥の子

 一〇月の亥の日の祝いをイノコという。二回ないし三回あるので、初亥を一番亥の子、中亥を二番亥の子、乙亥を三番亥の子と呼ぶ。一般に家庭での祝いは農作業の都合にもよるが、普通二番亥の子をまつる。
 亥の子は、亥の月(陰暦一〇月)の亥の日、亥の刻(午前九時から一一時)に餅を食べると無病息災であるとの中国の俗信に基づくもので、平安朝(定平以前)以来、行われてきた行事である。
 それが次第に民間でも祝うようになり、収穫祝いとして特に西日本で盛んに行われだしたものである。この収穫祝いとしての亥の子については、既に『民俗上』(第二章第二節農業)に述べた。それで、ここでは亥の子行事について述べることにする。
 亥の子は子供組の行事であるが、所によっては若連中が参加していたこともあった。子供組にはきちんとした年齢階梯制があって亥の子大将がおり、その指揮によって自治的に運営されてきた。例えば、宇和島市祝森では一四歳を大頭取、一三歳を小頭取、一二歳はシメヤク(締役)、以下をハラブト(腹太)と呼んでいる。
 越智郡玉川町では、一番大将(一四歳)、二番大将(一三歳)と称したり、大将組というのがあって、一番、二番、小大将のある所もある。同郡菊間町長坂では、亥の子かつぎ(小学校六年)、中学一年は会計役、中学二年は大人組といい、家々から集めた物を分配処理する世話をする。中学三年は「よばれ」と称し、ご馳走に招待されるのである。

 藁亥の子と石亥の子

 亥の子には藁亥の子と石亥の子があり、これを搗く地帯にはほぼ地域性が認められる。もちろん正確性は期しがたいが、その分布を概観してみると、およそ次のように言えると思う。
 松山市を中心にして北部の北条市、越智郡及び島嶼部は石亥の子地帯である。東予に入って周桑郡以東の地域は藁亥の子を搗く。松山市南部の伊予郡の大部分、伊予市は石亥の子で、南予に入って喜多郡、宇和郡地方は一帯に石亥の子である。また松山市東部の温泉郡重信町、川内町、さらに上浮穴郡などは藁亥の子を搗いている。これはあくまでも概括であるので詳細に見てゆけば、一村内一部落でも両型態が混在していたり、両者併用している例もある。
 例えば温泉郡中島町では、大浦は藁亥の子だが大泊は一番・二番は石で、三番亥の子は藁亥の子である。あるいは一一月に入っての初亥を「総亥の子」または「小亥の子」と称して、石亥の子地帯でありながら特に藁亥の子をその日だけ用いる例もある。
 藁亥の子は稲藁を束ねて固く小縄で巻いて棒状にした亥の子で、ホテ・ワラボテという。中に芯として里芋の茎などを入れることもある。これは地面に叩きつけたときの鳴りをよくするためだと説明されている。スボキ(徳島県)、ボテリンコ(岡山県)、ホテイ(愛媛大三島)、テンコ(香川県)などの呼称もある。これを子供ら各自が持って家々を訪問して地面を叩いて廻り、祝儀を貰うのが亥の子である。そのとき亥の子歌が歌われる。
 石亥の子は、御影石製で、ゴーリンサンと呼ぶ。鉄輪を胴部にはめて、これに引き綱をつけて四方八方から引き、石を上方に放り上げて地面に落とす。石亥の子は神聖視しており、足下にしたりすることは禁じられている。イノコサンと称し神体視しているのである。
 亥の子の前日ないし数日前から亥の子大将の指示により、亥の子はきれいに洗い、塩で清めて亥の子宿に祀られるのである。この亥の子石の上に温泉郡中島町津和地では御幣を立てているが、これは岡山・広島あたりの風習と共通しており、本県にはない風習である。従って亥の子石はいわゆる神座(神の依り代)の性格をもっている。ゴーリンサンと尊称しているのは、「降臨さん」の意で神霊の降臨する神座であったからであろう。
 亥の子を足下にしたり、またいだりすることを忌みるが、亥の子搗きをした跡を踏むことも忌みていた。大分県ではその跡に御幣の紙をちぎって入れておくようであり、この紙は虫除けに呪力があるので野菜畑に竹に挾んで立てたりしている。

 亥の子宿

 石亥の子も藁亥の子同様に各家の亥の子搗きをして廻るのであるが、石亥の子地帯には「亥の子宿」があるのが大きな特色である。宿になるのは男児出生の家でとくに長男出生の場合を「初祝い」と呼んだ。それから新婚、新築の家などが宿を引受ける。年によるとその該当者がない場合がある。そのときは亥の子大将の家が引受けた。そのような場合を越智郡玉川町ではツキノキといっている。その他有志の家がなった。なかなかない場合はくじ引きなどで決める。
 宿は亥の子祭りの当屋であるが、床の間に俵を敷いて亥の子をまつり、米・餅・大根など供物をする。越智郡、北条市などでは床の間に置いた亥の子の上と下に縄の輪を置くが、これをあとで屋根に放り上げる風がある。火災除けの呪いであるという。
 宿は子供らが忌籠りする所であるが、ただご馳走にだけなって宿泊しない所もある。しかし以前は宿泊したのであり、この方が古風と考えられる。食事のあと大将がリーダーとなってゲームをしたり、話をしたりして楽しんだのち、戸外に出て門廻りと称して亥の子搗きをして廻るのである。それから解散するか、宿に泊まる。しかしこの門廻りをするときに他部落、他組との喧嘩をすることがしばしばあったのである。
 石亥の子地帯は行事そのものも盛大であるが、特に越智郡、北条市、北宇和郡地方は派手にする。越智郡では宿の表の間に祭壇を設け赤い布を敷いて空俵の上に亥の子を安置する。餅、みかん、野菜、菓子などさまざまな供物をする。また宿の屋外には青・赤・黄など五色の布を長く幟にして垂らし、提燈を吊したりして宿の標識にしている。それには縁起のよい文句が墨書してある。この亥の子幟は北条市などでもしている。
 宇和島市・北宇和郡では宿の前に笹を立て、それに菅笠・大根などの野菜物を吊す。三間町ではそれをザイと称した。このザイを他部落の者が盗りに来るので番をつけていた。
 津島町岩淵では、亥の子宿にトウドウサマという小堂を山草などで屋根を葺いて飾りつけ、その中に恵比須、大黒像を祀り、供物をしていた。この小堂を明治末年ごろまでは車につけて引いていた。このトウドウサマは広見町などでは現在も用いている。また吉田町法花津浜では亥の子車と称している。
 北宇和郡地方の亥の子については、文政六年(一八二三)に桜田某の書き遺した随筆によれば、

十月、亥の日の餅、十月亥の日餅を食へは病を除くといふ。宇和島・吉田などにては亥の子もちといひて昔は藁縄にて石を縛してつきたる由、六十年程前には中程を細引にてかかり、八方へ藁の引縄をつけてつきしが、其頃より鉄輪といふものを拵へ、環も前とは違ひ念入りになり、手丈夫にて石も石屋に切立てさせ、今日にては藁縄仕立の引縄になり、昔は見ることも出来ざりし小車を仕出して美しき幕を作り、供物の取飾まで、町家の風を見習ひ、小供の遊びとも思はれぬやうになれり。悲しむべきことなり。北町辺は家数多き故昔は一軒より一銭ずつ集めていろ紙を買ひ短冊とし、六寸位の竹を貰って短冊をつけて恵比須大黒へ神酒、鏡餅二重、鰯、大根を木具に並べて供へ、当日は明け六つ頃より頭取の宅へ行き靡と号して右の短冊をつけたる竹を立て、家々の門口へ持行き、音頭を出して丁祝と言ふて家毎につきまはり、其内には御浜御殿より呼にも参る故、直に参り、音頭出して褒めらるることなりしが、今の子供は要の祝詞は言はず、宿の中に町祝い音頭もなく靡も持たずして「お大黒ののふには」でザット済ます。夕方を待兼ねて千秋楽を早くしまひ、彼の靡としたる竹を切て配分す。斯様の祝ごとは正しく行かねば子供の生ひ立ちにも宣しからず。既に廿ヶ年余来は頭取の宅へ格別の用事もなきに毎夜集まり騒ぎ遊ぶこと、宿の迷惑大方ならず。燈油は要り、戸障子はいたみ、襖は破れ、畳は損じ、其上亥の日の前夜は通夜と号して銘々手弁当にて集まり、暁ハ時よりつき廻ることなりしが、追々夜中に小豆粥を出し次第に増長して小豆飯にこくしよふを付けて出し、近くは本膳にして出す所もあり。又芝居の真似をする所もあり、親々は見物に往く。かかる子供の有様を見ては歎くべきが人情なるに、然はなくて却て自慢の顔付、是では子供の教は出来ぬ筈なり。今年の冬(文政六年)、子供教諭育方の事御沙汰筋有之、これまでの寐も覚め、子孫の生ひ立ち風儀直るべし。御導き有り難き事なり。

とある。これによると、現在の亥の子石をはじめ、亥の子宿の様子などは、だいたい文政六年より六十年程前の明和年間以来のものであることが知られる。すなわち、石亥の子地帯の一つのスタイルの発生を知る史料と言えるのである。なお随筆の筆者桜田某も歎いているように、近年においてもこうした亥の子宿の子供の実態や祝儀を貰って歩く行為が物乞いと解されて禁止されたことが以前にあったが、歴史の回帰性を考えさせられて感慨深いものがある。

 亥の子搗き

 亥の子搗きは「亥の子歌」を歌いながら搗く。本県の亥の子歌は多種多様でバラエティに富むが、一般的には数え歌型と呪咀型が原則であるが、南予にはさらに物語風のものがある。
 数え歌型は、地域によって多少文句に違いがあるけれども、すでに室町時代の『御伽草子』にも出てくる。

おいのこさんという人は、一に俵踏まえて、二でにっこり笑うて、三で酒作って、四つ世の中よいように、五ついつもの如くなり、六つ無病息災に、七つ何事ないように、八つ屋敷を広げ建て、九つ小蔵を建て並べ、十でとうとう納めた

これは松山地方のものである。最後に「繁昌せい、繁昌せい」と祝福して、次の家を訪問する。祝儀がよいと「もう一つおまけに繁昌せい」という。しかし、気に入らぬときは「この家貧乏せい」と捨てぜりふを残して逃げる場合もある。次は呪咀型である。

  亥の子 亥の子 亥の子餅ついて 祝わんもんは 鬼産め 蛇生め 角の生えた子生め

亥の子に亥の子餅をついて祝うべきことを強調しているので、祝わぬ者には鬼や蛇や角の生えた妖怪が生まれるとおどしているのである。このことから亥の子が重要な節日であったことを知ることができる。
 越智郡吉海町椋名では、男児出生の家をついて廻っているが、年頭と呼ぶ子供大将が音頭取りになって、

  亥の子さんの宵に、お神酒くれんもんは、おじゃんべごんべ 角の生えたじゃんべ

と音頭を取ると、ソラエ ソラエとはやす。家の者が出て来てお神酒をゴーリンに注ぎ、餅と銭を投げる。それを子供らが拾うのである。
 次に物語風の南予地方の亥の子歌を挙げてみよう。

今から数えば五百年 頼朝公の時代にて 日本の武士を皆集め 蛭の小島へうち寄せて 七日七晩腕比べ 一で義経二で新田 三で河津の三郎よ 四で代坂五郎兵衛よ 六つ武蔵の弁慶が 七つ那須野に 八が嶽 久坂源吾に藤堂やこれより富士の巻狩りと 仁田の四郎がうち乗って 勇み進めばよけれども 都に帰りし翌日より 昼は地震が揺りかやす 夜はおごろがもりかえす 占い祈祷にかけたなら 十月の十月の亥の日にて 亥の子をついて祭るなら 日本国中すまずまと 穏やかなりと申します

亥の子祝いの功徳(御利益)を説いているのであるが、おごろ(もぐら)鎮圧の効果を説いているのが注意される。石にしろ藁ぼてにしろ、地面を強く叩くことは、悪霊を地下に鎮圧して生産増強の発動を促がす行為(呪術)であるが、これが亥の子搗きをする理由でもあったのである。

 亥の子騒動

 亥の子には隣村とよく喧嘩をすることがあった。亥の子の争奪戦、割り合いこなどである。江戸時代の村文書を見ていると、亥の子の晩の喧嘩について記したものがある。吉田藩御家中亥の子組と町内亥の子連中の紛争の事はよく知られている。藁ボテの場合は、これでなぐり合いをしたりしたのである。これが悪習となって、ついに禁止の憂目を見たこともある。

 次に亥の子の搗きかたを述べておきたい。藁ボテの場合はこれという特徴はないが、石亥の子には変った搗きかたがある。地域によってそれぞれ創意工夫された搗きかたで、子供らが楽しむために創案したもので、それが伝統として継承されているのである。その一つにネドリというのがある。松山地方で綱の根元を持って高く勢いよく搗きあげる方法である。搗き音がよくて深く地面が窪むように搗くのをよいとした。しかしすごく力のいる搗き方で、八方からの力が平均していなければきれいに搗きあがらない。それを越智郡ではカントレという。亥の子の胴環近くを持つので言ったものである。松山地方でもそうであるが、玉川町でもこの搗き方は終りの締めくくりの搗き方になっている。
 越智郡大西町脇や宮脇ではメントレカントレといっている。亥の子を搗いていると、穴の周囲にひび割れができるが、大西町ではそのひび割れの一番大きいものが延びている方向に、今年男児が出生するといわれる。そして亥の子が隠れるくらい掘れると、力の強い三~四人が綱を短かく持って地面にたたきつけるように亥の子を激しく搗くのである。これがカントレカントレである。この呼称は、次の掛け声から出たものである。

  カントレ カントレ 嫁には婿とれ ローソクはシン(芯)とれ

このカントレが終ると綱を持って搗き穴の周りを転がして終るのである。
そのとき掛け声は「籾すりギッチョン ギッチョン」という。
 いま一つ「味噌すり」という搗き方がある。大西町の「籾すりギッチョン」もこの種類であるが、松山地方では味噌すりと称し綱を長くのばして、各人が順送りに綱を強く手元に引くのである。こうすると亥の子が地面を激しく円を画いて走るのである。ときどき石に当って火花が散ったりして、やっていてすごく興奮を覚える遊びであった。石亥の子だからできる競技性である。また玉川町竜岡木地では、部落内の亥の子搗きを終って、最後に観音堂で「梅鉢」と称し、ゴーリンサンを逆さにして梅鉢紋型に五か所搗き、その後で大根をゴーリンサンの下に敷き、地面をすり廻るのである。この方法は単にスリともいうが、極めてスリルのある搗きかたで、広場でなければできないのである。また熟練を要し、気合いを入れてやらないと危険を伴う搗きかたである。

 亥の子と農神

 農神去来の信仰については社日の項で述べたし、『民俗上』でも触れたとおりである。
亥の子の祭神は、亥の子歌にもあるように一般にはオイノコサンである。オイベッサン、ダイコクサンとあるように中世以来の流行である恵比須・大黒信仰に習合しているが、農家では作神と認識されている。しかし、イノガミサンというのもある。
 亥の子の祭り方は、恵比須棚か床の間である。原初的には屋内の庭であったのであろう、その例もある。各家毎の亥の子は、桝に米・餅・柚子を入れ、大根二本を供えてまつる。この場合、箕の上でまつる。それを臼の上に載せる、千歯の上に供物を載せるなどの祭り方がある。正月神の祭り方との類似性が見られる。いわば収穫祝い―新嘗の祭りの性格が強いのである。
 このことは、周桑郡のアキイレ、越智郡の地祝い(正月一一日)の唱え言、同種のサンバイオロシの唱え言などによく示されている。これについては『民俗上』で詳述しているので略するが、少し補足しておきたい。
 北宇和郡松野町では、初亥に「さんばい石」を苗代田から引揚げて帰って桝に入れ、餅を搗いて供えてまつった。上浮穴郡美川村では、恵比須様が正月の亥の日に山へ行き、十月の亥の日に帰るので、亥の子搗きをして恵比須様を祭ると伝えている。同郡小田町でも、亥の子は作神様で、恵比須・大黒を祭ると観念されており、その恵比須は、春亥の子から秋亥の子まで田に出て農作物の見張りをし、乙亥には「はよう山からしまえて帰ってつかあさい、ごちそうして待っていますから」といって家に迎える。以上はいずれも亥の子が農神で作づくりを終えてもどってくる時点と認識されていることを知る資料として挙げたものである。
 いま一つおもしろいのは、上浮穴郡小田町の広瀬神社の亥の子祭りである。当社境内の恵比須社の祭りで市が立つほどの賑わいである。農家ではわが家で収穫したとうきびを二すぼ持参して供え、前者が供えた物の中から一すぼを取り代えて戻り、翌年の種子にするのである。いつ頃から始まった風習か不詳であるが、いわゆる種子交換の慣行である。

 亥の子と正月

 亥の子は正月の前神さんという伝承が各地にある。越智郡伯方町北浦では、初亥には正月の神さんが庭まで帰るから、庭石の上に履物をすけるなという。庭石とは藁打石のことである。米作りに出ていたお正月の神が戻って来てこの庭石に座るという信仰である。それできれいにしておくのである。
 温泉郡中島町でも、亥の子は正月の前ぶれといい、よい亥の子を祝えばよい正月が迎えられるというので丁寧にまつる。またこの日は「よいお正月でございます」と挨拶したという。
 なお参考までに正月と亥の子の関係を知るために他県の資料を挙げておきたい。正月を真似て門松代りに椎の木を立て、神仏に餅を供え、荒神様には赤飯を一升桝に二尺もある柳箸を添えて上げている。大分県日田郡天瀬町五馬では、昔は子供の年齢を数えるのに、亥の子が過ぎると明けて何歳になったといった。徳島県相生町では、亥の子を「正月の事始め」といった。正月前に亥の子を十分祝い、俵の上で平桶に鯵・柚子・餅・神酒などを入れて祭る。また石井町では正月始めとして「初正月」と呼んだ。赤飯と餅を桝に入れ、赤鰯・大根柚子などを供える。さらに奥州の三戸郡では、亥の子は田の神のお年取りたというそうである。
 このように見てくると、亥の子と正月の近似性が知られるし、亥の子そのものがかつて正月ではなかったかという感さえもたされるのである。

 亥の子と俗信

 ①亥の子の日に炉開きや炬燵の入れ初めをすると火災を起さぬという。②亥の子の日は大根畑へ入られない。大根が割れるとか太らぬという。それで亥の子に必需の大根は必ず前日に用意すべきである。上浮穴郡久万町などでは、お亥の子さんがナバラ(大根畑)までもどるからだと説明している。③亥の神様は取り込むのが好きで出すのを嫌うので、桝物を出すのを忌む。④麦播きをしない。⑤臼を使用しない。⑥夫婦同衾を禁ずる。⑦亥の子に茄子の木が畑に立っていると風邪の神がとまる。⑧藁ボテを果樹にひっ掛けておくと来年実がよくなる。⑨亥の子には柿など他家の成り木の物を盗んでも文句を言われない等々の俗信がある。⑩この日家の入口に柚子を吊しておくと盗人除けになる。
 亥の子が収穫祭りとして重要な節目であったことによる物忌みと収穫を喜ぶ豊満感がこのような俗信を生んだのである。

 庭あげ

 亥の子に関連して、収穫後の農家の行事に収穫作業の終了を祝うニワアゲ、センバアゲ、センバマツリなどと呼ぶ祝いがある。また籾すり終了後の「籾すり祝い」などがあるが、これらについては「農業」(上巻第二章)の項で述べているので略す。

 鞴 祭

 一一月八日は鞴祭りという。鍛冶屋、鋳物師、屋根師、石工、大工、木地屋などの職人が仕事を休み、諸道具などをまつって祝う日である。鍛冶屋は、鞴の周囲に道具を並べ「よく吹く、よく吹く」といいながら鞴を押した。終ってみかんを撒いたりした。
 屋根師、大工などの職人はその職祖を聖徳太子と伝えており、太子画像の掛軸を掲げ、供物をして祭り、職人仲間で祝った。北宇和郡吉田町大工町には、この職祖聖徳太子を祀る堂がある。
 木地屋は文徳天皇の皇子小野宮惟喬親王を職祖とする伝説を持っている。木地屋文書と称する独特の由来書、往来手形などを所蔵している職人であるが、かつては全国に散在していた。本県でも上浮穴郡を始め各地にいて、木地を挽いていたが、明治以降は材料に不足を来たし、かつ帰農したりした。木地師が言うには、やはり一一月八日には日頃から仕事で交渉のあった人たちを招待し、もてなしていた。
 大三島には「たたらふみ歌」が伝わっていた。「たたらふめふめ 中ふめたたら なかをふまねば 金やわかぬ」と歌ったのである。鍛冶屋や鋳物師が鞴を踏んで火を起こす様子を歌ったのである。
 上浮穴郡小田町では、強い風が吹くとよいといい、風の神、天目一箇神に栗・柿・みかん・川魚・鯛・海藻を供えていた。

 綿 着

 一一月一五日をワタギという。今年生まれの生児の祝いで、松山地方では里や親戚から綿入れ着物(子守絆纒)を贈ることになっている。それをハツギ(初着)という所もある。そして祝ってくれた家へは餅を搗いて配る。これを「案内餅」というのである。上浮穴郡久万町ではハギタテといい、嫁の里からおはぎ餅や綿着を祝って持って来るという。
 伊予郡広田村高市では、樵りぞめ、鍬ぞめの御幣立てに用いる萩を山から刈取ってもどり、束にして家の庭先に立てておくのであって、正月の供物をする焚きつけにするとのことである。伊予郡中山町、上浮穴郡久万町で「萩立て一五日」といっているが、おはぎを神前に供える。
 綿着はまた三歳児の祝いでもあって、いわゆるヒモハナシで帯を贈るのである。それで、喜多郡ではツケヒボ祝い、東宇和郡ではツケヒボリハナシという。現在では七五三と呼ぶ都会風の祝いが商業ベースにのって流行しているが、この風が松山地方で見られだしたのは昭和二五年ごろからである。

 冬 至

 陰暦一一月の中。太陽暦一二月二二、二三日ごろで、太陽が最も南に片寄る時であり、夜が最も長く昼が最短の日である。冬至は中国の天体思想では、太陽の逆行の出発点であり、暦の起点とされた。それで古代中国では冬至のころに朔日が来る月を正月としたのである。また暦の起点である冬至の日に天を祭ることは最も重大な儀式とされ、これを郊天の儀と称した。民間ではこの日は恐れ慎しむべき日とされ、唐代にはこの日赤小豆粥を炊いて疫鬼を払い、その物忌みが終る翌日を最もはなやかな祝日として祝ったということである。それで冬至を周桑郡では「唐の正月」といっていた。
 世界の諸民族の間でも、冬至を太陽の誕生日とする思想がある。クリスマスも冬至の日を陽気回復の日として祝った風習が、いつか固定したものと考えられているように、とにかく冬至には世界共通した思想がもたれていたのである。
 冬至からは犬が背伸びするほどずつ日が長くなる、畳の目ほどずつ日足が長くなる、などという。「冬至から藺の節だけのびる」というのもある。しかし、春にはまだ程遠く、暦の上では冬のさ中である。それで「冬至冬中」とか「冬至寒中」などとも言われている。「冬至から巳午までが寒い最中じゃ」と東予地方ではいう。いよいよ冬到来の感を深くする季節感をよく表現していると思う。
 冬至には南瓜を食べる風習が全国的にある。食べると中風にならぬとか、風邪をひかぬなどと伝承されている。また柚子湯を沸かすふうも広く見られる。正月のなずな風呂同様に、冬至の柚子湯も魔除けや火災防除に呪力があるというのである。冬至にはまたこんにゃくを食べる。南瓜がわが国に伝来したのは天文年間(一五三二~五四)で、東南アジアのカンボジヤ王国からポルトガル人の手で伝えられたものと言われているが、そうだとすればこの俗信は中世来からということになる。要は外来の珍しい野菜ということでこれを神に捧げることになったのかと思う。
 また冬至には、赤飯・小豆飯・五目飯・すしなどのご馳走をこしらえて家々で祝った。昔、周桑郡丹原町今在家では、子供らが広江の徳蔵寺へ大根・米などを持ち寄り、これで料理をつくり会食をしていた。同じ風習は岐阜県加茂郡などにもあるようであり、「冬至弘法」といった。
 冬至には、大根畑へ入るのを禁じている。入ると頭痛になる。大根が太らぬ。大根が割れる、トウが立つなど亥の子と同様のタブーがある。これは冬至にも物忌みが要求されていたことを示すもので、クリスマスの夜と同じく聖なる夜と受け止められていたのであろう。節変わりの夜なので物忌みして神の訪れを待望した風習の名残りであろう。
 いうまでもなくクリスマスはキリスト生誕日と伝えられる祝日であるが、これが信仰的祝日として一二月二五日に固定したのはヨーロッパに古くから伝承されていた冬至の習俗から生まれたもので、クリスマスも西欧の民俗信仰にその根源はあるようである。すなわち、ローマ人が冬至に農神サターンを祭って収穫祭りをやり、底抜けのお祭騒ぎをしたのがキリスト教徒に継承され、やがて北欧で宗教的なクリスマスになり、南欧ではカーニバル(謝肉祭)のお祭騒ぎになったと見られている。要するに冬至はこのように世界各国において節日として重視されてきた日であったのである。

 お大師講

 わが国では冬至のころに「お大師講」がある。伊予でお大師講といえば弘法大師をまつる供養会と理解されているが、他の地方では元三大師、智者大師、あるいは聖徳太子をまつる日と考えられている。しかし、この大師というのは、オオイコ (太子)ではないかと見られている。オオイコとは春をもたらす神の子の意である。
 すなわち、冬至のころ一陽来復の季節を予知して、新たなる生命力を附与する神の子が、この日村里を巡ってくるのを迎え祭る習俗があったが、それが弘法大師に結び付いて大師講になったのであろうというのである。
 本県の大師講は、「大師雪」と「虫供養」の習俗が特色である。二十三夜に大師がとある民家に一夜の宿を乞うた。食いものが無いため、大師は畑の大根を盗んで来て汁にして食べた。大師の足はスリコ木のような足だったので、畑の主に足跡から盗んだのがばれるといけないと思い、それを隠すために雪を降らせて足跡を隠して立去った。それでこの雪をスリコギカクシ(鳥取県)、デンポカクシ(長野県)、ダイシコウブキ(東北)などと呼ぶようになったという伝説がある。
 同じ伝説は本県にもあって、それは大師が老婆の親切に報いるために降らせた雪であった。すなわち、ある雪の日、一人の旅僧が老婆の家に一夜の宿を乞うたのである。しかし、老婆は旅僧をもてなすものもなく、ただ囲炉裏の火だけであった。その薪も不足になったため、老婆は外に出て他家の薪をとって来て囲炉裏にくべた。僧はこの老婆の行為に感謝し、老婆に迷惑のかかるのを心配して呪文を唱え、雪を降らせたのである。老婆の足跡を隠すためであったが、以来、この日には必ず雪が降るようになり、人びとはこれをお大師雪と呼ぶようになったのである。
 この民話は石鎚山村の古老から聞いたものであるが、同様の民話は喜多郡肱川町でも採取している。同町予子林では、日は二一日だけれども、この日にはきっと雨か雪が降るといわれ、それをアトカクシ雪というのである。
 また宇和島市蒋淵の大島の浜崎家では、昔、大師様にオチラシ(とうきび粉)を差上げたことがある。それ以来、毎年二一日には大師様が臼の目立てをしに来てくれるようになり、庭に莚を敷いて臼を出して置くのが慣例であった。夜の間に必ず目立てができていたという。ところが、ある世代の嫁さんが不信心のため例の臼を庭に出すのを怠ったのである。以来、この不思議はなくなったという。同類の民話はほかにもある。
 このように霜月二十三夜にはタイシサマと呼ぶ神が村里を訪れて来ると信ぜられていたのである。いまでは弘法大師に習合して広く一般に普及して信じられているけれども、それを伊予三島市富郷町上猿田では山の神が年に一度、里に降りて来る日なので粥を炊いて祭るのだといっている。これは古い伝承と言える。また周桑郡丹原町では、日は多少ずれているが地神様に供えるのだと言っている。

 大師粥

 一般に「虫供養」ともいうが、農家では年間の農作業で田畑の虫を殺生したので、大師粥を炊いて畑に供え、虫供養をするのだと伝えている。
 温泉郡重信町や松山市小野地区では、二三日の晩には五穀を混ぜたお大師粥を炊き、神様に供える。またこの粥を少し菜っ葉に包んで大根畑へ持って行って供えていた。これを虫供養というのであるが、この菜っ葉の粥が翌朝凍っていたら作がよいといわれた。同町志津川では弘法大師は作神だといい、この日大師粥を七ひろ半食べるふうがあった。この日、大食をするふうは東宇和郡城川町窪野字寺野の大師講でも行う。寺野では、各戸から米五合を持寄り、五目ずしをつけてこれを皿に山盛りに盛る。高さ二〇cmくらい、重さ二・五㎏の量目のものを約一時間ほどかけて食べるのである。理由は弘法大師の命日に、大飯を食らって景気よく一年の終りを迎える行事だと説明している。
 北条市下難波でも、二〇日にお大師粥と呼ぶ小豆粥を炊き菜っ葉などに包んで庭先などに置き、虫けら殺しの供養をし、念仏を唱えていた。上浮穴郡久万町では、この小豆粥が翌朝シミていたら来年のヨ(作柄)がよいと伝承している。また松山市湯山では麦作がよいと伝えている。東宇和郡・北宇和郡・西宇和郡でも粥を供えて虫供養をしている。なかには生団子をつくり、荒神様に供えたり、北宇和郡のように餅を搗いて竹に突き刺し、畠に立てて虫除けにしたりする所もある。なお、南宇和郡西海町小浦の平田家では、五穀飯を炊き、家族一同で食べているが、昔は五穀粥であったという。
 以上、冬至・大師講・大師粥と一連の習俗について見てきた。言うまでもなく表面は弘法大師信仰に同化した伝承になっているけれども、農耕との関連性の濃いのが注目されるであろう。すなわち、五穀粥を炊き、そのシミ加減で作柄を占ったり(年占)、七ひろ半食べる飽き喰いの風習があったり、害虫除けの呪法は、冬至をめぐる一連の習俗が弘法大師とは関係のない習俗であったことを示していると思われる。
 冬至という太陽の異変を感じさせる時期と、植物の成長が衰弱しかかった時期から農耕生活に一種の危機感を感じ、太陽の光の復活を願うとともに春をもたらすオオイコ(神の子)の出現を祈る祭りが大師講の本来の姿でなかったかと見られるのである。

 師走入り

 一二月一日を「師走入り」とか一年の最後の朔日なので「乙子の朔日」という。乙子は末子のことである。すなわち、一二月は一年の最後の月であるのでそういうのである。
 元来、月の一日、一五日、二八日はサンジツ(三日)、三大日などいって神祭りをする日としてきた。従って、この三日には休日とまではいかなかったが、ふだんとは変った食品を作って祝うしきたりであった。神社参りをするのもこの日であった。現在でも農村地帯では、オツイタチ(お朔日)、オジュウゴンチ(お一五日)、オハチンチ(二八日)ということばが残っており、この日にニワクサフミ(神社参りのこと)をする風がある。さきに三日には変った食品を作るといったが、もぶりめし(たきこみごはん)、頭付き(魚)を食べたりするのをいう。
 六月一日が半歳の初めの日ということで「歯固め祝い」があったように、この一二月一日にも一年の終末月ということで祝う意識があったのである。北条市難波などでは、スベリモチと呼ぶモチ米に小豆を混入した飯を炊いて神仏に供え、家族で祝った。また松山市湯山でもスベリメシという小豆飯を炊いた。そして、このすべり飯を食ったら、転んでも「すべった」とはいわず「こけた」といわねばならないといわれた。一本松町でも、餅と小豆と油物を食べる日とされ、やはり「ころんだ」といわねばならぬ日であった。津島町岩淵でも赤飯を炊いて祝った。この風習は宇和島地方ではすでに江戸時代には一般的習俗として行われていたことで、しばしば引用する桜田某の随筆にも「(一二月)朔日小豆餅 昔は砂糖を入れざりしも、今は砂糖を入れねば吝嗇なりといふ」と記してある。
 また西宇和郡三瓶町では、師走入りには悪事を開かぬうちになるべく早朝に白粥を炊いて食べる習わしがあった。これに似た風習は伊予郡中山町にもあり「耳ふたぎ餅」を搗いた。悪いことを聞かぬうちに餅を搗くのである。なお、北宇和郡や東宇和郡では嫁の里帰りの機会となっていてヤブイリといった。すなわち、城川町では小豆飯をもって行ったという。北宇和郡日吉村では重詰などの手土産を持って行く風であった。
 とにかくこの日は六月一日に対応する節日として、すしをつくる(西宇和郡)、麦飯を蒸す(北宇和郡津島町)、五色飯で祝う(津島町下灘)などの風があったのであるが、本県の場合これらの食習儀礼が何の目的で行われたのか不明確である。各地の事例によると、川浸り餅、川渡り餅と呼んで、その餅を食べると水難を防ぐとの伝承があったりするので、水神祭りに由来する行事だと考えられている。また正月迎えのための禊祓行事に由来しているとする説もある。しかし、本県ではスベルという忌詞を重視しているのが注目される。北宇和郡広見町黒井地では、一二月に入れば人の死も「死んだ」という言葉を忌みてズベッタということであり、重要月と見る意識の強いことがわかる。すなわち、正月準備の月であるとの神聖感からである。つまり物忌み月と考えられていたのであろう。

 針供養と八日吹き

 一二月八日は針供養という。松山地方や東予地方で一般的に行われている行事である。女は針仕事を休み、折れ針をこんにゃくに突き刺し、針、物指しなどの裁縫用具をそろえて床の間でまつる。あとで折れ針を刺したこんにゃくを海や川に流した。
 松山市付近などでは、針供養には折針をこんにゃくに刺し、皿に載せて裁縫道具などとともにまつっていた。女はこの日は針仕事を休み、また夕方には赤飯や五目飯などを炊いて供えた。こんにゃく飯を炊く家もある。
 針供養を二月八日にする風もあるが、これは一般的には関東風というべきであって、関西では一二月を重んじている。すなわち、コトハジメ、コトオサメの関係であって本県では一二月八日はコトオサメと見られている。
 なお、本県の場合注目されるのは、一二月八日は「事納め」としての針供養と「八日吹き」の行事が併立してあることである。すなわち針供養を行事の第一義とするのは、東予と中予であり、南予においては「八日吹き」が第一義であって針供養という所もあるけれども、一般的にその意識は薄いと言えそうである。
 八日吹きは南予的民俗といえる。本県民俗の地域性から見て、そのように位置付けられる民俗の一つである。吹雪が必ず吹くとか、一年中の嘘を晴らす、罪落としの日とかいう伝承のある日である。南宇和郡一本松町では、セイモンバレ(誓文払)といい、商家行事があった。また一般には「八日吹き」といって馳走をしていた。必ず豆腐を食べた。
 北宇和郡松野町でもこの日は豆腐を食べる日とされた。商家では誓文払いを行い、目黒では「ふいご祭り」をした。東宇和郡野村町などでも、この日は風の吹くころで、田楽や豆腐汁を食った。また誓文払いで商家が在庫残品の大安売りをしていた。八日吹きは今も盛んで、特に商人間に行われており、この日は嘘を焼く日ということで、味噌田楽を焼き、ウソハラシを行う。それで親戚・知己を集めて酒宴を開く。同横林では、一年中の嘘を焼いて食べてしまうので、豆腐などを味噌焼きにして食べてしまうのだと説明している。
 北宇和郡吉田町では、誓文払いは一〇月二〇日で、やはり田楽豆腐を食べることになっている。それで豆腐屋は、ふだん取引上世話になっている魚屋、仕出屋などに豆腐を持参して礼を述べ、魚屋もこれに応えて魚を贈る風習があったという。しかし、大正末でこの風習は姿を消し、現在では商店街の誓文払の謝恩セールにその名残りをとどめている。
 なお、吉田町では、この夜子供らが、縄に栄螺殼を一〇個ばかり通して、引きずりながら町中を練り歩き、街の角々で「今日は誓文払い、おやじの口のはた味噌だらけ」と大声で歌っていた。これをヒコジリといったという。『宇和島吉田両藩誌』では一〇月二〇日の行事として「此日は誓文払と称す。商家にては何れも恵比須を祭り、魚鳥調へて親懇の輩を招き、饗宴を張り、商業の繁昌を祈る」と記している。また桜田某の随筆では「一二月八日誓文払、町家にて行ふ」とある。同行事でありながら、両者に日時の不一致があるのは気になることであるが、当南予地域での一般民俗としては師走八日が通用しているのである。
 以下少し資料を挙げておく。北宇和郡日吉村では、主として商人間の行事で、妄念晴しをする日だといい、八幡浜市真穴でも八日吹きは商人や事業家の行事で、ふだん一般の人から利益を取り過ぎておるため、人呼びをしてこの日みんなに振れまうのだと言う。東宇和郡城川町古市では、商人が平常嘘を言っておるその罪亡ぼしで、豆腐の味噌田楽を焼いて食うのである。それで豆腐一丁は食わねばならぬという。特に嘘を多くいった者ほどたくさん食べるのだという俗説もある。それで大洲、喜多郡では嘘を焼く日だといったり、反対にどんな嘘を言ってもよい日であると言っている。
 八日吹きの習俗は、伊予市稲荷、伊予郡砥部町、広田村、上浮穴郡などにも行われていた。この諸地域はいわゆる民俗の地域性における南予民俗圏の形成区域であって、中予民俗圏との接触点になる地域である。しかし、それはともかくとして、南予民俗を特徴づける習俗の一つであることにちがいはないのである。
 なお参考までに、西宇和郡伊方町九町の西区では稲葉様がきらわれるといって八日吹きでも田楽をつくらぬのだという。またこの日を「嘘つき祝い」とする本県と似た習俗は鳥取、島根、岡山の諸県にも分布しているのである。

 十二月十二日水

 一二月一二日に、紙に「十二月十二日水」とか「十二月十二日の水」と書いて家の柱に貼って火災除けの呪いにする風がある。南予にも中予にも見られる。
 伊予郡砥部町麻生では、この日の早朝、「十二月十二日の水」と言いながら家の庭に散水するか、家の出入口に貼って火災除けの呪いにした。

 巳正月

 一二月の初巳の日に新亡者を出した家が行う仏事で、新仏のために正月に似た儀礼を行うのでミショウガツという。いわゆる「仏の正月」であるが、タツミとか「辰巳正月」(高知・徳島・香川)という。タツミは辰の日から巳の日にかけて行事をするのでいう。ミノエ正月(高知)ともいう。本県では、ミンマ(巳午)、カンニチ(坎日)、ミノヒ、ミノヒ正月などといわれているが、一般的にはミンマとカンニチである。
 坎日は陰陽道でいう物忌日で、外出を忌む日である。従って他家訪問や外泊を忌みた。坎日のことは文学にもよく出てくる。『花鳥余情』(一条兼良著文明四年成立)に「坎日出行せざるは凡そ諸事憚る日也」とあるごとく外出を忌んだのである。『紫式部日記』にも「(寛弘六年)正月一日、かんにちなりければ、わか宮の御いただきもちゐのこととまりぬ」とか、『源氏物語』に「かんにちにもありけるを、もしたまさかにおもひゆるしたまはばあしからむ」(「夕霧」)とあるなど、平安朝文学や中世の戦記物などにも散見するのである。
 巳正月は正月を迎えるに際して、死者のために行う正月儀礼であって、一二月の初巳に行われるのが一般的習俗であるが、一部では一一月にしている例がある。しかし、行事内容は別に変わりない。
 巳正月は県下全域において行われており、特に注目されるのは東予の習俗である。東予地方では、前日の辰の日の夕方に注連縄をつくり橙をつけて仏壇を飾る。豆腐一丁(箸を立てる)に餅を供える。墓前には松一対を立て、注連飾りを張る。夜になると親戚・縁者・知人らが弔問に来る。このときの挨拶は一定の決った作法がある。杉山正世の報告(周桑郡郷土研究彙報16号)によれば、
 (一)客「今年は巳正月でお茶でもお上りますか。」
  主「ありがとうございます。」
 (二)客「思わん巳正月でございます。お茶でもお上りなさいませ。」
  主「そうでございます。」
 (三)客「今年は存じもよらん巳正月でございます。」
  主「お寒いのにご遠方をご苦労さんでございます。」
 (四)客「今年は思いもよらん○○さんの坎日でございまして、お茶でもお上りますか。」
この紋切型の挨拶は県下共通である。

 巳正月行事

 巳正月の行事はこの挨拶から始まるのである。正月行事に準じた構えかたをするのだけれども材料や仕方を本当の正月と違えている。仏の正月ということでそうしているのである。が、注連飾りは右ないで、足の数も七五三を四二五、五五三、一五三にする。つける山草(裏白)はイヌシダを用いる。墓前に門松を立てるが、松ではなくて柿や椎の木を用いたりする。注連飾りの橙を蜜柑で代用する。供物の餅は一夜がしの一臼餅である。
 巳正月は元来夜半の行事で、巳の日から午の日(辰の目から巳の日)にかけて行ってきたが、昼間に墓参しているのを最近は見かけるようになった。読経鎮霊の儀式のあと、午前零時を過ぎて巳の日になると墓参に行く。そのとき途中で人に出合っても無言である。東予地方は特にこれを厳守する慣習である。
 墓前では藁火を焚き、持参した供物の餅をあぶって食べる。しかし、その食べ方、分配法に特色がある。ふだん搗きたての餅を焼くことはタブーになっているが、それは巳正月にするからである。餅は仏と身近い者が両方から引っ張っていて、鎌か庖丁で切り、小さく切ったのを庖丁の先に突き剌して肩越しに背後から取らせる。久万町では特に左手を使うという。あるいは餅を四方から引っ張って引きちぎって取って食べる方法もある。前者は中南予地方に多い方法であり、後者は東予地方に多く見られる方法である。なお、引っ張り餅を、二人が背中合せになってやる所、墓を境いに対面してやる方法などがある。
 巳正月の儀礼はどうも餅が重要なポイントになっているようである。整理してみると①一夜がしの一臼餅、②生餅を墓前であぶる、③引っ張り餅をする、④逆手で受け取って食べる。⑤餡餅の一膳雑煮を食べるなどである。
 餅はその場で墓地で食べるのであるが、食べ残さないことである。そのまま自家に持ち帰って家族で食べる所もある。しかし、その場合は特別な作法があるのである。では、親類、縁者が辰の日の晩に集合し、草履と注連飾りを持って墓参し、餅を藁火で焼くことは他地方と同様であるが、その場では食べない。一応家に持ち帰り、囲炉裏のオカンス(茶釜)のツルの中を通して、反対側から取って食べる作法をとっている。そのとき「大きな餅、大きな餅」と言いながら食べるという。
 西宇和郡の三机や三崎、また東宇和郡城川町下遊子などでは、墓参の帰りに出会った人に引っ張り餅を別の小餅とともに接待するふうである。南宇和郡一本松町弓張では類中がもち米を持参し、それをアライガケといってすぐ水で洗い、蒸して餅に搗く。北宇和郡日吉村節安では、この墓前に供えた餅を一旦家に持ち帰り、それを箕の中に入れて庖丁で切って突き刺したまま人に食べさせる。なおこれは餅に関係ないが、南宇和郡内海村の柏や魚神山では、類中から死者が男なら弓、女なら手まりを貰い、それを竹につけて取り合いをする。墓前にも立てるので他人も墓に行ってそれを取る。これは南予地方の巳正月の特色とも言える。
 とにかく巳午の餅には変った儀礼が伴っており、かつ餅には夏病み除けの呪力もあると言われている。また引っ張り餅の風習は、それを見て仏が笑うからだとの伝承説明が各地でなされているが、単純な伝承だけれども、案外巳正月の真意を物語っている伝承かとも思う。
 なお、さきに餡餅のことを言ったが、正月の祝餅は餡なしが正式である。しかし巳正月の餅は餡入餅が用いられる(内海村網代)のが一般である。周桑郡地方では墓参後、餡餅一個を里芋一つが入った一杯限りの雑煮を食べてから散会することになっている。

 臼直し

 巳正月の翌日、すなわちウマ(午)の日をウスナオシという。これは巳正月をしなかった家、つまり死者を出していない家から「おうまさんの餅」というのを搗き、これを巳正月の家へ贈るのである。石鎚山村ではそれをウスナオシといい、午団子を搗いて「来年からウマをお祝いなさい」と言って贈る風習なのである。川之江市金田町でも「ウマの日祝い」と称して、近所や親戚の者が赤飯・うどんなどを持って行く。これも昔は餅であったという。西条市付近でもこの贈答の餅を「ウマの祝い」といっているのである。
 その他、坎日でない家が返礼に招待する所がある。豆を炒って祝う所もある。野村町では三重餅を搗いて配り、瀬戸町三机では塩餡の大餅を配るということである。
 以上、巳正月の翌日、ウマの日に巳正月をしなかった家からウマ祝いの贈をする習俗があることを見たのであるが、これはどういう意味なのであろうか。
 巳正月には発生理由を説いた伝説がある。もちろん付会であって巳正月の歴史的解明にならない伝説である。そして、巳正月は四国四県に特徴的な民俗の一つであるが、類似の習俗は他県にもある。佐渡では一二月一三日の晩をハカネンブツ、宇治山田市では一二月末にイワイマクリをする。長野県にはアラドシといい、新仏を年末にまつる風がある。
 巳正月の習俗には、この日だけの特異伝承行為がなされることは既に見てきたとおりである。これら習俗はいずれも死の忌からの絶縁行為と見ることができ、その呪法であったと解される。すなわち、新年を目前にして、死穢を来年に持ち越すことはできないのである。それには死者に正月を迎えて年を改め、喪から解放されて平常の生活に復帰しておくことが必要である。すなわち、オウマサンやウスナオシの習俗は、その忌晴れの祝いであることが知られ、これがまた年中行事としての巳正月の目的であったのである。

 果ての二十日
       
一二月二〇日をハテノハツカという。ミテノハツカともいう。温泉郡中島町津和地で、昔、罪人などの打首をした日だといわれ、最悪日であるから山などへは行かなかった。同町怒和では、山に入ること、船を出すこと、着物を仕立てるなどの行為を禁止している。同町大浦では、二十日は山の神の出てくる日だからそれに行き当るとづしにあたり、病気になるといっている。
 東宇和郡では、山で死んだ人があるから入らないのだといっている。それで山で死者を出した家では、川へ供える習慣だという。一般に月の二十日は山の神の祭日であるので、それに由来しているらしいのである。

 歳の市

 年末に立つ市で、師走の市、節季の市などと呼ばれ、正月に必要な必需品を購入するための重要な市であった。現在でも歳の市と称して年末大売出しをしているが、これはその名残りである。
 盆前には盆市が立ったように、正月前には歳の市が立っていた。それは地域による中心的な市があって、人びとは各方面からそこへ集中して行ったのである。それでたいていその地名をとって市の名称としていた。このことについては本書『民俗上』(第三章交易)で述べた。それでここではつぎのことを補足するにとどめたい。
 『上浮穴農林業史』によれば、「小田町では、旧暦一二月二九日、市が開かれていた。この小田市には山仕事に使うホゴロをかついで買い出しに行く者が多かったので、ホゴロ市の別名がある。この市には久万方面から金物屋、茶碗屋、おもちゃ屋、食料品屋など多く集まり、非常に盛んであった。人びとはこの小田市で塩鯖、ザラメ、こうじ、みかんなどの食料品や皿、茶碗、反物などを買い調え、正月迎えの準備をした。小田市で買い物をすると風邪をひかないと言われていた。小田地区の人びとにとってホゴロ市に行くことは、新しい年を迎えるための必要条件でもあった」のである。