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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

三 進取と保守の風土

 文化・県民性からみた愛媛の風土

 地名は、元来その土地のようすを語るものであった。同時に生活文化の凝集したものでもあり、個々の地名を分析することは、土地の顔をよりはっきりさせることが多く、先人が残した歴史解明の一里塚とも言えよう。北条平野はかつて風早平野とも称されていた。風早は隣接する和気との対比から「風」が「早(速)い」の意あるいは風=潮のことで潮流が早い所の意ともされてきた。しかし、近年の地名研究では、風速の名付け親は行動半径の大きい舟行の民であり、かつ海浜の民としての風速氏ではなかったかとしている。巧みに風を読みっつ、機敏・迅速に海を渡り行く彼ら自身の行動とその心意気を象徴して、肌身に合った「氏」の名前として誇りをもって風速の姓は受け入れられていったものであろう。これにみられるように、愛媛県の場合、その地理的関係から海とのかかわりを示す地名が非常に多いのが特徴的である。
 陸の地名に対して、海に生きる人々は、重要な生活関連事項である風に対して愛着をもって名を与えた。例えば冬の北西季節風に付けられた名をみると、瀬戸内海ではこれをアナジ(アナゼ)と呼んでいる。アナジ(アナゼ)の使用範囲は和歌山県・兵庫県までであり、それ以東の日本海岸ではタマカゼ(タバカゼ)が使われ、東日本の太平洋岸ではナライが使われている。他の風名についても同様の分布形態が多くみられ、それは奇しくも釣針の丸型、角型、長型の分布形態と一致しており、海の文化の特異性がよく表されている。
 文化の地域差について、最も詳しく調べられているものとしては方言や姓名がある。従来、我が国の文化は、一般には東と西の違いとしてとらえられてきた。しかし、近年、西日本文化圏の中にさらに独得の瀬戸内文化圏が存在するとする見方が強くなっている。県内の方言分布についても、東中予方言域や南予方言域にあてはまらない独得の瀬戸内海島しょ方言域が存在することが知られている。文化圏は峠となって人の往来を制限することが多く、姓名の分布においても東日本と西日本の違いは顕著であるが、愛媛県内においてもこうした現象はみられる。歴史的・地理的に特異な環境にあった越智・上島諸島の姓をみると(表2)、大三島と魚島を除いてはすべて「村上」が最も多くなっている。「村上」は全国的には四〇番であまり多くないが、県内では六番目に多い姓であり、中世に越智・上島諸島を中心に活躍した村上三島水軍の影響の強さをよく表している。同時に、大三島では大山積神社の権力が圧倒的に強かったため、「村上」の侵入が容易でなかったことも表されている。また、大三島町と上浦町、吉海町と宮窪町のように同一島内にある二つの町については、二位、三位の姓にも共通性はみられるが、他の島では二位、三位の姓がいずれも異なっており、島の特徴をより一層強く示す姓が現れている。文化及び文化圏の重層的構造を考える上で興味深い姓名分布であると言える。なお、県内の姓では「村上」とともに「越智」(「越智」は県内では四番目に多い姓であるが、全国では二〇〇番以内には見当たらない)が特有なものであろう。
 瀬戸内文化圏という考え方は、溜池灌漑などの農業技術や食生活などを総合的に分析することによって導き出されてくるものである。この文化圏が成立した要因はいくつか考えることができるが、その一つは、大陸の文化が瀬戸内海を通って入ってくる過程で、それが沿岸や島しょ部に定着し、さらにそれが海に生きる人々と里に生きる人々との交流によって変質していったとするものである。瀬戸内海の島し大部や沿岸を中心とする「早ずし・うどん食文化圏」などはこの典型的なものであると言えよう。
 愛媛の風土を総体的に表現すれば次のようになろう。「子規を生み、漱石の『坊っちゃん』で親しまれた松山が愛媛県の県庁所在地である。温暖な瀬戸内海の南側にあって、寒くもなく暑すぎもしない。四国山脈を背負っているので南予を除くと台風の被害も少ない。まず日本の多くの県のうちでも、住みよい県の一つであろう。こうした温暖な地方の人はおとなしいので定評がある。……総じて恵まれた土地柄であり、この地に生まれ、育った人物も多士済々。まず子規、碧梧桐などの俳人。学者では穂積重遠、矢内原忠雄もこの県の人だ。井上正夫、森律子などの俳優もおり、『肉弾』で有名な桜井忠温のような軍人もいる。」(『新風土記―愛媛県』)、俳人高浜虚子、軍人秋山好古・真之兄弟、大審院長児島惟謙も愛媛県を代表する人物である。
 明治維新の際、伊予は勤皇派であった長州と土佐の谷間にあった。この事実は、その後愛媛県人の活躍する分野をも決定づけた。当時の政界は要職のほとんどが薩摩・長州・土佐の出身者で占められており、伊予人の入る余地はなかったと言える。愛媛県を代表する人物をみた場合、ほとんどが文化人・学者・軍人であり、政治家が見当たらないのは、維新当時のこうした影響のあらわれであり、この傾向は今日までも続いているといえる。
 江戸末期の動乱期に、政治体制の改革を主張する、いわゆる世直し大名がいた藩は薩摩・土佐・長州、そして越前福井などであった。薩摩と土佐の産物は豊後水道を通り、長州や福井の産物は瀬戸内海を通った。幕末の知識・情報はこの海を通ったわけであり、豊後水道は「革新の海」であったと言うことができる。そして、その要に位置していたのが宇和島であった。「天下の四賢侯」の一人に数えられた宇和島藩主伊達宗城によって触発された伊予の進取の気性は明治時代にも引き継がれていった。
 第一に県議会があげられよう。当時は特設県会と呼ばれていたが、明治一〇年全国にさきがけてこれを開いたのが愛媛県であった。第二は当時のハイテクであった軽便鉄道がある。明治二一年伊予鉄道が松山と三津間に全国で初めて軽便鉄道を走らせた。第三に、水力発電所が日本で二番目にできたのも愛媛県であり、明治三五年に完成した湯山第一発電所がそれである。さらに、忘れてはならないのが、『虹の翼』の主人公として知られる二宮忠八の業績であろう。彼は独学で航空力学の原理を発見し、明治二四年ライト兄弟にさきがけて四枚羽プロペラ飛行機の飛行実験に成功するという偉業を成し遂げ、伊予人の進取の気性を天下に示した。
 陸海軍の近代戦略戦術を確立し、情報に徹した秋山好古・真之兄弟、そして俳句と短歌の世界で近代文学を確立し、情緒に徹した正岡子規、あるいは先端技術の開発に打ち込んだ二宮忠八など、これが愛媛県の先人である。伊予水軍の消滅以来、三〇〇年もの長い間抑え込まれていた伊予の伝統精神である進取の気性は、明治維新の伊達宗城、そして明治時代のこれらの人々によって完全に復活したということができよう。さらに特筆すべきは、明治維新という大改革の時期にソフトランディング(軟着陸)に成功したのは愛媛県であったということである。高知県・山口県・徳島県などではすさまじい抗争に揺れ動き、明治維新にソフトランディングできなかった。ソフトランディングの県ということに加えて、当初の岩村県政が愛媛県のメンタリティに与えた影響はきわめて大きいものがあった。八年にわたる岩村県政は県民とともに歩んだものであり、その卓越した進歩的な行政は県民に強い信頼感を与えた。〝行政は信頼できるもの〟という気持ちを県民の間に定着させた岩村の功績はまことに大きいと言わざるを得ない。
 風土と歴史は県民性を決定づけるとまで言われる。『愛媛県史』の総括監修者である歴史学者の大石慎三郎は、「伊予は徳川三〇〇年の頭としっぽを他藩に占領されてはいるが、(注・頭は土佐の長曽我部、九州大友の進攻、シッポは幕末での長州及び土佐藩の進駐をさしている)その間は非常に平穏な時代が続いた。その上自然に恵まれ気候温暖で災害も少なく、生産力も高く生活もゆたかであっただけでなく、藩政時代の次の特色が考えられる。それは、……(中略)八藩中四藩(今治・松山・大洲・宇和島)は立派な天主閣をもっていたということ、城や天守閣は権力や圧政の象徴と見られることも多いが、城下住民の心の古里、誇りの源となる。それが人びとの精神を安定させ、その積み上げが伊予人の多くを平和で穏やかな気性に作り上げた原因の一つとなっている。」(『近世伊予文化』)と伊予人の平和愛好気質の形成を述べている。
 伊予の人の気質については、古くから東予人・中予人・南予人という三予人の言葉で気質の違いがとらえられてきた。文献に表れた記述を基に、三予人の気質を紹介しよう。
 『坂の上の雲』(司馬遼太郎著)では、「伊予の松山は気候温和で、温泉があり、すべてに駘蕩しているから、自然、ひとに戦闘心が薄い」と述べるとともに、「松山からは武人でありながら文筆にすぐれた人物が輩出し」、「秋山兄弟の明るい性格は、瀬戸内の温暖な風土が強く影響している。」と指摘している。吉田町を舞台にした『南国抄』(丹羽文雄著)では、「気候温和、人情純朴というのが誇張であるなら、こすっからい人間になろうとしても、歴史と風土に抑えられて、思い切った悪党にはなりかねるところである。生活が激しく動いていないので、野心の宿る場所がない。」とし、津島町を舞台にした『てんやわんや』(獅子文六著)では、「ガツガツする風もなく」、「一体に温和で関東地方のように虚勢を張ることがない代りに、一度激発したとなると、南国の血は争われぬものがある。」と温和だが激しさを秘めた南予気質を述べている。また、『四国開発の先覚者とその偉業』(渡辺茂雄著)では、今治を中心とする地域の人々の気質について、「こんにち盛業を続けつつある今治綿業繁栄の跡をたどってみると、先覚者はもちろん地域の人々の心の底ふかくには、かつて伊予水軍として勇名をはせた海の雄者の積極的な血が流れ、さらには明治初年、はやくも伝道されたキリスト教による愛の精神が、知らず知らずのあいだに培われてきたことがうかがえる。」と述べている。さらに、『新人国記』(朝日新聞社)では、三予人の気質の違いについて、「かりに昔の金の一万円があるとしよう。東予人は商売につぎ込んであの手この手で二万円、三万円にふやそうとする。中予人は銀行に預けて利子で温泉にはいったり俳句をひねろうと思う。南予人ならば思い切って大散財して、また一万円もうければよいと考える。……とさる銀行家が表現したそうだが、伊予人の通ったあとは草もはえぬとの昔の言伝えは、この東予人のなかの商売上手にささげられた言葉らしい。」と記している。
 文化人類学的な視点によって著された『県民性』(祖父江孝男著)の中でも、「中予は学者的・文人肌的なところがあってのんびりしているが、排他的。南予のほうはのんびりの程度も大きくなって豪放なところもあるが、人はよいようでいてよくない、などと言われたりする。そして東予となると、金銭に細かく、どこかこすっからいところがある。しかしきわめて勤勉で粘り強いと言われている。」と地域差をあげている。
 愛媛県人の性格を全国と対比してみると、「同調性」や「粘着性」傾向は強く、「ヒステリー」や「神経質」傾向は弱い。宮城音弥は、「愛媛県は躁欝質のほとんどすべての見本を提供する」と述べている。これによると、愛媛県民の性格は、朗らかで生き生きとしている「陽気型」、よく働き仕事を楽しむ「活動型」、機嫌がよくもの静かな「温和型」が多いとしている。また、県民性調査プロジェクトチームの報告によれば、「県外からみた県民像」として、県内在住の他県人あるいは県外にいる愛媛県人が、愛媛県民の性格をどのようにみているかを分析しており、愛媛県民の性格は一般に「明るく、親切、温和で、情に厚く、やや楽天的であるが、勤勉で、素朴さがあり、保守的な傾向がある」としている。また、自由に記述してもらった内容を分析すると、「他県の人と比べ、性格が温和で言葉もやわらかく、人あたりが良く、連帯意識も強いとみる反面、気候が温和で、生活が容易なためか、東北・裏日本出身の人に比べると強さやねばりに欠ける」という見方をしている人が多い。一方、「微妙な四季の変化に恵まれ、さしたる天災もなく、自然との調和の中で形成された明るさを持っているとともに、平野に乏しく、長い海岸線に多くの人が居住していることは、外に向かってのフロンティア精神に富む解放さをも持っている」とする見方も少なくない。
 愛媛県では、昭和六二年一一月県内二〇歳以上の男女二、五〇〇人からアンケートを求めた「生活文化県民意識調査」を公表した。そのなかで、愛媛県人は「温和で親切であり、堅実」とのイメージが持たれており、「伝統を尊重する」「美しいものを尊ぶ」など、古くからある文化や芸術を大切にするという意識が強い。昔からある伝統行事・しきたり、といった事を逸脱せず、個人を主張しない保守的な面、家庭やコミュニティを大切にする温厚で人情に厚い面など、これまで一般に指摘されてきた愛媛県人の特質は、全体としてこの調査でも認められている。反面、過去の海の雄者の歴史と外に向かってのフロンティア精神に富んだ先人の足跡に習って、「積極性、創造性」があるという意識も五〇代以上の高年齢層の間にはあり、それを若者に求める願望がくみ取られる。
 「他県の人に、愛媛県を紹介する場合、自慢できるのはどのようなことですか。」との問いに対しての答えでは、表11-3に示しているように、「みかん・伊予柑」に代表される〝農産物〟、「道後温泉」などの〝観光名所〟「温暖で穏やかな気候」「石鎚山」「瀬戸内海」「宇和海」などの〝豊かな自然″が愛媛県民の自慢となっている。愛媛の文化に関しては、「正岡子規」「坊っちゃん」などの「俳句・文学」のイメージが強く、「教育正常県・教育水準の高さ」などが目につく。また別の調査項目では、県民の二人に一人は〝愛媛県人″意識を持ち、その大半は〝愛媛県人〟であることを誇りとしている。県が推進している「生活文化県政」は、こうした県民意識や生活志向に基づいて、〝地域づくり〟〝人づくり〟〝産業づくり″に幅広い施策を実行しようとしている。

 県勢からみた愛媛の風土

 伊予の国は、明治四年(一八七一)の廃藩置県の際、一部の地域が岡山の倉敷県に属したが、やがてそれまでの伊予国内の八藩は、そのまま八県となった。間もなく松山・今治・小松・西条の四県を合わせて松山県に、宇和島・吉田・大洲・新谷の四県を合わせて宇和島県になった。同五年に人々の気持ちを一新する意味からも松山・宇和島の県名を、それぞれの県域内の名山にちなんで石鐵(鉄)県・神山県に改め、翌年に両県を合併して愛媛県が誕生した。さらに、明治九年には香川県と合併して大きい愛媛県が生まれた。この大きい愛媛県は、一二年後の明治二一年に香川県が再び独立するまで続いた。その後の県領域は、現在まで変わっていない。
 愛媛県の昭和六〇年の人口は、一五三万人(全国二七位)で、四国の三六・二%を占め他の三県を大きく上回っている。その推移についてみると、藩政後期の人口は五〇万から六〇万人と推定される。明治に入って幕藩体制の解除とともに急増し、明治五年に七七万六千人、同一〇年に八〇万人、同三二年に一〇〇万人を突破した。一五〇万人を超えたのは、太平洋戦争後の昭和二四年(一九四九)である。人口動態は、明治・大正時代から昭和三一年まで増加を続け、昭和三二年から同四五年まで減少し、翌四六年から再び増加に向かっている。人口密度については、二七〇人(昭和六〇年)と全国平均三二五人と比べると低いが、総面積の八〇%が山地で、平地が二〇%であることから可住地面積当たり九三八人となり、多くの人口を養っていることが分かる。産業別の就業人口(昭和六〇年)は、第一次産業一六・七%(全国九・三%)、第二次産業三〇・二%(同三三・一%)、第三次産業五三・〇%(同五七・三%)で、全国平均と比べて第一次産業の比率が高く、まだ多分に農業県的色彩を残している。大正期から太平洋戦争までは、多少の変動を示しながらも第一次産業が約六〇%、第二次産業が約二〇%、第三次産業が約二〇%となっており六対二対二の割合であった。この割合も昭和三五年ころからの高度経済成長期をはさみ、第二・三次産業の発展によって変化していった。
 産業構造の変化に伴って都市の発達もめざましく、明治二二年に松山一市で四%に過ぎなかった都市人口も、昭和二八年の町村合併促進法、同三一年の新市町村建設促進法の施行に伴う町村合併の推進によって、市部が四八%、郡部が五二%になった。昭和六〇年の割合は、市部七〇%、郡部三〇%になっている。現在、中核都市を核とした「宇摩地方生活経済圏」(川之江・伊予三島市中心)、「新居浜・西条地方生活経済圏」、「今治地方生活経済圏」、「松山地方生活経済圏」、「八幡浜・大洲地方生活経済圏」、「宇和島地方生活経済圏」の六つの地方生活経済圏にもとづいた地域開発が進められ、住みよい環境づくりを行っている。なかでも愛媛テクノポリスは、松山市を母体に松山地域と新居浜・西条地域の六市六町を圏域として、技術立県確立の中核拠点となるもので、「産」「学」「住」さらに「遊」(ゆとり)の機能を加えた「創造的風土づくり」を目指している。
 愛媛県の産業の主流は、明治初期から太平洋戦争前まで米・麦類であり、農業総生産額の五〇%以上を占めていた。しかし、戦後は稲作の減反、裏作の減少や輸入小麦の増加、食生活の変化などによって、その比率は二〇%(昭和六〇年)にまで減少している。本県の農業の特色は、古くから傾斜地の利用が盛んで、商品生産農業的色彩に富んでいた。戦前における楮、三椏、櫨、除虫菊、桑などの工芸産物や果樹及び養蚕は、その代表的なものである。時代の波によって衰退せざるをえなかった作物の一つとして、内子町を中心に櫨の実を原料にした製蝋がある。最盛期には全国の四〇%を生産していたが、電灯の普及、パラフィンなど化学合成品の進出によって急速に衰えていった。最盛期の面影は、日本の代表的な〝町並
み〟として残され、多くの観光客を集めている。また、蚊取線香の原料として芸予諸島を中心に栽培されていた除虫菊は、最盛期の昭和一〇年ころには一、〇〇〇㌶を超え、北海道に次いで広島・岡山県と競う多産地であった。その大部分はアメリカに輸出されていたが、太平洋戦争中の食料増産、DDTの発明などによって、やがて柑橘栽培に転換していった。
 明治以来今日まで、本県の傾斜地を豊かに色どってきたものに柑橘の栽培がある。昭和六〇年の農業粗生産額においては、第一位が果樹三二・一%、第二位が畜産二七・五%となっている。特に温州みかんは、全国第一位(全国の一三・二%、昭和六〇年)の生産額を誇っている。その他、全国第一位のものとして、ネーブルオレンジや伊予かん、全国第二位のものとして、夏かんやはっさくなどがある。まさに本県の柑橘生産は全国一といえる。しかし、このような地位を築くにあたっては、先人の努力を忘れてはならない。南予のみかん栽培を例にとると、その発祥地は吉田町立間であり、明治末期には全国屈指のみかん産地になっていた。その後、索道の動力化、モノレールやワックス処理などを全国に先がけて採用し、立間方式という農業法人も生み出している。「耕して天にいたる」といわれたこの段畑地域は、昭和三五年ころを境に甘藷と麦の栽培にかわってみかん園に転換していった。また同四五年ころからは「ハウスミカン」を栽培しはじめ、みかんの早期出荷に夢を託している。しかし、過剰生産のうえ、アメリカのグレープフルーツにはじまる農産物輸入自由化の波はオレンジにも波及している。今後は、適地適作とともに、量から質への転換など抜本的対策を講ずることが必要であろう。
 柑橘栽培とともに愛媛県を全国の雄県に位置づけているものに水産業がある。本県の水産業は、遠浅で波静かな瀬戸内海と深くて出入りに富む宇和海に大きく二分される漁場をもっている。島々や半島の変化にも富み、漁種も多く、古くからさまざまな漁法も行われてきた。その代表的なものとして、藩政時代から瀬戸内海のたい網漁業、宇和海のいわし網漁業がある。昭和四年にはじまる蓄電式集魚灯を用いたいわし網漁業は、わが国漁業史上宇和海がその幕あけであり、その普及・発達も全国一であった。浦々には、かつての大網主の邸宅跡をみることができる。この漁業のほか、リアス式海岸を根拠地として、トロール漁業、まぐろ漁業、かつお一本釣なども盛んである。また、冬の温かい水温と波静かな入江を利用して〝とる漁業からつくる漁業〟への発展もめざましい。その一つである真珠養殖は、昭和三〇年以降、伊勢湾にかわる新天地として開発され、真珠母貝養殖という新しい漁業形態も生まれた。昭和六〇年の真珠浜揚量は、一万七、七〇〇キログラムで、三重・長崎県とともに日本三大産地の一つに成長している。真珠は、海外ではほとんど養殖されていないため、〝世界一の産地〟と言える。昭和三五年ころからは、はまち養殖も急速に発展し、昭和六〇年の海面養殖〈ぶり類〉の収穫量においては全国の二四%を占め、第一位となっている。「伊予の活はまち」と呼ばれ、高級品をめざした二年魚飼育のぶり養殖を中心に、市場も京阪神方面から関東・北陸・東北まで広範囲にわたっている。真珠・はまち養殖の好況は、過疎化しつつあった地域にとって、若者の定着とUターンをもたらした。宇和海沿岸部は、今日、マリノベーションの地域指定を契機に、海の生産技術革新を目指しつつ、日本一の養殖漁業地帯を形成しようとしている。
 鉱・工業の原料・製品を含めて本県には、塩・銅・絣・タオルなど特産物としてわが国の主要な地位にあったものも少なくない。瀬戸内海沿岸は、年降水量一、〇〇〇ミリメートルから一、六〇〇ミリメートルにすぎない寡雨地帯であるため、古くから「十州塩田」の一つとして知られていた。伊予国には、芸予諸島はもとより、多喜浜・波止浜など遠浅の海岸に大塩田が点在し、なかでも弓削島は中世の塩の荘園であった。製塩法も自然条件を生かした入浜式から枝条架による流下式へと技術革新をはかり、急速に発展した。しかし、塩田のいらないイオン交換樹脂膜法や安い輸入塩によって、昭和三四年その姿を消した。広い塩田跡は、埋め立てが容易なため臨海工業地帯へと新たな愛媛の活力に生まれ変わった。元禄四年(一六九一)に開坑された別子銅山は、大正元年には二〇万㌧の生産量をあげ、わが国三大銅山の一つに数えられ、住友発展の基礎を築いた。しかし、鉱石の枯渇と安価な銅鉱石の輸入によって、昭和四八年に閉山した。鉱山をもとに成長した住友コンビナートは、軽薄短小時代と言われる今もなお新居浜の経済を支えている。藩政期の伊予縞に起源をもつ伊予絣は、松山地方を中心に生産され、明治期には睦月島の行商人によって西日本一帯に販路を拡大した。こうした伊予商人の開拓努力の結果、大正一五年には久留米絣を抜いて全国一の生産高をあげるまでに発展した。しかし、世界恐慌の波と類似織物の出現や農村の小学生が洋
服を制服にするようになって徐々に減少し、今日では、わずかに手作り民芸品として活路を見出している程度である。時代が推移する中にあって、地域に育ち今もその地位を築いているものに今治地方のタオルがある。すでに大正一〇年には、大阪に次いで全国生産の三四%を占めており、太平洋戦争後もいち早く工場や機械を一新し、昭和三〇年には大阪を抜いて全国第一位の地位についた。西洋手拭いと呼ばれたタオルを、バスタオル、おしぼり、敷布などに利用範囲を広げ、さらに〝タオルケット〟という新商品を開発することによって、全国生産の六〇%を占める日本一のタオル産地になった。本県の近代工業は、瀬戸内海の海上輸送と沿岸を埋め立てた広大な工業用地に恵まれ、昭和三〇年から四〇年の前半にかけて重化学工業を中心に急速な発展をとげた。特に東予新産業都市や松山臨海工業地帯は脚光を浴び、わが国の重要な工業地帯の一角を占めていた。その代表的なものとして、川之江・伊予三島のパルプ・製紙工業、新居浜の化学・金属・機械工業、今治の繊維・造船工業、松山の繊維・精油・化学・機械工業などがある。これら本県を支えている主要工業は、地方型の素材中心の工業であるため、日本経済が成熟化・国際化する流れのなかで、加工型化・先端工業型化などの再建・改造の険しい道を歩むことが緊急に必要となってきている。産業構造の高度化・ソフト化に対応するため、すでに都市型の組立加工を中心にした工業も次第に導入されつつあり、愛媛の工業も大きく変貌しようとしている。
 愛媛県が「海運王国」といわれている要因は、瀬戸内海と宇和海(豊後水道)に面し、その対外交通における海上依存度の大きさ、海上ルートの多様さが海運業の発達を促したといえる。物資の輸送においては、古くは今治築城に起源をもつ石船のほか塩船・牛船などがあり、大正初期からは九州の石炭を輸送する石炭船、新居浜の銅を運ぶ鉱石船などが、瀬戸内海を縦横に走っていた。これらの機帆船は、日清戦争後、二本マストの西洋型帆船として作られたものであり、太平洋戦争後の昭和二〇年代には全国第一位の機帆船所有県となった。その多くは、一隻の鋼船を所有するIぱい船主で、経営形態は身内による役員構成をとり、船員労働も身内でまとめる傾向が強いなど、共同体的な経営がほとんどである。「春潮や和寇の子孫汝と我」(高浜虚子)の句に、その活躍がしのばれる。定期航路としての発達は、明治一七年大阪商船会社によって、大阪を起点として瀬戸内海を中心とする一八航路の運航が開始されてからである。その航路の一例をとると、寄港地は、神戸―多度津―今治―三津浜―長浜―別府―大分―佐賀関―八幡浜―宇和島の順である。それまで宇和島―阪神の舟運は、いわゆる千石船であり、往復に三〇日から五〇日かかった。芸予航路の定期航海は、明治二三年に三津浜―音戸―呉―宇品間が開設された。豊後水道側では、明治二八年に八幡浜―三崎航路が、大正になると別府航路が開設された。戦後の混乱期を経て、わが国経済の高度成長期に入ると、陸上輸送の自動車化に伴うフェリーの就航という海上輸送の技術形態の変化が起こった。本県でも昭和三八年、波方―竹原間にフェリーが就航し、同四〇年代になると大型フェリーによる中長距離航路(今治―神戸、神戸―松山―大分など)が開かれた。また、高速化の傾向も強まり、瀬戸内海の各港は、現在水中翼船・小型高速艇によって縦横に結ばれている。
 本県は、鉄道の普及においては、四国地方も含めて、国内で最も遅れた地域であった。しかし、このことは全国的なネットワークに結びつくのが遅かったということであって、地方鉄道の歴史においては、むしろ先進地域である。松山に全国で三番目の私鉄会社として伊予鉄道が設立され、明治二一年松山―三津浜間に全国で初めての軽便鉄道を走らせている。また、大正三年には宇和島鉄道によって宇和島―近永間、同七年には愛媛鉄道によって大洲―長浜間の部分開業をみている。これに対して、県都としては日本で最も遅れて松山に国鉄が開通したのは、実に昭和二年(一九二七)、そして「予讃線」のレールが宇和島まで全通したのは昭和二〇年のことである。昭和三〇年代以降のモータリゼーションは、幹線国道の整備を促し、国道一一号・五六号がほぼ海岸沿いに四国を一周し、三三号・一九七号が四国山地を横断して、それぞれ東西及び南北方向の交通の流れをさばいている。これらと結ぶ大動脈である四国縦貫自動車道(徳島市―大洲市間)、四国横断自動車道(高松市―須崎市間)の完成が待たれる。交通高速化の進展は、国内交通の主役を海上から陸上に変えており、離島である四国地方にとっては、本土との橋による直結と島内交通の高速化が四国島民の悲願であるとともに緊急の課題となっている。
 二一世紀を迎えるにあたって、地域の共生と連帯という新たな発想の中で生まれたものに「西瀬戸経済圏構想」がある。西瀬戸経済圏は、中央の瀬戸内海を囲むように北側に福岡・山口・広島の各県、南側に愛媛・高知県、西側に大分・宮崎県が位置している。この圏域の基幹交通体系の整備は、地域発展の根幹であって、その一つが本州四国連絡橋の架橋である。芸予諸島を通る瀬戸内海大橋(今治―尾道ルート)は、今治と尾道の間約六〇キロメートルのうち九・三キロメートルの海峡に一〇の橋をかける計画である。この工事は昭和五〇年(一九七五)から始められ、すでに大三島橋、因島大橋(広島県側)、伯方・大島大橋が完成し、工事中の生口橋、着工の決定した来島第一~第三大橋と続き、多々羅大橋と結ばれ南北のルートができあがる。すべての橋が完成し、島と本土や四国が結ばれれば、離島の不便さも解消される。さらに近畿と九州を結ぶ通路(東西ルート)としての性格が強かった圏域の性格が一変し、経済的にも文化的にも、核心をもった自主性のある地域への変容が期待される。今また、大分県と共同して、九・四海底トンネルの経済調査へと発展しようとしている。
 多様な姿をみせる愛媛の風土は、その地域の個性を生かして人々を深くつつみ、精神的な安らぎと結びつきを与え、ロマンの舞台となっている。その代表的なものの一つに、四国八十八ケ所の遍路道がある。その道は、寺と寺を結んだ道であるとともに生活の道でもある。春の大島(吉海町)には、四国八十八ケ所巡りのミニ版「島四国」の行事があり、大縁日には全国でも珍しい〝善根宿〟と呼ばれる風習が続いている。また、本県の背骨である四国山地の恵みも豊かである。「忘れては 富士かとぞ思う これやこの 伊予の高嶺の 雪のあけぼの」と西行法師が詠んだ西日本一の高峰石鎚山は、日本七霊山の一つで、山岳宗教のメッカとして栄え、「お山開き」には全国各地から白装束に身を固めた十数万人の信者が登っている。山地より流れる河川を利用した行事も盛んで、五十崎町の小田川河畔では特産の和紙を使った「凧合戦」(日本三大凧合戦)、大洲の肱川では屋形船での「鵜飼い」、宇和島の須賀川では和霊大祭での「走り込み」、西条の加茂川では豪華絢爛の「ダンジリ」などが地域をいろどっている。また、春を告げる松山の椿祭り、秋祭りでの新居浜太鼓台かきくらべなど各地で四季折々にくりひろげられる伝統行事は、人々の心に潤いと活力を与えている。ふるさと愛媛の創造に向かって、今ほど〝人づくり〟〝地域づくり〟の強力な推進が重要視されている時はないと言えよう。

表1-2 越智・上島諸島の「姓」

表1-2 越智・上島諸島の「姓」


表1-3 愛媛県で自慢できること(地域別)

表1-3 愛媛県で自慢できること(地域別)