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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

三 近代化の推進

 好 学 の 気 風《藩校設立と儒学の発展》

 江戸時代に学問が本格的に奨励されるようになったのは五代将軍徳川綱吉の時期であった。綱吉は朱子学の林家の聖堂を上野忍岡から湯島に移し、林家に大学頭を世襲させることにしてからである。幕府のこうした政策は諸藩にも踏襲され、藩主たちは争って儒学者を招へいし、各地に藩校が建設された。
 藩校は文武両道を修業させる目的で設立されたものであり、文に関する部分は藩学である。藩学の最初は岡山藩の花畠教場で、以後明治維新ころまでに二五〇校以上が設立された。伊予では大洲藩の止善書院明倫堂が最も古く延享四年(一七四七)の設立である。翌寛延元年には宇和島藩の内徳館(敷教館を経て明倫館)、天明三年には新谷藩の求道軒、寛政六年には吉田藩の時観堂、享和二年には小松藩の培達校(のち養正館)と続き、松山藩の興徳館(修来館を経て明教館)、今治藩の講書場(のち克明館)、西条藩の択善堂は文化二年ころの設立である。外様諸藩に比べて親藩・家門諸藩(徳川氏一族の諸大名)の対応が遅い。
 こうした藩校の設立の背景となるのは好学の藩主の出現か、もしくは卓越した学者の輩出である。大洲藩の藩学設立は全国で二八番目という早さであるが、すでに藩の成立当初に藩士として在籍した中江藤樹の存在を忘れてはならない。藩学設立の年は藤樹百年忌に当たる。陽明学者川田雄琴の強い要望と、彼に教化された一般庶民の献金もあり、官民一致協力の結晶ともいうべきものであった。
 徳川吉宗の洋学(蘭学)導入にいち早く反応したのは大洲藩の医者鎌田政信と鎌田良球の二人である。のちに出た松山藩医青地快庵の子林宗は『気海観瀾』を著した。これは我が国初の体系的物理学書として知られる。
 大洲藩に次いで藩学を設立し安藤陽州らに指導させた宇和島藩では、五代藩主村候の時代学問奨励の方針が採られ、蘭医学を志す者に対して遊学奨励給費制度が元文三年(一七三八)には確立されていた。小松藩は外様小藩であったが、三代藩主一柳頼徳は好学で知られ、儒学ばかりでなく老荘の学にまで及んだという。以後の藩主も好学であり、こうした人的土壌があったから七代頼親の時代家老竹鼻正脩は、尾藤二洲の高弟近藤篤山を賓師待遇で招くことを提案した。養正館教授となった篤山は藩校で教授するかたわ
ら私塾で藩外から来る者にも教育を施し、「伊予聖人」と称されるに至った。西条藩校択善堂教授となった三品容斎は彼の実弟である。
 松山藩の藩校明教館設立は他の藩に遅れをとったが、藩主が儒学の重要性を認識したのは比較的早く、四代定直が大高坂芝山(貞享二年)・大山為起(元禄初期)・大月履斎(元禄こら)を積極的に召し抱え
たことでも知られる。藩校設立ころの儒学者として知られるのは杉山熊台、次いで日下伯巌・高橋復斎らが出た。
 宇和島藩七代藩主伊達宗紀は、藩政改革の一環として文教重視策を採り、従来医学修業生のみに与えていた修業二人扶持を儒生にも与えることにした。また藩校明倫館も収容人員を増やし、上級武士の子弟はもちろん、御目見以上の本人と嫡男は強制的に入学させることとした。
 新谷藩の求道軒は創立以来活動が低調で、八代藩主泰理の再興によって有為な人材を世に送り出すことができるようになった。再興当時の教授に児玉暉山がいる。この藩の進取の気風を体得し、諸国に遊学した人々が新谷藩を勤王に誘導した。その中心人物として知られるのが香渡晋である。
 西条藩は藩主が常府(常に江戸詰)であるため、藩士の教育も江戸において行われることが多かったから、地元西条での様子を詳しく知る資料がない。江戸においては三代藩主頼渡が山井鼎を登用し、五代頼淳が細井平洲を招へいするなど好学であった。細井平洲招へいについて尽力したのは上田善淵であり、平洲の実証主義・文献考証主義が浸透しだからこそ日野和煦の『西条誌』が編さんされたといえよう。幕末の尾埼山人は勤王家として知られ、文久三年には生野の変に敗れて伊予に逃れた沢宣嘉をかくまった。彼は明治元年西条藩学頭となったが、のち郷里に帰り私塾「三余学舎」で子弟の教育に当たった。

《伊予俳壇の発展》

正岡子規を生んだ伊予俳諧の人的土壌はすでに室町・江戸時代に求めることができる。
すなわち大山祇神社に奉納された法楽連歌(国指定重要文化財)二七四帖は文安二年(一四四五)から万治三年(一六六〇)にかけて作成・奉納されたもので、法楽の名が示すように神の心をやすめることを目的としたものであった。連歌の作者は、大山祇神社の後援者であった越智氏・河野氏をはじめその一族など武士階級、大山祇神社歴代宮司三島大祝とその一族及び僧侶(河野氏ゆかりの時宗僧、石手寺の信禅など真言僧ほか)が中心であった。こうした武士階級・僧侶・神官を中心とする傾向は江戸時代にも見られ、藩主やその側近が和歌・俳句を好んだ地域では多くの歌人・俳人を輩出した。和歌では宇和島藩家老桑折宗臣、松山藩か招いた味酒(阿沼美)神社の神官大山為起などがいる。
 俳諧では、江戸時代初期に『大海集』を刊行し『詞林金玉集』を撰んだ宇和島藩家老桑折宗臣や、山水と号し『山水十百韻』を編んだ今治藩家老江島為信などがでた。このように伊予の文学は、諸藩主もしくは上級武士の活動がその端緒になっている。
 松山藩久松松平家の御用商人として松山に移り住んだ秦一景をはじめ、商人にも俳諧が広まり始めたのは一七世紀後半である。岡西惟中(談林派、大坂在住の儒者・医者)や大淀三千風(家業は商家、剃髪して俳諧に精進)の来松も一景によって俳諧が普及し始めていたことと無関係ではなかろう。宇摩郡中之庄村の豪商・豪農として知られた坂上羨鳥は大坂方面に頻繁に行き米したので、貞門・談林の俳諧を学ぶ機会に恵まれた。
 松尾芭蕉の俳風は権威や栄華に目を向けず、寂び・しおり・細みを追及した。松山藩四代藩主松平定直は芭蕉の高弟榎本其角門下となり、松山藩家老久松粛山・同藩医青地彫棠も俳諧を好んだ。其角の賛入りの「正風三尊三幅対」は、松山城下町の豪商百済魚文が所持し、来遊してそれを見た二六庵竹阿や小林一茶が狂喜したと伝える。一茶の句に「正風の三尊見たり梅の宿」がある。
 享保期から明和期にかけて伊予の俳諧では川端五雲(松山藩士)・小倉志山(俗称茶屋長次郎)を除けばとくに目立った活動はない。二六庵竹阿に指導を受けた百済魚文(松山城下町の豪商、屋号は茶屋)は明月や吉田蔵沢とも親交があり、竹阿来遊に際しては、地方の俳友としばしば句会を催している。風早郡上難波村西明寺(現最明寺)の茶来も俳友の一人であった。江戸時代中期には村々の庄屋にも俳諧が普及していたと考えられる。というのは、竹阿の弟子小林一茶が伊予に来遊したとき、風早郡八反地の大庄屋門田家に寄宿している。当時の当主与次右衛門は俳号を兎文といい、村役人層に俳諧が広まっていたことを示す例証となろう。
 与謝蕪村の革新運動と呼応するように伊予俳諧も復活するのであるが、松山においては粟田樗堂の活躍を第一とすべきであろう。樗堂は松山城下町の酒造家後藤家に生まれ、のち同業の廉屋(栗田家)の養子
となった。彼の伊予俳壇に及ぼした業績としては俳諧革新運動の弛緩防止に貢献したことが挙げられよう。
 幕末期における南予の岩城蟾居も忘れてはならない。彼は吉田陣屋町の豪商の家に生まれ、町年寄としての公職に従事するかたわら、道場を構えて多くの俳人を育てた。蕉風に通じる彼の俳風は全国的に高く評価され、彼の師匠である京都の成田蒼虬が「松風に野を引きうけて杜若」と詠んでその隆盛を喜んだという。蟾居の晩年の著『はるふくろ』には一万句に及ぶ俳句が収められている。

 西南蘭学

伊予における蘭学は宇和島藩五代藩主伊達村候が学問奨励のため蘭医学を中心とする人材育成を目的として、遊学奨励給費制度を創設してから発展の速度が早まった。特に幕末になると長崎で学んだ者たちが帰藩して、宇和島藩の蘭学は伊予随一を誇った。
 長崎の鳴滝塾でシーボルトに学んだ二宮敬作はその第一人者である。彼は宇和郡磯崎浦の半農半商の家に生まれ、医学を志して長崎で苦学した。文政一一年シーボルト事件に連座して投獄されたが、間もなく許され、シーボルトの娘イネを伴って郷里に帰り、宇和郡卯之町で外科医として開業した。宇和島藩は敬作を準藩医待遇とし、敬作も藩の用務で長崎に赴くこともあった。安政六年シーボルトが再来した時、イネは長崎で産科医を営んでいた。イネの娘高子と結婚したのが、敬作の甥三瀬周三(のち諸淵)である。
 三瀬周三は大洲藩領中町で生まれたが、安政二年から叔父二宮敬作のもとで医学を学び、当時宇和島藩に仕えていた村田蔵六に師事して洋学を学び、その後も研さんを積んで蘭・英・仏語に通じた。シーボルト再来の時通訳を勤めて江戸に同行したが、幕吏に逮捕され佃島に収容された。宇和島藩八代藩主伊達宗城は周三の釈放に尽力するとともに、のち宇和島藩の客分として周三を招き、イギリス公使パークスが宇和島を訪問した時、大野昌三郎とともに通訳に当たらせた。彼が安政五年肱川の河原において日本で三番目の電信技術実験をしたことは地元関係者以外には案外知られていない。彼の妻となった高子も女性蘭方医として大成する。
 二宮敬作と同門の蘭学者に高野長英がいる。長英は蛮社の獄で捕らえられ、脱獄後宇和島にひそかに招かれて洋書の翻訳・蘭学教授・砲台築造などの仕事に従事した。藩主宗城は長英が脱獄中の身であることを承知のうえで、新知識吸収のため招へいしたのである。彼が滞在中二宮敬作の家に寄留したことは有名である。長英の後、大野昌三郎の紹介で宇和島藩に召し抱えられたのが大坂の緒方洪庵の高弟村田蔵六(のち大村益次郎)である。
 宇和島藩の蘭学が藩校で教授されるに至るのは明治元年のことである。この年「教則六ケ条」が制定された際、西洋学教授方が新設されて洋書が教授された。これまで医者を中心に浸透し、高野長英・村田蔵六・三瀬諸淵などによって指導されてきた蘭学が正式に教育課程の中に組み込まれたのである。

 伊達宗城

伊達宗城(一八一八~九二)は、幕臣山口直勝の次男として生まれ、文政一二年(一八二九)伊達宗紀の養子となり、弘化元年(一八四四)第八代宇和島藩主となった。彼は養父宗紀の文政改革によって確立された藩財政を基盤として、軍備の近代化と洋学の積極的導入を図った。
 宗城が幕末の四賢侯の一人と称されたのは、安政期の将軍後継者問題・日米通商条約勅許問題などの国事に深く関与して活躍したことや、安政の大獄に関連して隠居させられた後も、イギリス公使パークスと交流を保つなど、混迷する政局の中で公武合体政策の推進者として重要な役割を果たしたことによる。
 宗城が藩主となった弘化元年には、フランスが通商を求め、オランダが開国勧告を幕府に提出している。当時の宗城は洋学を奨励する一方で攘夷の立場を堅持していたから、板倉志摩之助らが導入した高島流西洋砲術を威遠流と名付けて保護奨励し、嘉永元年(一八四八)には高野長英を伊東瑞渓と変名させて宇和島に滞留させ、兵書翻訳や久良砲台築造に従事させた。高野長英はシーボルトの高弟で、蛮社の獄で永牢となり、伝馬町の牢舎火災を機に脱獄して各地に潜伏中であったが、宗城の命を受けた藩医富沢礼中に随行して宇和島に入った。卯之町の蘭方医二宮敬作はシーボルト門下であり、長英は敬作の家の二階に寄留したこともあった。
 宗城の軍備近代化に貢献した人物として、村田蔵六と前原巧山が特筆されよう。宗城は藩士大野昌三郎の献策により、村田蔵六を藩士として取り立て、蘭学教授・兵書翻訳・軍艦設計のほか軍隊編成や砲台築造の研究に従事させた。蔵六は安政元年(一八五四)正式に藩士として雇用されてから、万延元年(一八六〇)出身地の長州に抱えられるまでの七年間、宇和島藩のために尽くした。この間、安政二年の樺崎砲台着工、軍艦雛形の完成、同四年威遠流への砲術統合など、海防充実策が天災の続発する(安政の大地震・コレラの流行)中で精力的に実施された。嘉永六年九月幕府の大船建造禁止令解除を喜んだ宗城は、オランダへ軍艦を注文すると同時に、藩独自の軍艦建造を企画して、技術者を各地に派遣することになった。村田蔵六・前原巧山らは、安政二年(一八五五)に軍艦雛形を完成し、次いで蒸気船の建造に取り組んだ。機関部分を担当した前原巧山は八幡浜の町人出身で、長崎や鹿児島の先進技術を学んで蒸気発生器を完成し、安政六年蒸気船の試運転に成功した。日本人技術者が建造した我が国で二番目の蒸気船であった。(最初は薩摩藩)。
 安政五年井伊直弼による一橋派の弾圧、いわゆる安政の大獄が始まった。直弼は一橋派の重要人物と目された宗城の活動を制限すべく隠居を迫り、この圧力に屈した宗城は同年一一月養嗣子宗徳に藩主の地位を譲った。宗城の腹心の部下吉見長左衛門(のち伊能友鴎)は、翌六年重追放となり、以後宗城の手足となって働いたのは林玖十郎(得能亜斯登)である。玖十郎は密使として村田蔵六・坂本龍馬らと交わり、慶応三年(一八六七)の大政奉還に際しては土佐藩との連絡役を勤めた。
 宗城は井伊直弼が桜田門外の変で倒れた後は、老中安藤信正の公武合体策を支持し、文久三年(一八六三)には幕政参謀を命じられ、朝議参与に任命された。一橋慶喜・松平慶永・松平容保・山内豊信・伊達宗城・島津久光の六人で構成される参与会議は公武合体雄藩連合構想が制度化された最初であったが、内部分裂により翌年崩壊した。

 混迷する政局・諸藩の対応

 幕府による天保の改革が失敗したころ、伊予諸藩も財政難にあえいでいた。松山藩は天守閣再建の出費に加えて、親藩であった関係上、弘化元年には江戸城本丸再建のため三万両の献金を申し出るなど、財政は破たん状態であった。こうした状態に追い討ちをかけたのが安政の大地震である。他の藩も大同小異であったが、宇和島藩のみぱ専売制による蓄積のため比較的余裕があり、軍備の近代化を積極的に行った。
 藩財政の困窮を決定的としたのは、ペリー来航以後外国船の渡来に備えるための海防費が急増したことである。松山藩の場合、領内の警備はもちろん、安政元年の日米和親条約締結に際して、武蔵国大森から大井村にかけての海岸警備を命じられて六〇〇人の藩兵を出し、安政五年には異国船来航に備えて神奈川に砲台を築いている。
 長州征伐は松山藩にとって財政負担は言うまでもなく、藩の存亡にもかかわる大事件であった。元治元年の第一次征伐では、戦闘に至る前に長州が降伏したが、慶応二年の第二次征伐では宇和島・土佐藩などとともに攻撃する手はずとなっていた。しかし、他の藩が出兵を渋ったため松山藩単独で周防大島を攻撃したが敗れた。
 宇和島藩はすでに安政の改革で砲術の流派統合・砲台築造などを行い、慶応二年からはイギリス式ライフル銃隊の訓練を開始し、伊予最強の軍隊を編成していたにもかかわらず長州征伐に参加することを渋った。その理由の一つには宇和島藩が長州と親戚であったこと、開明的な宗城をはじめ、村田蔵六に指導された藩士が新しい時代の息吹を感じていたことなど、長州藩士と通じるところがあったのかも知れない。
 パークスの来宇も出兵延期の理由付けに利用された。家老の松根図書が薩摩の五代才助を通じて招待した結果実現したものであるが、パークス滞在中は英・宇とも互いに銃隊の操練を公開し、英側は伊達宗城と宇和島藩を評価し、宇和島藩が藩船の船印を新調して贈ったのに対して、イギリス国旗を贈った。
 慶応三年松山藩主松平定昭は幕府から老中に任命され、長州征伐失敗後の幕府政治立て直しを期待された。しかし国元では定昭の老中就任を喜ばず、薩摩・長州に討幕の密勅(一〇月一四日)が下って間もなく定昭は老中を辞任した。討幕の密勅が下ったのと同日、山内容堂が徳川慶喜に勧めた大政奉還も行われ、ここに幕府はその権力を朝廷に返還した。そうした状況下での老中辞任であったから、松山藩は会津・桑名藩などから疎外されるようになった。
 慶応四年正月戊辰戦争が始まった。山内容堂と協力して内戦を回避しようとしていた伊達宗城は中立の立場をとり、松山藩は佐幕派の立場をとったが戦闘には参加せず、定昭は藩士を率いて帰国した。朝廷は佐幕派諸藩の追討を命じ、松山藩もそのうちの一つとなり、土佐藩及び宇和島藩の追討を受けることになった。藩内では徹底抗戦を叫ぶ者もいたが、恭順派が主流となり三上是庵の主張に基づいて藩主父子が謹慎し、流血を見ること無く松山城を土佐藩に明け渡した。土佐藩の山内容堂が内戦防止の考えを持っていたことと、土佐藩と同様に宇和島藩が長州に先んじて松山に入ったことも戦闘状態を回避できた一因ではなかろうか。もし先般対戦した相手である長州藩勢が最初に入って来たならば、戦闘が起こっていた可能性もあったろう。松山藩は一五万両の軍費上納を命じられ、前藩主勝成が定昭に代わって再度藩主に任ぜられた。
 薩摩・長州を中心とする新政府は財政的基盤が弱く、諸藩でも財政難に苦しんでいたから、本格的内戦といえるのは戊辰戦争のうちでも会津戦争と箱館五稜郭攻防戦くらいなものである。会津戦争に際し、宇和島藩では宗藩である仙台藩が奥羽越列藩同盟に加担して新政府に敵対したことに苦慮した。藩主が仙台を説得すべく申請書を提出する一方、藩兵の行動をできるだけ遅らせようとした。そのため藩の重臣が謹慎処分を受けたが、結果的には宗藩・支藩との戦闘に発展することなく戊辰戦争は終わった。こうした事情があったから、江戸時代から明治への移行が比較的スムーズに進行したと思われる。